tell a graphic lie
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(2004.2.1)-1
気持ちいいものや、きれいなものや、清らかなものや、
(love in december)

 これは恋なのですね
 十二月の恋
 静かな夜と 静かな星と
 私は居ます
 月曜から 日曜まで
 あなたと居ます
 とても儚いあなたと とても弱い私と
 いつも居ます

 冬の夜が 深く 長く 育ち
 あなたは吸い込まれる
 長い 長い 眠り
 目覚めることは きっと ないのでしょう
 私はここに 春までここに
 あなたの隣で まっているのでしょう

 でも 心配しないで
 私が居ます
 深く 深く 沈みこんでゆくあなたを
 私はきっと つかまえてあげる
 心配 しないで
 わかって いるのでしょう

 一にち 一にち
 冬の空気が 冷たくなって
 一にち 一にち
 あなたも 流れて遠くなって
 ふり返ることも きっと ないのでしょう
 私はひとり 春までここに
 一しょにゆくことは できないのでしょう

 でも 心配いらない
 ここに居ます
 遠く 遠く 流れ離れてゆくあなたと
 私はきっと つながっていられる
 心配 しないで
 わかって いるのでしょう
Club 8

(2004.2.1)-2
「どう、おもしろい?」
 うつむいた庸子の顔を見て、ぼくは言った。庸子は、今度は顔をあげずに、こくりとひとつうなずいた。ぼくは、妙な満足をすこし感じた。チャンネルを変える。外国の空の映像がながれていた。画面のうちの、外国の空は見慣れている。晴れた空も、曇り空も、雨空も。雪雲に覆われた空も、嵐に猛り渦巻く空も。なんでも、見慣れている。
「たぶん、在るんだと思う」
「え?」
 画面の空から目を離し、ぼくは庸子を見た。庸子はうつむいて、文庫本へ目をやったままだった。そして、そのまま、ぼくに顔を向けないまま、庸子はそれを言い始めた。
「在ると思うし、なくちゃ、いけないんだと思う。信次がいて、私がいて。それは、となりどうしの、触れあうことのできる距離で。きっとそれは、たしかなことなんだと思う。信次と私とが目をあわせたり、私が信次を見るとき、信次はTVを見ていたり、信次が私を見るときに、私は本を読んでいたり、ふたり、ぜんぜん別のことをして、私がキッチンで洗いものをしているとき、信次がCDを入れ替えているのがわかったり、私がお風呂に入っているあいだ、信次は窓を開けて煙草を吸っていたり。私が面白いと思ったことを、信次はそうは思わなかったり、その反対だったり、たまには意見があったり。そういうことは、とても、とても、たしかなことなんだと思う。
 いつも、一しょに、眠るでしょう。一しょに眠ったとき、信次が見ている夢が楽しいものだったら、私もおなじものを見たいと思うし、私がいい夢を見たときには、信次もそれを見ていたらいいと思う。私、朝によく、夢の話をするでしょう。あれはね、そういうことを思って、そんなことは実際には有り得ないことでも、でも、信次がそれを知っていたらいいと思って、話をするの。一しょの夜がそこにあるのなら、それはしてもいいことだと思う。
 信次が、わたしの部屋のドアを開けるとき、「ただいま」って言ったり、私が朝、先に出てゆくときに、「行ってきます」っていったり。そういうことも、それから、信次が入れたコーヒーを私が飲んだり、たまに私が夕食を作って、それがあんまりおいしくなかったり。そういうことも、きっとたしかなことなんだと思う。
 私は、信次の言うような、『必然』なんて大げさなことを考えたことはないけれど、でも、私は知っているから、それに答えることができる。それは、『在る』わ。どうしても、『在る』ものなのよ。どこにあるのかなんて、いつからあるかなんて、それから、いつまでもあるかなんて、そういうことは、私には答えようがないけれども、今ここにあって、それは『はじめ』からあるものには、違いないの。信次は、それを知らない風に振舞いたがるけれども、私には、そんなことをする必要はないの。私はただ、それが今も『在る』ってことを知っていて、それで十分。だから、それをいちいち確かめようなんて、思わないし、それを指差したりはできないし、する必要はないわ。信次が私を忘れているときにも、私は信次のことを考えていたりするし、私はそれで十分なの。そう、そのひとつだけでも、もう、十分だわ」
 いつか、庸子は、ぼくを見ていた。顔をあげて、ぼくを見ていた。ぼくは庸子の声を聞きながら、そういうようなことを思っていた。信じたら、きっと、いいだろう、というようなことも、頭をかすめていたように思う。ひとを好きになるのは、というようなことも、あったように思う。そして、庸子がぼくを見ているというのは、ひどく大切な事柄だと思った。ともすると、また、視界とぼくとが切り離されそうになりかけたが、ぼくはそれをすぐに打ち切った。庸子の声は、意味を有しているようでもあり、そうでないようにも聴こえた。それを聴くと同時に、そのときぼくの周囲を伝っている総ての音、自身の呼吸音すら、一しょに聴いているような気がした。
 しばらく、ぼくは何もこたえなかった。庸子の口が閉じられると同時に、ぼくの頭も、何も思っていなくなっていた。庸子の表情は、今までに見ないものだった。何も思っていないぼくは、けれども、庸子のその表情をとても好きだと感じてはいた。
 何のためか、ぼくは右手を庸子のほうへ差し出した。指先が、庸子の左腕の素肌に触れた。庸子の肌は、とくに温かいというわけではなかった。ただ、そこに体温があるということはわかった。ぼくはそのことに淡い興奮を覚えた。涙の衝動のようだった。
(2004.2.1)-3
今日は、おわり。これ以上は、危険である。
(2004.2.3)-1
ボルヘス、すごくいい。ぼくには、新しい。ぼくの知っている、小説によってできること、というのがまた広がったと思う。きっと、世界にはまだまだすごいものを書く人が、たくさんたくさんいるに違いない。
(2004.2.3)-2
あと二年くらいしたら、ダンテやゲーテ、トルストイ、バルザックなんかを読めるようになっていたらいいな。すばらしい成長だと思うな。そして、その合間に、もう一度チェホフを読むんだ。
(2004.2.4)-1
終日、"love in december"を聴いてすごす。一ばんいい、"don't you worry. i'll be there for you"
(2004.2.4)-2
そういやあ、新居昭乃氏の新しいアルバムは、そろそろ一年遅れである。ぼくのほうが、先にできてしまうかも知れない。Charaは、あと二週間。とても、待っている。
(2004.2.4)-3
透明でいる。
(2004.2.4)-4
「愛し…」言いかけ、咳きこむ。
(2004.2.4)-5
「ぼくは必要でないでしょう?」今度は、はっきりと言う。肯くのを待っている。
(2004.2.4)-6
そして深夜、ぼくはそのこと自体を書き、それから、そのことについて書くことをする。真冬に凍りつかない小川。あるいは、鏡に映る炎。
(2004.2.4)-7
ぼくは逆らうことを止め、そのままのかたちで在る。硝子の屈折率は、大気のそれとは、異なり、また、厚みを有している。ぼくは、「透明でいる」とつぶやき、それから、ゆっくりと食事を採る。これは、穀物の種子。これは、回遊魚の筋肉。これは、樹木の体液。ゆっくりと噛みしめる。
(2004.2.4)-8
口を動かしながら、自身が何を望んでいるのかということについて、何か思い出そうとする。「透明でいる」ものに、「自身が何を望んでいる」がついていることを見出す。硝子が一ばん透明なのは、それがはじめて完全に冷えたときだということを思う。
(2004.2.4)-9
記事の一文。「日本が米国から輸入している牛の大部分は生後30カ月以下」そして、ぼくは透明だと言い張る。たとえ一瞬であろうとも、確かに、「愛し…」という言葉を口にした。

