tell a graphic lie
This document style is copy of h2o.



(2004.1.16)-1
これは、よい言葉だ。
(2004.1.16)-2
有用なものを造ることは、その製作者がそのものを讃美しないかぎりにおいて赦される。無用なものを創ることは、本人がそれを熱烈に讃美するかぎりにおいてのみ赦される。
オスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」序文より

(2004.1.16)-3
すべて人生はまったく無用である。
(2004.1.16)-4
そして、「ドリアン・グレイの肖像」はそこで放り出して、その下にあった、「世界の果てまで連れてって」を手に取る。
(2004.1.16)-5
「新しいヴィジョン」!実に懐かしい言葉だ!寺山修司は、アホに違いない。「新しいヴィジョン」などという言葉を口にする芸術家がどこにある。そんなことを口にして赦されるのは、素人のあいだだけだ。
(2004.1.16)-6
それでも、ぼくは、このノーテンキ極まりない散文を、積みあがったCDの上に置いて、気が向いたときに、五頁くらいずつ読み散らしている。彼はまた、「自由」「自由」と繰り返すけれども、「自由」というのは、ただ、「選ぶこと」をしている状態のことを言うに過ぎない。
(2004.1.17)-1
意識の記述。動作の記述。ぼくの書くものは、意識の記述に過ぎない。いや、凡ての記述というのは、意識の記述である。と言ってしまうのは簡単である。けれども、保坂和志が、小島信夫についていった言葉、「小説家としての素養」というのは、どうも、この辺りにタネがあるのではないかと思われる。「うるわしき日々」は、全くの意識の記述でありながら、そこに小説として、やはり必要だと思われる動作の記述があるのである。この辺りが、「小説家としての素養」に違いない。保坂和志も、動作の記述がとび勝ちである。
(2004.1.17)-2
だから、やっぱり、ぼくの書くものは、小説未満なのである。これではきっとひとに見せることはできないだろう。ちなみに、「素養」という言葉は、持って生まれたものというような印象を帯びるものであるが、けれども、おそらく、この場合はそれにはあたらないと思う。その素養は、十年二十年とかけ、意識して動作の記述をし続けてきた者に対して与えられるのである。そう考えるのが適当である。なぜなら、それが本当に持って生まれ出るようなものであるならば、おそらく、スポーツ選手などはみな、実に素晴らしい動作の記述をするに違いないからである。けれども、実際は、そうではない。やはり、もの書きがうまいのである。動作と意識は、本来互いに異なるものを受け持っているのであり、そのふたつを繋ぐことをうまくするというのは、決して自然なことではないのである。
(2004.1.17)-3
Aarkticaの"Pure Tone Audiometry"は、なかの"Ocean"という一曲へと集約された。この一曲で、ぼくには十分である。部屋には、同時に買ったCDが、まだ十枚以上も未開封のままで、このCDのジャケットの下に積み上げられている。8時間以上も、この一曲だけを繰り返すなかで、ぼくの見る世界は静かに滞っている。その時間のなかで、ぼくは外への関心を棄てさって、ただ、ぼくの仕事として割り与えられている特定のことだけをする。何かを思うことと、何かを書くことのふたつである。"Ocean"はごく控えめな曲で、珍奇な趣向というようなものも、何かを主張するようなそぶりも無い。「海に来て、この世には音楽というものがあるのだから、ぼくらは曲を作り、それを歌い、そして、いずれ誰かがそれを聴くのだ」と、控えめに笑っている、Aarktica(Job DeRosaという男)の立ち姿が思い浮かべられる。そういうことを思って(そう、ぼくは「思う」よりほか無い)、ぼくにはうまく聴き取れない、彼の歌う声を真似て口ずさんでみる。海にいる気分になるとは言わない。砂浜に立っている気分になるとも言わない。ただ、静かに、何かが静かになるような気が、微かにするだけである。
(2004.1.17)-4
 走る音。考えてみれば、ぼくらは走る音に包まれて生活している。そう思いついたぼくは、無意識のうちに、また自分の周囲を見まわしている。けれども、走っているものの姿は、ひとつも見あたらない。やはり、車の走る音が微かに聴こえるだけだ。ぼく自身も、もうかなり長いあいだ、走ることをしていない。走る理由が無い。走らなければならない理由も無い。走らないどころか、看板を抱えて立っているだけのぼくには、歩くことすら必要では無いように思える。走る音に満ちた東京の片隅で、走る音に包まれながらも、ぼく自身はずっと、一日中立っている。取り残されたようにして、ただ、立ちつくしている。
 そこで、「いったい、自分は何をしているのか」と思うことには、ありふれた簡単さ、あるいは安易さがある。それは、看板を抱えることをはじめて、二週間ほどのあいだにやり尽くしてしまった。一日中立っているということにまだ慣れず、疲労のために半ば痺れたようになった脚に苛つき、表情を硬く歪めながら思っていたことを、いままた思い出してみようという気にはならない。ぼくは進歩や変化のの少ない男で、自分が変わったとか、何かを理解したとかいった感覚に乏しいのだが、これに関しては、今は理解しているのだろうと思う。「いったい、自分は何をしているのか」と思うことには、まともな価値はほとんど期待できない。それは、湯に手をひたしてみたら思いのほか熱くて、叫び声をあげ、手を引っこめるのに似ている。あるいは、数時間の飛行機に揺られたのち、極寒の空港に降り立ったときにかんじる感覚のようなものだと言える。つまり、多少の激しい刺激や、慣れない環境に出会ったときの、一種の防衛本能、拒絶反応のようなもので、その言葉どおりの意味があって言っているものではない。その証拠に、二週間も経って、さして脚も痺れずに一日を終えることができるようになってくれば、それにつれて、薄れていってしまうのである。
 けれども確かに、東京の、走る音のなかで、ぼくはずっと立ち止まっている。そういう日々を過ごしている。「いったい、自分は何をしているのか」でなければ、そこに何を見たらいいのだろう。何かを見ようとしなければならない気はしている。
(2004.1.18)-1
もう、今年も二十日近く経っているらしい。
どうも、風邪をひいたらしい。
酒のせいばかりでは、ないらしい。
このごろは、とにかく、毎日酒を飲んでいる。
精神は、比較的健康のように思われるのだが、何故だか、毎日酒が飲みたい。
飲んでも、あんまり酔わない。
太宰の「猿面冠者」を写すのと、コルタサル「正午の島」を写すのと、どちらがいいと思う?

