tell a graphic lie
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(2003.8.1)-1
八月だ。死なずに居る。
(2003.8.1)-2
時間が欲しい。ほんとうに、まとまった時間が欲しい。疲労と睡気で鈍った頭で、これいじょう文を書きたくない。息をとめて書きつづけて、
(2003.8.2)-1
力尽きたら、ハイ、それまでよ、っと。
(2003.8.2)-2
愚痴を言っていても仕方がない。時期の到来を祈るしかあるまい。まとまった工期をはっきりと要求するモチイフと、期限までにそれを為すことを確信せしめる工法とを。
(2003.8.2)-3
美輪明宏による、三島由紀夫の回想を見る。ひどく醜い。畸形児そのものである。特に、葉隠の「武士道とは、死ぬことと云々」について述べたインタビューなどは目を覆いたいほどであった。喋っている間じゅう、つねに視線が挙動不審で、正面のカメラを一瞬でも見ようとは決してしないのである。ぼくは食いいるようにその顔を見た。「こいつはいまほんとうのことを言っている。たいそうバカなことだ」と思っていた。小説家の直接的な告白など、こんなものだ。例外なく間抜けで畸形である。小説の、文字の外には何もない。ただ、醜い憐れな、熱を持った一個のうごめく肉塊があるだけである。ほんとうの小説家というものは、例外なくそんなものだ。だからぼくは食いいるように、見た。
(絵はがき)
 この点では、私と山岸外史とは異なるところがある。私、深山のお花畑、初雪の富士の霊峰。白砂に這い、ひろがれる千本松原、または紅葉に見えかくれする清姫滝、そのような絵はがきよりも浅草仲店の絵はがきを好むのだ。人ごみ。喧噪。他生の縁あってここに集い、折も折、写真にうつされ、背負って生れた宿命にあやつられながら、しかも、おのれの運命開拓の手段を、あれこれと考え歩いている。私には、この千に余る人々、誰ひとりをも笑うことが許されぬ。それぞれ、努めて居るにちがいないのだ。かれら一人一人の家屋。ちち、はは。妻と子供ら。私は一人一人の表情と骨格とをしらべて、二時間くらいの時を忘却する。
太宰「もの思う葦」より

(2003.8.2)-4
こんなことは平日のうちに書いて、休日にはもっとまとまったものが書きたいのだが、致し方ない。旅行というものについてである。それから、ぼくの徘徊(と自分では呼んでいる)についてである。
(2003.8.2)-5
と、ここまで書いてひと安心。うだうだとし始める。こういった随想というようなものは、だいたい表題さえ書いてしまえば気がすむものであるようで、その先のくどくどした説明などは、もはや面倒なだけで、いつも惰性にまかせて書いている部分がある。
(2003.8.2)-6
 「休日に何をしているの?」と聞かれて、返答に窮するのである。大抵は「寝ている」と答える。確かに、大抵は、寝ている。だから、これは特に間違っているというわけではない。その他は、本を読むか、何か書くかをしている。これはひとには言わない。言うとろくなことにはならないからだ。
 まず「何を読んでいるの?」と聞かれる。「太宰治」と答えるとする。相手は人間失格である。はやくもその時点で、あやしい長さの間がはいる。取り繕うために「あとは、川端康成とか、山頭火とか」などぼくはつけ加える。けれども、これはますます情況を悪化させる。川端康成には賞がついている。無闇に高尚だというイメージがある。山頭火のほうは、たいていは教科書で一句読んだことがあるきりのものである。「へえ」としか返しようがない。ぼくが言われたとしても、やはりそう言うより他はないだろう。なぜならば、苦しげにもそのあとになおも続けられるその話題についてぼくは何ひとつ言うべきものを持たないのである。「太宰治は、どう?面白い?」「うん、面白いよ(彼は自殺をしたから)。うまいとも、思う。でも、派手ではないから、君には面白くないかもしれない」「そう。じゃあ、川端康成は?」「うん、うまい。とてもきれいな小説を書く人だ」「綺麗って?」「うん、なんと言ったらいいのか。難しいな。ホログラムとでも言ったらいいのかしら。ファンタジーとか、そういうのとは全然ちがったところで、幻想的なんだ。つまり、幻想的写実とでも言うような(それに彼も自殺者だ)」「ふーん。じゃあ、山頭火は?」「うん、いいよ(彼は乞食だから)。ぼくにはよくわからないのだけれど、いいような気がする」「そう(ものすごくつまらなそうな顔をしている)。最近の人では?」「最近の人のはあまり読まないんだ。あまり面白くなくて。多分、ぼくは古いんだよ」