(she lives by the water)

 彼女は水のそばに暮らしている
 ぼくの部屋からそんなに遠くないから
 ときどき出かけて行っては、ぼくは彼女に会う
 彼女は、ぼくのためにそこにいる
 ぼくはそれを知っていて

 彼女は強いおもいを持った人で
 彼女のスタンスも、ぼくは知っていて
 心が通じ合っているときには
 ぼくのなかの一部を占めていた

 簡単なのかな、それとも、難しいのかな
 あなたが変ってしまったときに
 「変だ」って
 眉をしかめて言うやつらに混ざらないでいるのは

 彼女は水のそばに暮らしている
 ぼくの部屋からそんなに遠くないから
 ときどき出かけて行っては、ぼくは彼女に会う
 彼女は、ぼくのためにそこにいる
 ぼくはそれを知っていて

 簡単なのかな、それとも、難しいのかな
 あなたが変ってしまったときに
 「変だ」って
 眉をしかめて言うやつらに混ざらないでいるのは

 妥協したり、諦めたり
 一度はじめたことを止めるのは
 彼らは「大ごとだ」って言う
 彼女は「困難なこと」って言う
Club 8

(2004.2.5)-1
英語の詞は、訳すことができるからいい。音楽に乗せる詞は、字面を追う詩とは、やっぱり少し違うところがある。音楽の詞を、字面の詞に落とすことは、韻や字数に制限を受けない代りに、音楽がそのリズムや曲調や声色によってやることの何割かを、字面のほうに載せ換えてやることをしなければならない。それは、一行の長さだったり、句の長さだったり、喋り方だったり、言葉づかいだったりするのだけれど。とにかく、言葉を何か加工することは必要なんだと思う。ぼくは別に詩人というわけではなくて、その方面のセンスも、どうやらほとんどないようなので、日本語の詞を加工する勇気や節操を持つことはできない。でも、英語なら、加工する際に縛られるものがずいぶん小さいから、敷居が低い(ような気になる)。だから、その反対の、日本人が英詞でやるというのも、最近は少し心地がわかるような気がする。そして、そうしてもらえれば、ぼくが訳すことができる可能性がある。Club8はスウェーデン人だけれども。
(2004.2.5)-2
ぼくは心地よくない音楽というのは、駄目な人間で。それから、音楽というのは、一般的に、心地よいもので。でも、文というのは、そうではないから。音楽は、その心地よさから逃れることはできないけれども、文は、そうでないものも書くことができる。音楽の詞を、文字に落とす作業に、わずかにでも意義があるとしたら、そういうところなんじゃないかなって思う。
(2004.2.5)-3
まともな文芸をやる人間が百にんいたら、百とおりの感じがきちんとでるのだから、そういうことは不可能なことじゃあない。そして、それをきちんとやるというのは、文芸をやる者の存在価値のひとつのはずだ。それが主目的なのか、副次的なものなのかは、今のぼくにはよくわからないのだけれど。
(2004.2.5)-4
もう、ずいぶんとぼくは、書くことのほかで、何かを言うことができなくなっているから、ぼくと会っていても、人はぜんぜん面白くない。ぼくは一秒の持ち時間で、自分の言うことを作る力がない。そして、言わなくてもよいようなことなら、口にしないほうがいいと思っていて、できるだけそれを実行しようとしている。
(2004.2.5)-5
ぼくの身体は、あってもなくてもいい。両手と目とがあればいい。脳から直接情報を吸いだせるようになったら、もう脳だけでいい。培養液に浸かっていれば、ものを食べなくてもいいらしい。ぼくが喜んでいたら、それが文でわかるようにしよう。ぼくが悲しんでいたら、それが文でわかるようにしよう。ぼくが怒っていたら、ぼくが笑っていたら。ぜんぶ、文でわかるようにしてあげよう。
(2004.2.5)-6
大江健三郎がグローバルリテラリーを目指していることについて。少し思ってみよう。まず、その資格を有している者自体が、あんまりいなくて、大抵の文屋はナショナリストにならざるを得ない。彼の書いている日本語は、日本語から出てゆこうとしているものであるらしくて、それだから、彼の創作活動には、ずいぶんと苦労があるらしい。知的な日本小説というのは、けっこう難しいらしい。ぼくも、根本的にいい加減な人間だから、そういうものを書くのは、まず無理なもののひとりなので、大江健三郎にはがんばってもらいたいと思う。日本語によって、日本語の枠を踏み越えようとする努力というのは、すばらしいものだ。それは、次世代以降の、日本語の革新の礎になるに違いない。
(2004.2.5)-7
ぼくの感覚器官は、ブラウザです。
(2004.2.6)-1
ときどき、さみしいという感情を思い出そうとする。ある感覚を忘れるのは、それからあまりにも離れてしまったか、あまりにも当たり前になってしまったかのいずれかだ。そしてまた、さみしくないという状態がどういうものだったか、思い出そうとする。ある状態にあるときの記憶が曖昧なのは、そうあることが、あまりにも自然なことで、記憶として固められ、残るようなものが何ひとつないためか、一度もそうであったことがないかのいずれかだ。
(2004.2.6)-2
ぼくは夢の中であなたに会ったり、ひとを殺したり、にわかな名声に有頂天になったり、放埓に歪んだ自分の顔を眺めたりする。自分が小説を書いている夢以外のなんでも、夢に見る。
(2004.2.6)-3
ぼくはまだ中途半端に若くて、そのためか、あるいは、単なる甘僧のためか、他己との関係、精神的肉体的交渉において満たされることへの期待を棄てきれない。だから、こんなようなことをよく考える。ぼくにはあげられるものなんて、何にもない。あるのは、がりがりに痩せ干乾びた不恰好な身体と、すくわれることを拒絶する自意識だけだ。ぼく自身がそれを持て余しがちだというのに、どうして他人にそれを慈しむことができるだろう。
(2004.2.6)-4
あなたを抱きしめているときも、抱きしめられているときも、そのことばかり考えている。あなたがやさしいぶんだけ、ぼくはみじめになる。
(2004.2.6)-5
いたわられるのはいやだ。
(2004.2.7)-1
髪を切る。髪を切るのは、きらいだ。今日は一時間以上も、でかい鏡の前で、自分を見つめさせられた。拷問だとしか、思えない。でも、久しぶりに、若い、ポップな空気を吸った。自分が既にそこには居ないということも、はっきりとわかった。話すことなど、ひとつもなかった。「眠く、なるでしょう」と苦笑された。思わず、「いつものこと」と答えた。言ってしまってから、そこには不快な意味があることに気づいた。でも、そうだ。たしかにぼくは、いつも眠い。カットは、もちろんうまくいかなかった。でも、今までで一ばんましなように思う。担当してくれた美容師は、たしかにうまかった。でも、ぼくの頭が不恰好なのは、髪の毛だけでどうなるわけでもない。気を遣ってくれて、とてもありがたかったけれども、ぼくはやはり髪を切りに行くのが大嫌いだ。
(2004.2.7)-2
もう、ぼくには、軽く受け流すという選択肢は無いんだ。だから、ぼくにいい加減なことは言わないで欲しい。からなずぼくは、それをまじめに受け止め、何か言おうとするに違いないから。あなたが放った軽口は、それでも、無数の発言のなかから、ひとつ、それを選び出したというだけの意味は帯びてしまうものだ。ぼくは、30秒は、それについて考えてしまう。発言の内容そのものよりも、なんのためにそれをぼくに対して言ったのかということと、そのために、なぜそれを選び出したのかということを、ぼくは考えてしまうんだ。軽口は、だめだ。まじめに答えてはいけないことがわかったとき、ぼくは何も言えなくなる。そして、無言の応答は、軽口の最も恐れる天敵だ。