(2004.1.18)-2
今日は、あんまりいい日じゃない。ゴールポストに潰された哀れな生徒の出た中学の校長は、恥ずかしくて恥ずかしくてこれ以上生きてはおられません、自殺した。臓器移植ネットワークのソートアルゴリズムにバグが見つかって、6人が「不当に」プライオリティを下げられてしまっていたことがわかった。人はけっこう簡単に、不幸になる。潰れた生徒も、責任者の校長も、いまだに臓器提供を待ち続けている患者たちも、修正作業を担当したプログラマも、ごく些細なことで不幸になった。そして、彼らは、互いに加害者と被害者という関係にある。被害者は不運を痛憤し、加害者は自責し、かつ指弾される。不幸というのは、ほんとうに、人を殺すものだから、今日みたいに人が死ぬ日がある。人が死んだりする。死んだりする。
(2004.1.18)-3
ソフトウェアの永遠の不幸は、起きる事故の99%以上が、事前に予測でき、かつ防げていたはずのもので、その原因の、やはり99%以上が、人為的なものである事だ。人工知能ができたとしても、それはやはり変わらないだろう。神さまがぼくらをこの地球において、このような形で生息し、このような形で歩んでゆくことを進歩とすることを決めたように、人工知能を作るぼくらが、人工知能たちの歩みを(少なくとも、その大筋に於いて)決定するのだから。
(2004.1.18)-4
宇宙がビッグバンで始まったということは、それをはじめる仕組みが、それ以前にあったということであり、それがどう動くかという規格が、それ以前からあったということなのである。鶏も卵も、どちらも先なのではない。鶏と卵という二つの状態が存在する、ということがまずあるのである。こういうものの見方を、ソフトウェア工学では、オブジェクト指向というのだ。そして、ぼくはプログラマだから、この見方にある程度、慣れ親しんでいるから、人工知能という存在に対して、過剰な期待も不安も抱くことはない。それは、今ぼくらが暮らしているこの世界以上のものには決してなりえないので、そうである限りにおいては、ぼくらは、互いに「うまくやっていく」よりほか無いのだ。
(2004.1.18)-5
けれども、芸術というのは、こういう世界観となんと対立的であることよ。昨日のオスカー・ワイルドの言葉、「有用なものを造ることは、その製作者がそのものを讃美しないかぎりにおいて赦される。無用なものを創ることは、本人がそれを熱烈に讃美するかぎりにおいてのみ赦される。」のうち、この世界観は、完全に前者のものなのである。そして、これに続けてワイルドはこう言っている。「すべて芸術はまったく無用である。」と。つまり、ワイルドは、「人間は、芸術によって、自然から独立している」ということを言っているのである。それに対して、ソフトウェアは、完全に人工のものだけれども、その是とするところは、「自然を忠実に抽象化し、かつ正確に描写すること」なのである。シミュレートという言葉こそが、ソフトウェアの根源であり、永遠の理想なのである。
(ハートの火をつけて)