 まずこんなところであろう。そしてぼくは言ったことを烈しく後悔し、床のなかで輾々して眠れぬ一夜をもつのである。こんなことならば、ただ「寝ている」と言っただけで終らせておいたほうがまだしもましであった。けれども、それではあまりにも会話に味気がない。何か、ほかのことを言わなければならない。そうでなければ、間が持たない。自分に関わりのないことを言って適当に間を持たせるのは、絶対にいやである。しかし、そう思ってはみても、そのほかのことというのは、これもまたなかなかに説明が難しいのである。
 そこで、旅が出てくるのである。もちろん、ぼくは旅好きではない。旅好きならば、説明は難しくないのである。相手も素直に「ああ、そう。最近はどこへ行ったの?」など聞くことができ、こちらも嬉しげに応えて、「最近は海外に行っていなくてねえ、国内ばかりなのだけれど、三ヶ月前には、長崎に行ったよ。やっぱり、九州というは陽射しがちがうね」など言って、すこぶる会話がはずみはじめるようであるが、ぼくは旅好きではない。旅行はむしろ嫌いなほうである。すこぶる説明がむずかしいのである。こうして、太宰の随想の一編でもひっぱって来なければ、うまく説明できないのである。
 ぼくは旅行というものをナンセンスだと思っている。いや、それどころか、ほとんど無駄な行為、浪費だとすら思っている。どこそこへ行って感動した、などというのは実に馬鹿げた話である。感動したならば、そんなにその場がよかったのならば、そこで暮せばいいのである。そうすれば、日々感動である。日々、気持ちよいのである。ここには感動がないのだろう。息がつまるのだろう。ならば、なぜ戻ってくるのか。ここの方がいい生活だとでもいうのか。ならば、旅行に出るには及ばないはずだし、また、その程度の感動でよいというのであれば、やはり行くには及ばない。そして、その感動に従って移住したのであるならば、それはもはや旅行ではあるまい、生活の場である。いずれにしても、旅行というのは、くだらない。
 人は感動があるという理由だけで暮しているわけではないのだ。というならば、それでもよい。いい思い出を取りに、旅に出るがよい。そうして、実際の生活を軽蔑しているがよい。人生を呪っているがよい。ぼくは、他人の苦悩には興味がない。そんなものに、いちいち相槌を打つ気には、なれそうにない。ぼくが興味をもつのは、その苦悩が昇華する様や、その結晶である。苦悩は、それだけではなんでもないものだ。
 そして、生活というものは、或る意味において、たしかに苦悩の結晶なのである。旅先での、その場かぎりの思い出の景色とやらよりも、ぼくにはそちらの方がよっぽど気にかかる。旅に出るひまがあるのならば、ぼくは自分の住んでいる街を見てまわりたいのである。一千万以上の人間が確かに暮しているらしいこの街の、通りを、路地を、家々を、商店を、そこに暮す人々の構成、形態、姿かたち、色つや、表情などを見てまわりたいのである。おそらく、だから、ぼくは気が向くと自転車に乗ってあたりを徘徊するのである。
 街を見てまわるのは、ひどく時間がかかる。極く小さな路地まで入れると、ほとんど無数ともいえるほどの道が縦横斜め、あらゆる方向に向って伸び、交叉しており、ひとつの通りからは、決して他の通りをうかがうことはできない。そこを通って見なければ、何も見れないのである。家一けん隔てただけでも、印象はがらりと変わる。そこには、丹念に手入れされた庭や、植え込みがあり、秋には淡く紅葉し落ち葉で埋まるであろう街路があり、小粋な小物を取り扱う店や、威勢のよい親父が笑いかける八百屋や、縁側でなかよく夕涼みをする老夫婦や、新しい車を嬉しそうに磨く休日のサラリイマン、所在無げに座りこむ青年、バス停でぼんやりと佇む若い女、買い物の袋を重たげに運ぶ主婦、何万回とそこを往復したに違いないと思われるような老人、その他、街のあらゆる姿が新しくぼくの前に展開されるのである。それらが、どこそこの自然よりも無価値で面白味に欠けているとは、ぼくには思えないのである。白い砂浜と、真っ青な透明な海がなんだというのか。鋭くそびえる山々と、厳しい自然のなかに生きる動物や草花がなんだというのか。ぼくは人間である。そういったくくりにおいては、確かにぼくは人間である。自然よりも人工を愛する。
