tell a graphic lie
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(2004.4.3)-1
おはよう。社会人四年目は、初日から徹夜でした。もっとも、そのおかげで、いまは終わったふりをしているところです。充実感みたいなものは、ひとつもありません。ですから、嘘をついているな、というように感じています。世の中では、こういうとききっと打ち上げというようなものをするのでしょうが、そんなものはぼくにはなんだか陰湿ないじめのように思われるのです。いったい何が打ち上がったというのでしょう。ぼくの三ヶ月が花火のように一瞬のうちに徒労として捨て去られることをいっているのでしょうか。。。いや、きっと、そうなのでしょう。たしかに、もう済んでしまった、いや、過ぎてしまったことだ。丸三年経っても、プログラマとして無能なままの人間が、それでもプログラマであるというために給料をもらい続けているというのは、ほとんど詐欺行為で、たしかに「打ち上げる」べきことかもしれません。
(2004.4.3)-2
なんで、世の中は、できなくても生きていられるんですかね。失敗したら首が飛べばいいのに。そうしたら、知りたいことの九割はすぐにわかるのに。残り一割なんて、わかんなくてもいいのに。
(2004.4.4)-1
それでも、感覚は戻ってくる。夢を見たり、触覚や嗅覚を意識する。感情について、何か思うことを思い出し、目覚めたとき、自分の現在の所在を確認する。ぼくは自室で眠っていたのだ。そう思う。ぱりぱりと、ぼくを薄く覆って固まっていたなにかに、ひびが入って剥げ落ちてゆくような感覚がある。外の街が晴れていたり、雨降りであったりすれば、ただ眺めているだけで、それはそのとおりだとわかる。陽射しは光線の束で、春雨はけむっている。映像は、五感のそれぞれと結びつき、そうしてぼくは感情を取り戻すらしい。喜んだり、嫌悪したりするようになる。まず、嫌悪が先に出る。ぼくは母親と口論をし、呆れ、いらつき、そっぽを向く。雨降りの街が見える(ぼくの住んでいるのは、高層マンションの二十二階だ)。ぼくがそれを眺めると、今はそれが雨降りの街を眺めていることになる。そのなかには、車の往来があったり、雨傘が動いていたりする。風にあおられた雨がひだをつくりながら落下してゆく。そういうことが今は「わかる」。
(2004.4.4)-2
三時に目覚めて、つけたテレビで、「ひまわり」という映画をみる。「二十代はろくなもんじゃねえ」というような気分を滲ませるための映画で、いくつかよい部分もあるにはあったが、全体としては不十分さが目につく作品だったように思う。ぼくとしては当然、このあたりのさじ加減に非常にうるさくならざるを得ないので、いくらか書いてみようと思う。
(2004.4.4)-3
いくつか、どうしても越えなければならない壁がある。それは、非常に高いものではあるのだが、それをしなければ、その作品は永遠に「一時的な退避場所」に過ぎない。それは売りものになることが非常に多いだけになおさら気をつけなければならない。そして、それをすることは決して不可能なことではないというのは、すでにいくつもの実例によって示されている。
(2004.4.4)-4
ひとつ、舞台を非日常に設定しないこと。ひとつ、ノスタルジイとメランコリイに溺れないこと。眼を逸らすことも、また、しないこと。ひとつ、未来への希望を明示的に打ち消すこと。ひとつ、それでもそこにはある肯定が潜んでいるはずだという点を決してあきらめないこと。ひとつ、それを見出せずに終わるとしても、その代替として、永続的な探求を「物語のその後」に据えること。ひとつ、最初にして、最後の覚悟。劇中人物を使い捨てにするなかれ。劇のために生み、劇が終われば人形に戻すことは決してすな。
(2004.4.4)-5
この数箇条は、「ひまわり」を思い浮かべて書いたのだから、だいたいそのまま「ひまわり」に対しての苦言になってしまう。「ひまわり」は、とにかく踏み込みが浅い。なまっちょろい。いくつか、必要な事柄に触れるそぶりは見せながらも、それをほのめかすだけで、踏みとどまらない。「〜群像」的なところで満足してしまっている。同窓会には、一時的な解放があるものだけれども、何ひとつ意味が無い。それは、一時的にあればそれで済むというようなものではなく、日々の生活のなかを流れてゆく自分のうちに確かに必要な要素のひとつであるはずで、だから、決断したり、もぎ取ったりして、どうしても手に入れなければならないことのはずなのだ。ほのめかしたり、におわせたりするのでは、駄目なのである。
(2004.4.4)-6
もちろん、よい部分もある。不十分なかたちながらも、「必要でありながらも所有していないそれ」を取り扱った作品であるし、ヒロイン(残念なことには、それはやはりヒロインだったのだ)の相対化などには、見るべきところもあった。ただ、やはり残念なのは、どうしても、断定することを、たとえ、一時的なものであれ、決めることを端からあきらめていたことだ。
(2004.4.4)-7
と、面倒だけれども、やっぱり、あらすじを書いたほうがいいだろうか。主人公(袴田吉彦)は、或る日、留守番電話に保存されていた女からの電話がもとで、同棲している女の子と喧嘩(および、その延長としての別れ話)をしている最中につけたテレビで、漁船の遭難のニュースを見る。その遭難者の名簿のなかには、留守番電話の女の名前があり、主人公は、それが小学校の同級生であることを思い出す。思い出していると、そのニュースを知った別の小学校の同級生から、その女の葬儀についての電話があり、東京で生活している主人公は、他の東京で暮らす同級生たちに葬儀に出席するよう声をかけてまわる(自分の彼女は、そのまま出て行ってしまう)。声をかけたメンバは、いつか日食の日に、一しょに丘に登ってそれを眺めたメンバであり、死んだ女もそのなかの一人だった(そして、日食のコロナと、タイトル「ひまわり」がかけられる)。数日後、女の遺体のあがらないまま、葬儀が行われることになり、数年ぶりに主人公たちは帰郷し、その日はそれぞれの実家へ帰宅する(同じ小学校であったのだから、お互いの実家は、そういう距離のあいだにある)。翌日、葬儀があり、地元に残っていた同級生たちと再会し、主人公は葬儀へ列席する。その最中、警察から遺体があがったとの連絡があり、両親はそれを確認しに、警察へ出頭する。主人公たちは、女の実家で食事をしつつ待つ。とうぜん、はなしは女の話になる。なぜ、漁船に乗っていたのかという話。自殺ではないかという話。そういった話をしてゆくうちに、べつの卓で、食事していた、女と現在かかわりを持っていた五人の男たちがその輪に加わる。ひとりは、通っていた学校の講師。ひとりは、以前付きあっていたメイクアップアーティスト。ひとりは、喫茶店の店員で多少の仲であった男。あとの二人は、女と付きあっていた男。彼らの話によって、現在の女についての情報がもたらされ、それによって主人公たち、小学校の同級生たちは、女と過ごした日々について、そのころの女についての記憶を呼び覚ましてゆく。当時、女はおとなしく、また、美しかったために、かえって、周囲からのけものにされていたのだった。日食を見にいったのも、女は、主人公たち数人のグループのあとからこっそりついてきたというのが実際のところだったのだ。そして、そのような関係でありながら、なおかつ、主人公は、女にほのかな思いをよせていたのである。現在関係のある男たちの話によって、女が今も、本質的にはそのような状態にあり続けていることを、主人公は知る。