tell a graphic lie
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(2004.2.16)-1
ある意味、澄んでいる。何も書くことがない。昨日の晩は少し飲みすぎ、睡眠も多少不十分であったために、今週も、月曜から猛烈に眠いことを除けば、すこぶる健康である。書けぬので、いや、書くことがないので、かわりに、島尾敏雄の「単独旅行者」を半分ほど読んだ。久々に、この手の私小説を味わっている。ぼくはしみったれた人間であるので、こういった、しみったれた小説が好きらしい。読み方を知っているので、静かに読んでいる。感想と呼べるようなものは、特になし。面倒くさい。ほかには、「獄中記」半分くらい。「富士日記」下巻に入った。「ことばの食卓」真ん中あたりまで。「ゴッホの日記」やはり、下巻のまんなか。「赤糸で縫いとじられた物語」やっぱり、まんなかあたり。読みさしばかり。前後左右に散らばっておる。どうやらこれは、腐って膿んだところから滲み漏れる透明の液体が脳漿をひたひたしているためらしい。澄んではいるが、饐えた臭いがする。まったく、呆れてものも言えない。
(2004.2.16)-2
酒じゃあ、脳は溶けねえな。たとい、溶けているのだとしても、こんなんじゃあ、ねえのとおんなじだあな。クスリやったって、おんなじおんなじ。もっと、こう、派手によ、パーッと、いや違うな、ドローッとよ、クニャアッとよ、眺めてわかるくらいに、溶けるんじゃあねえとな。ほら、あれ、なんつーんだっけか。あの、からだ輪切りにするやつ。いや、ほんとに切るんじゃあなくて、まあ、ぶった切っちまってもいいんだが、病院にある機械だよ。レントゲン、じゃなくて。あ、そう、それ。CT。しーちーだ、しーちー。あれで、脳みそ切って見たときによ、医者が、あー、スカスカですねー、左手あごにあてて、感嘆するくらいによ。なに?感嘆?あー、感嘆ってのはな、感心して嘆ずるってことだ。嘆ずる。ヘエッーって言ったり、タメイキついたりすることだよ。うるせえな、俺だって、難しいことばのふたつ三つは知ってんのよ。こう見えてもな、読書家なのよ、読書家。漢字検定3級よ。なめちゃあいけねえ。読書?本を読むってことだよ。そんなこともわかんねえのかよ。漢字検定ってのはな、中学生んときに、とったんだよ。うるせえな。そんなら、おまえ、冒涜って書けるか?該当って書けるか?疾病って書けるか?おれは、書けんのよ。漢字検定3級だからな。書けねえだろう。じゃあ、黙ってろっての。感嘆は、感嘆なんだよ。いや、ジョークじゃねえよ。ふざけんなよ。てめえの脳みそ、まじでスカスカなんじゃねえのか。ヤクもやってねえくせに。うらやましいやつだな。あー、わかった。おまえ、牛の食いすぎだろう。毎日、ヨシギュウ食ってんだろ。BSE野郎が。牛海綿状脳症男。って、それ、いいな。あれって、脳が溶けるんだろう?悪く、ねえな。なあ、最高だろうな、脳が溶けだしてくってのはよー。生きててもいい気になれるんだろうな。
(2004.2.17)-1
そうだな。。。じゃあ、次は、わからないことや、肯けないようなことだけを書き送ってみましょうか。案外、それもいいかもしれない。すべて、語尾を疑問形にしてやろう。そうだな。それに一日つかうのは、たしかに、わるくない。
(2004.2.17)-2
書けないから、かわりに読むことをするのだが、もちろん、二三冊読んだくらいで、答えがわかるわけではない。いや、答えの書いていないということではなく、むしろ、答えは常に、どこにでも、あからさまに、書かれてある。問題は、常に、そこに書かれているものと、まったくおなじものを、それが書かれた過程とまったくおなじ流れで、再び、ぼく自身の手によって書かれるために必要ないくつか、あるいは、あらゆる事柄がぼくに、ただ、ぼくの上に不足しているというだけのことなのだ。これから先、ぼくが書くもので、他の手によってすでに書かれないものはない。すべて、焼きなおしに過ぎない。別に予言でもなんでもなく、これまでもそういったものはひとつもなかったように、これからもないというだけのことである。答えは、ほとんど全ての書かれたものの裡に常に存在しており、そのために、問題はある面において単純化されている。問題は、常に、ぼく自身に対してだけのものであるということだ。ぼくが書けないのは、ぼくにはそれを読み取り、理解する能力が不足しているか、まったく欠けているかしているためだ。
(2004.2.18)-1