(2004.2.7)-3
たしかに、それは狭いし、小さい。ぼくには潤滑油というものは、既に存在しない。すべてのぼくに向けられたものは、それが、ぼくに向けられたというだけで、ぼくには重大な意味を有している。ぼくは、それに対して、できるだけのことをし、そして、まさにそれが為に敗北する。
(2004.2.7)-4
「深刻を気どるな」という声。然り。ぼくには、すべてが深刻である。ぼくには、君の、深刻の重苦しさに堪えられない、という心持ちも知ってはいる。そんなところで、脚をとられたりするのは、我慢ならない、というのも、よくわかっているつもりだ。けれども、それを知っているがゆえに、ぼくは深刻にならざるを得ない。なぜ、人間のあらゆる発言には自分が乗ってしまうのか。また、君の物言いには、面倒なことを回避しようとするのは、人情として当然のことだという色彩を帯びるのだろうか。君の、実に納得できる発言からも、すでにいくかの根本的な疑問が提示されている。ぼくは聞き返したいのだが、それができたことは、かつて一度もない。面倒なことを回避してまで、なぜ生きながらえようとするのか。この問いに対する応答は、たとえそれがどんなものであるにせよ、無言であるにせよ、苦痛の表情のあとの、会話の打ち切りであるにせよ、ごまかし笑いであるにせよ、軽蔑であるにせよ、かなり多くのものを含んでいる。人ひとりの、いかなる行動にも、いかなる発言にも、その人の現在というものが含まれているのだという自覚。根拠はごく単純だ。その一瞬は、その生涯に一度きりしかない。無為な時間も、また一瞬なのである。ぼくは人よりも寿命が短いから、そういうようなことを思うし、あらゆる事柄に意味を持たせようとする。
(2004.2.7)-5
そして、そういうものが作るものもまた、狭く、小さいものにならざるを得ない、ということも、知っている。そして、この世に存在するすべてのものは、それを忠実に再現し、かつそれ自体は別個である何ものかによって、相対化されるべきだ、ということも知っている。文学は「あらゆるものを書く」というのは、そういうことだと思う。文学によって書けないものは、あってはならない。どんなものも、記述できなければならない。誤魔化すことはできない。文学が、言葉を造り出すのである。
(2004.2.9)-1
なんだか身体中がだるい。いや、だるい、というのもちょっと違うかしら。なんというか、「伸び」をしたくなるときの、あの感じが、ずうっと身体の中にある。それから、一日中、ずっと眠い。そのくせ、いざ眠ろうとすると、眠れない。老いて、来たのかしら。
(2004.2.9)-2
飲んで誤魔化す、ことにする。
(2004.2.11)-1
ぼくはそれに応えようとする。かつて、既に一度そうしたことがあるような気がしている。けれども、そうしたことがあるような気があるだけで、実際にどうしたのかを思い出すことができない。だから、ぼくははじめてのようにして、それに応えようとする。あるいは、まったくはじめてのこととして。
(2004.2.11)-2
何を応えるべきか。応えとして、何を言うべきかは、もう知っているが、どのように応えればいいのかを知らない。だが、まったく手がかりがないというわけではない。いくつかのなかから選び出すことをすればいい。そこまではきているような気はする。岐路を前に、それぞれの千里先までを見通そうとする。それは為されなければならないことのはずである。
(2004.2.11)-3
存在の確認と、存在の自信。あるいは、共犯、共闘。放たれた矢が命中するか否かは、その九割九分が、弦を離れる時点で判別できる事実を思い起こす必要がある。力学の汎用性は、世界を詰まらなくし、その後、無類の面白みを滲み出させる。
(2004.2.11)-4
機知を売りものにすることには、興味を感じない。思いついたことは、一度忘れてから使う。思い出しても、なお新鮮味が残っているものだけが信頼できる。すべての人間のなかで、最も信頼できないのはぼく自身であり、そして、ぼくは、ぼくの裡から来る言葉のみを信頼し得る。
(2004.2.11)-5
あなたのやさしさは、信じる。だが、それを受け取るぼくは、信じない。あるいは、それがぼくに向けられていることは、信じない。
(2004.2.11)-6
それは、あなたが盲目的だというのでもなく、ゲテモノ趣味だというのでもなく、ぼくがあなたを騙しているのだと思う。けれども、ぼくは、ぼく自身を信頼し得ないがために、それを確認できない。そして、まさに、ぼくは、ぼく自身のその点についてのみを信頼しており、それがゆえに、最も関心を寄せ、注意を払い、事実の裏を取ることをし、それを積み重ねた結果として、ぼくのある行為を部分的にのみ信頼する。ぼくは、疑問に応えようとする。"why was i born."それが疑問であることだけは、はっきりしている。
(2004.2.11)-7
かつて、ぼくはそれを被害妄想的に扱い、今は、それを過大に見積もることができなくなったがために、そうすることをしない。球速に劣る投手が、シンカーを習得しようとするのと同じようにして、ぼくはそれについて言及することを、恒常的に続ける。事情は、ただそれだけのことであり、ぼくの「仕事」と呼べそうなものは、実質それだけである。そういう風になるのは、簡単なことである。日本の作家の一人について、自分と全く異なったところが無い、ということを自覚してみる試みをすればよい。例えば、太宰治。例えば、川端康成。苦痛は根源的なものであり、死ぬことによってしか解決できない。それを認めるならば、その文学が、死以外への希望に満ち溢れていることも納得ができる。人類の進歩には、直接的関心は無い。ただ、それがより直接的に、ぼくの死を定義してくれるという点においてのみ、認識しうる。死以外への希望。そして、それ以上を言うことは残念なことには、今のぼくにはできないことである。
(2004.2.11)-8
行為が、死のみを目指しているのならば、それはごく単純なものになる。それなりの鋭さをもったものを、自身の喉笛にあてることか、それなりの重さをもったものを、自身の頭部に打ちあてることを思うのが、現在の日本では有用だと言える。ガスには、薬品には、付加的な価値が付きそうで、一定の注意が必要である。死に対する、事実以上の意味や価値には、注意が必要である。利用されることは拒まなければならない。殉教というのは、都合のいい信仰である。
(2004.2.11)-9
こうしてぼくは、返事を書くことに失敗する。ぼくは、ひとに都合のよいこと、すなわちそれを放った自身に都合のよいことに対して、ある抵抗を感ずる。親指を首筋にあて、喉笛を掻っ切る仕草をする。血液は、体温と同じ温度を有しており、そのときにはじめて、ぼくは生きることの観念的肯定以外のものを得る。ぼくは死んだほうがよく、そして、今まさに死につつあり、それがゆえに、今生きているということが証明される。
(2004.2.11)-10
子供は成長しない。子供は退化することによってのみ、大人になる。想像の翼を腐らせ、夢の海を泳ぎ回る浮力を失ってからが、現実世界への真の関心を呼び起こさせられるはじまりであり、現実世界では、太宰が言ったように、人は争うことによってのみ、すべての活動を、活動と呼ぶことができる。
(2004.2.11)-11
ぼくは、小説を書けず、このような短文を積み重ねる。短文は、小説の六掛けである。
(2004.2.11)-12
when you changed
they said you were strange