それは、幾つかの後悔を主人公に喚起する。ドッジボールで玉をあてることができなかったこと。それを周囲に揶揄され、「あいつにあてたら、玉が汚れる」と応えたのを、女に聞かれたこと。女に、「君はひまわりみたいだ」と授業中書き送ったこと。女の靴を隠したこと(その靴は、いまだにそのままにあった)。女が転校する際に、配ったひまわりの種。それらはすべて、女の現在に決定的な影を落としていることを主人公は知る。そして、また、自身がが女にとっての初恋の人であったことを知る。警察へ出向いた両親によって、遭難者は人違いであることがわかり、その日の葬儀は取りやめになる。一行は、同級生の一人が経営するバーにて飲むことにする。ひとりが吐き気を催したのを介抱するために、外へ出た主人公は、ドッジボールを手にした女に出会う。女は、「当ててよ。ボール」と言う。男は、ボールを投げる。女はそれをよける。転がったボールを女は広い、また放ってよこす。男は、また当てようと、女めがけてそれを投げる。女は、またよける。それをくり返すうちに、いつしか、いつかの日食を眺めた丘へ主人公と女は上っている。そこではじめて、女は主人公の投げたボールを体にうける。女は「ありがとう」と言う。丘の一角にはひまわりが群生している。それは、女が残したひまわりの種子を主人公が蒔いたのが繁殖したのであった。主人公は、そのことを女に伝える。女は去り、主人公は群生するひまわりの一株から、種を一粒つまむ。主人公はバーに戻り、同級生、現在の恋人たちに、女が死んでいなかったことを伝える。なかのひとりが、女がなぜ漁船に乗ったかに気づく。「朋美(女の名)は、きっと太陽が見たかったんだよ。海の上では、太陽から隠れられないから」一同海を見に浜へ行く。浜には、打ち上げられた漁船が一隻、砂に埋もれている。それを掘り起こして、女を探しに行こうと、現在の恋人ふたりが砂を掘り始める。一同、それにならう。クライマックスとなる。漁船は掘り起こされ、みなそれへ乗り込み、海に出る。漁船は、すぐに転覆する。一同、また浜辺に座り込んでいる。と、主人公の携帯が鳴る。それは喧嘩している彼女からの電話。それに主人公が出るところで、物語はおしまい。
(2004.4.4)-8
残念なことには、人というのは、このようにして、それまでのすべてを引きずってきている部分があるものであり、それは決していい思い出にも、また、後悔にもなれないということである。それは過去形の形をとりながら、同時に現在そのものであり、離れてからお互いがすごした環境という、越えがたい壁がありながらも、直接的に解消されることを強く希望しているものなのである。そして、彼らは、この歳になってドッジボールを手にする仕儀にたちいるのである。
(2004.4.4)-9
二十代ともなれば、その過去のいくつかは、決済されないままに残っているものであり、そして、それはやはり、その過去そのものによってのみ片付けられるのである。けれども、二十代のぼくらは、それらを片付ける余裕を持てないまま、ひたすらに、自身の確たる生活を打ち立てるために走ることをしなければならない。その過程で、ぼくらは後悔を後悔としたまま打ち捨てることを学んだりする。仕方がなかったというようなことを正当化できる気分を養う。キスとか、体を重ねることだとかを、安っぽいコミュニケーションの足がかりに利用するようになり、経済によって、人と交わるようになる。そして、それらの一切が、まさに正当であるがために、ぼくらは純粋というかなり根源的な価値を見失う。そして、見失ったまま、先へ進むことになる。すなわち、家庭を持ったり、子供ができたりする。でも、いくらかの人びとは、それを見失うことに失敗する。そうすると、不幸になる。適わぬ夢を見続けることになるから。
(2004.4.4)-10
もう少し、成功している映画がある。二年ほどまえに、大事にした「シンク」という映画である。そう、ぼくはこの映画を大事にしている。逃げていないからである。ぼくらの希薄な関係について、逃げていないからである。
(2004.4.5)-1
チョンボ。ダメ。やっぱり、やすんじゃ、だめですね。
(2004.4.6)-1
アーマードコア、もう丸六年も作っていることになるらしい。六年かあ。六年あの勢いで作り続けたら、そりゃあごっつく育つよなあ。
(2004.4.6)-2
でも、このアーマードコア、コンセプト的には、二作目までで既にやりつくしてしまっている感があるというのも、また事実である。インターフェースは、一作目から完璧だったし、AC同士の対戦というのも、二作目で既に実装されてしまっている。シナリオも、この二作で出尽くしてしまっている。だから、三作目以降は純粋に技術的な向上を見るためだけに買うことになっていたのだけれども、まあ、楽しいのでよし。パーツの追加削除を見るのも一興である。高速ロック、ロングレンジ、十二発同時発射、高性能追尾のイカしたミサイル(フルヒットすると、だいたい半分削れてしまうので、最悪二斉射で片がついてしまったりする)が無くなっていたりするのは、「あー、やっぱりこれ、反則だったのね」など思えて、楽しい。
(2004.4.6)-3
新しいやつのデモムービーはなかなかよい。イメージ映像というのではなく、実際のゲームの感覚を忠実にCG化している。以前のデモのACは、ブースターでグリングリン飛び回るということはなかったのだが、今回はもう、空中で超加速してミサイル振り切ったりしているし、その後、急停止、急旋回してエネルギーライフルぶっぱなしたりしている。グレネードランチャーも、膝立てて撃つなんていうけち臭いことはしないで、ダッシュしたままがっつんがっつんである。そう、歩いてない。常に、ブーストダッシュ。基本。ACは、止まったらただのでかい的である。エネルギーが切れるまで止まってはならぬ。多弾頭ミサイルもケチらず連射。ブレードは大抵空振り。なかなか、いいではないか。
(2004.4.7)-1
リハビリ。
(下宿)
 始めて下宿をしたのは北の高台である。赤煉瓦の小じんまりした二階建が気に入つたので、割合に高い一週二磅(ポンド)の宿料を払つて、裏の部屋を一間借り受けた。其の時表を専領してゐるK氏は目下蘇格蘭(スコットランド)巡遊中で暫くは帰らないのだと主婦の説明があつた。
 主婦と云ふのは、眼の凹(くぼ)んだ、鼻のしゃくれた、顎と頬の尖つた、鋭い顔の女で、一寸見ると、年恰好の判断が出来ない程、女性を超越して居る。疳(かん)、僻み、意地、利かぬ気、疑惑、あらゆる弱点が、穏やかな眼鼻を散々に弄んだ結果、かう拗(ひ)ねくれた人相になつたのではあるまいかと自分は考へた。
 主婦は北の国に似合わしからぬ黒い髪と黒い眸(ひとみ)を持つてゐた。けれども言語は普通の英吉利(イギリス)人と少しも違つた所がない。引き移つた当日、階下(した)から茶の案内があつたので、降りていつて見ると、家族は誰もゐない。北向の小さい食堂に、自分は主婦とたつた二人差向ひに坐つた。日の当つた事のない様に薄暗い部屋を見回すと、マントルピースの上に淋しい水仙が活けてあつた。主婦は自分に茶だの焼麺麭(トースト)を勧めながら、四方山の話をした。其の時何かの拍子で、生れ故郷は英吉利ではない、仏蘭西(フランス)であるという事を打ち明けた。さうして黒い眼を動かして、後ろの硝子壜に挿してある水仙を顧みながら、英吉利は曇つていて、寒くて不可(いけ)ないと云つた。花でも此の通り奇麗でないと教へた積りなのだらう。