 花をいっぱいつかまえて
 かまわない かまわないで
 心の愛を放て つかまれ
 つかまれ

 あたしをいつもいいかげんに
 いいかげんに愛さないで
 彼のキスや抱擁で
 明日までおどれるの

 ooh きづかない その火きえちゃうの?
 あたしが守るから
 『ねぇ 愛する子にあげた?』

 Yeah  あたしにくれないの?
 Yeah  にがしてよ またねちゃうの?
 あげるから…
 たすけて

 彼の美しさを全部
 つかまえて つかまえて
 ひとりじめしていたいのに
 その自然を支配できない

 琥珀の空を守って 人生を愛さないで
 心の愛を放て つかまれ
 つかまれ

 ooh きづかない その火きえちゃうの?
 あたしにはみえても
 『ねぇ 愛する子になりたい?』

 Yeah  あたしにくれないの?
 Yeah  にがしてよ またねちゃうの?
 あげるから…
 たすけて


 その世界は みえないもので問いかけるものよ
 きてきて きてきて

 ハートの火をつけて ハートの火をつけて
 ハートの火をつけて ハートの火をつけて
Chara

(2004.1.19)-1
ブラボオ グッドソング ブラボオ グッドリリック ブラボオ ブラボオ アワースウィートフィーリング
(2004.1.19)-2
さいきん、ぼくは偉そうですか?
(2004.1.21)-1
 歯が、痛いのである。親不知である。左の下の、奥歯の奥が、むずむず痛いのである。歯肉の下に、何かがある気がするのである。鏡で、口の中を覗きこむと、奥歯の列の、途切れたところに、赤く小さく腫れているように見える。その膨れを、舌で触ってみようとするのであるが、上の奥歯の奥には、舌は届くのだが、下の奥には、どうも届かないものらしい。いらいらする。手を突っこんで、触ってみようかとも、思ったのであるが、ふと気づいて、やはり止した。触ってみれば、親不知と決まってしまう。親不知は、抜かねばならぬ。それは、いやである。面倒なのである。できれば、ただの、口内炎だと思いたいのである。
 歯が痛いうえに、咽喉も、痛いのである。やんわりと、風邪っぴきが、続いているようなのである。唾液を飲みこんだ折などに、咽喉を動かせば、咽喉がじんわり痛み、飲みこむ動作は、自然に歯を食いしばるものであるので、ついでに、奥歯の奥も、じんわり痛むのである。実に、不愉快である。
 そうして、一にち、ごくりごくりと唾を飲んでいれば、仕舞いには、咽喉の痛みと、親不知の痛みとが、だんだんとこんがらがってくる。たまに、親不知だけ、傷むことがある。たまに、その反対のときもある。ふたつが、こんがらがっていると、歯の奥が痛くて、咽喉もとを押さえたり、咳払いをしてみたりしてしまう。咽喉の痛みで、左の頬に、思わず手をあててみたり、下あごを左右に動かしたり、届かない舌を伸ばしてみたりしてしまう。そうしてみてから、間違いに気づくのが、また不快である。「ああ、間違えた。これは、咽喉の痛み」など、ぶつぶつやって、頬にやっていた手を、咽喉にあてなおしたりなどして、じつに、いらいらする。親不知の痛みも、咽喉も痛みも、外には知れぬので、独り芝居なのであって、間抜けである。一にちの、一わりほども、そのようなことをしていた気がする。我が高邁なる思念を、もっぱら、そのような些事に用いるというのは、なんという無駄であろうか。
 更にである。おそらく、咽喉と奥歯の奥とがうずくせいであろう、くしゃみが頻発するのである。口と鼻とは、咽喉もとにてひとつに合わさって居るのは、衆人あまねく知るところであるが、どうやら、咽喉もとの異常につられ、鼻の奥もが、むずむずとかゆむようなのである。そしてまた、このむずむずが、いつもいつも、くしゃみにまでなるものでもなく、くしゃみ寸前で収まってしまうこともあるような、じつに微妙なかゆみなのである。いよいよ、くしゃみをしようと、口を開きかけたところにて、すっとかゆみが消えてしまうようなことも多々あり、そのまま、かゆみがぶり返してこなければ、それはそれで、めでたいのであるが、大抵は、そうはいかぬもの、すぐにまた、むずむずが始まり、またもや、口を開いて、くしゃみの準備、というようなことに相なるのが、普通である。これがまた、じつにいらいらする。はっきりしろと、言いたくなる。それから、くしゃみ直前の、口が半開きに開いている顔というのは、たいそう無様なもので、いくども、そのような顔になるのは、いくら、私が自身の相貌について諦観しているとはいえ、面白くない。
 げんに、これを書いている今も、やはり、左の下の、奥歯の奥は痛み、咽喉が痛み、鼻がむずむずして、くしゃみをしかかり、しかかり、三度に一度くらい、実際にくしゃみをし、「ええい、ちくしょうめ」などやって、洟をかみながら、書いているのである。おかげで、そのことばかりが気になり、この事のほかは、何も書くことができぬので、仕方なく、このような仕儀に立ち至っているのである。決して、怠けてお茶を濁そうとしているためでは、ないのである。そこのところは、握りしめたこぶしに、ぎゅっと力を込めて、強調しておきたい。
(2004.1.22)-1
豪そうなのには、わけがあった。最近、部下がいるのである。そいつらに命令して、働かせているのである。これが、よくないに違いない。
(2004.1.22)-2
道無きみち、とは。知ってるか。ことし、「晩年」を書くのだ。
(2004.1.23)-1
 けれども確かに、東京の、走る音のなかで、ぼくはずっと立ち止まっている。そういう日々を過ごしている。
 「いったい、自分は何をしているのか」でなければ、そこに何を見たらいいのだろう。ぼくは、そこに何かを見ようとしなければならない気がしているのだけれども、その思いだけがあって、ここでもやはり立ちつくしてしまう。靄のような感覚が、ある種の圧力、または弾力を以て、考えることを拒み、創造することを禁ずる。ぼくは仕方なく、その拒む何ものかの表面を撫で、それについて何か言おうとする。

