tell a graphic lie
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(2004.1.1)-1
あけましておめでとう。今年のぼくは、25歳だ。この25という歳は、はやい人間は、もうまともな仕事をしているような歳で、そうでない者にとっても、個人として、人生の歩み方を決定づける最後の年だ。そいつの有する可能性のあらゆるものは、この年までにすべて出揃っているはずで、これ以降は、それらの習熟度、完成度を高めて、可能性を具現してゆく過程があるだけのことで、外から見て、新しい、と見られるようなことも、実際には、ただ見え方が変わったり、見る角度が変わったり、その人間の置かれている場が変わったりするだけのことだ。だから、ぼくが人間になりそこねたというのは、今年で完全に、「名実」の名目においても確定する。ぼくには、外見的な認知をされるような障害も、精神疾患も、通俗的な社会不適合も、どうやら見うけられないけれども、たしかに、人間になりそこねた、「何ものでもない何ものか」だ。喜ぶこと、悲しむこと、人に与えること、人から受けとること、笑うこと、苦しむこと、感覚すること、行為すること、対話すること、共感すること、快楽すること、他と関わること、そういった人間としての基本的作用において、決定的に片端で、それらを満足にすることができない。たぶん、ぼくにはまっとうな感情というものが無くて、ぼくが感情について幾つか書いてみたりするのは、まさにそのためだろうし、生きることや、生活することについて書くのも、きっと同じような仕組みから来ている。そして、感情が無いということは、人を信用することが無い、ということを意味していて、なぜなら、通常の人間が屠殺される鶏の生命について忖度することが無いように、ぼくも他人を信用するうえでの判断基準の一切を持ち得ないからだ。ぼくはぼく自身を、どうにかしてあなた方にわからせようとするだろうけれども、ぼく自身はあなた方を決して理解しない。ぼくがあなた方に理解させようとしていることも、豚の鼻には人の嗅覚の数倍の能力があり、それは何々といったことを目的としてあるものであり、豚の標準的な一頭は、一日に何キログラムの穀類を消費し、一日にどれだけの運動を必要とし、その肉の各部位には、それぞれどのようなものであり、他の動物のそれと比してどのような特色があり、それらを使用した一般的な調理法にはどのようなものがあり、それはどのようにして保管すべきであり、また、食肉用に「処理」する際には、どのような手法が有効であり、その際に、それはどのような反応し、どの程度の苦痛を以てその「処理」に服するのか、といった事柄であり、決して共感するとか、手をつなぐといったことではない。すなわち、ぼくと君らとは、まったく別の存在であり、互いに理解しあうということは、物理的な根拠から、まったくあり得ない、ということを納得させる、というようなことである。そういったことが、今年確定する。さあ、ぼくと話そう。ぼくはいくつかの事柄については答えることができる。それは、ぼくにとって、また、あなたにとっても不快な事実かもしれないが、標準的事実だ。ぼくはそういう事柄のいくつかを言うことができる。したがって、あなたが確かに人間であることを、背理法的手法によって、実質的に証明することができる。
(2004.1.1)-2
くだらん。他に言うことは無いのか。
(2004.1.1)-3
これではだめだ。違う言い方をしなければならない。そうだ、何か、違う言い方をしよう。。。
(2004.1.1)-4
結論なんてものは、実際にはものの数時間ででるものだ。それまでは、ただ「気にかけている」時間というものが延々とあるだけで、すべての準備が整って、ほんとうにそれに取り組むことをはじめれば、結論なんてものは、ほんの数時間で固まってしまうものだ。
(2004.1.1)-5
 昼食を食べ終えて立ち上がり、もう一度周囲を見わたす。ぼくの前を通りかかる人も今日は特別に少なくて、三十分ほど前に、車輪つきの買い物カートを押して、ごくゆっくりと歩いているおばあさんが、ぼくと目をあわせて、かすかに会釈をしたきりだ。自動車の通行も、ときおりその音が途切れるほどに少ない。目のまえを一分間眺めていて、その間に動くものが、風に流される雲ばかりということもあるように思われる。