 自分は肚の中で此の水仙の乏しく咲いた模様と、此の女のひすばつた頬の中を流れている、色の褪(さ)めた血の瀝(したたり)とを比較して、遠い仏蘭西で見るべき暖かな夢を想像した。主婦の黒い髪や黒い眼の裏(うち)には、幾年の昔に消えた春の匂いの空しき歴史があるのだらう。あなたは仏蘭西語を話しますかと聞いた。いゝやと答へようとする舌先を遮つて、二三句続け様に、滑らかな南の方の言葉を使つた。斯ういふ骨の勝つた咽喉から、どうして出るだろうと思う位美しいアクセントであつた。
 其夕、晩餐の時は、頭の禿げた髯の白い老人が卓に着いた。是が私(わたくし)の親父ですと主婦から紹介されたので始めて主人は年寄であつたんだと気が附いた。此の主人は妙な言葉遣をする。一寸聞いても決して英人ではない。成程親子して、海峡を渡つて、倫敦(ロンドン)へ落ち附いたものだなと合点した。すると老人が私は独逸(ドイツ)人であると、尋ねもせぬのに向ふから名乗つて出た。自分は少し見当が外れたので、さうですかと云つた限りであつた。
 部屋へ帰つて、書物を読んでいると、妙に下の親子が気に懸かつて堪らない。あの爺さんは骨張つた娘と較べて何処も似た所がない。顔中は腫れ上がつた様に膨れている真中に、ずんぐりした肉の多い鼻が寝転んで、細い眼が二つ着いてゐる。南亜の大統領にクルーゲルと云ふのがあつた。あれに良く似てゐる。すつきりと心持よく此方(こつち)の眸に映る顔ではない。其の上娘に対して物の云い方が和気を欠いてゐる。歯が利かなくなつて、もご〜している癖に何となく調子の荒い所が見える。娘も阿爺(おやぢ)に対するときは、険相な顔がいとゞ険相に見える。どうしても普通の親子ではない。----自分は斯う考へて寝た。
 翌朝朝飯を食いに下りると、昨夕(ゆうべ)の親子の外に、又一人家族が殖えている。新しく食卓に連なつた人は、血色の好い、愛嬌のある、四十恰好の男である。自分は食堂の入り口で此の男の顔を見た時、始めて、生気のある人間社会に住んでゐる様な心持ちがした。my brother と主婦が其の男を自分に紹介した。矢つ張り亭主では無かつたのである。然し兄弟とはどうしても受取れない位顔立がが違つていた。
 其の日は中食(ちゅうじき)を外でして、三時過ぎに帰つて、自分の部屋へ這入ると間もなく、茶を飲みに来いと云つて呼びにきた。今日も曇つている。薄暗い食堂の戸を開けると、主婦がたつた一人暖炉(ストーブ)の横に茶器を控へて坐つていた。石炭を燃して呉れたので、幾分か陽気な感じがした。燃えついた許(ばか)りの焔に照らされた主婦の顔を見ると、うすく火熱(ほて)つた上に、心持御白粉を塗(つ)けてゐる。自分は部屋の入り口で化粧の淋しみと云ふ事を、しみじみと悟つた。主婦は自分の印象を見抜いた様な眼遣いをした。自分が主婦から一家の事情を聞いたのは此の時である。
 主婦の母は、二十五年の昔、ある仏蘭西人に嫁いで、此の娘を挙げた。幾年か連れ添つた後夫は死んだ。母や娘の手を引いて、再び独逸人の許に嫁いだ。その独逸人が昨夜の老人である。今ではロンドンのヱスト・エンドで仕立屋の店を出して、毎日々々そこへ通勤している。先妻の子も同じ店で働いているが、親子非常に仲が悪い。一つ家にゐても、口を利いた事がない。息子は屹度遅く帰る。玄関で靴を脱いで足袋跣足(はだし)になつて、爺に知れない様に廊下を通つて、自分の部屋に這入つて寝て仕舞ふ。母は余程前に失くなつた。死ぬ時に自分の事を呉々も云い置いて死んだのだが、母の財産はみんな阿爺の手に渡つて、一銭も自由にする事が出来ない。仕方がないから、かうして下宿をして小遣を拵へるのである。アグニスは----
 主婦は夫(そ)れより先を語らなかつた。アグニスと云ふのは此処のうちに使はれてゐる十三四の女の子の名である。自分は其の時今朝見た息子の顔と、アグニスとの間に何処か似た所がある様な気がした。恰もアグニスは焼麺麭を抱へて厨(くりや)から出て来た。
「アグニス、焼麺麭を食べるかい」
 アグニスは黙つて、一片の焼麺麭を受けて又厨房の方へ退いた。
 一箇月の後自分は此の下宿を去つた。
夏目漱石

(2004.4.7)-2
安定とか。キーボードを前にして。
(2004.4.7)-3
視点をさらに狭める。木の葉の葉脈一本いっぽん。手のひらの皺。感情の襞。真直ぐな剣とそれをあてた額。
(2004.4.8)-1
報復と憎悪のサイクルに加わる。
(2004.4.8)-2
曰く、「国際社会において名誉ある地位
(2004.4.8)-3
攻撃ヘリがモスクや民家にロケットを撃ち込むというのはパレスチナとまったく同じである。異なるのは、それを行うものたちの覚悟の程度である。一方は、自身の安全と寝床と閉じた経済とを確保するためにするのであり、一方は、自由主義、民主々義、独裁からの解放などを詠いあげ、空母と輸送機でやってきた、敗北と抑圧との正式の実感を持たない者たちの正義である。統治機構を破壊した上での占領というものが如何に困難なものであるかは、進駐軍にはやがて帰るべき場所があり、占領下の民衆には、まさに此処こそがその場所であるという点を指摘すれば足る。まともな征服者ならば、相手の政府を破壊することはしないものである。なぜならば、征服者の求めるものは理想の実現ではなく、実益であり、そのためには確立した搾取のシステムが必要であって、それはほとんどの場合、征服先の政府によって為されるものだからである。また、正義というものは、現実の多くの状態において、思ったよりもずっと悪く、役に立たずなものである。それはほとんどまともに機能することがない。極めて現実的な修正が加えられたものでない、純粋のそれが動いたことは、人類史始まって以来、まだ一度も無い。
(2004.4.8)-4
三人は勝利の祈りにあたっての供物になる。それによって、彼らは民族と宗教の誇りを取り戻し、侵略者と戦う勇気を培う。それは実にまっとうなことのように思われる。群集のひとりは言う。「お前たちこそ、まず銃を捨てるべきだ」「ガキどもの面倒は、お前らさえいなくなれば、俺がしっかり見る。まず、お前たちがここを去れ」その主張は、巨視的に見ればたしかに間違っているのだが、その場においては尤ものことのように思われる。そして、三人はババを引き、生贄になる。誰が悪いのか。誰も悪くない。賽は既に投げられたのであり、その流れのうちでは、すべてがそのように振舞う。自衛隊は民兵の襲撃を受け、応戦し、軍隊として覚醒する。けれども、その際に、この島にあってのほほん顔で暮らしている我々がどのような反応を示すかについては、なお未知数である。我々は、頭ではわかっている、ということをよくやるのであり、それがヒステリイに勝る可能性がある。それは、この下らない環境下における、ひとつの希望ではある。
(2004.4.12)-1
書けない。何を書いたらいいのかわからない。
(2004.4.14)-1
自負というものは、それが正当なものであれ、そうでないものであれ、それを為していないときにのみ育つ。天才の予感と懐古の芳香。身の程知らずと退役将兵。
(2004.4.14)-2
体温。体温。体温。
(2004.4.14)-3
人間の限界。一日数時間は眠る必要がある。一日数千キロカロリー摂取する必要がある。あらゆる行為の単位所要時間と一日の長さ。同時に二箇所に存在することができない。同時に二人以上の人間であることができない。存在単位として宇宙とは別個のものであり、それよりも小さい。
(2004.4.14)-4
そして、習慣。限定された存在でありながら、尚且つ、反復を基本様式とするその性質。
(2004.4.14)-5