 Chara "A Scenery Like Me" 期待がはずれた。もちろん、良いほうに、と言えたらいいのだが、そうではない。かといって、悪いほうというわけでも、ないのである。「横に、はずされた」とでも言おうか。まだ、うまく、言えないのである。
 今、わかっているのは、ただ、これを聴いていて、大好きな音楽に新しく接したときの、あの興奮というか、感興というか、そういった、ある種の気持ちの昂ぶりのようなものが、ないということである。それは、セルフトリビュートであるためかもしれないのだけれども、どうも、そればかりではない気がする。何かもっと別の、もっと基本的なところで、ちがう部分があるような気がする。それは、Charaの現在おかれている、音楽屋としての状態や姿勢に関わることで、たぶん、前の前のアルバムあたりから徐々に出てきた、「完全なオリジナリティ」(とりあえず、便宜的にここでは、それをそう呼んでみることにする)といったことに関連があるものであるはずだ。ただ、今回は、セルフトリビュートという反復によって、それが強く出てきた(少なくとも、ぼくが気づくほどに)に過ぎない。たしかに、曲はみなとても良い。やはり、現時点における、Charaのベストであろうと思う。また、好きでもある。そう言ってみて、べつに違和感はない。ただ、昂ぶらない。どうしても、昂ぶらない。それが、なんとも不思議な感じである。
 今日いちにち聴いてみての感想というのは、まあ、そんなようなところで、それでいま考えているのは、「音楽(あるいは、あらゆる創作の成果)は、いったい誰のもので、また、誰のためにあるものなのだろう」、というようなことだ。つまり、「その曲は、作り手のものなのか、それとも聴き手のものなのか」、ということで、そうして、ぼくは完全に聴き手の側なので、ぼくの立場から見れば、「いったい何のために(あるいは、もっと広範にとらえて、単に、なぜ、としてもいい)CDを買って、そうして、それを聴くのか」ということである。それは、一枚のCDの所有権と著作権という関係と似ているようでもある。もしかしたら、そういうことなのかもしれない。ぼくは、「それは共有されるものだ」という考えは、ほとんど採用しない。その考えは、単なる耳あたりのよい方便か、現象をマクロ的に俯瞰したというだけのことに思える。ぼくの言っているのは、もっと当事者の認識ないし、感覚、あるいは、「たましい」に関することで、たとえば、「あなたが同情や憐憫から(あるいは、もっとごく自然なことから)、ある人に対して親切にする」ようなときに、その親切は、いったい誰の、何のためのものか、というようなことである。今ぼくは、ひどくまじめである。ここ数ヶ月なかったことかもしれない。たぶん、ひどく面倒なところに、脚を突っこんでいる。それをもたらしたのは、Charaの"A Scenery Like Me"である。
 とっかかりとして、もう少し、「"A Scenery Like Me"、あるいは、それを聴いているぼく」というものについて書いてみることにする。そのために、一曲目、"Break These Chain"を扱うことにしよう。この曲は、Charaの曲のうちで、もっとも「(従来の意味での)好き」な曲である(詞は
ここを参照されたし。この詞はきっと、「従来の」という意味を捉えやすくしてくれる)。そして、オリジナルとリメイク、ふたつの"Break These Chain"の違いについて、何か書くことは、たぶん、とりもなおさず、このアルバムについて書くことになる。だから、"Break These Chain"が一曲目になっているのだ。まず、それをしてみよう。
 新しい"Break These Chain"も、ひどくいいのである。いいのだけれど、リメイクのよさは、オリジナルとは、かなり異なっていて、リメイクでは、オリジナルにあった何かが完全に、そして意識的に消されていることが、聴いてみてすぐにわかる。それは、手直しの入った詞のうえにも顕れている。リメイクでは、いくつかの重要な言葉が補われている。それによって消えるもの、言葉を補うことによって失われるもの。ぼくにとっては重要な事柄である。
(2004.2.18)-2
眠らなければならない。細部を追う続きは、明日以降(意思が持続すれば)。
(2004.2.19)-1
さ、つづけよう。とても眠いけれども、落ち着いている。少しずつ、沁みこんでくる。
(2004.2.19)-2
 まずは、詞の差分を採ってみよう。実際に比較してみなければ、何もはじまらない。