 どうにも演説口調になっていけない。やはり、説明は難しいようである。ひとにも、それを認めさせようとは思わないのである。けれども、ほかに言いようがあるとも、思えないのである。「生活に興味がある」とか「暮らしを見たい」というような言葉は、なんだかひどいきれいごとのような気がして、まだほんとうの「暮らし」というものをしたことがないために、そういった言葉を使っているようにも思われ、いやなのである。そんなことではないのである。ぼくは「見る」ことのほかは何ひとつできない。ただ、それだけのようにも思える。夢遊病という、あまりよい響きでない言葉も連想される。
 また、「大田区馬込何丁目あたりの通りの一本は好きだ。そこには、云々」などと話しだされても、やはり困るものがあるように思う。それは、旅行によって見聞したものよりも、遥かに曖昧で、ほとんどどこにでもある、というようなもので、ともすれば、ぼくの錯覚、思いこみにしか過ぎないかも知れず、たとえ、それについてできるだけ詳しく語り、すべてを正確に描写し得たと思っても、何がよいのか相手には一向にわかってもらえないことの方がまっとうだといえる。しかし、ぼくはそれが好きで、余暇と気分、それから天候が揃えば、自転車に乗って出かけるのである。そして、名もない少し暗い路地の湿ったアスファルトと、それを挟みこむ家々の姿を眺めて飽きないのである。
 ここまで書いてみたが、やはりどうにも、退屈な話のようである。「休日には寝ている」と、溜息をつきながら、答えるよりほかは、やはりあるまい。
(2003.8.2)-7
今朝は、水に溶かぬうちの水彩絵具の水色のごとき色した夜明けである。べったりと塗りつぶされた濁った空は、夏がほんとうに来たのかと期待させる。これより、酒を飲んで寝る。最近は忙しさのため、また、酒を飲んでいては文が書けぬため、目だって酒量が減っており、飲むときにはその分、高い酒を飲む事にしている。ニッカのシングルカスクはうまいと思う。
(2003.8.2)-8
太宰がその若き日にあって、芥川に傾倒したというのは実に納得できる。そして、太宰の方が、七年ほど、長生きをした。きみ、文章というのは、年齢にかなり精確に比例するものだよ。芥川がどんなに天才だったとしても、三年と差はつかぬ。また、太宰がどんなに業を怠けたとしても、一年暮せば、その十ヶ月分くらいは文学的に進んでいるものだ。太宰が七年長生きすれば、少なくとも、五年分は太宰が先へ進む。文章というものは、そういうものだ。水泳や、体操などは、二十歳になれば枯れはじめてしまうものだけれども。人間の仕事はとかくひろいものだ。百まで書き続けたものが勝ちである。だから、文章において勝ちを収めたいのなら、簡単である。長生きしなさい。けれども、きみ、これだけは忘れないでいたまえ。二十五歳の文章は、二十六になれば既に書けなくなっていることを。文章があることを説明する、というはっきりとした目的を有しているかぎりは、書くものは、その時期における最上のものを書こうと努めるより他はないのである。きみ、一日十時間、自分の文章のために、その貴重な時間を費やすということをしたまえ。そうでなければ、旗手になる資格を付与されることは適わぬ。文芸とは、世界一を競うものには非ず。謂わば、常に甲子園の如きものにて年齢の制限があるものである。そして、ぼくらは同じ年齢の人間だけで、数百万という数を同じ国に有している。
(2003.8.4)-1
夜蝉、ビルの壁面に響く。一分ほど続いて、途絶えた。よきものはおしなべて、ぼくから遠い。まいにち、という言葉をかみしめる。仕方がないから、誓いの言葉をぼくはぼくに言ってあげる。さみしい。
(2003.8.5)-1
よるべなき
(2003.8.7)-1
信じるとは、意思そのもののことだ。意思するとは言わない。(それは「意思を有する」とはぜんぜん別のものだ。)代わりに、信じる、と言う。自動詞である。
(2003.8.7)-2
「わたし、あなたを信じるわ」
「ぼくは絵描きになろうと思う」