 そのことに気づいた途端に、ぼくの頭は回転することを始め、瞬きを止めて視覚するものの一つ一つを点検することをし、耳をすまし、東京の空気の臭いを嗅ぐことをする。東京の空気には臭いがある。東京へ久しぶりに足を踏み入れた人などは、不快感を伴って、それに気づくことが多いだろう。けれども、三日もいれば、大抵わからなくなってしまう。それを形容するのは、とても難しいことのように思える。濁った空気、澱んだ空気、汚れた空気。ガソリン、排気ガス、口臭、体臭、食物、排泄物、生ごみ、エアコンの排気、アスファルト、磨り減るタイヤ、電球が燃える臭い、砂塵、プラスティック、一千万の生活がたてる臭い、都会の臭い、言葉を積み重ねれば、積み重ねるほどにそれが言い表している臭いの具体的イメージが薄れて、代わりに概念的色彩をまとうようになる。臭い、というものから離れて、あるイメージや、雰囲気を言っているような感じになってくる。けれども、確かにそれは臭いであり、それはここで生活する人間すべてに共通する主旋律のひとつとなっているはずで、そして、三日ここで暮らせば、それは意識されなくなってしまうものなのである。ぼくは、それを、今ここで嗅ごうとする。もちろん、うまくはいかない。東京で暮らしはじめてから、すでに数年が経過している者で、しかも、人格形成の過程といえるようなものは全て、ここで行われたという認識まである。「生粋の」とは言えないし、典型的東京人であるとも思えないけれども、それでもぼくはここの人間で、その臭いを主旋律に持つ者のひとりには違いない。
(2004.1.1)-6
たとえば、ゴッホが、「パリでは駄目だ」と言い、南仏でその仕事の多くを行ったのとまったく同じようにして、ぼくもまた、「東京でなければ駄目だ」というように言えたらいいと思う。土着、という言葉は、伝統芸能などについて言う際に用いられる言葉だけれども、そういうことは当然、東京という場所に対しても成立するものだと思う。もっとも、東京で仕事をする者たちのほとんどがそういうことを口にしないのは、それがあまりにも当たり前のことで、今さら口にするような事ではないというだけのことに違いないのだけれど、それをはっきりとアイデンティファイするために、いくらか口にしてみるということも、そんなに悪いことではないように思う。曰く、「東京土着」。スロオガンとしては、そんなにも悪くないと思うのだけれども、どうだろうか。もっとも、その「東京」における土の地面というのは、きわめて意識的に作られた、街路の植え込みだとか、公園だとかにしか見当たらないものなので、基本的には石油精製の排泄物か、石灰を固化させたものか、焼き物に覆われている地面なのだけれども。
(2004.1.3)-1
 臭いといえるようなものは、やはり特には感じない。東京にはじめて来たときにも、ぼくはそれを特に意識しなかったような気がする。そのようなことを思った記憶が無い。ぼくが「東京の臭い」というものが在るのだと、はじめて思ったのは、東京で暮らしはじめてから一年経って、里帰りをし、再び東京に戻ってきたときだ。その当時借りていた部屋の、最寄りの駅の改札を抜けて、もう見慣れた駅前の、雑然と商店の並んだ通りと、そこを相当な速度で歩く人々を見たとき、ぼくは「東京の臭い」を嗅いだ気がした。そして、同時に、「帰ってきた」と思い、深呼吸をしたことを覚えている。そのときには、自分の嗅いだ「東京の臭い」について、それ以上は知ることはできなかったけれども、それが在るということは知ったので、それからは、時おり思い出しては、それが実際にどのようなものであるのかということについて、漠然と思ったりすることをした。
 意識を集中して、臭いを探すと同時に、音も聞き分けようとする。昼間の東京は、屋外ならどこにいても、自動車の走行音が二六時中聴こえ続けている、という印象がある。自動車の音が途切れたときの方に却って違和感を覚えるほどに、どこにいても、ゴーッとか、サーッとかいう音が常に響いている。雨の日には、濡れた路面で音は濁る。音の発生源となっている車の姿は見えなくても、ひとつ向こうの通りからか、交差している路地からか、百米先の大通りからか、聴こえる方角すら定かでないけれども、とにかく、車の走る音がしている。