(2004.2.12)-1
翌日に読み返してみて、すでに判読に手間どる。さすがに、どーかなー、って思うよな。。。誤字も多いし。。。
(2004.2.12)-2
二週かけて、ようやくボルヘス「伝奇集」読了しそうである。明日、仕舞いの三本を読むのを前にして、写す候補として、四篇ほどあげておく。「八岐の園」より、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」「バベルの図書館」。「工匠集」より、「隠れた奇跡」、「ユダについての三つの解釈」。「八岐の園」は、「工匠集」に比して、多少軽めのロジック遊戯である。「工匠集」の全体には、或る種の重みがかけられている。前者と後者とのあいだには、三年を挿んでいる。現時点で未読の、最後の三本は、それよりさらに十余年の経過がある。「ボルヘスは旅に値する」これら四篇を写し取るのには、思ったよりも時間をかけるかも知れない。
(2004.2.12)-3
こんなこたあ、難しく言っても、言わなくても、まあ、どっちでもいいんだ。応える価値のあるものについては、それなりの手間をかけて、応えなくちゃあならなねえってえことさね。

(2004.2.12)-4
曰く
 生き残ったからだ掻いてゐる
 わかれてきてつくつくぼうし
 また見ることもない山が遠ざかる
 こほろぎに鳴かれてばかり
 れいろうとして水鳥はつるむ
 百舌鳥啼いて身の捨てどころなし
 どうしようもないわたしが歩いてゐる
 涸れきった川を渡る
 ぶらさがってゐる烏瓜は二つ
山頭火「草木塔」より

(2004.2.12)-5
あるいは
 見すぼらしい影とおもふに木の葉ふる
 逢ひたい、捨炭(ボタ)山が見えだした
 枝をさしのべている冬木
 物乞ふ家もなくなり山には雲
 あるひは乞ふことをやめ山を観ている
 笠も漏りだしたか
 霜夜の寝床がどこかにあらう
 安か安か寒か寒か雪雪
 うしろすがたのしぐれてゆくか
山頭火「草木塔」より

(2004.2.12)-6
簡単に脱ぎ捨て、簡単に身に纏う。感傷と追憶とを否定する者たちの投げる言葉。汝らの生は真に浮薄なり。一瞥にも値せぬ。
(2004.2.12)-7
口を閉じれば、海。波間を漂う藻類。
(2004.2.14)-1
頬杖して、ぼんやり考えている。「なんで、あのとき、何にも言わなかったのかなあ」そういうのとまったく同じようにして、ボルヘスの旅をぼちぼちはじめるとしよう。それは、かまえてかかる必要も、まして、こわがるひつようもない。ぼくなどは、旅下手の最たるものである。けれども、心配いらない。ボルヘスはそんなことを一顧だにしないのだから。安心して、迷えばいい。

