tell a graphic lie
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(2004.3.17)-1
今週はフルパワーだ。たぶん、来週もそうだ。でも、そんなに、とくべつにつらい、ということはない。部屋に戻れば、食事をし、入浴をし、時折うふふとやりながら、飲酒のうえ、太宰の下品な文章をだらだらと読み散らし、そのまま寝入るだけのことで、ここを書くことや続きを書くことは、端から諦めている。だから、普段の負担とあまり変わりない。何にも書かなくてもいい、というのはとても気楽なことだ。一日が長くなったような感じがする。
(2004.3.17)-2
ボルヘスの工匠集のなかに、「隠れた奇跡」というのがあり、そのなかにこういう一節がある。
(2004.3.17)-3
 フラディークはすでに四十を過ぎていた。わずかな友人や多くの習慣をのぞけば、おぼつかない筆のすさびが彼の生活そのものだった。あらゆる作家とおなじように、他の作家たちの価値をその実作によって評価しながら、自分はその予感と構想によって評価されることを、この者たちに要求した。すでに上梓したあらゆる本が複雑な後悔の念を彼に抱かせた。ベーメやイブン・エズラやフラッドの作品の研究も本質的には応用的な作物だった。『セファー・イエジラー』の彼の飜訳は不注意と疲労と推測のそれだった。云々
(2004.3.20)-1
 日誌に数行書き込んでから社の入っているビルを出ると日はきちんと暮れてしまっていた。そして、その日、三軒茶屋から部屋まで歩く途中で轢かれた猫を見た。ぼくは部屋には戻らず、庸子にあいに行った。

(2004.3.20)-2
 猫は、轢かれてもしばらく放置される、というようなことをぼくは思っていたはずだった。けれども、そのことを話すために庸子のところへ行ったとは言いきれない。何か話したいという欲求、あるいは衝動のようなものが生じたから、そうしたには違いないけれども、その日、庸子と話したのはそのことではなく、ぜんぜん別のことだった。
 庸子のマンションがある私道の角を曲がると、すぐに部屋のドアが見える。部屋は灯りがついておらず、庸子はまだ戻っていないようだった。鍵を持っているから、居なくても入れるのだけれども、ぼくは引き返して近くの公園へ行った。公園には、前の通りに背を向けて座るベンチがいくつかあり、ぼくはそのひとつに腰を下ろした。ベンチは木材でできており、その硬さと冷たさとが何かしばらく忘れていたもののように思われた。ぼくはうつむいて、右手でその表面を撫でた。そちら側は、ぼくの体によって公園の照明が遮られていたので、ぼくは左手で、反対側の照らされている方も撫でた。塗装されていないベンチは、からからに乾いていて、その上に塵や砂の薄い層が積もっているのがわかった。塵のついた人差し指と親指をあわせて円をえがくように動かすと粒子の感触があった。そのまま少しのあいだ、公園の街灯の青白い光に照らしてぼくの手のひらを眺めた。握ったり開いたりもした。それは全く熱の無いものに見えたけれども、ぼくの意思によってたしかに動くものだったし、周囲のものも照明によってやはり青白く見えていたので、そのことがぼくに何か後退的な印象を与えたわけではなかった。公園は五階建て以上のマンションに囲まれており、公園の存在は穴に似ていた。ぼくはそれに気づいた。それから、庸子はいつ戻るだろうと思った。周囲のマンションは、半分ほどの部屋の明かりが点いていた。公園にいるのは、ぼくだけだった。
 庸子は、そうしてベンチに座っていたぼくには気づかなかった。ぼくは多少の肌寒さを感じながら、そこで三十分ほどを退屈して過ごした。部屋に行ってみると、灯りがついていた。待っていたというようなことを靴を脱ぎながら言うと、庸子はそう応えた。部屋に上がるとなんだか安心した。そしてまず、二つのマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れることをした。庸子はベッドに胡坐をかいて待っていた。ぼくは湯をそそぎ、水切りにあったスプーンで一度ずつ混ぜ、それをシンクに投げた。片方のマグカップをすすりながら、もう片方を庸子に渡した。受け取った庸子はひと口含んで、熱いと口を開いた。ぼくはベッドと反対側の壁に背中をつけて床に座った。
(2004.3.21)-1
久々に休日出勤。昨日はうまくシフトチェンジできたけれど、今日はうまくいかなくて、気になってしかたなかったので。行ってみると、まだテレビドラマの撮影をしていた。火曜サスペンス劇場だかなんだかの撮影だそうで、主演はたしか小林稔侍だったと何かの書類に書いてあったような気がするけれど忘れた。なんでも、うちの社屋は呉服屋なのだそうだ。それにしても、なんだか激烈な人数で撮っている。総勢三十人も四十人もいるのではないかと思われる。撮影しているのだから、そのなかにはきっと俳優もいたのだろうけれど、面倒くさかったので見ていない。とにかく、その人数の多さに圧倒されるというか、呆れるというか。けっこう手持ち無沙汰な感じの人が多い。撮っているときは、衣装さんやら、大道具の人やらは暇そうにしているし、彼らが動き回っているときは、撮影部隊や助監督(というのだろうか。雑用係の人)のほうが暇そうである。なるほど、こういう時間の流れのなかで、この人たちはやっているのだな、と思う。プログラマには、そういった手持ち無沙汰の時間というのはない。プログラムが動いてしまえば、手持ち無沙汰どころか、それとの関係自体が消滅してしまうし、動かないうちはかかりきりだ。小説もやっぱりそうだ。それについて考えているときにだけ、小説は存在する。映画監督と小説家とは、ぜんぜん、まったく別の種族だろうと思う。彼らは何をするにも、それ自体に先だって、それを説明することをせねばならず、小説家は逆に、それをすることを恥としなければならない。ああ、恥ずかしい。まあ、とにかく、みんな仕事をしている。ぼくも仕事をする。それだけのことだ。それが良い仕事であれば、二時間退屈しないで済む人が何人も出るだろう。良くない仕事であったならば、退屈だな、と思われることだろう。それだけのことだ。
(1889.5.3)
芸術家とは鎖の環のようなもので、新しい発見をしようがしまいが、自らなぐさめられる。
ヴァン・ゴッホ