 今も、車の走る音が聴こえる。そして、そのほかの音というのは、特に無い。この音が無ければ、自身の呼吸音やら心臓の鼓動などが聴こえるものなのかもしれないとも思う。でも、東京にいて、そんなものを聴いたことは一度も無いように思う。けれども、東京に居なくても、これはそういうものかもしれない。東京の外にいて、自分の周りにある音というのをきちんと調べてみたこと自体が無いように思う。東京の外にいれば、そんなことは問題にすらならない。
 走る音。
(2004.1.3)-2
「走る音」というのは、いいね。新しい。東京を歩く人の速さは、他の土地の1.1倍くらい常にあって、それは一しょに歩いてみればよくわかるし、色々なところでそれはかかれているし、言われている。あの速度で歩くということは、「自分の見たいものしか見ない」ということを意味していて、それも、一しょに歩いてみればわかる。自分の目の前を歩く人の背中(自身の歩く速度を調節するため)や、向かって歩いてくる人(ぶつからないようによけなければならない)や、信号機(立ち止まらなければならないか、または、走らなければ渡りきれないか、といったことを知るため)や、各種の標識(道を間違えないため)や、人が溜まっている様(何か得をするようなことをやっているのかもしれないし、そうでなくても、何か話しのたねになるかもしれないし、その後ろについて並ぶ場合には、もっとも待ち時間の少なそうなところを選ばなければならない)や、きれいな女の人(これは自分の目の保養。女の人の場合には、当然イカした男ということになる)や、ショウウィンドウや、自動扉に映る自分の姿(髪型や服装が乱れてはいないか、隣の男よりもいい男か否か)、そういったものしか見ていない。眼に映るすべてのものをいちいち「見て」いたのでは、その速度で歩くことは絶対にできないのである。
(2004.1.3)-3
と、こういったことを書いたほうがいいのか、書かぬほうがいいのか、というのは、ぼくにとって、確かにひとつの問題だ。小説においては、わかったような口をきくというのは、常に考えものなのである。ひとつには、それが本当にあたっているのか、ということがあるし、ほかには、そういうことをしてしまうと、小説が終わってしまうということもある。小説は、正しく伝える、ということを目的としており、正しく伝わるかどうかということは、短く言ったり、あけすけに言ったりすることと同義でないことも多いのである。
(2004.1.3)-4
逆に言えば、「そういうことをしても終わってしまわない小説というのは、阿呆に等しい」ということも、あるいはいってしまっても構わないことかもしれない。はじめから、何も言っていないのである。言おうとしていないのである。
(2004.1.4)-1
ずっと引篭もっていると、さすがに脳が腐ってくるような気になってくるので、今日は、六本木ヒルズへ自転車で行ってみる。とても、きれいなビルで、「母親」といった印象を持った(別に象徴的なことを言っているのではなくて、単に「太くて、丸い」からというに過ぎないけれども。あ、それなら、「男根的」と言ってもいいかもしれない)。今の日本で一ばんのビルだろうと思うし、しばらくはそうあり続けるだろうと思われるような出来だった。細部については、ありあまる予算を使って、それぞれの部分の担当者がそれぞれの考えうる限りの贅沢をした、という感じで、むしろ「雑然とした」という印象を受けた。とにかく、無駄にモニュメントが多い(しかも、ひとつひとつに金がかかっている)。メインのビル(「森タワー」という名前だけれども)のショッピングモール部は、石を組んだ壁だったのだが、その接合部の目地には隙間があいていて、その中に入っている鉄骨をさりげなく見せたりなどしていて、なんとも手間のかかった感じだった。それから、間違えて、ホテル部のロビーに迷いこんでしまったけれども、これも結構よかった。金と手間と抑制とがかかっている感じで、媚びていないという印象を受けた。あとは、ルイヴィトンのショップの前面一面がガラスでできた球体をつないでできた幕で、「LOUIS VUITTON」と大書きされていたのは、ばかばかしくて、とてもよい感じだった。このくらい突き抜けていれば、爽快になる。ルイヴィトンの商品を買うということは、このばかばかしいモニュメントに対して、間接的にお金を出すということを含んでいて、それは、そんなにも悪くないことのようにも思われたが、別にぼくがお金を出さなくてもルイヴィトンは十分やっていけているので、実際には出さない。