original remake

自分のしたことに 驚いて泣きたくなる
考えてる 余裕ないよ
だって、その声をもう一度聴けるなら・・・・・・

あたしのお願いを 聞いてくれるつもりなら
明日会えるでしょう?
怖い顔したりしないから もう、戻れないの?

あの人に嫌われる・・・無関心よりましね・・・・・・
男だから仕方ないこと・・・なんて、納得できるような大人になんて

あたしのお願いを聞いてくれるつもりなら
明日会えるでしょう? 怖い顔したりしないから・・・・・・

ねえ、あなたから、手をのばして
手を、・・・・・・あなたから・・・・・・

「もっとそばにおいで」って言って・・・
頭の中で言うのよ いいえ、嫌われてもいいのよ
泣かないで 誰も悪くない

ほんとのこと・・・・・・ほんとの気持ち

あたしのお願いを、聞いてくれるつもりなら
明日会えるでしょう?・・・怖い顔したりしないから・・・

ねえ・・・ねえ・・・ねえ・・・ねえ・・・あなたから・・・・・・手をのばして
・・・・・・手を、手をあなたから・・・・・・

いいの? はなれてもいいの?
会いたいでも・・・・・・手をはなす彼

自分のしたことに 驚いて泣きたくなる
考えてる 余裕ないよ
だって、その声をもう一度聴けるなら・・・・・・

あたしのお願いを 聞いてくれるつもりなら
明日会えるでしょう?
怖い顔したりしないから もう、戻れないの?

あの人に嫌われる・・・無関心よりましね・・・・・・
男だから仕方ないことなんて、納得できるような大人になんて

あたしのお願いを 聞いてくれるつもりなら
明日会えるでしょう? 怖い顔したりしないから・・・・・・

あなたから、手をのばして
手を、手を ください あなたから

「もっとそばにおいで」って言って・・・
頭の中で言うのよ いいえ、嫌われてもいいのよ
泣かないで 誰も悪くない

ほんとのこと・・・・・・ほんとの気持ち

行かないで
明日会えるでしょう?・・・怖い顔したりしないから・・・

あたしは失うの? あなたから手をのばして
手を 手を あなたから

あなたは虹を追いかけていってしまうの?
あたしにはもう追いかける力がないかも
手をつないで歩いていたいのに

わからない… 彼を私は失うの?
心が閉じてしまう前に あいたい あいたい
でも手をはなす彼 わからない


(下線部が"A Scenery Like Me"のリメイクで、変更された箇所である。言葉の構成は、リメイクのほうに合わせた。)

(2004.2.19)-3
 一見してわかるように、結びの部分が大幅に加筆修正されている。たしかに、文字に落とせば、そこに注意がむいてしまうのだが、そこは、曲のおしまいのつぶやきの部分で、実際に聴いていると、ほとんど気にならない。曲の印象を大きく変えているのは、そこではなく、「ください」「行かないで」という、ふたつの言葉である。少し注意してみればわかるが、オリジナルには、このような明確な「あたし」の意思を示す言葉は存在していなかった。
 そのほかの変更部分、すなわち、結びの部分については、「いいの? はなれてもいいの?」の部分の補完だといってよいかと思う。相手への問いかけの言葉だけだったものから、自身の状態を客体化し眺めることによって、「わからない」という言葉を引き出している。
 オリジナルの"Break These Chain"は、徹底した主観による詞である。そして、主観というのは、時間的な幅を持たない。冒頭の「自分のしたことに 驚いて泣きたくなる 考えてる 余裕ないよ」という言葉のとおりの、精神に余裕のまったくない状態そのままが、詞として飛び出してきている。オリジナルの主人公に、このとき見えていたものは、おそらくその日に自分がしたのであろう、何かとてもおそろしい出来事と、絶望的なごく近い未来の逼迫した予感とだけである。そこにあるのは、それらに、がんじがらめに縛られ、身動きの取れなくなった一種の錯乱状態であり、狼狽である。そして、"Break These Chain"のよさは、まさにその点にこそあった。ふたりを結びつける鎖は、もう既にちぎれてしまったのであり、それはどうあっても、もとには戻らないのである。それを知り、「ねえ・・・ねえ・・・ねえ・・・ねえ・・・」と、声を詰まらせくり返す子に、あらたまって事情を問いただすものはいない。そして、相手の男すら、この詞は問題にしていない。叫ばずにはいられないとき、相手は必要でない。
 オリジナルは、そのような、ごく単純かつ瞬間的な感情のみを扱ったものであった。リメイクでは、その詞の性質自体に対する変更が為されているのである。「ください」「行かないで」という意思を補うことによって、詞は「叫び」ではなく、「対話」や「願い」に変わっている。Charaがオリジナルの"Break These Chain"は「叫び」であり、それこそがこの曲の魅力であることを認識していなかったことはありえない。"Break These Chain"は、現在の彼女のライブにあっても、アンコール用の曲であるようだし、ライブ盤を聴いても、それは実にはっきりしている。この変更には、Charaの明確な意思が働いているのである。問題は、今回のリメイクにあたって、なぜ、そのような変更をしたのだろうということである。なぜ、リメイクの対象のひとつとして、"Break These Chain"を選び、なぜこのような形にし、なぜ、それを一曲目に持ってきたのか。それは、なぜ、初期作品のリメイクをすることにしたのか、というはじめの部分にも関わってくる。"Break These Chain"が、彼女のベストの曲のひとつのなのでやることにしたが、十年以上もたって、いまだに「叫び」であるわけにもいかない、という説明は、どうあっても十分ではない。