概念における生と死の同等と、物質におけるその決定的差異。その淵は、シェイクスピア的咏歎で満ち満ちているように見える。
(2004.4.16)-1
ツマヲメトッタ。コガデキタ。サア、コレカラハ、ヒトリノカラダデハナイ。ヒトリノイノチデハナイ。ガンバッテ、がんばって
(2004.4.17)-1
昨日は、そこで眠ってしまった。今は、そのあとに何と続けようとしていたのか、すでに思い出せなくなっている。
(2004.4.17)-2
今日はいちにち窓を開けていた。いちにち、街の喧騒を聴きながら、いちにち武田泰淳「富士」を読み、のこりは眠っていた。
(2004.4.17)-3
疲れている、という言い方。投げやり、という捉え方。果たして、ほんとうにそうなんだろうか。
(2004.4.17)-4
この先、なにか非常な幸運によって、ぼくがふたたびあちら側に属することになったとして、この疑念は晴れたり、忘れ去られたりすることは起きるだろうか。つまり、今のぼくがかなり意識的に保っている(少なくとも、ぼく自身はそう思っている)現状のぼくの意識というのは、実際にはこの環境のただの反映に過ぎず、異なる環境に置かれれば、完全に転調してしまうものなのか、それとも、「人」の捉え方としてのある種の普遍性があるもので、これからどこへ行っても、ぼくはニヒリスティックとも呼べない、曖昧な離脱的姿勢をとり続けるのかどうか。それには、少し関心がある。
(2004.4.17)-5
「ぼくは帰るよ。それじゃあ」
(2004.4.17)-6
「話しあわなければ、理解できない」いや、ちがう。話しあっても理解できない。話しあうと、それだけがわかる。
(2004.4.17)-7
「富士」にも、そのようなことが書いてある。ぼくはたぶん抑制しながら読んでいた。安易な肩入れは禁物。ぼくが昂揚しても、君には意味が無い。
(2004.4.17)-8
餌を貰えず、衰弱した雛が鳴くようにして。
(2004.4.17)-9
認識する者があるからこそ、世界は存在するのだ。という痛烈な自負。美学。または、極めて幸福な感覚。そして、そこから伸びる、虚妄に通じる細い糸。いや、書いても、いいのだ。「書けない」というのは、あれはある意味嘘だ。あれは、「書くことができない」の「書けない」ではなくて、「書いてはいけない」の「書けない」なんだ。姿勢の問題。何かに対する良心の問題。何に対する良心か。絶望に絶望しないという良心だろうか。それがニヒリズムならば、ニヒリズムを諦めないということだろうか。「世界は闇で、ぼくはひとりだ」そう叫ぶことを止めてはならないということか。しかし、叫んで、どうなるというのか。というより、それを訴えて、そして、それを解決して、なんになるというのか。あるいは、自嘲の狂歌「仕合せって、なんだっけ、なんだっけ」「なんだっけ」ではない。ぼくはそのようにして、それを「忘れている」のではなく、それを「知らない」のである。記憶に無いものを思い出すことはできない。「世界は、あらゆる意味において、あらゆる状態の人間を必要としている」その延長にあっては、あらゆる価値基準が、というよりも価値という概念自体が、均質化する。「世界は闇で、ぼくはひとりだ」という見解を、一個人の認識として有することを、(手放すという意味ではなく、受け入れるという意味で)諦めた者というのがあっても、別に驚くにはあたいしないではないか。「幸福よりは破滅を」そう望む者が存在し、そしてそれがまさに自分だとしても、別に不思議なことではないではないか。「仕合せになりたい」「笑って暮らしたい」「人を愛したい。愛されたい」なんとありきたりな、つまらない願いだろう。功利主義とどこが違うというのか。そのものではないか。そして、その反対もまた、同様にしてその奴隷であるに過ぎない。すなわち、「幸福よりは破滅を」というのもまた、功利主義のスロオガンであるに過ぎない。
(2004.4.17)-10
そして、それでもぼくは自身に関係のないことについて言及しようとする。イラクにおける邦人解放は、彼の国おける日本人への相当に好いイメエジを抱いているという事実を裏付けている。彼らの義の信ずるところによれば、勤勉と平和主義と良識の国の民を生贄や、取引のカアドとすることは不名誉なことであり、ある種の裏切り行為になる、ということらしい。四人殺せば、六百人がやられる、百倍返しの腐った環境にあって、彼らの良識がいまだ機能しているという事実は、ある種の希望を抱かせるものである。かの地にあっては、間抜け面の我が軍隊も、幸福なことにも、目覚めることなく間抜けままで居おおせるやもしれぬ。それはある意味不幸なことではあるが、それ以上に幸福なことだろうと思う。攻撃することを知らない軍隊。なんという無意味。そして、なんという希望。
(2004.4.17)-11
それから、「費用」の話についても一言いってしまう。断言するが、税金とは、こういうときのために払っているのである。内閣官房と、外務省に予算をつけてやっているのは、こういうときのためにそうしているのである。なぜなら、根回しこそが彼らの本領であり、今回ほど根回しに価値があるケエスは、そうざらにあるものではないからである。
(2004.4.18)-1
そう、もう窓を開けていなければならない。そうしなければ、強烈な朝日がカーテンを照りつけることによる上昇した室温を外へ逃がすことはできない。そうして外気を招き入れることは、同時に噪音を受け入れることでもある。密閉された無音の空間は、また半年ほどおあずけ。途切れることのない雑踏のノイズがありながら、CDの音質がどうのこうのというのは無意味だ。で、ぼくは救急車の音も聴きながら、あいかわらず、"A Scenery Like Me"、というよりは、"Break These Chain" を、噪音がある分、少しボリュームを上げて聴いている。
(2004.4.18)-2
書こうか。ふてくされて、愚痴っていても、仕方が無い。
(2004.4.18)-3
「どうして、公園の前を通ったの?あそこは、(庸子の勤め先の)店とは反対方向だと思うけど」
「買い物をして来たからよ。スーパーのざわで」
「そうか。いつも、あそこを使っているのだっけ?」
「最近はそう。野菜の鮮度が比較的いいのよ、あそこ。商品の回転は、そんなにいいようには見えないのだけど、なぜかね。で、少し遠回りになるけど、そんな手間ってほどでもないし」
「ふうん、そう。野菜の鮮度ね。気にしたことが無いな。確かに、しなびているレタスやら、張りの無くなったトマトなんかを買うのは、なんだかお金を払うのが惜しいような気もするけれど。あんまりひどければ、買わないだけのことだし。第一、野菜を買うことなんて、ほとんどないからなあ」
「ちょっとね、こだわることにしたのよ。ふと、『ああ、野菜、食べないとなあ』って思ってね。私も歳とってきたのよ、きっと」
「歳とってきた、ねえ。なるほど」
 後頭部を壁につけ、多少天井を見上げるようなかたちで話していたのをやめて、両手で握っていたマグカップの端を口もとへ運んだ。コーヒーの茶色っぽい黒の液面の半分以上は、天井の蛍光灯が映りこんで白く光っている。一と口目には気づかなかったけれど、コーヒーは薄いような気がする。アメリカンにしても、ちょっと水っぽい。
「薄いね、これ。ただのお白湯みたい」ぼくがコーヒーを口にしたのを見て、庸子は言った。同じことを思っていたらしい。
「そうだね。薄いねえ。失敗だ。インスタントコーヒーにも出来、不出来がある」
「ちゃんと量って入れたの?」
「量るも何も。スプーン一ぱい入れただけだよ」