(バベルの図書館)
これによって、あなたは二十三通の手紙の変化を考えることができるだろう……。
『憂鬱症の解剖』第二部第二節第四項
 (他の者たちは図書館と呼んでいるが)宇宙は、真ん中に大きな換気孔があり、きわめて低い手すりで囲まれた、不定数の、おそらく無限数の六角形の回廊で成り立っている。どの六角形からも、それこそ際限なく、上の階と下の階が眺められる。回廊の配置は変化がない。一辺につき長い本棚が五段で、計二十段。それらが二辺をのぞいたすべてを埋めている。その高さは各階のそれであり、図書館員の通常の背丈をわずかに超えている。棚のない辺のひとつが狭いホールに通じ、このホールは、最初の回廊にそっくりなべつの回廊や、すべての回廊に通じている。ホールの左と右にふたつの小部屋がある。ひとつは立って眠るため、もうひとつは排泄のためのものだ。その近くに螺旋階段があって、上と下のはるかかなたへと通じている。ホールに一枚の鏡がかかっていて、ものの姿を忠実に複写している。この鏡を見て人間たちは、よく、図書館は無限大ではないと推論する(実際にそうだとすれば、この幻の複写は、いったい何のためなのか?)。わたしはむしろ、その磨かれた表面こそは無限をかたどり、約束するものだと夢想したい……。光は、ランプという名前を持っている球形の果実から来る。各六角形に二個ずつ、横に並んでいる。それらが発する光は不充分だが消えることはない。
 図書館のすべての人間とおなじように、わたしも若いころよく旅行をした。おそらくカタログ類のカタログにある、一冊の本を求めて遍歴をした。この目が自分の書くものをほとんど判読できなくなったいま、わたしは、自分が生まれた六角形から数リーグ離れたところで、死に支度をととのえつつある。死ねば、手すりからわたしを投げてくれる慈悲ぶかい手にこと欠かないだろう。わたしの墓は測りがたい空間であるにちがいない。わたしの遺体はどこまでも沈んでゆき、無限の落下によって生じた風のなかで朽ち、消えてしまう。断言するが、図書館は無限である。観念論者たちは、六角形の部屋は絶対空間の、少なくとも空間についてのわれわれの直観の必然的形式である、と主張する。三角形もしくは五角形の部屋は考えられないという。(神秘主義者たちは、無我の境地に達すると円形の部屋が現れるが、そこには、四囲の壁をひとめぐりする切れ目のない背を持った、一冊の大きな本が置かれている、と主張する。しかし、彼らの証言は疑わしく、彼らのことばは曖昧である。その円環的な本はすなわち神なのだ。)さしあたり、古典的な格言をくり返せばたりる。図書館は、その厳密な中心が任意の六角形であり、その円周は到達の不可能な球体である。
 五つの書棚が六角の各壁に振りあてられ、書棚のひとつひとつにおなじ体裁の三十二冊の本がおさまっている。それぞれの本は四百十ページからなる。各ページは四十行、各行は約八十の黒い活字からなる。それぞれの本の背にも文字があるが、これらの文字は、以下のページのいわんとするところを指示も予告もしない。この脈絡のなさが、おそらく、人びとには神秘的に思えたのだと考えられる。解答----この発見は、それが投げる悲劇的な影にかかわりなく、物語の主要な出来事であるにちがいない----の要約に先だって、いくつかの公理を思いだしておきたい。
 第一に、図書館は永遠を超えて(アブ・アエテルノ)存在する。世界の未来の永遠性を直接的な帰結とするこの真理を、いかなる合理的な精神も疑うことはできない。不完全な司書である人間は、偶然もしくは悪意ある造物主の作品なのだろう。書棚、謎めいた書物、旅人たちのための疲れることのない階段、腰おろす司書のための便所などの、優雅な基本財産をそなえた宇宙は、ある神の造られたものでしかありえないだろう。聖なるものと人間的なものをへだてる距離を知るためには、わたしの誤りを犯しがちな手が本の表紙に書きちらす、これらの震える粗雑な記号と、本のなかの有機的な文字とを比較すればたりる。後者は正確で、繊細で、鮮やかな黒で、まねのできないほど均斉がとれている。
 第二に、正書法上の記号の数は二十五である
(一)三百年前のことだが、この確認は図書館についての一般的な理論の構築と、いかなる推測も解きえなかった問題----ほとんどすべての本の非定型かつ混沌とした性質----の解決を可能にした。わたしの父が一五九四号回路の六角形で見かけた一冊は、第一行から最後の行までしつこく反復されるMとCとVの三文字からなっていた。べつの一冊----この区画ではよく参照される本----は単なる文字の迷路なのだが、最後から二番目のページに、おお時間、汝のピラミッドよ、と書かれている。よく知られているとおりで、理屈に合った一行や、ひとつの正確な情報のかわりに、くだらない同音重複、ごった煮めいて支離滅裂なことばが長ながと続く。(わたしの知っている未開の地方だが、そこの司書たちは、書物のなかに意味を求めるという迷信めいた空しい習慣をきらい、夢や手のひらの雑然とした線に意味を求める習慣にそれをなぞらえている……。彼らは、文字の発明者たちが二十五個の自然のシンボルを模倣したことを認めながら、その使用は偶然のものであって、書物それ自体は何ごとも意味しない、と主張する。いずれ分かるが、この断定はまったく誤っているとはいえない。)
 長いあいだ、それらの不可解な書物は、過去の、遠い昔の言語で書かれていると信じられた。事実、非常に昔の人間たち、最初の司書たちは、現在われわれが話しているものとはかなりことなった言語を使用していた。事実、右方数マイルのところで用いられている言語は方言めいているし、九十階上では、ことばは通じない。くり返していうが、これはすべて真実である。しかし、変わることなく四百十ページ続くMCVは、方言的なものであれ標準的なものであれ、いかなる言語にも対応しない。ある者たちは、それぞれの文字が次の文字に影響を及ぼすことができ、七十一ページの三行目のMCVの価値は、べつのページのべつの位置にある、おなじ系が有するものと同一ではない、と示唆した。しかし、この曖昧な理論は成功しなかった。他の者たちは暗号法と考え、この推測は広く受け入れられた。初めてそう考えた者たちが与えた意味ではなかったが。