このふたつはまったく同じものだ。わかるかね。全く、同じものなんだ。この瞬間、どちらもたしかに「人生」を賭けている(尤も、当然のことながら、多くの場合、本人がそう認識してはいないが)。より精確にいうならば、その生涯のうちの特定の期間をその次の期間のために費やす事を決定したということで、それはつまり、「賭けた」ということだ(期間というものと、それから、時刻(或いは年齢)というのは、光をあてるほとんどの方向において、賭博銭の表情をしている)。そして、それが「賭け」である以上、賭けたものを摩る可能性がある。摩る、というのは、マイナスの事である。かけた労力と経費とに伍した報酬を得るにかなわなかったことをいうのである。
(2003.8.7)-3
ずっと先に、「運命は開拓できる」ということを取り扱った話を書こう。フォークナーがやったように。それは「人間」を記述するということに、最も近いものだと思う。幾億の屍の上に一滴の仕合せの粒が注がれているのだという、極くありふれたことを、きちんと書こう。
(2003.8.8)-1
どうも無くしてしまったらしい。「サンクチュアリ」が見あたらないのである。電車におき忘れたのだろうか。ちょうど、話が動き始めたところだったので、かなしい気分だ。もう一冊買うことにする。もしみつけたひとがいるのなら、どうか、読んでみてください。意思というものが見れるのではないかと思います。人間というのは、ひとりでひとつですから、必ず一方向からしかものを見ることのできないものですが、フォークナーの場合は、意思というものから人間を見ていたのではないかなと思います。それは、もしかしたら、ふだんいうところの「意思」とは異なったものかも知れませんが、さしあたってはほかによい呼称も見つかりませんので(価値のない呼び方をするならば、それはフォークナーの作風ということになるのですが、この言い方は本当になんの価値もない。何も言っていないのと同じだ)、「意思」と呼ぶことにします。
(2003.8.9)-1
と、思ったら、見つかるわけである。なんとなく心のこりで、積んだ文庫本を一冊ずつ見ていったら、下から二番目にちゃんと挟まっていた。どうしてそんなところへいったのかは、よくわからない。まあ、よかった。
(2003.8.9)-2
今日はゴッホの手紙を読む。想像していたものよりもずっとまともで、非常に意識的だ。キリストに対する見方は、太宰のそれとまったく同じである。やはりルカがお気に入りだったようである(彼は絵の神らしい)。今日読んだ画家仲間のベルナールへの手紙の大半は、私信らしく少々偏狭な絵画論で占められており、もう一人の仲間であったゴーギャンの名前がよく出てくる(金銭の話はそれほどでもない「ここでは一日三フランでは足りない。四フランいるところだ」といったような話があるだけで、愚痴らしきものはほとんどない)。ところどころに手紙に添えられた、もしくはそのときに描かれていたペン画が挿まれており、それはひどくうまい。いや、うまい、というのは違うかもしれない。けれどもそれはやはり、非常に意識的である、という感じのものだ。
(2003.8.9)-3
窓の外に目を向けると、台風の雨が南から北へ向って風のように流れてゆく。砂地のように、空中に白く風紋を描きながら、雨雲と同じの相当な速度で流れてゆくのである。ゴッホの絵のタッチに似ている。彼の描く空や麦畑は、ちょうど今見える眺望のように、(適当な言葉が咄嗟に見あたらない。こんな拙い言いかたしかできない)非常に荒々しく、揺れ動き、個々の全体に対しての調和が乱され、一種の分裂が表立っているのである。手紙のなかに南仏の強い季節風(ミストラル)の記述が散見されるので、そのタッチは或いはその辺りが出所かもしれないと、滝のように、という譬喩があながち誇張でもないほどの雨と風を見ながら思う。
(2003.8.9)-4
台風というのは、或る制し難い衝動に駈られ、終にその虜になった憐れな女が(やはり、それは女だ)、自身の汗や涙、血液、羊水、それから、無形のもの等、強烈な悲しみや、苦悶や、過ぎ去った時間といったものを、すべて自身の外へとまき散らしながらくるくると廻って叫び、狂奔し、散り、破滅してゆく姿に似ている。限界まで比重の大きな灰色の雨粒を溜め込んだやわらかでしなやかな身体は、やがて何かのきっかけではじけ、中心を空洞にするほどの烈しい廻輾をはじめ、風船のように無軌道に暴れ踊り狂いながら、空にある他の一切を巻き込み、かつ溜め込んだ全てを放出して発散し、遂に消滅するのである。女の涙も、情も、狂っておれば醜い。哀しいかな、情熱のさいごの姿というのは、たいていこんなものである。そして、彼女の消えたそのあとには、嵐のあとの、すべて済んでしまったあとに来る、あの素晴らしい夕暮れや朝がやってくるのである。