(2004.2.21)-1
いち日あいた。すっかり、失敗した気分になっていたのである。ぼくは、分析や詮索じみたことには、ほとんど生理的な嫌悪を感ずる。それはたぶん、どうしても必要なことではあるのだろう、と思ってはじめるのだが、やっているうちに、どうしても、自分がハイエナであるような、墓所荒しであるような気分になってきて、ただもう、ぶち壊しているだけのような気がして、たえられなくなるのである。この「ぶち壊し」は、もちろん、あの「創造的破壊」と呼ばれるような、未来への可能性を有したものではなく、対象をただ、「下らなくする」というだけのもので、これはまったく救いがたい。そして、そのようなものしか書けないにも関わらず、書くことをしなければならないというのが、現在のぼくであり、それだから、今度も続けることにする。
(2004.2.21)-2
 しかし、リメイクによって、三十五のCharaが、十年以上前の自身をいたわり、ねぎらい、慈しむことをしているというのは、実際かなりしっくりと来る。"Break These Chain"の詞の補足と、リアレンジの主眼は、たしかにそこにあるだろうと思う。オリジナルの盲目的な「叫び」を、「対話」や「願い」に変えるというのは、言いよどんでいる子供の気持ちを、隣の大人がさりげなく補ってあげるようなもので、一種の飜訳だといえる。そしてまた、Charaの曲たちの内で"Break These Chain"が、もっともそういうものを必要としている曲であった。この曲を作り直すことによって、十数年前のある一瞬の、そのままの状態で固まってしまっている、自身の「叫び」を溶かし、癒し、赦す必要があったというのは、もっともなように聞こえる。彼女の現在には、その能力と資格とがある。それは新しい"Break These Chain"を聴けば、すぐに確認できることだ。そこには、以前の「叫び」がもたらす昂揚のかわりに、静かな確信と、現在の安定した愛情がある。失恋は、懐かしい思い出に変わり、物語のようになる。
 それは確かに、"A Scenery Like Me"を作る、第一の意味だったのだろう。リメイクに選ばれた曲たちは、みな、どこかうまくいかないことや、そのもどかしさを取り扱っている。今ここでは、それぞれの出だしだけを並べてみることにしよう。どうも、それだけで、十分のようなのである。

"あれはね" 小さな町へ どこでもいいわ あなたといっしょならね
楽しいことがあるたびにいつも----「あなたがいればよかった……」

"罪深く愛してよ" ひまわりあなたはなぜそんなに
そんなにいつも僕をうっとさせてくれるの
でも、まだまだまだまだ 欲しいよ
その言葉で体が宙に浮いてこまるの

"PRIVATE BEACH" あたしから逃げていかないで
黙って許せない時もある
誰かが泣いてるみたい
雨に形をかえて
すごい傘じゃ足りないくらい
ものすごい嵐
ママがなぐさめてくれても余計につのるよ
湖になる