「スプーン一ぱいにも、いろいろあるしね。それに、だいぶお湯の量が多かったみたいだし」
 ぼくはカップの中を覗きこんで、しばらく蛍光灯の反射で白く光る表面を見つめて、つい先ほどの記憶をたどろうとした。コーヒーはたしかに薄っぺらな色をして、かすかに波立っている。
「そうだね。ちょっと、多かった。でも、きっと、それだけだよ。粉の分量は、間違えていないと思う。いつもどおりやったもの」
「いつもどおりやったけど、できあがったのは、いつもと違う水っぽいコーヒー」庸子は言う。
 ぼくはもう一度、その水っぽいコーヒーを飲んで、やはり水っぽいと思い、多少の理不尽さを感じる。ちょっと薄すぎやしないかと思う。でも、コーヒーはどうしたってずいぶん薄いので、何かが間違っていたにちがいない。そして、この理不尽さは、きちんと入れたはずなのにうまくいかなかったことに対して、感じているのではない。そうではなく、ついさっきのことなのに、ぼくにはもう正確なところを思い出すことができないでいることに対する、納得できない感じのことだ。何か別のことを考えていたわけでも、映像的な記憶が飛んでしまうほどコーヒーを入れることに集中していたわけでもないのだから、そのとき、ぼくがどうしていたのか、思い出そうとすればきちんと思い出せてもいいような気がする。でも、思い出せない。そこだけ抜け落ちている、という感覚でもない。時間的に離れれば、それだけ薄く霞んでゆく。ただそれだけのことで、そして、数分前のコーヒーを入れるときのことすら、ぼくはもうすでに思い出せなくなって来ている。
「入れなおそうか」ぼくは顔を上げて言った。
「いいよ。気にしなくて。そんなに苦い顔しなくてもいいよ」
 庸子は少し張った声で言ってから、一と口飲んで、「でも、やっぱり薄いねえ」と笑った。

(2004.4.18)-3
んー、なんというか、たとえ一時的にであれ、言葉を固着させるには、過信でも何でもいいから、何かが必要ですね。無くなると、苦労しますね。
(2004.4.18)-4
遅くなったけど、フォークナー「響きと怒り "The Sound And The Fury"」開始。今のところ、まだだらだらしている。不思議なだらだら。だって、これがフォークナーのベストオブベストなのだそうだから。でも、端から、前置きをつけない記憶の多重連鎖をやっていたりする。ほんとに何の宣言もなく(仕方がないので、訳注がある)、しかも、登場人物が同じままで、時間が移動する。そういうのは、普通の小説では、蛮行どころか、「ぶち壊し」のはずだ。でも、そこはフォークナー。やっぱりすごい。なにがすごいかって。親切とかサービスとかいうものがまったく欠けている(ように見える)ところ。そして、それでもやっぱりこれが小説であるところ。きっと難渋することだろう。
(2004.4.19)-1
最近、「こそあど」の用法が非常にルーズになってきているように思う。問題である。締めなおさねばならん。
(2004.4.19)-2
もっと、一文いちぶんを大事にすること。いま書いているものの方針とは違ってしまうのだけれど、しょうがないね。ちょっと、ひどいもんね。
(2004.4.19)-3
って、いまだにこんなことを。。。はあ (*タメイキ*)
(2004.4.19)-4
よそ見する線路脇の雑草あおあおとして
潮の匂いする風に水たまりも波立っている
タイル敷きの歩道に陽が鈍く照りかえって
眠い目をこすって歩く肩に陽射しの音
春の陽に枯れた肌も黄色く汗ばんで
そこにまた草が生えている
雲の無い空を見上げる時間がある雲が無い
春が来ると小石が白い
電車が来ない鉄路の向こうに裏山の緑
いつもの窓から木ずえの蔭さして洗濯する
春夏秋冬識るを恥とする人のなかにて春をなぞる

(2004.4.20)-1
昨日、アップ忘れ。まあ、どうだって、いいやね。
(2004.4.20)-2
「響きと怒り」一章ベンジー終わり。なんか、「わたしは泣きだした。」「わたしは泣きやんだ。」「キャディは木のような匂いがした。」しか、書いてなかったような気がするなあ。ベンジーは、目覚まし時計みたい。ぺちぺちスイッチを押したり上げたりすると、泣いたり泣きやんだりする感じ。それから、キャディの兄と娘の名前が一しょってのは反則やんなあ。さいしょ、わかんなかった。あっちでもクェンティン、こっちでも、クェンティン。突如若返ったり、男になったりする。「豚小屋は豚みたいな匂いがした。」とか書いてあるし。たしかに、豚小屋は豚みたいな匂いがするだろうさ。
(2004.4.21)-1
昨日は冗談半分の感想を書いたところで眠ってしまったので。
(2004.4.21)-2
high contrast on the method of novel
(2004.4.21)-3
フォークナーの面白いところのひとつに、彼の作品がたいへんな大作でありながらも、その取り扱う内容は、必ずしも大作的でない点が挙げられるかと思う。その感じはおそらく、彼の文体、ほとんど無意味なほどのごつい装飾や、事務的とすら言いたくなるほどの客観のためにもたらされるのだろうが、それを差し引いてもなお、「この小説は何のために書かれたのかわからない」とぼやきたくなるほど、実際に無内容だったりする。呆れるくらいに何もほのめかさないので、かえって、何があるのだろう、何があるのだろうと、半ば急くようにして読み進めていくのだが、まずそのまま、何もないままで終わってしまう。何も起きやしない、あるいは、起きるべきもの(すなわち、はじめからわかっていること)しか起きない。理由など無くても、出来事というのは始まるのだし、進行するし、終息するのだ。「小説として」あるものなど、必要ではない。というたいへんに当たり前のこと(そして、ほぼ全ての小説において成立しない命題)を、そのまま小説にしてしまう。フォークナーの作品には、それを成功させるために必要な、手法、技術、思想、感覚、規模、意志が揃っている。小説が、小説らしくみえるのは、決して名誉なことではないものらしい。本当の小説は、小説のように見えなくとも、やはり小説なのだということを、彼の作品は事実として示している。
(2004.4.21)-4
徹底的な主観の客観。それによって、人間は目に入る全てのものを見ているわけでは決してなく、見るべきものだけを見ているのだという単純な事実がくっきりと浮かび上がる。極度に抑えられた自身の動作と意識との連関の記述と、目覚めている限りは強弱はあれ、常に意識のうちに流れ込んでくる音というものと、或る価値観(即ち、まさに「見ている」という事実)によって選択された他己の挙動だけで構成された(それに「匂い」がスパイスとしてわずかに加わっているが)文章が、記憶のシフト(あるいはタイムトラベル)によってダイナミックに展開する。何かを思い出しているときの人間というのは、現在に居るものなのか、それとも、思い出している当時に居るものなのか。一切を感覚に任せるということは、即ち、意識の喪失を意味するのではないか。「わたし」はなぜ泣くのか。けれども、泣くのに原因と理由は必要なのか。等々。
(2004.4.21)-5
それから、フォークナーの作品に出てくる黒人たちの合理性は興味深いものである。彼らは疑うということと、そこから発生している変化(その多くは「成長」と呼ばれる)とから自由である。彼らは本能を信じ、それとまったく同じあり方で、自らの分を無条件に許容する。人間は複雑な存在であるとはこれっぽっちも信じていない。なぜなら、彼らには複雑なものは理解できないのであり、理解できないものは理解する必要がないのである。そして、あらゆる人間は、彼らの理解できるようにして理解されればいいのである。その前提のうえにおける、彼らの極めて明確な合理性。