 五百年前、上のほうのひとつの六角形の監督者(二) が、他の本とおなじように判然としないが、しかしおなじ行がほとんど二ページ続いている一冊の本を見つけた。発見した本を巡回解読係に見せると、この男は、ポルトガル語で書かれているといった。他の連中は、イディッシュ語で書かれていると教えた。一世紀たたないうちにその言語が突き止められた。それは、古典アラビア語の語尾変化を有する、グアラニー語(1)のサモイエド=リトアニア方言であった。その内容もまた解読された。それは、無限に反復されるヴァリエーションの例示を付した、結合的分析の概要であった。これらの例示のおかげで、ある天才的な司書が図書館の基本的な法則を発見した。この思想家のいうには、いかに多種多様であっても、すべての本は行間、ピリオド、コンマ、アルファベットの二十五字という、おなじ要素からなっていた。また彼は、すべての旅行者が確認するに至ったある事実を指摘した。広大な図書館に、おなじ本は二冊ない。彼はこの反論の余地のない前提から、図書館は全体的なもので、その書棚は二十数個の記号のあらゆる可能な組み合わせ----その数はきわめて厖大であるが無限ではない----を、換言すれば、あらゆる言語で表現可能なもののいっさいをふくんでいると推論した。いっさいとは、未来の詳細な歴史、熾天使(してんし)らの自伝、図書館の信頼すべきカタログ、何千何万もの虚偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の証明、真実のカタログの虚偽性の証明、バシリデスのグノーシス派の福音書、この福音書の注解、この福音書の注解の注解、あなたの死の真実の記述、それぞれの本のあらゆる本のなかへの挿入、などである。
 図書館があらゆる本を所蔵していることが公表されたとき最初に生まれた感情は、途方もない歓びであった。すべての人間が手つかずの秘密の宝の持ち主になったような気がした。その有効な解決が六角形のひとつに存在しないような、個人的あるいは世界的な問題はなくなった。宇宙は根拠が与えられ、宇宙は突然、希望の無限の広がりを獲得した。そのころ、『弁明の書』というものが大いに話題となった。弁明と予言の書物がそれで、宇宙の人間の一人ひとりの行為を永久に弁護し、その未来のために驚くべき秘密を蔵しているものであった。何千という貪欲な人間が懐かしい生地の六角形を去り、おのれの「弁明」を見出すという空しい意図に狩り立てられて、階段を駆けあがった。これらの巡礼たちは狭い回廊で争い、どすぐろい呪詛のことばを吐き、神聖な階段でたがいの首を絞め、いかさまな本を穴の底に投げこみ、遠い地方の人間たちに放りだされて死んだ。他の連中は発狂した……。『弁明の書』は存在する(未来の人間たち、おそらく想像のものではない人間たちにかんする二冊を、わたしたちはこの目で見たのだ)。しかしそれを求める者たちは、一人の人間が自分の本を、あるいは、自分の本の偽物を発見する可能性はゼロであることを考えようとしなかった。
 当時はまだ、人類の根元的な神秘、つまり図書館と時間の起源の解明が期待された。これらの重大な神秘がことばで説明できることはたしかである。仮りに哲学者の言語が不充分であれば、多様な図書館が、必要とされる新しい言語と、その言語の語彙や文法を作りだしてみせるだろう。すでに四世紀前から、人間たちは六角形を駆けずりまわっている……。公的な捜索係、調査官がいる。わたしは彼らが任務を遂行しているところを見た。彼らはいつも疲れ切って戻ってくる。あやうく死にかけたという、段の欠けた階段のことを語る。司書のいる回廊や階段のことを語る。ある時は、手近の本を取りあげて、ページをめくり、汚らわしいことばを探す。明らかに、誰も何かを発見できるとは思っていない。
 当然のことだが、途方もない希望のあとに度のすぎた落胆が訪れた。ある六角形のある書棚に貴重な本がおさめられていながら、それらに近づくことができないという確実性が、ほとんど耐えがたいものに思えたのだ。ある涜神的な学派は、探索を中止して、すべての人間が文字と記号をまぜ合せ、考えられないような偶然の恩恵をえて、それらの正典をでっち上げることを提案した。当局者は厳しい命令を出さなければならなかった。学派は消滅したが、幼いころわたしは、老人たちが禁制の壺に金属製の円板を入れて、長いあいだ便所にひそみ、神聖な混沌のささやかなまねごとをやっているのを見かけた。
 他の連中たちは、反対に、何よりも重要なことは無用の作品を消滅させることだと信じた。彼らは六角形に侵入し、つねに偽造のものというわけではない信任状を呈示した。面倒くさそうに一冊に目をとおしただけで、すべての本棚の廃棄を命じた。彼らの衛生的かつ禁欲的な熱意のせいで、何百万冊もの本の意味のない消亡が生じた。彼らの名前は呪詛の的となった。しかし、彼らの乱心によって破壊された「宝物」を惜しむ者たちは、ふたつの顕著な事実を忘れている。ひとつは、図書館はあまりにも大きく、人間の手による縮小はすべて軽微なものであるということ。いまひとつは、それぞれの本が唯一の、かけがえのないものだが、しかし、(図書館が全体的なものであるので)千の数百倍もの不完全な複写が、一字あるいはひとつのコンマの相違しかない作品がつねに存在するということ。一般の意見とは対立するが、わたしはあえて、「浄化主義者ら」によって行われた破壊の結果は、これらの狂信の徒が引き起こした恐怖のために誇張されてきたと想像する。彼らは「真紅の六角形」の本----普通のものよりも小型で、全能で、挿絵入りで、魔力をそなえた本----を手に入れたいという欲に動かされていたのだ。