"No Promise" どこまでも 遠くなっていくばかりで……
離れないで
離れないで

"time after time" 言葉じゃ言えないでしょ それでもしゃべり出すよ
それはもう たくさんの
涙と溜息
大切な物に涙をできる心 暖かい

"Happy Toy" 泣いたりしてよ 何度でも
好きなだけ抱いてよ To Be Happy Toy

"うそつくのに慣れないで" わからないこと知りたいでしょ?
でも、みんな臆病です

うそつくのに慣れないで


 詞だけを読めば、随分と辛気くさい曲ばかりに見えるかもしれないが、実際には、暗い、じめじめした印象はない。これらの曲にも、"Break These Chain"とおなじように、曲自体とそれを作ったそれぞれの時点のChara自身に対する、静かな肯定といたわりに満ちている。「いい子。よく、がんばったね。誉めて、あげようね。」という声がある。その声は、たしかに、リメイクされたこれらの曲を聴くぼくの耳にも届いている。それによって、ぼくも「懐古」のようなものをしているような気分になる。自身には、「懐古」するだけの価値のあるものなど、何ひとつないというのに。

(2004.2.21)-3
 そして、ぼくは「何のために」と思うのである。「誰のものなのだろう」と思うのである。もう一日ほど、かかるようである。
(2004.2.22)-1
たいへんに、無残の出来のようである。渋面である。書き手が、何もわからぬ状態で書き進め、結果、収拾つかなくなっているのが、一読してわかる。足取りがよろよろしている、どころか、あっちへ飛び、こっちへ転び、転んでは起き上がって、何食わぬ顔して進めようとしているようだが、からだに付いた土ぼこりを払いきれていない。失望されていることと思う。けれども、実際はまあ、こんなものである。失敗というのは、いつになっても、いくらでもできるものだ。これが、期限のついた、提出物か何かであったならば、泣く泣く、はじめからもう一度書き直さねばならないところであるが、さいわいにして、まったくの自主的なことであるので、この失敗はそのままうち捨てられる。わかっていることを書く批評ほど、苦痛なものはない。批評文は、わからないからこそ書かれるのである。いつぞや、小林英雄が、何を書くのかわかっていて書きはじめることなど一度もない、と誇っていたようであるが、何のことはない、そうでもなければ、こんな卑しい作業は、十行と続けることができないのだから、当たり前のことなのだ。
(2004.2.22)-2
まあ、出来はひどいものであれ、Charaの最新のセルフトリビュートアルバム"A Scenery Like Me"評を、数日間にわたって書く試みをすることによって、このアルバムが、ある種の供養や赦しのようなものだということがわかった。リメイクをするということは、"A Scenery Like Me"を作るということは、そこで取りあげられている曲たちを、もう一度再構成し、それぞれの曲の性質を変えてやることによって、そこに込められ、込められたがゆえに、固定し、具現し、剥製になってしまっていた、十数年前、オリジナル作成時のCharaと、曲自体とを救い上げてあげる作業なのであった。…そう、ほんの二三行で書けてしまうことだったのである。ぼくに書きうるのは、本来、この二三行以上ではあり得ないのである。数日ふんばってみて、ようやくそれが実際に確認できた。だから、さあ、話をぼく自身へ戻そう。そうだよ、まだ、続けるんだ。だって、ここからが本題なんだ。
(2004.2.22)-3
では、それを聴くぼくは一体何なのか。音楽は、いや、作品は、いったい誰のために、何のためにあるのか。
(2004.2.22)-4
もちろん、この実に難しく大きな問題に対して、今日のうちに、はっきりとした答えを出せると思っているほど、さすがに愚かにはなれない。ただ、"A Scenery Like Me"が、ぼくにそれを持って来たのだから、それをひとつの機会として、扱ってみるというのである。けっこう、大真面目なのである。扱うための形式は、ほんとうは、小説がいい。いや、小説によってのみ、為されるべきなのだ。ボルヘスなどを参考書にして、それを自身によっても為そうとするのは、ぼく自身のためには非常に有益だ。けれども、それをするには、ぼくはあまりにも微弱な力しか有しておらず、、、ああ、的確な比喩すら見当たらない、など嘆いているというのが、現実である。それならば、いくつか、言葉を引いて、並べてみるなどすれば、多少見ばえがするものなのだろうけれども、さしあたって、それもする気にはなれない。過程をどんな風にも端折ることはできないのである。引用は、問いに対して、ただ直接的に応えているものだけにすべきである。逆にいえば、直接の応えを発見できるまで、問題を細かく切り出すことをすべきなのである。はじめの問いは、もう既に"A Scenery Like Me"によって与えられた。ならば、その応えにつながる次の問いは、おそらく自身で探さねばならないはずである。なぜなら、外の事物同士が、ぼくを通さない、有機的繋がりを有していたとしても、それは、ぼくには用をなさないからだ。その関連は、ぼくがつくるしかない。端折ることはできない。