(2004.1.23)-2
 いつか、庸子の部屋にいるときに、今は忘れてしまったけれども、ぼくはひとりで何かを思っていて、ふと聞いてみたことがある。
「庸子とぼくが、一しょに居る『必然』というのは、有るものなのかな。あるいは、同じときに同じ場所、だからつまり、今ここにふたりで居るというのは、『必然的』なことなのかな。それは、友人の須藤と庸子が一しょに居るのではなくて、今このときに、紛れもなく、ぼくと庸子とが顔をつきあわせているということでもいいし、宇宙におけるある座標にある物質なり、エネルギーなりの状態ということでもいいのだけれど。何でも、いいのだけれど。とにかく、『必然』というのは、『実際に』在るものなのかな。もしあったとして、それは、ぼくの内や、庸子の内や、ぼくらのすぐ傍に有るようなものなのかな」
「どうしたの?急に」
 ぼくの持ってきた、太宰の小品を集めた文庫本を読んでいた庸子は顔をあげ、微笑して聞きかえした。
「…なんだか、よくわからないんだ」
 ぼくは庸子のほうを見ずに、音を聴きとれないほど小さくしているTVの画面を見つめたままでいた。庸子の視線を感じたけれども、向きなおろうとは思わなかった。すごく小さく、遠くにいるように見えるに違いなかった。現に、いま見つめている、TVの画面はどんどん小さくなって、ぼくから遠ざかっていくようだった。
 頭がひどくぼんやりしているときなど、ときどき、こういう状態になることがある。特に何の前触れもなく、唐突に、映画のスクリーンから、少しずつ後足で遠ざかるような感じで、視界全体が、ゆっくりとぼくから遠ざかり始める。遠ざかれば、それだけ視界のとらえる範囲が広がるというわけではなくて、その分は、スクリーンの境界の外と同じで、ただ黒く四角く切り取られたようになっているような気がする。気がする、というのは、そうして、視界がぼくから遠ざかってゆくあいだ、ぼくは半ば金縛りにあったように、遠ざかる視界のスクリーンの中心を凝視しているので、その外側がどうなっているのか、はっきりと意識することができないからだ。それは、そんなに長い時間のことではないのだけれど、そのあいだは、おそらく、瞬きもしていないと思う。それすら、よくわからない。スクリーンに映っているものよりも、むしろ、その遠ざかるスクリーン自体を、じっと目を凝らして見ている。そのときに、よく、「これは、ぼくの視界が、ぼくから遠ざかっているためなのか、それとも、ぼく自身が、視界から、すなわち存在する世界から遠ざかっているためなのか」というようなことを思う。たいていは、「たぶん、ぼくの方が世界から離れつつあるのだ」と感じる。そう思いながら、これは、ぼくの意思で自由に打ち切ることができるのだということも、同時に意識している。その確信をかくにんして、安心する。そして、ぼくは、ぼくから離れる世界を、好きなようにさせておく。
(2004.1.23)-3
静的
(2004.1.23)-4
これは、非常によい、必要十分な記述だ。
カール・シュミット「パルチザンの理論」(寺山修司「歴史なんか信じない」より抽出)
「一九一四年において、ヨーロッパの諸民族および諸政府は、現実の敵対関係なしに、第一次世界大戦によろめき入った。現実の敵対関係は、戦争自体からはじめて生れた。そして、その戦争はヨーロッパ国際法の在来的な国家(が主役の)戦争として始まり、革命的な階級敵対関係の世界内戦でもって終った」
(2004.1.24)-1
Charaの初期作品セルフカバーアルバムが出る。何より、まず、"Break These Chain"が入っている。しかも、一曲目である。すばらしい。"No Promise"も入っている。すばらしい。"Time After Time"も入っている。"うそつくのに慣れないで"もある。"Private Beach"も。"あれはね"も。"罪深く愛してよ"。。。じつに、実に、すばらしい。と、曲名をあげていったら、2つの新曲以外で、かぞえていないものは、"Happy Toy"だけになってしまったようである。"Happy Toy"は、レコード大賞とったアルバムの名前でもある、比較的有名な曲なのだが、なぜだか、ぼくはあんまり好きではないのである。マイナーな曲ほど、好きなようなである。"No Promise"などが、再録されるなどというのは、今までのぼくの感覚からいえば、奇跡のような感じがする。まるで、ポータブルMDを使っていた時期に、一枚だけ作った、自選のCharaのMDのようである。もちろん我慢できずに、さっそく視聴におよんだのであるが、どれもみな、落ち着いた印象で、わたしゃ、涙が出るほどうれしかったよ。
(2004.1.24)-2
Charaの初期の作品というのは、4枚ほどあって、いまでも、何を聴いたらよいのかわからないようなときに、そのうちの一まいを、適当に抜き出してかけてみたりしているのだが、5枚もあるので、撰定がむずかしいのと、好きな曲が二枚に分かれて入っていたりなどして、ああ、一まいになればよいのに、など、少しく不便を感じていたので、これはとてもめでたいことなのである。
(2004.1.24)-3
それにしても、"Break These Chain"の視聴データの、"あたしのお願いを 聞いてくれるつもりなら"... で切れてしまうのは、腹立たしい。そのあとの、2フレーズがいいのではないか!おあずけ、である。寸止めである。いらいらする。
(2004.1.24)-4
また、出る、とはいっても、まだひと月、いや、三週間、いや、正確には、23日後である。久々に、指折り数えて、ということにあいなりそうである。
(2004.1.24)-5
「わからない?…そう」
 庸子が、どこか迷ったような口ぶりで、そう言っているあいだも、ぼくは瞬きをせず、じわじわと遠ざかってゆく、四角く切り出された視界をなるようにしていた。心なしか、庸子の声も、遠ざかっている印象がある。ぼくは、その感じを、既に視界ではなくなってしまった残りの黒い部分のすみで、微かに楽しんでいる。既にだいぶ小さくなってしまった、視界の真ん中のTVの画面では、CMの映像がせわしく人工の光を放ちながら、せせこましく切り替わっている。TVが小さくなったので、TVの周囲のもの、TVを載せている合板のボードや、わきに置かれたコーラの入ったコップ、折りたたんだ携帯電話の灰色のボディ、ティッシュの箱なんかも、TVの映像と同じように、ぼくの視界に映っているのが知れる。それにともなって、心地よい不安というのだろうか、これの外では感じたことのない、不思議な感覚が次第に増大して、心臓をさし込むように、キュウと絞りだす。
 そのまま、すこしのあいだ、ぼくは、今しがた自分から庸子に何か問いかけたのだということを、まったく失念して、ただ、四角い視界のスクリーンが遠ざかってゆくのを、淡く楽しんでいた。手を伸ばしても届かないくらいに、それがぼくから離れてしまいそうになるとき、その心地よい不安から、心地よさが消える。別に、手で引き寄せるというわけではないのだけれど、いつでも打ち切ることを知っているのとまったく同じようにして、それ以上離れてはならないのだ、ということも、なぜだかわかっている。子供のころ、家の近くの、小さな用水路を飛び越えようとしたとき、精確な水路の幅や自身の跳躍力など知らなくとも、それが実際に可能かどうか、見るだけでわかったように、はっきりとわかる。
 ぼくは、瞬きをして、ぼくの意思で自由にそれを打ち切ることのできる限界ぎりぎりのところで、こちらに戻ることをする。視界はまたいつものとおり、ぼくの視野全面を覆い、真ん中にあったTV画面が普段の距離に近づいていて、そこで焦点が合っている。庸子のほうを見た。表情がある。ぼくは息を抜く。
「…ねぇ。また、ぼんやりして」
 庸子は苦笑して言った。ぼくもまた、それに微苦笑で応じ、テーブルにひじをついていた右手で、首のあたりを撫でた。庸子は、再び文庫本に目を落とした。
「どう、おもしろい?」
 うつむいた庸子の顔を見て、ぼくは言った。庸子は、今度は顔をあげずに、こくりとひとつうなずいただけだった。ぼくは、すこし満足を感じた。チャンネルを別のものに変えた。