(2004.4.24)-1
そうだ、きょう夢を持てというのをテレビで聞いた。なんて下らないんだ。それは竹内均だったのに。なんて下らないんだ。
「クェンティン三世。クェンティン・コンプソン三世。彼は妹の肉体を愛したのではなくて、ちょうど広大な地球全体の小型の模型が訓練されたあざらしの鼻の上にのせられるように、コンプソン家の名誉が妹の処女性の微妙でこわれやすい薄膜によってあぶなっかしく、(彼もよく知っていたのだが)ほんの一時的にささえられているという考え方を愛したのだった。彼は自分が犯したいとは思わなかった近親相姦の考えを愛したのではなくて、その罪に課せられる永遠の罰という長老教会派の考えを愛したのだった。すなわち、神ではなくて、彼自身が、近親相姦という罪によって、自分自身と妹を地獄に投げ込み、そこで彼は永遠に燃える火にかこまれながら妹をいつまでも守り、いつまでもそのままの姿で保つことができるという考えを愛したのだった。しかし彼は、なににも増して死を愛したのであり、ただ死だけを愛し、恋する男が愛する相手の待ちわび、望んでいる、好意的で、やさしく、信じられないような肉体を愛しながらも、故意にそれをさけようとするように、死を慎重にほとんど倒錯的に予想しながら、愛し生活したのであり、ついにそれをさけることではなくて自分を抑えることに耐えきれなくなり、自分の身を投げ出して、自らを棄て、溺れさせた。」
(2004.4.24)-2
世の中には、楽しく生きたり、力強く生きたりするためのhowtoはいろいろ出回っているようだけれども、それ以外の様式についてのそれはあまり見当たらないように思える。でも、ぼくにはそんなところで合意をした覚えがない。
(2004.4.24)-3
フォークナーを読むと、フォークナーのように書いてしまう。その作用は、他の作家のそれよりも強いもののように思われる。修飾を修飾し、さらにそれを装飾し、あらゆる行為とあらゆる現象は、あらゆる行為の根拠とあらゆる現象の原因になりうる。それを自然にやろうとし出してしまう。けれども、この姿勢は、それが徹底的に行われるのでなければ、あまりよいものとは言えない。部分的なものでしかないときのそれは、まさに言わなくてもいいことでしかない。だから、ぼくにはとても都合が悪い。
(2004.4.24)-4
でも、なんとか合意したいと思っている。そうしなければ、話をすることすらできないじゃないか。ぼくは君を誉めることもできなければ、けなすこともできない。同じようにして、君もぼくのことを何も言えはしない。それから、反対することも、賛同することもできない。言葉が、日本語が通じれば、意志の疎通ができるということにはならないんだよ。yes と no、good と bad、plus と minus が同じでなければ、話なんてできない。そして、人間というのは、たぶん、その程度には個体差があるものなんだと思う。その程度には、ぼくらは自由で独立しているというのは、あり得ることだと思う。だから、合意することからはじめなきゃいけない。
(2004.4.24)-5
 その日の夜は静かな夜だった。でも、他の日と較べて、あるいは他の場所と比較して、もしくはデシベルで表される絶対量として、実際に静かな夜であったかどうかは知らない。ただ、ぼくがそう感じたのだ。その日の夜のそのときかいつかに、「今は静かだな」と思うか感じるかをし、それを憶えていることにした。だから、その日の夜は静かな夜だった。
「お腹すいたわ」と言って、庸子は立ち上がった。そして、空になったマグカップをぼくの手から取りあげながら、「夕飯、食べていくでしょう」と言った。
「そうだね。そうしたほうがいい」とぼくは応えた。
「何よ、その『そうしたほうがいい』っていうのは」と頷きながら庸子は言い、そのままキッチンへ行った。庸子のコーヒーはまだ残っていて、庸子はそれをシンクに流していた。ぼくはその音と、それからふたつのマグカップと、インスタントコーヒーを量るのに失敗したらしいスプーンとを洗う音を聴いていた。ほんとうのところ、ぼくは全く空腹でなく、そうではなくて、猫は、轢かれてもしばらく放置される、というようなことを思っていたはずだった。庸子が夕飯の支度をしているあいだ、ぼくは何もせず、ずっと壁に背をつけて座っていた。そこからは庸子の姿は見えず、水を使う音や、冷蔵庫の扉を開けたり閉じたりする音、火と油を使う音、包装を破く音なんかが聞こえ、ぼくはそれを聞いていた。それはそんなにつまらないことではなかったし、そうしながら何か思っていたようだった。それに、庸子の支度はかなり手馴れていて、たぶん十五分もかかっていなかったように思う。
 ぼくが来て夕飯を食べるとは思っていなかったので、冷凍コロッケを電子レンジで温めたのと、即席レトルトのかに玉が、控えめな量のひとり分の天ぷらと一しょに出された。でも、飯を一人前しか炊けなかったので、「ちょっと、足りないかもしれないね」と、半分ずつ、小さく盛られた御飯茶碗をテーブルに置きながら、庸子は言っていた。ぼくは食欲がなかったから、構わないと首を振ってテーブルの椅子に座った。

(2004.4.25)-1
いや、べつになんでもない。「ピヤノアキコ」三ヶ月くらいほかってあった(ほかにもまだ、ほかってあるのもある)のを、いつものあの退屈な数時間のなかで開封したんだ。好きな曲を好きなように歌うのっては、わるくないね。いや。いいものだね。ああ、ちくしょう。腹こわしたな、こりゃあ。
(2004.4.25)-2
「いただきます」とぼくは言った。庸子は「はい」と肯いて、自分も箸をとった。
 しばらく黙々と食べた。天ぷらは、ちょっと油がわるいように思われた。かたちの整いすぎたコロッケは、その通りの味がした。味噌汁は、なんだか薄いようだった。でも、食欲がなかったから、特においしいともまずいとも思わなかった。庸子は勢いよく食べていたので、ぼくもできるだけ勢いよく食べようとは思っていた。
 だいぶ食べて、天ぷらの最後のひとつ、茄子のを庸子がつまんだあたりで、ぼくは箸を置き、お茶を入れた。急須の口から出るお茶の湯の束はきれいな緑をしていた。今度は少し濃くなってしまったようだった。湯のみを庸子の前に置くと、庸子は「あ、ありがとう」と口に食べものをつめたまま言って、そのまままだ湯のみを掴んでいるぼくのほうをじっと見た。ぼくはそれに気づいた。
「今日は、どうして来たの。何か、用があったのではないの」
 庸子は、そう言って湯のみを口もとに運んだ。ぼくも同じようにした。お茶は、たしかに濃かったけれども、そんなに悪くもなかったので、もうひと口飲んだ。ぼくと庸子は、小さなテーブルをはさんで向い合って座っている。ぼくは、ほとんど食べつくされた食器類や、お茶の湯を入れたポット、布巾、ティッシュケースに入ったティッシュの箱、ときどきは花の活けられることがある淡い水色の陶器製の一輪挿し、庸子が最近読んでいるらしい、積み上げられた数冊の文庫本と雑誌、ぼくの両手と庸子の両手、黄色の無地のテーブルクロス、そういったテーブルのうえのひととおりを順に眺めた。そして、頷いた。
 けれども、話すことがかたちあるものとしてすでにあったわけではなかった。猫は、轢かれてもしばらく放置される、というのは、明確な言葉ではなかった。
(2004.4.25)-3