(2004.2.22)-5
そして、実作業は、一行すら生まなかった。ぼくは頭を抱え、グレープジュースを飲み、ガムを噛み、"Break These Chain"を聴き、煙草が吸いたいと思い、煙草を吸い、いらいらし、いがいがし、あきらめて、服を脱ぎすて入浴し、、、
(2004.2.23)-1
今週も、月曜から眠い眠い。
(2004.2.23)-2
それからさいきん、仕事中に眼が充血して痛い痛い。
(2004.2.23)-3
"A Scenery Like Me"は、ソニーからの発売で、こぴーこんとろーる。iPodに入れれない。どうなっとるんじゃ!ええ!?ワレ、そんなんでええとおもっとるんか!!ええ!?ワレ!!
(2004.2.23)-4
カイワレ    すいません
(2004.2.23)-5
*せきばらい*
(2004.2.23)-6
ぼくにはそれが、とてもとても不思議なのです。「せめて心配していたい」そのお祈りは、自分にとって、何なんでしょうね。不思議だな。何が出ていって、何がやって来るんでしょう。わかんないな。ぼくには、わからないことだ。
(2004.2.23)-7
たぶん、ちょっと捨てすぎたんでしょうね。いつか、完全に一人で暮らしてゆくことは不可能だけれども、完全な無関心のうちに暮らすことは容易い、というようなことを、ここに書いた記憶があります。こころというのは、本当に、いくらでも硬くなります。細胞も固まって結石になることがあるようにね。ぼくには、他人と関係する理由がないんですよ。利益も欲求も、そこにはない。
(2004.2.23)-8
こういう風になってしまうと、たぶん、これは意識して言うようにしなければならないのだと思います。「ぼくは独りで、それがぼくの日常だ。さあ、どうする?」完全に一人で暮らしてゆくことはできない、という事実に希望をかけてみることをしなければなりません。そして、「さあ、どうしよう」と考えることをやめてはならないのだと思います。それをやめてしまったら、それはもう、「死んだも同然」で、そうなったら、「なぜ、実際に死なないのか」という、もっと厄介な問題に応えることをしなければならないのです。死んだも同然で、それでもなお呼吸をし続けるというのは、かなりのエネルギーが必要です。誘惑に勝ち続け、かつ同時に、負け続けるのです。あそこには、そういういやな矛盾があります。決して無感覚の世界ではなくて、むしろ、その反対の、かなりヘビィな内攻があります。それに較べたら、「ぼくは独りで、それがぼくの日常だ。さあ、どうする?」というのは、実に安楽なものであります。ですから、ぼくは日常という言葉まで使って、それを考えることをしなければならないのです。
(2004.2.23)-9
おんなじことをいったものは、他にもいろいろあって、「あなたがよろこぶとわたしはうれしい」というキャッチフレーズとか、、、ああ、これはいいキャッチですね。ぼくはこれに「そう?」と応えるわけで。もう、お話にならない。ディスコミュニケイション。仕方がないから、ぼくはこれについて思うことをするわけです。「なんでなのかな。とてもとても不思議だな」
(2004.2.23)-10
話はぜんぜんかわりますけど、あひるって、首ふって歩くんでしたっけ?
(2004.2.23)-11
理屈の世界。静かな呼吸と、ニヒルな笑い。「ぼくにはわからない」いい気なもんだ。
(2004.2.23)-12
でも、外へ出たって、死ぬ場所を探すより他にすることなんてないですよ。わかります?ここが、一ばんマシなんですよ。
(2004.2.25)-1
眠い。あんまり気になっていなかったのだけれど、記憶をたどってみれば、ここ二週ほど、微妙に不眠だったようで、そのつけが、どうやらまわってきているらしい。昼間はだいじょうぶだけれども、夜ねむい。それから、本を読むのにも食傷気味。島尾敏雄はおやすみ。ボルヘスを一にちにひとつずつくらい。なんにもしないで、ボーっとCharaを聴いていると、楽しい。
(2004.2.25)-2
代謝機能。あるいは、単なる春眠。春こそ眠れ。