 われわれは当時のべつの迷信についても知っている。「書物の人」がそれである。ある六角形のある書棚に(と人間たちは考える)、他のすべての本の鍵であり完全な要約である、一冊の本が存在していなければならない。ある司書がそれを読みとおし、神に似た存在となった。この区画の言語のなかには、遠い昔のその役人にたいする讃仰の名ごりがいまだに見られる。多くの者が「彼」を求めて遍歴した。一世紀のあいだあちらこちらをさまよったが、結果は空しかった。「彼」を宿し崇拝される秘密の六角形を、いかにして突き止めるか?ある人間が逆行的な方法を提案した。本Aの所在を突き止めるため、あらかじめ、Aの位置を示す本Bにあたってみる。本Bの所在を突き止めるために、あらかじめ本Cにあたってみる。この調子で無限に続けるのだ……。その種の冒険のために、わたしも生涯を浪費してしまった。宇宙のある本棚に全体的な本が存在する(三)という話は、わたしには嘘だとは思えないのだ。わたしは未知の神々に向かって、すでに一人の人間に----仮りにただ一人であり、何千年の昔のことであってもよい!----それを調べさせ、それを読ませてくださっていることを祈りたい。名誉と知識と幸福がわたしのものではないのなら、そんなものは他人にくれてやろう。わたしの場所は地獄であってもよいから、天国を存在せしめよ。わたしは陵辱され滅ぼされようとかまわない。しかし一瞬によって、ある存在によって、「あなたの」広大な図書館の存在は正当化されなければならないのだ。
 不適な連中は、図書館では不合理こそがノーマルなものであって、合理性は(そして単なるささやかな一貫性でさえも)ほとんど奇跡的な例外である、と断言する。(わたしは知っているが)彼らは、「その多くの不安定な本が他の本に変わるという危険に絶えずさらされていて、錯乱した神のようにいっさいを肯定し、否定し、混同する、熱に浮かされた図書館」などといっている。これらのことばは、無秩序を告発するだけでなく例証しているものであり、彼らの悪趣味と絶望的な無知の明らかな証拠である。事実、図書館はあらゆる言語の構築物、二十五の文字によって可能なあらゆるヴァリエーションをふくんでいるが、しかし絶対的に不合理なものは何ひとつふくんでいない。よけいなことだが、わたしが監督している多数の六角形の最良の本は、『くしけずられた雷鳴』という題名であり、もう一冊は、『石膏のこむら返り』、さらにもう一冊は、『アクサクサクサス・ムレー』である。これらの表題は一見、支離滅裂に思われるが、暗号もしくは比喩による意味づけが可能であることは疑えない。この意味づけは言語的なもので、仮説によれば(ニクス・ヒポテシ)すでに図書館に存在している。わたしは、神聖な図書館が予想しなかった、また、その隠されたことばのひとつがおそるべき意味をふくんでいないような、たとえば、
dhcmrlchtdj
といった、文字を組み合わせることはできない。愛情と恐怖でみたされていないような音節を、その言語のひとつでは神の力ある名前にほかならなぬ音節を、発音することは誰にもできない。話すことは、すなわち類語反復に落ちいることである。この無用で饒舌な書簡もすでに、無数の六角形のひとつの五段の三十冊中に存在している----その反論もまた存在している。(n数の可能な言語がおなじ語彙を使用する。そのあるものでは、図書館という記号には六角形の回廊の偏在する恒久的なシステムという正確な定義があるが、しかしその図書館は、パン、あるいはピラミッド、あるいは他のいかなるものでもあり得るし、それを定義している七つの単語はべつの意味を持っている。あなたはわたしを読んでいるが、果たして、わたしの言語を理解しているという確信があるだろうか?)
 系統的な記述を心がけたせいで、現在の人間の状況から目がそれてしまった。いっさいがすでに書かれているという確信は、われわれを無に、あるいは幻に化してしまう。青年たちが本の前にひれ伏し、荒々しくページにくちづけをするが、その一字すら解読できない地方が多くあることを、わたしは知っている。疫病や宗教上の不和、必然的に山賊行為になりさがる巡歴などで人口は激減した。すでに自殺のことは述べたと思うが、これも年々ふえている。おそらく、老齢と不安で判断が狂っているかもしれないが、しかしわたしは、人類----唯一無二の人類----は絶滅寸前の状態にあり、図書館----明るい、孤独な、無限の、まったく不動の、貴重な本にあふれた、無用の、不壊(ふえ)の、そして秘密の図書館----だけが永久に残るのだと思う。
 わたしはいま無限のと書いた。ただ修辞上の癖でこの形容詞を加えたわけではない。世界は無限であると考えるのは非論理的ではない、といいたいのだ。世界は有限であると判断する者たちは、遠く離れた場所では、回廊や、階段や、六角形などが思いがけず消えている----これは不合理なことだ----と仮定する。世界には限界がないと想像する者たちは、本の可能な数はかぎられていることを忘れる。古くからのこの問題について、わたしはあえて以下の解答を提出したい。図書館は無限であり周期的である。どの方向でもよい、永遠の旅人がそこを横切ったとすると、彼は数世紀後に、おなじ書物がおなじ無秩序さでくり返し現れることを確認するだろう(くり返されれば、無秩序も秩序に、「秩序」そのものになるはずだ)。この粋な希望のおかげで、わたしの孤独も華やぐのである(四)
マル・デル・プラタ、一九四一年