やった。Owen の新しいのが出る。ミニアルバムだけれども、新しいのが出る。止めちゃったわけではない、そこんところが重要だ。それに、秋にはフルアルバムをリリースするとある(でも、もともと Owen はまともな分量のフルアルバムなんて出したことがない)。配られている一曲を聴いてみると、今回は、ぜんぶひとりでやるんじゃなくて、ちゃんと何人かで演奏するから、ちゃんとした厚みがある。でも、曲を書いているのはマイク・キンセラだし、歌うのもマイク・キンセラだから大丈夫だ。相変わらず、フォーカスのせまっこい、朴訥としたものであることに変わりはない。
(2004.4.25)-4
ぼくは Owen を、ハイエナみたいにして探しあてたわけじゃあない。れっきとした Chara の紹介である。音楽のことは音楽屋に頼むのがよい。プログラマがよいコンセプトやよいコードを嗅ぎ分けたり、小説家が佳作を抜き出したりするのと同じようにして、音楽屋もよい音楽を見つけ出すものである。
(2004.4.25)-5
小説が汎用性を失ったと言って嘆くのは勝手だけれども、それが「正しい」歩みであることを認めることも、基本的合意として必要なことだと思う。最も先端の原子核物理や遺伝子工学、応用有機化学が、マクロ経済学が、文化人類学が、国際法学が、最先端倫理学が、ちょっとの汎用性すら有していないであろうことは、まったくの素人であるぼくにすら諒解できる。そしてまた、文学もまた、それが「学」を名乗る限りにおいて、そういった必然の流れから無関係であることなどできはしないのである。つまり、文学が学問の一様態に過ぎないということをもっと積極的に認める必要があるということだ。量的統計学があらゆる条件下におけるたんぱく質の挙動を網羅することをするものでないようにして、似非哲学としての小説が、消費される娯楽としての虚構を扱うものでないことは、自明のことだ。文学のなやみは、そのフィードバッグの形態が、感覚的に受け取られるものでしかあり得ないという点にのあるのであって、難解で普遍性が明快でないという点にあるのではない。極論すれば、汎用性を有していた小説なんぞに大した価値は無いのである。そんなものは、歯車にベルトを噛ませて、それを引っ張れば車輪が廻るという、至極当たり前の、わかりきったことを声高に叫んで得意になっているのとさほど差異がないものなのである。そして、そんな原理だけでは、せいぜい 10km/h で走れる自動車が造れるだけに過ぎず、今では(あまりに当たり前の前提としてあるがゆえに)ほとんどなんら意味の無い、考慮すらする必要のないものであるに過ぎない。その原理だけでは、300km/h で走る自動車は決して造れはしない。断言するが、文学は、文学として扱うべき範疇におけるミクロの領域にどこまでも踏み込んでゆくべきである。それは限りなく専門的な事柄なのであり、そして、それを突き詰めた先にのみ、真にフィードバックすべき価値のある何かがあるのである。
(2004.4.25)-6
けれども、文学は、作品によってのみ前進するものであり、文学の困難の大部分は、そのあたりにあるもののように思われる。つまり、どこまで行っても、実学のかたちしか取り得ないのである。理論文学というのは、どこにも無いのである。それが文学の最も大きな困難であり、制約であり、幸福なのである。
(2004.4.27)-1
もったいないので、ケチ〜読んでいたのだけれど、二章クェンティン終わり。

(2004.4.27)-2
… そして父はぼくたちはもうしばらく眼を醒ましていて悪事の行われるのを見とどけねばならないそれはいつでも行われるとは限らないのだからといいぼくは勇気のある者ならそれまで眼を醒ましている必要さえありませんといいすると父はお前はそんな事をするのを勇気と思っているのかいといいぼくはそうですおとうさんあなたはそう思いませんかといいすると父は人間というものはだれでも自分自身の価値の決裁者なのだお前がそれを勇気あることと思うかどうかっていうことはその行為自体よりもどんな行為よりももっと重要なことなのだもしそう思わなければお前は真剣にはなれまいからといいぼくはおとうさんはぼくが真剣だとは信じないのですかといいすると父はお前はわしを面喰らわせるにはあまりにも真剣すぎるようだもしそうでなかったらお前は自分が近親相姦(インセスト)を犯したなどとわたしに告げるような苦しまぎれの手をつかう必要はなかっただろうさといいぼくは嘘なんかいいません嘘なんかいいませんといいすると父はお前は人間のごく当たり前な愚行を恐怖にまで高めそれを真実というもので清めようと思っていたのだよといいぼくはそれはキャディをこの騒々しい世の中から隔絶させるためだったのですそうすれば必然的に世の中はぼくたち二人を見捨てねばならなくなるでしょうしそうすればこの世の騒がしさはあたかもそれらが全然なかったように消えるでしょうからというと父はお前はキャディにそんな事をさせようとしたのかといいぼくはぼくは恐れていたのです彼女がしはしないかと恐れていたのですもし彼女がすればそれはなんの役にも立たなくなってしまうでしょうからだけどぼくがあなたに自分たちがそれをしたと告げることができればそれはたしかにそうなりそうすればもはやほかのことはそうはなれずそうすればこの世の騒ぎは遠のくだろうと思ったのですというと父はところでこのもう一つの自殺のことだがこの点でもお前は嘘をいってはいないがお前は自分自身のなかにあるものを一般的真実のあの部分をあらゆる人間のベンジーみたいな人間の額にさえ陰を刻む自然の出来事とその原因との因果関係をいまだに理解していないのだよお前は物には終わりがあるとは考えていないのだお前はかりそめの心の状態が肉体の上で均衡を保つようになりそして心自身とその心が完全には見すてようとしない肉体の双方を意識するようになる神化というものを考えているのだだからお前は死ぬことさえないだろうよといいぼくはかりそめですかといいすると父はお前はそれがいつかは今みたいにお前を悩まさなくなると考えるのが我慢できないのだお前はそれをいわば容貌は全然変わらないのに一晩で髪の毛だけが真っ白になってしまうような異常な体験として考えているようだがお前だってそうした条件のもとではそれをすることはないだろうそれは一つの賭けだろうさところで不思議なことに人間というものは偶然によって孕まされそしてその者の一息々々が前もってその人に不利になるように詰め物されている骰子(さいころ)を投げるにも等しいものなのに必ずぶつからなければならないと前もってわかっているあの最後の賭(は)りに暴力から果ては子供もだませないような誤魔化しに至るまでのさまざまな手段をためすことなしには立ち向かわないのだそこでついにはまったく厭気がさしてしまってただ一回のトランプの盲勝負にすべてを賭けてしまうものなのさでもだれだって絶望や悔恨や死別などに初めて打ちのめされたぐらいではそんなことをしやしないのだそんなことはその人が絶望だろうが悔恨だろうが死別だろうが腹黒い博奕打にとってはさして取るにたらないことだということを悟った時初めてやらかすことなのだよといいぼくはかりそめですかといいすると父はこう考えるのはむずかしいことだが愛とか悲しみとかいうものはなんの計画もなしに購入された一つの債券のようなものでそれは否応なしに満期になってなんの予告もなしに償還されその時たまたま神様が発行しているものと行き当たりばったりに取り替えられるだけなのさいやお前は彼女でさえもたぶん絶望に値しないだろうということを信じるようになるまではそうは考えないだろうよといいぼくはいいえぼくは決してそうは考えないでしょうぼくの知っていることはだれにもわかりゃあしないのですといいすると父