(2004.1.25)-1
武田泰淳にひと息ついて(「十三妹」と「富士」は量として重たそうなので)、オスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」を読み始める。金言集ですな、これは。

「ああ、ちょっと説明できない。だいたいぼくは、ほんとうに自分の気にいった人間の名は、絶対にひとに打明けないことにしている。名を明かすのは、その人間の一部をあけ渡してしまうような気がするのだ。ぼくは最近、秘密をもっているのが好きになった。現代生活を神秘化し、非凡化してくれるのは、秘密をもつこと以外にはなさそうだからね。どんなくだらぬことでも隠しておきさえすれば、魅力がますというわけだ。だからぼくは、ロンドンを離れて旅行に出るときには、絶対に行先を知らせないことにしている。もし言ってしまえば、楽しさは全部ふきとんでしまう。たしかにくだらない習慣だ、こんなことは。だが、そのお蔭で自分の生活に冒険(ロマンス)と空想が生まれてくる。こんなことを考えるぼくを、きみは大馬鹿者と思うだろうが。」
すばらしい。
「ハリー、ぼくはときどきこうおもう----世界史のなかで問題にするに足る時期はふたつしかない。ひとつは新しい媒体の出現、もう一つは新しい人物の出現だ、たとえば、油絵の発明はヴェネチア派にとってそれであったし、アンティノウスの顔が後期ギリシア彫刻にとってそうであった。そしてドリアン・グレイの顔は、ぼくにとっていつの日にかそうなるだろう、とね。云々」
すばらしい。