(バベルの図書館)-原注
(一)元の草稿はアラビア数字や大文字をふくんでいない。句読点はコンマとピリオドに限定されている。このふたつの記号、行間、二十三個の文字が、無名の作者があげている二十五個の記号である(刊行者注)。
(二)以前は、三つの六角形ごとに一人の人間がいた。自殺と肺疾患でこの比率はくずれた。口ではいえない憂鬱な記憶がある。回廊や磨かれた階段を幾晩うろついても、一人の司書にも出くわさないことがしばしばあった。
(三)くり返していおう。本が存在するためには、その本が可能なものであれば充分なのだ。不可能なものだけが排除される。たとえば、いかなる本も同時に階段ではない。おそらく、その可能性を論じ、否定し、証明する本があり、構造が階段のそれに対応しているべつの本が存在するにちがいないが。
(四)レティア・アルバレス=デ=トレードは、広大な図書館が無用の長物であるといった。厳密には、普通の判型で、九ポイントもしくは十ポイントの活字で印刷され、無限に薄いページの無限数からなる「一巻の書物」で充分なはずである。(十七世紀の初めにカヴァリエリ(2)は、すべての固体は無限数の面の累積であるといった。)この絹の感触の便覧の扱いは楽ではないだろう。表面の一枚のページがおなじようなべつのページ分かれ、信じがたいことに、中心のページには裏がないはずである。
(バベルの図書館)-訳注
(1) グアラニー語 ---- アマゾン川の三角州で発生し、現在はパラグアイやアルゼンチン北部で話されているインディオの言語。
(2) カヴァリエリ ---- フランチェスコ・ボナヴェントゥーラ・カヴァリエリ。イタリアの数学者(一五九八-一六四七)。ガリレイの弟子で、その幾何学の業績は積分の発展に大いに貢献した。
(2004.2.14)-2
それが他の何ものでもなく、まさに「本」によって為されていることが重要なのである。
(2004.2.14)-3
(メモ)誤変換いくつか修正しました。
(2004.2.14)-4
それからぼくは、この佳作に、随分とまあ、見劣りのする、自分のものへ向かう。その際に頭をよぎるのは、やはり年齢と未熟についてであり、島尾敏雄の初期作品を読んでいても、それを思う。情熱と真摯と叮嚀さでは、足りない。それは、人の良い部分の幾つかではあるけれども、それゆえ本来の成果と取引されることの多いものでもある。批評の饒舌と、いわれのない侮りから隔絶した、この世で最もよい人工物たちは、必ず非人間的である。
(2004.2.14)-5
神に至れ。神にも至れ。
(2004.2.15)-1
起きてカーテンを開けたら、おっきな雲の影が昼下がりの街にかかっていたから。出掛ける。
(2004.2.15)-2
止まる。ぼくには、この先の行為が無いのだ。ぼくには無いのだ。
(2004.2.15)-3
どこを探しても、無いものは、無い。
(2004.2.15)-4
無いからこそ、書こうとする。何度も、書こうとする。それだけ。ぼくはそれだけ。
(2004.2.15)-5
それだけ。それだけ。
(2004.2.15)-6
神さま、神さま。書かせてください。どうか、書かせてください。書かせてくれるなら、他のものは、なんでもあげる。ほんとうに、なんでもあげる。他には、なんにもないのだけれど、それでも、なんでもあげる。


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