(2004.2.26)-1
そろそろ書けるのかな。明日からまたやってみよう。いや、やろうとしてみよう。
(2004.2.26)-2
島尾敏雄は六つか七つ読み終えて、ようやく一巻の半分くらいまで来ました。とてもよいです。なかでも、南島の日々を取り扱ったものは、やはり非常に興味深いです。それらは、おなじ場所、おなじような期間を扱ったものでありながら、それぞれが、他から一種の独立をしていて、まったく異なった断面を映し出します。単一のソースから作品の数だけの色彩が取り出されていて、なんというか、白色光を分解するプリズムのようなものでしょうか。それは多面的ではありますが、多層的でも、立体的でもありません。それぞれの作品は、一点でのみ他と交わり、その交点は理想的なもので、つまりその幅は限りなくゼロに近い。たしか、川端康成についても、ぼくはプリズムという単語を使ったように思いますが、島尾敏雄に対して用いるほうが、より適当のように思えます。島尾敏雄がプリズムによって分解された光だとするならば、川端康成は鏡の反射によって壁に浮かびあがった白い四角形だといえます。どちらも、質量も温度も三次元における存在の占有領域も持たない自然光で、それは真の純文学であることを示唆しています。活字、それ自体には意味も価値もありません。それが読まれ、意識に変換されてはじめて意味が生まれるのです。保坂和志のいうところの、小説はそれを読んでいる、まさにそのときにのみ存在する、というやつです。理想的な面というのは、三次元空間上に記述されながらも、奥行きを持たないために存在はしていない、というものなのだと思います。この面というのは、おそらく観念と言い換えても構わないものです。そして、それを成立させているのは、細部への徹底的な執着と、作品の実質における、それの完全な無価値です。理想的なものというのは、常にパラドックスを内包しているもので、純文学もまた然りです。そして、この「理想的」というのは、即「すべて」を意味します。そのあたりは、理論物理学とおなじです。それが、式一本で世界の一つの次元を完全に記述しようとするように、純文学も、それのみによって世界のあらゆる事柄を記述しようとします。それはやはり、あの美しい言葉、「簡単のため」にそうするのです。島尾敏雄の書くものが、表面上は単一の事柄の反復であっても、それが純文学であるかぎりは、たしかに世界の一次元を記述していることになるのです。それが、こじつけでも、方便でもなくて、文学の実体なのです。
(2004.2.27)-1
i imagine,,, i think only about loneliness and belief. because i am to be in loneliness. i am not to be in belief. sometimes i think i am not human being. i am not worth to live. i think i must not exist, but actually exist. i think i have to kill myself soon. kill me immediate. i think... i think...
(2004.2.27)-2
ぼくはなぜ、話すことを止めないのかな。
(2004.2.28)-1
もうひと月にもなってしまうので、そろそろ書かなければならないのだが、かといって、ひと月経ったくらいでは、無いものが在るようになりはしないので、当然のことなのだが、キーボードの前で呆然としている。それどころか、ひと月も経ってしまっているのだから、続きを書くには、少なくとも直前の部分くらいは、やはり読まなければならないのだが、たいへんに情けない話なのだが、その読み返すことすらできないでいるのである。読もうとすると、あの、たいへんにいやな気持ちが、胸の、両方の肺のあたりに滲んできて、重たく溜まり、そわそわ落ち着かなくなって、とても読むどころではなくなってしまうのである。なんだか知らないけれども、ブラウザのウィンドウいっぱいに並んだ文字たちによってできた文には、ぼくのことが書かれてあるのである。たまらないのである。一文読んだだけで「これあ、いけねえ」という気分になるのである。両肘をついて、髪の毛をぐしゃぐしゃしてみたり、別に寒くもないのだが、口を手のひらで囲って、なかに息を吐いてみたり、左右をきょろきょろと見廻してみたり、太腿をさすってみたり、とにかく、だめなのである。あまりにだめなので、ここふた月ばかりのまとめ買いのせいで、五十冊以上にもなってしまい、雑然と積み上げられていた未読の本たちを、机の棚を空けて、一列に並べてみたり、ついには、ヤフーのオークションにて、松下のCDプレイヤーを衝動買いしてしまったりしたのである。そうして、一字も書けぬどころか、一頁も読み返すこともできないまま、毎度のことながら、飲酒に及ぶに至り、こんなどうしようもない駄文を書いて誤魔化しているのである。