そのほか、施設の中身は、まあ、お粗末な、典型的な集客を第一目的にした遊び場でしかなく、ディズニーランド的な陳腐さにみちみちていた。それでも建物がよいので、それなりに楽しめたけれども、買い物をする気にはやはりならなかった。ということで、もっぱら目に付いたのは、内装の現代的豪華さと、そこで正月早々から働いている人々だった。ホテルのロビーでは、制服を着慣れた感じのホテルマンたちが、正月休みの間抜け面を晒している泊まり客の群れの切り盛りに額に汗していたし、美術館でも、警備員の制服を来たアルバイトの女の子が、入館待ちの列の制御に声を嗄らしていた。そのほか、ショップの店員たちも、一年のうちで、もっとも忙しい日のひとつであろう今日に対して、誠実に(あるいは、いっぱいいっぱいに)対処していて、そういう姿は悪くなかった。あとは、六本木ヒルズのまわりの街並みをいくらか見て回った。六本木ヒルズができる前と、できあがってしまった今との対比を思ったりなどした。おそらく、けっこう変わってしまったのではないかと思う。それまでの、六本木という街には、良くも悪くもあっぷあっぷでやってゆく街という感じがして、それのみであったろうけれども(今も、六本木ヒルズの敷地から通りひとつ隔てれば、外国人たちが往来の半分くらいを占め、ものものしい印象の高級車がそこかしこに駐車してあり、ミニマムなスペースの部屋しか持たないマンションがきちきちに詰めて建てられている、純都会的な生活がある)、六本木ヒルズができてしまったことによって、今は行楽地化(あるいは、これもディズニーランド化)して、だらけた印象を帯びるようになった。それの良し悪しについては、ぼくはそこに暮らす当事者ではないので、どうこう言うつもりはない。とにかく、六本木という場に、あのような間の抜けた空間ができてしまったことは、すでに事実であって、そういう区画を作り出してゆくというのが、現在の都市再開発の現実だ。けれどもそれは、「新しく作る」という行為が必然的に有する、新参者としての馴染めなさ、初々しさのためかもしれなくて、その辺が、見はじめて少ししか経っていないぼくにはうまく区別できない。でも、十年経ったら、間違いなくわかるはずだから、それくらい経ったら(それまでぼくが生きていれば)もう一度見に行こうかと思う。そのときの森タワーがどういう表情をしているのか、ということについては興味がある。六本木ヒルズは、少なくとも、それくらいの「典型」ではあると思う。とりあえず、そういった「典型」を作り出す能力を有した「森ビル」という会社には、敬意を表したい。
(2004.1.4)-2
それから、今日は、東浩紀という批評屋哲学屋のHPを読んでいた。彼の関心は、ぼくらの世代のアイデンティティのモデル化というところで、それはその「ぼくらの世代」のお尻の方に位置づけられているぼく自身についての言及でもあるので、その部分において、興味があったのだが、けれども、そんなことよりも、むしろ、純文学をやる人間と、彼のように批評とか、議論とかをベースにする人間との差異を感じたことの方が重要かもしれない。純文学をやる人間というは、ずいぶんと「喋らないこと」に重きをおいている類の人間で、それに対して、彼のような種類の人間は、とにかく、「何はともあれ言ってしまう」ということを、基本的なスタンスとしていて、ともすれば「口から喋ることになんて、意味は無い」などいい勝ちの純文学に対して、彼らは、「筆談はまどろっこしいので、会って話そう」ということになる、というようなことを考えた。それは、彼らがとにかく積み上げることによって、事を成そうとしている(それは、通常の学問における基本的な姿勢であるけれども)のに対して、純文学というのは、何をどのように積むか、ということを問題としているのだというようなことが思い浮かんだ。それはあるいは、「積む」ということではなくて、「崩す」とか「切る」ということなのかもしれない。そのあたりは、よくわからない。とか、ぼくらは、単語ひとつをけっこう問題にする。それに対して、彼らは、話の流れや、議論の内容に応じて、けっこう簡単に言い換えをやる。その自由度は、うらやましいけれども、やはりその方式では漏れるものもあるだろうとも思えるので、個人的にはそのあたりが興味深い。
(2004.1.5)-1
新年初日から、「普通」の勤務。今年も、このままの状態で一年行ってしまいそうな予感。如何にして降りるべきか。だから、もうぼくは二十五で、半分過ぎてしまっているんだ。