(2004.1.25)-2
あ、金言というのはね、「わかりきったことを、もう一度、シンプルに、かつ象徴的に、過不足なく言ったもの」のことをいうんだ。そういうものでなければ、それが金言か、そうでないか、ひとめで判断できないからね。ひとめで判断できないような言葉は、まず金言とは呼ばないものだよ。そういったものは、「まったく新しいもの」と呼ばれるんだ。
(2004.1.25)-3
あとは、高橋源一郎「あ・だ・る・と」を今日いちにちで読む。久々に、なんというか、久しぶりに、現代の「小説」というやつを読んだような気がする。至極読みやすい。何にも書いてないから、速く読んでも平気である。あるのは、アダルトビデオ撮りという珍奇な職種という事柄だけで、それ以上のものは何にも書いてないのがよくわかるので、安心して読み進められる。知らないひとの人生は面白いけれども、あんまり、やくにはたたないね。感心したり、安心したり、焦ってみたり、共感してみたり、同情してみたり、妬んでみたり、優越を感じてみたり。だいたい、そんなところか。
(2004.1.25)-4
というか、大丈夫か、高橋源一郎。太宰の言った「あらゆる人間を書く」というのは、決してこういうことではないぞ。溺れかけの男と燈台守の一家の団欒の話は、そういうことではないのだぞ。頼むよ。君は、ぼくと違って、それをする技術があるはずだろう。怠けるなよ。仕事は、いつだって簡単じゃないのだぜ。それじゃまるで、「小説智恵子抄」の佐藤春夫みたいじゃないか。他人を書くときに、ほんとうに他人を書いて、どうするんだ。年賦をなぞって、そのいちいちを褒めることに、何の意義があるんだ。そんなの、小説じゃ、ねえぞ。
(2004.1.25)-5
うーん、わるくち、言いすぎかしら。でも、なんつーか、高橋源一郎には、期待してるところがあるんですよね。新しい文学(といっても、80年代からあるものなのだけれども。それでも、太宰と一しょに、彼以前へとさかのぼることをしているぼくには、新しい)が、それ以前の文学と肩を並べることができるかどうか、というのは、高橋源一郎にも割り当てられた役割のはずなんですよ。当たり前だけれど、それはあんまり楽ちんな仕事ではなくて、全力疾走が必要なことなんです(なぜなら、それまでの時代の文学者たちも、やはり全力疾走をしていたから)。80年代以降、文学やら、そのほかの文化一般もきっとそうなのですが、迷走すること自体がその基本的アイデンティティになってしまっているようで、それはたいへんにご愁傷様なことではありますが、だからといって、ほんとうに無気力になっていい、ということにはならないのです。川端康成のニヒリズムが、文学そのもの自体には決して向けられなかったように(もし、そうであったならば、あんな量の作品を残すことはできない)、高橋源一郎が、その時代を記述するために、迷走や懐疑、無気力、アマチュアリズムを取り扱うとしても、それが書くことそのものにまで及ぶことは許されないのです。小説は、ずっと昔から、小説だったのであり、それを逸脱することは、そこから降りることであります。それは、野球のルールが気に入らなくなったからといって、止めてしまうことに等しい。音楽が、音楽をやめることができないように、小説も小説であることをやめるわけにはいかないのです。モーツァルトと、レイディオヘッドを比較することは、双方がともに音楽であるという点において、可能なことなのであり、そういう風にして、高橋源一郎の書くものをそれ以前の総ての偉大な文学作品と比較するためには、小説であることを止めるわけにはいかないのです。文学的、という事柄の最もプリミティブな部分は、かたく、守られているべきだと思います。それは、日本人同士が会話をするためには、五十音の体系にのっとらなければならない、ということと同じことだ。そして、小説は、じつにたやすく、小説で無いものになってしまう。何を以て、小説は小説となるのか、という問いに、いまだにぼくは満足な回答を示すことができないでいるのですが、それでも、与えられたものが、小説かそうでないか、ということについては、それなりに判断できるようになってきたように思います。この場合の「小説」というのは、現代においては、実に狭義の小説ということになり、いわゆる「純文学」に近しい区分けであるかとは思いますが、高橋源一郎さんは、そこにいらっしゃる方であると認識しております。見込み、違いでしょうか。精進、してください。そして、小島信夫の次を、ぼくに見せてください。あんな爺さんが、現在のトップであるというのは、実に気にいらぬ事実であります。尊敬ばかりしていないで、はやく越えてみせてください。二十歳も歳の離れているぼくとあなたとが、おんなじ人を目指しているというのは、ひどく惨めです。シェイクスピアは、あなたの歳にはもう、かなりの仕事をしていましたよ。ほんとうに、迷走している場合ではない。四十過ぎて、そういうことでは、困るんですよ。あとに続くものたちが、惨めになるばかりだ。はやく、ぼくらに越えるべき、規範を示してください。おねがい、しますよ。
(2004.1.25)-6
だいたい、ふざけてますよ。ふざけ、過ぎてますよ。八十越えないと、ああいうものが書けるようにならないってのは。あと、五十五年だぜ。半世紀以上、あるんだぜ。ふざけるな。堪えられるか、っての。「大作家」なんて、まっぴらごめんだ。
(2004.1.25)-7
フォークナーも、カフカも、モオパッサンも、チェホフも、コルタサルも、沙翁も、ドストエフスキーも、ユゴーも、鴎外も、川端康成も、書ける必要はないと思うけれども、小島信夫は、書けるようになる必要があるような気がする。追いつき、踏み越えるべきは、まだ生きて、しかも現役であるこの爺さんであるような気がする。笑いごとではない。21世紀哲学が、マルティン・ハイデガーとアルバート・ウィトゲンシュタインを踏み越えることでしか始まり得ないように、21世紀の日本小説も、小島信夫を踏み越える必要があると思う。いつまでも、「なんとなくクリスタル」の「なんとなく」を奉じているわけにはいかないはずである。そんなことだから、宮崎駿や庵野秀明に出し抜かれるのだ。ナウシカが、墓所を握りつぶしたように、同時にクシャナがトルメキア為政者を引き継いだように、エヴァンゲリオンのラストが、主人公の肯定によって埋め尽くされたように、小説も迷うことを終えなければならない。「世界は存在する。私が存在するかぎり」(ああ、古い。けれども、このほかに、ぼくは言葉を持たないのだ!この不幸!)越えなければならない。
(2004.1.25)-8