(2003.8.10)-1
tujiko noriko 顔がかわいいために小さいころからちやほやされて育ってきた娘らしい白痴な虚無っぷりがイカす。深淵なのか、ただの黒まるなのか、わからない、といったような。意味を求めた末の虚無など所詮は二流である。ああ、そうですか。負けるわけにはいかんのだが、どうにもかなわんところがある。もちろん、技術とは無関係の領域においてである。ちなみに、おない歳だ。口のしたのほくろのあたりを、ぜびいっぱつぶん殴ってやりたい。
(2003.8.11)-1
そのセンテンスがたしかによいものだということを、コモンセンスに頼らずに為す。誰が言っていたのか忘れてしまったが(ひどい健忘症だ)、音楽は音楽として生まれた瞬間から間違いなく音楽であるという、あの絶対の安心が文にはどうしても与えられていないので、ぼくらはふつうは公式を使う。けれども、公式にあてはめた文というのは、ほんとうに誰にでも書ける。それは、一足す一を誰も間違えない(違和感を持つことができない)という、あの絶対の安心感(それは確信ですらない。たとえば、自身が呼吸するという事実について疑問を持つものはいるかも知れないが、その者もいまこの瞬間に呼吸ができるという事には疑問を持たないという現象とおなじ質のものだ)によって、裏打ちされており、それゆえに自身によってそのセンテンスの品質に対する保証をする必要が生じない。随想や小説や論文は、それで書いてもかまわない。それらは、完全にその文のみによって成り立っているのではなく、(程度の差はあれ)むしろその文によって伝達されるところのものによってそれぞれが成立しているのである。けれども、詩はそうはいかない。詩は完全に文である。もっとも、これは極く近い年代の詩においてであり、また現代においても、詩は音楽とともに生きており、そのような現状に従って詩をより広義に定義するならば、それは言葉である。そして、詩は言葉であるがゆえに、コモンセンスによってそれを成立させることはまったくの無価値なのである。そこにおいては、「空は青い。ぼくは気持ちよい」というセンテンスの組は捨てられなければならない。ロジックは、個人特有の思考感情感受性の複雑な操作によって飛躍しなければならない。しかも実際には、それが自身以外の人間にも一瞬で伝わるものでなければならない。それをするのは簡単ではない。頼れるものは、自身の感覚と知識のみだからだ。或いは、これは狭義の詩についてのみあてはまる事実なのかもしれない。それならば、それでよい。それが詩であるかぎり、ぼくはそのような詩を求める。
(2003.8.11)-2
なんでこんな話をまた始めたのかといえば、ツジコノリコの詩は、確かにそういう類のものであるからだ。音楽の技術などはとるに足りないし(それは編曲をしている周囲の人間たちについても言える。あと三年はみっちりやらないとまともにはならないだろう)、歌の技術もそれほどうまいわけではないし、声量も多いわけではない。けれども、その詩にはちょっとかなわないところがあるのである(より厳密にいうならば、自分で書いた自分の詩を歌うツジコノリコには、少しかなわないものがある)。感覚は新しくも古くもない。そういったものとはぜんぜん無関係なもののように思える。
(2003.8.11)-3
少しかいかぶりすぎかもしれない。けれども、ぼくとは全然ちがった方向から世界を眺めているのだろうと思うのである。それは例えば、ニュートン力学を合理的なものとして眺めるか、まったく非合理ながらも、原理として存在しているのでそれをどうとも思わない、というような違いだろうか。合理的と捉えるのは、もちろんぼくの方である。だからきっと、「この世はまったく不可解だ」という言葉の捉え方も、ぼくとツジコノリコとではぜんぜんちがっていることだろう。やはりどうにもかなわないところがあると思うのだ。
(2003.8.12)-1
まあ、ようするに、こんな文には一銭の価値もないということさ。
(2003.8.12)-2