(2004.1.5)-2
など、新年なので、つねに焦ってみる。なんだか、外へ出かけた日は書けない、というような状態に陥りつつあるように思われる。なんつーか、こう、朝からそういうつもりでだらだらしていないと駄目な感じなのである。実際に書いているのなんて、ほんとに、二時間も無いくらいなのだけれども、スイッチが違うというか、チャンネルが違うというか、とにかく、なんか、駄目なのである。こういうような駄文は、別に構わないのであるが、そのつもりで書く文というのは、なんか、駄目なのである。それは、とても困るのだけれど、同時に、さもありなん、というような気分でもあって、わたくしもまた、例の「一字三拝」とやらの部類にあたるのではないかしら、というようなことを思ってみたりなどしている。無職に憧れる。無職ならば、毎日、そのようにして書くことも可能であろう、と思うのである。大へん、老人じみている。まだ何も成しておらぬというのに、すでに引退したいのである。野心が、どうにも無いのである。あるとすれば、書きものが進みますように、という単純な願いであって、これも、考え方によっては、大へんに大きな野心と言えぬことも無いように思われるが、まあ、一般的に言って、野心にはあたらぬと思われる。地位も名誉も金も共感も賞賛も愛も要らぬ。自殺の勇気が欲しいのである。「野心とは、繁殖欲求の言い換えである」というような言説も、ときどき耳にするようであるが、どうやらこの男は、「人間をして、他の動物に比して高尚たらしめているものは、すなわち、自殺することと繁殖をしないことの二点に於いてである」というような、さして賢くもなさそうな理屈を奉じているようである。やはり、老人じみている。
(2004.1.6)-1
昨日みたいのじゃ、仕様がない。
(2004.1.6)-2
ちょいちょいとつまみ読みしている、寺山修司の高校生向けの訓辞集(実に残念なことに、もうぼくにはあんまり役に立たないものなのだ。。。)の中から、こんな言葉を見つけた。もっとも、寺山も引用しているものだけれども。
(2004.1.6)-3
一人の人間の主要な活動を通して----それ以外のあらゆる点を除去して----人間を単純化し、明確化する自覚こそ詩人としての自覚である。
ジャン・ジュネ

(2004.1.6)-4
その言や、よし。
そしてぼくは、これをいくつか置きかえて小説家を定義することを考えよう。。。
「活動」を「心理」に置きかえるだけでいいだろうか。。。
曰く、
「一人の人間の主要な心理を通して----それ以外のあらゆる点を除去して----人間を単純化し、明確化する自覚こそ小説家としての自覚である」。。。
「心理」という言葉が不十分だな。「心的行為」。。。
いい言葉が無いな。。。
あるいは、そんな一ことを以て片付けようとすること自体が、小説と矛盾しているのかも知れない。走ラヌ名馬、走ラヌ名馬。。。
「アナタノ小説、友人ヨリ、雑誌借リテ読ミマシタガ、アレハ、ツマリ、一言モッテ覆エバ、ドンナコトニナルカ、ト詰問サレルコト再三、ソノタビゴトニ悲シク、一言デ言エルコトナラ、一言デ言イマス、アレハアレダケノモノデ、ホカニ言イ様ゴザイマセヌ、以後、ボクノ文章読マナイデ下サイ」
きみ、走ラヌ名馬は名文だよ。。。
なら、かながカタカナだからといって、端折っていないで、全文写したまえ。。。
(2004.1.6)-5
多少、チャールズ・シュルツ入ってる感じだな。。。ピーナッツは、やっぱり、かなりいいよな。。。みんな、チャーリー・ブラウンも、ルーシーも、ライナスも、スヌーピーも、みんなぶつぶつやっていて、あらゆる事柄が、みな同じように扱われている。。。そうだ、あれはいい。。。あれこそが、ぼくの追い求めている「思うこと」の形態だ。。。とか、こんな感じで。だいぶこなれない感じで、へたくそだけれど。
(2004.1.6)-6
「日常というものの実際は、彼の日刊マンガのように断片的だ」と言ってみるのは、ちょっと楽しい。生きることが、自身そのものに対する漠然とした負荷とそれによって満たされる或るものとによって実質化されていることを承認するならば、つまり、ぼくらが「時間を積み重ねてきた」というような漠然とした意識で括ってしまうあのものの実体がそうであることを承認するならば、それは言ってもよさそうなことだ。
(2004.1.6)-7
わかりにくい?