(2004.3.22)-1
或いは、欲求における永久機関。衝動の輪廻。火の鳥の首を刈ることはかなわぬ。焔の躰。臨界後の核分裂。点になったブラックホール。自己完結型オートマトン。アヴィッサル・スペクター(虚無より出でたる者)。腹の膨れた餓鬼。我利我利。つまり、芸術家。
(2004.3.24)-1
疲れた。眠い。疲れた。眠い。
(2004.3.26)-1
機械のからだが欲しいな。
(2004.3.27)-1
ぼそぼそと小さい声で喋る。
(2004.3.28)-1
桜が咲いている。わかるのはそのくらい。
(2004.3.28)-2
とても忙しい。いや。忙しいのはいいんだ。もんだいは忙しさの対象がぼくとって根本的に意義の無いことだという点だ。馬車は走り、ぼくは移動する。到着地がどこだかはわかっている。そこはとてもいいところだと聞いている。けれどもぼくにはぜんぜん行きたくないところだ。確固たる自信。周囲の信頼。安定した収入。妻子、および和やかな家庭。この先には、それらがある。でもぼくはみんな要らない。それらがほんとうにいいものだとはあんまり思えないから要らない。それよりは、ぼくの存在の全要素が結晶した十頁或いは二百頁の小説が書きたい。それは紙にしたらほんのひとつまみのもので。そしてそれは、すばらしいじゃないか。
(2004.3.28)-3
小説の最大の特長は、自己完結が可能だという点だ。小説家が外を向くというのは、例外なく或る種の誤魔化しと時間稼ぎと、それから人間としての或る優しさとのためである。小説のその本来の目的には、他己への開示の必要という項目は無い。確信は、それ自体には全く実体は無く、空疎である。あるのは、そこへ到る過程の堆積で、それはセシウム一三三の基底状態の二つの超微細準位間の遷移によって発する光の振動周期の九十一億九二六三万一七七〇倍と定められた秒という単位で多くは記述される、多重化と可逆を拒むひとつの次元に依存する量であり、したがって共有不能の存在である。そして、ぼくはそれを栄光とみなす。光あれ。天上へも到れ。
(2004.3.28)-4
そして同時に、この原則論が、究極において、あるいはその冒頭において、完全な誤りであることを願っている。この考えには、どうしてもどこか不愉快な部分があり、なにか逆行しているという印象がある。それは究極的には、人類が滅ばないのは、存続する価値があるからではなく、単に怠惰のためだ、というようなことを言いかねないもので面白くないのである。ぼくの意思というのは、ものとものがぶつかった際の衝突エネルギーのことだと言うのは、不愉快である。正直、我慢ならない。
(2004.3.28)-5
ぼくがいつか、あなたの片方の頬をぼくのひび割れた手のひらで撫でる機会があったとして、それによってぼくに伝播してきたあなたの体温や、それに応じて眼を閉じたあなたの仕草のことを、物質界の作用として解釈し認識するのは耐え難い。「生きている」という気がするのではなく、実際に「生きている」のがいい。
(2004.3.29)-1
いっつもおんなじはなしばっかでごめんなさい。


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