ようやくいま、「台風の日」を読みなおしているけれども(もうすぐで一年だ。たった四十頁書くのに一年!)、そんなに、悪くない。ぼくにしてはよく書けていると思う。いまだに出だしの五行は最悪だけれども。それ以降は、そうでもない。少なくとも、ここの文よりはいい。ちょっと密度が濃すぎる、というのはもう仕方がないだろう。フォークナーだって、あんな密度で四百書いたりしている。フォークナーの小説はどこでも、その二三頁を抜き出してみると、恐ろしく端正な文章で、そこに散りばめられたひとつひとつの感覚や観察は、実に颯爽としたものがある。それはモーパッサンの文章以上かもしれない。けれども、彼はそれをそれだけのものとして使うことはないのである。それを山のように積み上げて、その感覚を圧殺して平然としているのである。相当なものである。
(2003.8.13)-1
「サンクチュアリ」読了。「自分として想像しうる最も恐ろしい物語」という作者自身の評であったので、さてどんなに恐ろしいものかと思っていたのだが、別にどこも恐ろしくない。恐ろしいのではなくて、腐っている。いや、腐っている、というのすらあたらないかも知れない。ごくありそうな事件のありそうな形とありそうなレスポンスが書かれてあるだけだ。四百頁もなにが書いてあったのか、と思うほどにあとには何も残っていない、という感じがいま残っている。たくさんの人物があらわれるが、そのどれもがめいめい勝手な言葉を吐き、勝手な行動をして話から消える。「八月の光」でもそうだったが、フォークナーの人物の切り捨て方は実に見事だ。ほとんど短篇の要領で、人物をどこやらから出現させ、ひとしきり何やらしゃべくらせてそれっきり、という者もあれば、またふいと顔を出して、また長々と何やらしだすような者もいる。それらの人物の像をいちいち形成してみせることを、彼はしない。ときにはあらましが述べられる人物もいるが、それは話のなかでみせるその人物の行動について、読み手の意識を補完する機能をほとんど果たさない。そういう類のサーヴィスはいっさいない。読みおえての印象は、「最後の晩餐」などの宗教画のような、中世の大掛かりな物語絵に似ている。「サンクチュアリ」というひとつのカンバスに、ポパイとテンプル、グッドウィン夫婦、ベンボウといった人物が一度に描きこまれ、それぞれがそれぞれに対していくらかの関連を見せつつ、実際にはそれぞれがまったく別のことを思考し、行為しているといったような。ポパイは性的倫理的倒錯者でテンプルを犯しているのであり、テンプルは犯されていながらポパイとからみ偽証によってグッドウィンをガソリン缶を背負わせ焼き殺すのであり、リー・グッドウィンはポパイを恐れ弁護士ベンボウを信じずに非合法者として最も憐れな死に方で死に、その内縁の妻であるルービーはグッドウィンの弁護料を身体で払おうとするのであり、弁護士ベンボウは義憤によってグッドウィンを弁護しルービーを保護するが、彼の妹によって仕組まれたテンプルの偽証によってその裁判に敗れるのである。そしてその周囲には、ベンボウの妹や叔母やテンプルの匿われた娼館の女主人たちや、すべての元凶、飲んだくれのカヴァン・ステピンズや、ポパイに撃ち殺される二人(トミーとレッド)や、リーとルービーのあいだに生れた赤子、ハイエナのような上院議員スノープスなどが配され、それぞれが全く別の思惑によって動き、物語から消える。最後には、きれいに誰も残っていない。ゼロになって終る。
(2003.8.15)-1
ニューヨークの停電は笑えた。やれやれ、という笑いがあった。世界は一日くらい止まっていてもぜんぜん大丈夫だ。もちろん、これで職を失う人間もなかには確かにいる。でも、そんなことはとるに足らないことで、150mmの自走砲が30km先の目標に対して数mの精度で砲弾を数十秒間隔で撃ち込んでいるときよりはよっぽどましだ(しかも、その操縦士たちは自身が直接的にはたらきかけによって発射された砲弾が人命を奪っている事実に対して直接的な感覚を持ち得ないのであり、それは高感度レーダもしくは高精度の監視画像から目標を設定し、それを砲撃手に伝えた砲撃管制官にあっても同様で、その文脈にあってはもはや現代の戦争は厳密な意味での実行者を持てないものになっており、したがって圧倒的破壊や殺戮というもの本質的な価値が変貌している。直接的感覚を伴わない破壊や喪失はほぼ無意味だ)


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