(2004.2.28)-2
何を書けばいいのかは、はじめからわかっている。ただ、それを書くために必要な何かが、どうしても欠けている。そして、その欠けているものというのは、欠けているのだからこそ書くのだ、というところのそのものであるというのも、たぶん当たっている。けれどもそれでは、ずっと何にも書けないことになってしまうので、何らかの迂回路を模索することを、どうしてもしなければならない。そして、その迂回路というのは、おそらく、それについて考えるということのほかには、少なくともぼくには、在り得ないように思われるというのも認識している。けれども、この、それについて考えるというのも、そんなに易しいものではないらしい。それについて考える、ことの前には、必ず、それについて知覚する、認識するという過程が存在せざるを得ず、この場合の、それ、というのは、つまり、欠落のことを指しているのだから、結局のところ、少なくとも、欠落を見つめることをするというのが、すべての前提になるのである。それは例えば、陽の光を浴びることのない、不健康な日々を送っているためと、加齢による衰えのために、張りを失い、病的に細く、みすぼらしいまでに水気を無くし、象の肌のようになっている、自身の腕を他人に晒すのを想ってもらえればよいかと思う。ぼくは、自身の体を人目に晒すことを恥じ、自身を限定し、その酷い自身の腕にそっと接吻する。とても哀しい気分にさせられる。生きていることがいやになるというよりも、まだ生きていることをとても不思議なことのように思う。ぼくの肌に接吻するのは、ただ自分だけであり、あともさきもなく、それがぼくの現状なのである。
(2004.2.29)-1
あー、そうだ。しり振って歩くんだあ。どっか振って歩くのはわかってたんだけど、首じゃあねえやなあ、おかしいなあ、どこかなあ。など、物忘れのツボにはまっておりました。いや、スッキリ。しかし、あひるの「あひる」って名前は、どうしようもなく似合ってるねえ。誰がつけたんだか知らないけど、たいしたもんだねえ。
(2004.2.29)-2
 何のためか、ぼくは右手を庸子のほうへ差し出した。指先が、庸子の左腕の素肌に触れた。庸子の肌は、とくに温かいというわけではなかった。ただ、そこに体温があるということはわかった。ぼくはそのことに淡い興奮を覚えた。涙の衝動のようだった。ぼくは習慣としてそれを堪えようとし、視線をおとして脣に力をこめた。目頭がかなり熱を持つようになっており、「目頭が熱い」とこだまするようにして、それを意識した。庸子はまったく動かなかった。ぼくの手を払いのけもせず、握りかえしもしなかった。そうしている庸子がどのような表情をし、何を思い、何を感じていたのか、ぼくは知らない。ぼくもまた動かず、ただ落ち着くのを待った。それはかなり長くかかった。
 心拍が平常に戻ったことを確認したぼくは顔をあげ、一度瞬きをした。左眼は無事だったけれども、右眼からは溜まっていた涙があふれて、こけた頬を伝った。手のひらで拭ってみると、その先に庸子の固い表情があった。ぼくは何か、後悔に似たような、あのいつもの感覚を持った。それは取り繕おうとする欲求を起こさせた。ぼくは口を開きかけたのだけれども、言えることは何も無かった。それで、また口をつぐんで、言葉を探した。そのときのぼくに言えることならなんでもいいと思った。頬の涙が徐々に乾いていくのが、とてもはっきりと意識されていた。もしかすると、また泣き出しそうな表情になっていたかもしれない。わからない。結局のところ、ぼくには言えることなど、何ひとつ無いのだった。ぼくは自身のあいかわらずの失語症にかなりの憤りを感じながら手を床につき、「どうしてなんだろう」とうわずった声を出した。庸子は表情を動かさなかった。ただまっすぐに、ぼくのことを見ていた。
(2004.2.29)-3
今年も二箇月了。冬もおしまい。河川敷の桜には新芽がぷつぷつ附いていた。。書きものの進みの遅さは、相変わらず、どころか、更にひどくなった。はやく書き終えて、もう少し、詩でも句でも小噺でも、なんでものびのびと書きたいものだ。でも、この分だと、四月とか五月とか、また、半年以上になってしまいそうである。


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