仕方ないな。。。じゃあ、もう少し詳しく言ってみることにしよう。。。
その日は、君にとって、ごく標準的な一日で、あとあと印象に残るような別段変わった出来事が起きたわけではないから、ひと月もすれば、たいていその日のことは忘れてしまっているような日だ。その日も君はやっぱり、まいにち日々すること、割り当てられた家事とか、通勤とか、入浴とか、洗顔とか、まあ、なんでもいい、とにかく、そういった行為をしていて、そして、その合間あいまの、ふと、ものの三十秒もないくらいのあいだに、何かに気づくようにして、手を休めたりするあの瞬間、たとえば、部屋の時計の秒針の音が聞こえたり、出しっぱなしの水道の蛇口から落ちて、シンクにあたる水の音に気づいたり、そう、たぶん音を意識する、というのが一ばんわかりやすいかな、ほかには、そのとき一しょの部屋にいる、家族だとか恋人だとかに気づいて、その姿を見つめたり、そういった瞬間があるだろう、あの瞬間こそが、まさに生きている瞬間というやつだ、ということを認めるということだ。
(2004.1.8)-1
今回の件における吉野家は本当に見ものだ。今日のニュースで、メニューを4品追加の発表が流れた。戦闘開始である。今、きっと本社は修羅場に違いない。持ちこたえれば、男をあげるが、衆寡敵せずば、城をまくらに討ち死に、というやつだ。プロジェクトXが泣いて喜んで、飛びつきそうなネタだ。尤も、ネタとしては、死んでくれたほうが面白い。そうなれば、スノーブランの再現である。あれは、喜劇だったが、今回は、正銘の悲劇だ。そしてまた、あの巨体の屍臭に魅かれて、ハイエナやら子蠅やら蛆やら、ときにはライオンやらもが群がることであろう。そうして、みなでのしかかるので、屍体はすっかり覆い隠されてしまい、外からは、何やら、屍肉の奪い合いの、蠢きやら咆哮やら阿鼻叫喚やらがうかがえるばかりだ。その後、急激に太る奴もあれば、反対に、腐った部分を口にして、痩せ衰えるやつもあるだろう。それは、今の状態よりも更に更に見ものであるに違いない。さあ、半年後に吉野家D&Cという企業はまだ存在するか否か。BETしてみてくれ。法人だって、「人生、これ博打」である。切った張ったである。なめてはいけない。幸運を祈る。しっかりやりたまえ。
(2004.1.8)-2
結局、いい文を書こうと思って書くより他に、方法なんて無いんじゃないかしら。「いい文を書こうと思」うということは、「いい文が書けますように」と、それだけ祈念しながら書くということで、この「それだけ」というのは、本当に「それだけ」で、プロットをなぞることも、ロジックの整合性を気にすることも、流暢なながれになるようにとか、心地よい抑揚がつくようにとかについて気にすることも、文法的な正しさを意識することも、自分が今何についての文を書いているのかすら、気にせず、ただ、「いい文が書けますように」ということだけを、ひたすらに頭のなかで唱えて、文を書いていく、ということより他、無いんじゃないか、ということだ。そういった、半ば無意識の状態(ひとつの事柄を繰り返し繰り返し思っている状態というのは、放心に酷似している)で書くことにだけ、価値があるのではないかしら。そうして、それが極まれば、きっと小川未明のような素晴らしい作品が書けるに違いない。そんなことを今おもっている。尤も、それを確認し、証明する方法が、少なくとも今のところ、ぼくには無いのだけれども。
(2004.1.9)-1
別に書けるようでもなさそうなので、雑談、いくつか。
(2004.1.9)-2
今年に入ってからずっと(つまり、一週間くらい)聴いているCD。Aarkticaの一ばん新しい(2003リリース)の"PURE TONE AUDIOMETRY"。数枚目(四枚目くらい、かな)の、かけていて、かけていることを忘れるアルバムだ。去年は、Owenを見つけ、今年はAarkticaを見つけた、というような感じだ。サイトにサンプルのmp3があるので、よかったら視聴されたし。渋谷とか新宿とかの大きなCDショップに行っても、置いているかどうかはわからないけれども、ネットなら確実に手に入る。
Aarktica

(2004.1.9)-3