と、今日はなんでまた、こういった馬鹿馬鹿しくも煽動的な文を書いているのかといえば、芥川賞の短評がそこいらじゅうで、なされているのにぶちあたったからだ。三十歳以上の分別ある論客たちが、二十歳ぴったしになったばかりのおなごの書くものの欠点をあげつらっていたり、そこに何かを見出そうとしていたりするのは、惨めを通り越して、悲哀を感じさせるものである。むかしは、二十五になるまで、小説は書いてはならぬ、と戒めたそうであるが、最近は、どうやらそうもいっていられないようである。二十で、すでに、いっぱしでなければならないらしい。ということは、十六で、一本は書いていなければならぬ、ということで、小説の世界の元服は、却って早まっているようである。なぜ、二十歳で、既にその将来の可能性の一部を垣間見せているというだけで満足しないのだろう。なぜ、そこで一度省みて、二十歳の自分がいかほどのことを為していたのだろう、と少しでも思ってみようとしないのだろう。現代人は、年齢ということを軽視しすぎているのではあるまいか。スポーツの見すぎだ。残念なことに、小説はスポーツではない。小説家も、中田英寿のように、松坂大輔のように、朝青龍のように、タイガー・ウッズのように、二十五で数億円取れるような身分が可能だったら、どんなにいいだろうと思う。けれども、残念なことに、小説というのは、年齢に正比例する。げんに、ぼくの書くものだって、たとへ、それがどんな駄文であろうとも、一年前の渾身の一文よりもいいのである。これは、実にご無体な事実であって、これによって、小説家は、とにかく、ただひたすらに、書くことだけを要求されるのである。どんなものでも、書かぬよりは、書いたほうが、いいのである。この苦痛。
(2004.1.26)-1
宿酔で、一にち体調が芳しくない。ううむ、これはきっと、昨日わる口を言い過ぎたためであろう。今日はちょっと、おとなしくしていよう。。。
(2004.1.26)-2
オスカー・ワイルド、すげえ。おもしれえ。てえしたもんだ。これあ、あれか、沙翁と、ハるか?「サロメ」じゃ、ニブイおいらにあ、ちっとピンとこなかったけれども(あれは、挿絵がよくて、、、)、「ドリアン・グレイ〜」は、文句なしだ。しかし、英国の劇作家っちゅうのは、みんなこんなもんなんかな。この饒舌。いいねえ。たまんないねえ。ぐりぐり、くるねえ。「世界に冠たる〜」ってえやつだねえ。じつに、うらやましい。
(2004.1.27)-1
思い出して、要約して書くことでないこと。何か役割をふって書くのではないこと。あなたは、決して、ぼくにとって都合のいい人間ではないということ。同様にして、ぼくもまた、大部分において我ままであること。わかりあおうという努力と、わかりあえないこと。わかりあえたこと。話をすること。表情を見ること。思いつくままに喋る。心をよせて聞く。いい加減でないことを言う。けれども、決して深刻でないように言う。相対し、逃げないこと。あなたは生きていて、そして、あなたはぼくではない。それを知って、ものを言う。ぼくがひとつの、いい加減でない話をする。あなたは笑わないし、嫌がりもしない。賛成もしない。反対もしない。迎合もしない。批判もしない。ただ、なにごとか、考えている。考えて、それから、なにかをぼくに向けて言う。あなたも、やはり、いい加減でないことを言う。だから、ぼくの言ったこととは、また違ったことを言っている。ぼくはそれを聞く。それを聞いて、エゴについて思うことをする。あなたの、やさしさというものについて、思いをはせる。ぼくの誠実、ということを意識する。顔を見ようとする。あなたといる。ぼくは、あなたといる。そのことについて。そのこと自体について、ぼくは書こうとする。
(2004.1.28)-1
「ドリアン・グレイ〜」は、実に、歯切れがよい。一文、一文が、きちんと完結していて、あとの文は、まえの文を引きずらない。白黒、はっきりしている。読み手は今読んでいるその文自体に集中すればいいのだし、物語の流れというものは、そういう積み重ねの裡に、無理なく収まっている。作品中の、ある時点において、取り扱う必要のあるのは、読んでいるその箇所と、最も大枠としての話の展開だけでいいのである。取りこぼしを心配しなくてもいいし、ピックアップすべき部分も、その時々で、すぐに判断できる。
(2004.1.28)-2
それに対して、ぼくの書くものは、はっきりしたことは何も言うことができない。なに一つ、断定することができない。一文書けば、一文だけ、保留される。あとに引きずる。正直いって、書いているぼく自身にも、何を書いているのか、少なくとも、何を以て、その文を書いているのかが、よくわからない。文を紡ぐことが、すべて、「言ってみる」にしかならない。しばらく(一週間とか、ひと月とか)して、ようやく、何となく、文がそこに「据わって」くるようになる。書き手がそうなのだから、読み手には、当然わかるはずもない。
(2004.1.29)-1
10-FEET、アルバム、オリコン4位である。出世したらしい。めでたい。食ってけそうじゃないか。
(2004.1.29)-2
など、感慨に浸っている場合じゃない。俺はどうするんだ、俺は。いつまでも、何書いてんのかわかんねえままでいいのかよ。
(2004.1.29)-3
信じるものがないというのは、とてもつらいことだ。
(2004.1.29)-4
笑ったりしていい。
(2004.1.30)-1
もう一月も終わる。ことしの十二ぶんの一を終えて、書いた量は、たかだか、三千字にも満たない。
(2004.1.30)-2
 「ドリアン・グレイ〜」後半部は、なにやらストイックで、ジイドが思い出された。
 前半部の二十のドリアンから、数ページのインターバル部を経て、十八年後、四十じかになったドリアンは、加齢と犯した罪による相貌の醜悪化を、すべて肖像画に負わせることによって、自身はいまだに二十歳の美しさを保っていたが、その間に犯した数々の「罪」や「堕落」や「悪徳」によって精神を「穢され」、その自覚の煩悶に日夜苛まれるようになっていた。その記述は、前半部とはうって変わり、歯切れの悪い、抽象的な色彩を帯びた文章になっており、書き手であるオスカー・ワイルドの顔が見えるようになってくる。そこで、ドリアンは、自身の「罪」とか「堕落」とか「悪徳」とかについて煩悶するのだが、どうやら十八年間のあいだに犯したらしい、数え切れないほどのそれらについての、具体的な記述がはしょられているので、読み手にはドリアンが、どうしてそれほど苛まれなければならないのかについて、腑に落ちないところがある。たしかに、ワイルドは、インターバル部にて、その十八年間の概要を、密度の濃い文章で書いているのだが、そこにあるのは、彼自身の収集癖やら、乱費癖やら、移り気やらについての記述があるだけで、それも、豪奢奔放であるというだけで、別段、「罪」や「悪徳」といった趣はないし、まして、後半部にて、幾度も繰り返し繰り返し書かれる、数々の人間を「不幸」と「恥辱」のどん底に堕としたことについては、まったく触れられていないといってよい。数名の被害者の名があげられるけれども、ただ名前を記されるだけで、どのようにして、ドリアンに「恥辱」のどん底に落とされたのかについては、まったく記されていない。だから読み手には、なぜだかよくわからなけれども、ドリアンは「罪」とか「悪徳」とかに煩悶し、自身の相貌はまったく変わらない身代りに、醜く歪んでゆく自身の肖像に恐怖しているように見える。そして、ついにはその肖像画を描いた画家を逆恨みし、殺害するに至るのだが、けれども読者には、そこに至ってはじめて、ドリアンが明確な「罪」を犯したように見えるのである。
 なぜ、このような片手落ちの記述になったのかといえば、思うにこれは、ワイルドには、「罪」とか「堕落」とか「悪徳」とかいうものの実際をひとつも知らなかったためであろうと思われる。オスカー・ワイルドのそれらの概念に対しての感覚は、ジイドが幼少のころ、「今日は、砂糖をひとさじ多く舐めすぎてしまいました」と懺悔したのに非常に似通っている。こういう繊細な人間に、本物の醜悪を直接えがくことなど不可能である。そして、ワイルドが本質的に、きわめて厳格で原初的な倫理観を有していたことは、最終章の一節によっても知れる。