はお前はすぐにケンブリッジに出かける方がいいと思うお前は一月ぐらいメイン州へいくことだってできるのだもし金使いに気をつけさえすりゃあそのぐらいのことはできる金に気をつけることはイエス様以上に心の痛手を癒してくれるっていうことを知っておくのはいいことかも知れないさといいぼくはもしぼくにもあなたが信じていることを理解できるとすれば来週かそれとも来月あっちへいってから理解できるでしょうといいすると父はその時お前がハーヴァードへいくことはお前の生れた時からのおかあさんの夢だったということをそしてコンプソン家の者は決して女の人を失望させたことがないっていうことを思い出すだろうといいぼくはかりそめですかでもそうする方がぼくにとってもまた家のものみんなにとってもいいのでしょうといいすると父は人間はだれでも自身の価値の決裁者なんだがしかしだれだって他人の幸福を規定することはならないのだといいぼくはかりそめですかといいすると父はあった(ウォズ)というのはあらゆる言葉のなかで一番悲しい言葉なのだこの世にはそれ以外になにもなくそれは時間が生じるまでは絶望とはならないしそれがあった(ウォズ)ということになるまでは時間でさえも生じない
フォークナー 「響きと怒り」 第二章 クェンティン 一九一〇年六月二日 抜粋

(2004.4.27)-3
更に切り出し
(2004.4.27)-4
父はお前は人間のごく当たり前な愚行を恐怖にまで高めそれを真実というもので清めようと思っていたのだよといいぼくはそれは〜させるためだったのです
(2004.4.27)-5
お前は自分自身のなかにあるものを一般的真実のあの部分を〜自然の出来事とその原因との因果関係をいまだに理解していないのだよ〜だからお前は死ぬことさえないだろうよ
(2004.4.27)-6
愛とか悲しみとかいうものは〜行き当たりばったりに取り替えられるだけなのさ
(2004.4.27)-7
あった(ウォズ)というのは〜この世にはそれ以外になにもなく
(2004.4.28)-1
なぜ、父が「お前は、人間のごく当たり前な愚行を恐怖にまで高め、それを真実というもので清めようと思っていたのだよ」と言ったとき、「それは、キャディをこの騒々しい世の中から隔絶させるためだったのです。そうすれば、必然的に世の中はぼくたち二人を見捨てねばならなくなるでしょうし、そうすれば、この世の騒がしさはあたかもそれらが全然なかったように消えるでしょうから」と応えたのか。応えることができたのか。なぜ、否定ではなく、説明なのか。
(2004.4.28)-2
抜粋した部分におけるクェンティンのロジックにはほとんど実体が無い。重要なのは、父の発言に対する反応だけ、すなわち肯定したか拒絶したかだけである。なぜなら、彼は行為する者であり(彼の行為とは、つまり自殺のことだが)、行為する者にとって、その行為の正統性などは実際には問題でないからである。それに対して、彼の父親は行為せざる者であり(父親の直接の行為は自殺ではなく飲酒だった)、せざる者にとってのみ、論理と分析と正統性とが遡上にのぼるのである。
(2004.4.28)-3
行為する者である彼が、この父親の発言を拒絶しなかったということは、彼がその言葉を耳ざわりよいものとして受けたということに他ならず、したがって、父親の発言は逆説や皮肉ではなかったことになる。「人間のごく当たり前な愚行を恐怖にまで高め、それを真実というもので清める」というのは、どういうことなのか。
「すなわち、神ではなくて、彼自身が、近親相姦という罪によって、自分自身と妹を地獄に投げ込み、そこで彼は永遠に燃える火にかこまれながら妹をいつまでも守り、いつまでもそのままの姿で保つことができるという考えを愛したのだった」
「我と我が身を到底回復し得ないほどに損なう」という滅亡の民としての自覚とは、父親の言うところの「人間のごく当たり前な愚行を恐怖にまで高め」ることだとするならば、そして彼の妹への愛情は、つまり自己同一化のことであると認めるのならば、「真実というもので清める」こととイコールになるというのは本当だろうか。「我在るかぎり、負け続けなければならぬ」とは、「真実による浄化」のことなのだろうか。けれども、「浄化」とは、何のことを指しているのだろう。それから、なぜ、クェンティン・コンプソン三世はキャンダシー・コンプソンと一体化すること(正確には、二人が他のあらゆるものから隔絶すること)によって、永遠や浄化が訪れると信じるようになったのだろうか。それは、兄妹であるためか、それとも、男と女であるためか、あるいは双方のためなのだろうか。そして、キャディはなぜ「あたしはもう死んでるわ」と認識するのだろうか。女は自殺しないからだろうか。
(2004.4.29)-1
コミュニティ
(2004.4.29)-2
コミュニティ?
(2004.4.29)-3
ときどきは翌日目ざめないこととかあればいいのに。九十六時間くらい。
(2004.4.30)-1
なんとも言えない温度の風が吹くようになり、ぼくは完全に窓を開けて暮らすようになった。外には、空間的な接合点以外のあらゆる結びつきが微弱になり、ただ面積密度の高いだけで都市と呼ばれている一体が広がり、開いた窓からは、現在のそれが呼吸し生存のための自己運動によって生ずる振動が音として、その風と共に入り込んでくる。ぼくは温度の風をときどき感じながら、その音を聞く。それは地表で発生し、空間へ向って進み、拡散するにつれて弱められ、おそらくこの温度が保たれている高度のあたりで途切れている。そこまで達すると、昼間であれば、もはやこの都市はただの灰色のまっ平らな土地にしか見えず、そこのすべてが焼け焦げた廃墟であってもおなじように思える。けれども、夜はそうはならない。夜の都市は、それが焦土でないことを、他のどんな様態の土地よりも強く主張する。都市は、発光する。さまざまな色した無数の光の点が都市のあらゆる部分にともり、その光点一つ一つがそこになんらかの生存があるということを単調に、けれども強力に主張する。そして、光点はあるところでは濃く寄り集まり光の帯となり、さらに幾筋が集い織り成されて地表を覆う光の布になる。その布は、風の温度も地表の音も途絶えた高度においても、いやむしろそれほどの高さにおいてより強く、都市の存在と生存を示す。強く輝く部分には都市の旺盛な活動があることを知らしめ、そこから放射状に伸びた光の筋が都市の血流のようなものを想起させ、その余の暗く弱く光る部分には穏当で深い眠りの呼吸が散りばめられているのを暗示する。光りあるところには都市の音と温度とがある。広げられた光の布は確かにそれを示している。けれどもやがて、その光の布はあくまで光の点の集合としてあることが、ちょうどここでなないどこかの非常に澄んだ夜空を見上げたときに銀河を星の集団として認識するのとおなじように、あるいは上等な麻の単衣のように知覚されてくる。一枚の布はそれを構成する点にまで再び還元され、個々が独立し始める。そして、だんだんとその独立とは孤立のことであり、無数の光点たちは空間的接合より他に互いに接点を持たないのだということが理解されるようになる。個々の光どうしは滲まず、溶け合わず、それに対して頑なというよりも、それへの絶対的無知によって、どうしても個々の点としてのみ存在せざるを得ないという印象を受けるようになる。ぼくの部屋の開いた窓からは風と音が入り込み、かわって光の点が出ていっている。それがわかる。


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