でも、音楽の好みというのは、自身の属する年代、通過してきた環境にはじまって、最終的には、生理的なものにまで行きつくもので、完全な意味での「個人の好み」以上にはならないような気がするので、無理には薦めません。日常においても、音楽の話をすることは、ほとんどと言っていいほど、ない。会話をしても、一向にかみ合わず、お互いの好みの表明以上にはならないし、その好みを口頭で説明するのは、実に困難を極める。いくら言葉を重ねて、自分の贔屓のものが優良だということを言ってみても、相手には通じないし、同じようにして、相手の話をいくら聴いてみても、自分の受けた印象が覆ることはない。結局のところ、「肌に合う」以上に言うべきところが無いのである。なので、まあ、サンプルを聴いてみて、自分の肌にも合うと思えば、聴けばよいし、あわなければ聴かぬがよい。こういうことを書いているのも、「ぼくはこういうのが好きだ」という言明以上のものは無くて、ただ、これを書いている今も、ぼくはAarkiticaを聴いているということがわかるくらいのものである。
(2004.1.9)-4
どうでもいいことだけれど、タイトルにある単語"audiometry"というのは、いい単語だね。英語圏の人間でないと、こういう生かした新語は作れないだろうね。明らかに、"geometry"->"audiometry"という派生の流れだよな。意味的には、「音に関連する項目に関する特性」という程度のもので、グラフに書けるような音に関する特性の一般のことを指すようだ。ついでにいうと、"Aarkitica"というユニット名も実にいい。'a'を重ねるあたりが最高だ。
(2004.1.9)-5
やれやれ。ほんとに雑談だな。
(2004.1.9)-6
雑談ついでに、NikkiSite レベル2になりました。こんなだらだらと書き流しているテキストサイトに投票してくれた方、ありがとうございました。おかげさまで、レベル2になりました。別に、何も出ないんですけど、これからも、読んでみて、「まあ、押してもいいだろう」というような気分になりましたら、ひとつ、押してあげてください。ぼくにとっては、きわめて貴重な、直接的な外部からのレスポンスです。よろしくお願いします。
(2004.1.13)-1
赤くてふくれた月が、下腹を出して夜空の底に寝そべっている。
(2004.1.13)-2
何を書けばいいのか、という問題は、多くの場合、何を書いてはならないのか、ということの裏返しだ。何か一行を書くということは、そこに収まることのできる可能性を有していた、数種類の、あるいは数十種類、数百種類の一行たちを、記述しない、ということだ。文学とか、小説とか、そうったものたちは、還元すれば、それに尽きるわけで、残念なことに、ほとんど無限の数だけある、その組み合わせ、取り合わせに対して立ち向かうことが、それの使命であり、宿命なのだ。……。……。(*タメイキ*)いったいに、ぼくは何を書けばいいというのか。これは、難しい問題だ。実に、実に、難しい。
(2004.1.13)-3
文学的。文学的!これは、やはり、実によい指標なのかもしれない。曰く、「文学に立て籠もれ!」レポートも、学術論文も、新聞記事も、日記も、詩も、会話文も、擬音も、こんなつぶやきも、クソ喰らえだ。文学的。「純」文学的。詩的。否。理論的。否。哲学的。否。情緒的。否。フレンドリー。否。孤高。否。文学的。唯、文学的であれ。
(2004.1.13)-4
たぶん、このままいくと、ほんとうに、何も書くことができなくなる日が来てしまう。それは、きわめて「必要な」対策であるはずだ。
(2004.1.13)-5
太宰の処女短編集「晩年」の中に、「猿面冠者」という二十頁ほどの作品がある。
(2004.1.14)-1
ほんとうは、こうしたぶつぶつも含めて小説になれば、それが一ばんいいのだけれど。。。雪、たくさん降ってるみたいですね。新幹線は止まっているし、飛行機も飛ばないみたい。。。そうですよ、歳を、とりたくなったんですよ。手っとり早くね。。。「同二十八日。まことに、きせる(煙管)を、よく、とをし奉候(たてまつりそうろう)。はやく、三十になりたや。」で、ぼくは六十になりたいわけだ。。。悠然たる筆致、というやつが、いいのです。。。こないだ買った、シングルカスク二本は、結局ひと月足らずで空瓶になってしまったので、今また、そのうちの好みにあった、甘いやつを二本、注文したところ。。。あいきゃなっとすぴーくりてらりーじゃぱにーず。。。
(2004.1.14)-2