「ああ、おれはなんという高慢と激情の衝動に駆られて、あのとき、肖像画がおれの日々の重荷を背負ってくれて、穢れることなき輝かしい永遠の若さをおれが保ち続けるようにと願をかけてしまったのか!おれの破滅はすべてそのためだ。おれが人生の罪を犯すたびに、かならず間髪をいれずに罰がやってきたほうが、おれのためによかったのだ。罰せられることには浄化がある。『われらの罪を赦し給え』の代りに、『罪ゆえにわれを打ち給え』という言葉こそ、もっとも正しき神に対する人間の祈りであるべきだ。」
 また、佐伯彰一の解説の終わりに、以下の一節がある。「柔軟体操風な逆説からの出発が、書き進むにつれて、次第に倫理的な渋面へとこわばってゆかざるを得ぬ過程に、かえって身近な親しみを覚えたことをつけ加えておきたい」
 いずれにせよ、「ドリアン・グレイの肖像」は、罪が、絶対的な罪として、たしかに存在し、それゆえに、声高にそれについて喋ることのできた時代の小説である。現代には、この小説の基本構造である、逆説という概念は、既に存在しない。
(2004.1.31)-1
ボルヘス「伝奇集」読み始め。かなり良。フォークナー「響きと怒り」は、また失敗したらしい。とっつきの悪さは、「サンクチュアリ」以上かもしれない。四度目、五度目になって、ようやく始めることになるのではないかと思われる。
(2004.1.31)-2
CD三枚開封。失敗。好みでなかったというよりも、ぼくの状態が良くなかった。
(2004.1.31)-3
書けない。というよりも、書こうとする時間をとっていない。三時間粘ったあとで書き出すというのは、じっさい必要なことだ。それができていない。それは、ある意味において、きわめてシステマチックなことといえるはずで、ぼくが書き続けるとしたら、きっとこの方法しかないのだと思うのだが、平日の十二時間を会社で過ごすものには、なかなかつらいことだ。
(2004.1.31)-4
三時間、心を静めて、それについて意識を働かせながら、書き出せるのを待つのである。感じとしては、答えを見逃したテレビのクイズについて、三時間、あれこれと考え続けるというのに近いと思う。答えを見逃してしまったのだから、もう永遠に「正解」というものはわからないので、せめて自分で納得するような答えを見つけようとする、そういったことである。
(2004.1.31)-5
孤独についてや、孤独を好むものについて。それから、孤独と自殺との関連について。
(2004.1.31)-6
理想の女性。たぶん、ぼくはこれからも、他人については、理想的か、もしくは抽象的な人物しか書くことができないだろう。彼女たちは、その時点で抱えている、ぼくの意識に対しての正反射をする鏡であって、その意味で、非常に固定化、事物化されていると言える。たとえば、いま書いている、「庸子」という女性についても、それはあてはまるわけで、だから「庸子」は、実際に存在し、肉体と体温を持つ存在であってもよいし、また、なくても構わないのである。すなわち、すべてが自意識のうちでの問答であると言ってしまっても構わないし、あるいは、実現されることの決して期待できない、他己とのやりとりだと言っても構わないのである。ぼくとしては、「庸子」が実際に生命を蔵した人格であることを希望しているのだが、そのことに対する優先順位は、ぼくを垂直に取り巻く鏡面であることよりも、たしかに下なのである。したがって、ぼくは彼女に、もっぱら黙ることを求め、ひとつを話せば、少なくともふたつを知ってくれるようにと願うのである。
(2004.1.31)-7
自身の裡に、そういった理想的女性を有している者には、現実の女性は必要でないものらしい。おそらくそれを、他人は異常だと言うことだろう。けれども、そういった声に対して、ぼくはこう言い返さずにはいられない。現実の感覚は醜いのだ。たとえば、ぼくが女性の肌を愛撫したとき、そのやわらかさ、きめ細かさ、ぼくよりも半度ほど高い体温などを感じたとして、それが純粋に心地よい感覚に止まることなどおおよそ考えられないことなのである。ぼくがそういったことを感覚するということは、からなず、同時に、自身の触覚や、それを入力する手のひらの皮膚や、脣や、腕や胸の皮膚を意識することであり、それを為している際の自身の、快感に醜くゆがんだ欲情むき出しの表情や、乱暴な振る舞いなどが、それに伴うのである。ぼくはその事実から、少なくとも、その認識から逃れることができない。ぼくがそういったことから快感を得れば、得るほどに、ぼく自身の身体的(敢て精神的とは言わない)醜さを自覚せざるを得ないのであり、ぼくはそれから快感と同量の苦痛を得るのである。ぼくは醜く、そのために、愛し、また、愛されるに値しないのである。それゆえに、ぼくは理想の女性を創出する。理想の女性は、本質的に無感覚であり、身体的感覚器官を欠いているがゆえに、ぼくに許容されうる。彼女の肌を撫でながら、自身について思ったことを語るのは、しごく心地よいことである。そこでは、ぼくの醜さは、そのままで許容され、消化される。そして、実に、それのみが、死なずにおめおめと生き恥を晒し続けているものにとっての、一瞬の安らぎなのである。醜いぼくは、そのときにおいてのみ、その醜さゆえに、二十四時間、夢の中でまでぼくを嘲う、正常な感覚から解放される。ぼくはその女性を愛し(その言葉を、ぼくに対して用いることは、醜怪そのものだが)、ぼくの涙を吸い込む無限の慈しみを有した大地を見出すのである。そこでは、ぼくは現在あるがままの姿で歩くことを許され、また、そのことを自身、恥とは思わないのである。
(2004.1.31)-8
あなたの身体の半分を乗っ取ってしまわないような恋になんて、なんの意味があるのだろう。それによって、同時に、ぼく自身の身体の半分を乗っ取られてしまわない、恋になんて、いったい、なんの意味があるのだろう。それは、ただ、ぼくの乾いた脣が、あなたの頬や、額や、脣や、身体に触れたという、ごく単調かつ無駄な事実が、どこかに記録され、そしていずれ捨てられるだけのことではないか。ぼくは、ただ、ひとりで傷を痛がっている子供と同じようなもので、誰かにその痛みが移ってしまえばいいのに、と願っている憐れで、最低のエゴを持った、そして既に若くはないゆえに、忌避される醜怪なヘドロの塊だ。傅く美しい女性に向かって、その第一声にて、「ぼくの精液を飲み干したまえ」昂然と言い放つような恥知らずな人格の所有者である。餓鬼は、いくら美味なるものを食したところで、決して満たされるものではないという。ぼくはただ、胃袋だけを膨らませたガリガリの餓鬼である。すべての他人は、ぼくにとって、同様に希薄であり、それは、ネットにあげられた、この駄文と同じようなものであるといえば、おそらくこれを読むものに、かなり正確に伝わることだろう。ぼくは今、これを読んでいるあなたが実際に生きているものであっても、そうでなくても一向に構わないのであり、ぼくの言葉というのは、ぼくの文というのは、そういうものに対して放たれているのである。
(2004.1.31)-9
死んだほうがいい人間。死んだほうがいい人間!死んだほうがいい!!


< >












kiyoto@ze.netyou.jp