走る都会。走る東京。タイヤが回って、路面に磨り減る音。エンジンをふかす音。ブレーキ音。ギアチェンジして周波数が上がる。クラクション。高架の下をくぐるときの、列車の線路の継ぎ目をまたぐ音。レールの軋み。鋼鉄の擦れ合う音。歩く音。歩く音。歩く踵の群れの音。横断歩道のとおりゃんせ。点滅音。パチンコじゃらじゃら。ランパブの客引き。マネー、マネー。マネーも音をたてるか。走る音をたてるか。ぼくを急かすか。ぼくは翻って、流れに逆らおうとする。押し倒され、ひっくり返り、二度ほど回転し、倒れ、引きずり流される。東京は平らな床にぶちまけられたパチンコ玉のようで、脚を上げれば、脚をとられる。転ぶ。頭を、腰を打つ。そっとしていても、押し流される。押し流されれば、いずれ退場。ボーリングのピンみたいに、掃きだされる。みな、それに逆らおうとはしない。ただ、掃きだされるまでの、幾ばくかの猶予の内に、できるだけのことをしようと焦っている。ぼくも、やはり焦る。流れに逆らって転んだのだ。倒れた姿勢で、もがいている。ぼくを掃きだそうとするパチンコ玉の群れは、勢いよく転がって、転がって。ぼくは東京のなかで焦る。冷静を装おうとして、焦る。スタンドバイミー、と叫んでいるその体は、無様に横たわり、金属の濁流とともに流れ、高速で無様に退場しつつある。ぼくは金切り声で叫び続け、無闇に手足をばたつかせている。走る都会。走る東京。消費。乱費。徒労。無為。汚濁。奔流。生き急ぐ人の群れ。群れ。群れ。群れ。その分子の一粒は、巨視的に眺めれば、まるで流れに身を任せているように見える。
(2004.1.15)-1
芥川賞ふたり、十九なり。いと羨まし。我が歳まで、いまだ五箇年よりも多くあり。五つ年もあれば、悪くとも、五つ六つほど書けるものなり。いと羨まし。我、白刃を腹にあてぬままに、あと五つ六つほど書けば、はや三十なり。三十になれば、こは、おめおめと生き恥を晒す醜き肉塊に相違なし。躰重たく、思考より固し。相貌険しく、人の触れざるものなり。妄執の犬と成りて、地獄の門前にて醜く立騒ぐものなり。あな恥ずかしや。白刃を腹にあて、臓腑取り出ださざるままに、人と離れ、されど人にとり縋りたる穢らわしきものなり。その心の臓より、ねばねばと粘りたる黒き血を送り出すものなり。その皮より、筆舌に尽くせぬ臭気を発するものなり。口よりは、己れにしか通ぜぬ言語を発し、吐く息には酸が混じるものなり。そは、餓鬼に非ずや。蠢く屍体に非ずや。臭き甲虫に非ずや。何れにしても、人の容に似て、全く人に在らざる何ものかに相違なし。醜し。醜し。
(2004.1.15)-2
 走る東京。ぼくも走らなければならない。自動車よりも、新幹線よりも、航空機よりも。周囲の人間よりも、同じものを目指す者よりも。何より、すぐ傍にいる者よりも----
 平日の午後。街中のありふれたファミリーレストラン。外は、そろそろ秋の日差しで、西日の時刻が過ごしやすくなって来た頃だ。ぼくと君は、がらがらの店内にあって、調理場に近い、あまりよくない席に向かい合って腰掛けている。混雑していた昼どきに入って、この場所を割り当てられ、そのまま数時間も居座っているのである。君は既に、ふた箱目の煙草のビニールを破り、ちょうど今その箱の一本目に火を点けている。灰皿は、ウェイターがもう二度ほども、新しいものに取り替えている。ぼくはソファの背もたれに肘をつき、君の体の少し脇のあたりを、さっきからずっと睨んでいる。ぼくもショートホープの箱を、ひとつ空にした。ふたりとも、もう結構な時間、黙っているような気がする。けれども、店内の時計が背後にあるので、どれくらいのあいだ黙っているのか、それから、今はもう何時なのか、ぼくにはよくわからない。君は、時計の掛けられている辺りをさっきから見つめているような気がする。アイスコーヒーが注がれていたコップの氷は、もうみな溶けてしまって、見るからに不味そうな、褐色を薄く帯びた水になっている。ぼくは、声に出さずに、「走らなければならない。もっと速く。もっと速く!」というようなことを繰り返している。とりあえず、目の前にいるやつよりも、速く。

(2004.1.15)-3
「ダス・ゲマイネ」は、こういう勢いで書いたらいいのかしら。面倒だな。言わなくてもいいことを、べらべらと喋くることをしないといけないな。
(2004.1.15)-4
評論家の戦いが、自身の言葉の空虚さとの戦いなら、詩人の戦いが、切り口のエッジの滑らかさに集約されるなら、小説家の戦いは、何をどのように書くのか、ということに尽きる。評論家は、言葉を尽くすことによって、自身の空虚さを補い、詩の切り口というのは、ひと通りでは決してなく、美しい直線、または曲線を描くよう、一瞬の煌きに命を賭け、小説は、書くことよりも、むしろ書かないことによって、小説となる。小説家の戦いは、小説の饒舌との戦いである。筆を尽くして、言葉を抑えるのである。その一見、矛盾しているように映る行為にこそ、小説の小説たる所以がある。
(2004.1.15)-5
一字は百字。心してかかれ。


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