tell a graphic lie
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(2004.7.3)-1
一日に、辞めるむね上司に申告しました。勤務表を提出するついでに言いました。いろいろとネタを取り揃えて行ったのですが、そういうのはやはり事にあたっては何の役にも立たないもので、理由を求められて「今プログラムを書いている時間を小説を書くことにあてたいので」と言いました。「もう二十五なので」とも言いました。昼食に出たついでに、同期にも言いました。少し驚いたようでした。まだ一緒に仕事をしている人たち全員に言ったわけではないので、具体的な時期などを決める段階ではないのですが、それも月曜か火曜のミーティングで決まることでしょう。
(2004.7.3)-2
現在の心境としては、まだその意を伝えていない人たちに対して、それ以前よりもはっきりと「隠しごとをしている」という感覚があり、多少うしろめたい気持になってはいますが、これはこの二三日のことでしょう。そのほかは特に、これといって特別な感慨は湧いてきません。解放感も特になく、先々への不安も、現在はほとんどありません。ただ、三ヶ月程度先のぼくの状態についての予測が、「週五日、相変わらず今と同じ時間に起きて会社に行き、十二時間ほどそこにいて戻ってくることだろう。休日には、書きものをしているだろう」というものから、「日が暮れるころになって起きだし、夜が明けるころに作業を終える日々を特に障害のないかぎりは続けることだろう」というのに置き換わったに過ぎません。それから、東京を頻繁に見てまわるようになるとは思っています。必要であれば、また東京に住まうことになるかもしれません。そしてもう一度、見たものを見たとおりに書くという、基本的なところからやり直したいと思っています。そして、その成果を、どこからか持ち出してきたモチイフに映し出してみたいと思います。
(2004.7.3)-3
両親にも通達しました。母親は心配事が増えるのを本能的に厭悪しているようでしたが、それが相談ではないことは判ったようでした。父親は何もいいませんでした。
(2004.7.3)-4
阿部和重「シンセミア」今日は四分の一程度まで読み進みました。文章は、たしかにフォークナー、ガルシア・マルケスあたりの雰囲気を基調としています。そして、その上にマンガ的な過激さに対する指向を加えたといったところがアウトラインになるのではないかと思います。けっこうよくできていると思います。欲をいえば、少し淡白といえるかもしれず、全体的にもう少ししつこく書いてもらえると、独自の異様さが滲んできたように思います。今のところ、登場する人物たちはおおむね青年誌系の典型をはみ出しておらず、既視感があります。それは「現在」を扱った作品であるので見慣れているためなのかもしれませんが、それだけでもないように思います。日常のなかの異常性やエログロに関しては、現代の日本ではマンガが最も強い分野ですので、対抗するには相当な力を要するものですし、文学における個性の異常さというのは、主にグラフィカルに表現できない部分にあるのですから、その意味では物足りないわけです。けれども、これは現代の特徴と関連のある事柄かもしれないので----現代の過剰なまでの可視化というのはときどき言われることです----一概に批難すべきことでもないのかもしれません。けっこういろいろな形式を試してもいますし、喋りに堪える作品ではないかと思います。ただ、「百年の孤独」のあとなので、登場人物の薄さについてはいろいろと不満を述べたててしまうかもしれません。けれども、それもまた現代の日本の鏡像としては正しいのかもしれません。だから、けっこうよくできているんだと思います。うん、やっぱり「今」の作品を判断するのはとても難しい。
(2004.7.3)-5
いや、判断する必要などないのかもしれないな。ぼくはこの先もずっとこういうようには書けないはずで、だから、純粋に楽しんでいればいいのかもしれない。そういう意味ではよくできた、読みやすい文章でフォークナーのように難儀したりはしない。でも、こういった作品の場合、それはむしろ欠陥だとはどうしても思う。まあ、とにかくもうちょっと読んでみて、何か言ってみよう。
(2004.7.3)-6
終わりを書き始める前にもう一度。
(覚醒都市)
 きょうも
 嘘のように磨かれる街並みを
 目的があるように歩く 僕

 泣いているの?
 ほんのささやかな過去たちよ
 見上げれば
 デジタルのスクリーンに
 空が

 風の歌を
 高い階段を上り
 聞こうとした
 抱いて
 甘く傷ついた夢がもう
 覚めてもいい
 泣かないで

 病んだ都市まち
 いびつなゆりかごで育った
 僕たちは知らない
 愛し合う意味を

 痩せた腕を
 強く引き寄せた
 騒音が襲う舗道を
 ただ駆け抜けるだけの
 人波の奥深くへ
 隠れよう

 冷たく白いアルミのキスは
 いつでも引き出せるよ
 ディスペンサーから
 それでいいね?

 風の歌が
 地上の果てから届く
 この世界へ
 まだ君のことさえも
 信じないこの心へ

 だけど甘く傷ついた夢を
 抱きしめる
 ただ駆け抜けるだけの
 僕たちの愛おしい今を
 抱きしめる
新居昭乃

(2004.7.4)-1
阿部広重「シンセミア」今日いちにちかけて読んでしまいました。実に面白かった。単純にすげえと思った。
(2004.7.4)-2
そして、これ以降はみな、「シンセミア」のような面白い小説など書けぬであろうし、また書こうという意思も持てないであろう、百枚ちょっとのまったく面白くない小品ひとつをすらまとめ上げるのに汲汲としている、半端者の一読者が、よろよろになってしまった自信をどうにか救い上げ、持ちこたえさせようとして、すなわち、もっぱら保身のために書いているのだということをまずお断りしてからはじめさせていただくことにしようと思う。大変に卑屈な恥ずべき姿勢ではあるけれども、どうやらそうでもしなければ、今日は一行も書けず不貞寝をするよりほかないようなのであるから、なにとぞご勘弁願いたい。では、はじめる。まず、昨日書いた感想は八割がた誤っていた。「シンセミア」は、フォークナーにも、ガルシア・マルケスにも似ていない。似ているのは、その舞台装置----すなわち、一個の町における群像劇(と呼称されるらしき、その形式)----それだけであり、昨日四分の一を読み終えた段階で「似ている」という所感を抱いたのは、おそらくはその形式のためであろうと思われる。すなわち、その前半における舞台装置の説明の記述が、文体よりもその内容によって、フォークナーたちと似ているように見受けられたのである。中盤から後半にいたり、物語がそれぞれ固有の色彩を強く滲ませるようになるに連れて、阿部和重の書く文章は、フォークナーとも、ガルシア・マルケスとも、まして、アンダソンとも、まったく似通っていないことははっきりした。フォークナーの技巧の極致でも、ガルシア・マルケスの直進的な意思をおもてするものでも、アンダソンの団欒の夜のストオリイテラアでもなく、阿部和重のは秀才エンタテナアのよくできた文章だった。軽やかな知的ハイセンスそのものだった。だから、すごく面白かった。けれども、それだけのことで、だからフォークナーともガルシア・マルケスともアンダソンとも決定的に似ていないのだ。そして、まさにその意味で、「シンセミア」はぼくの想い描く小説とは全然異なるものだった。「シンセミア」には、意思が無い。純粋のエンターテイメントで、その意味では実に優秀なのだ。何度言ってもいい、その意味では実に、じつに優秀なのだ。だから、自信をもっておすすめできる。「これは面白いよ」でもフォークナーとは全然ちがう。ガルシア・マルケスとも、アンダソンともちがう。「シンセミア」の目指すものは、小説の面白さであり、それ以外ではない。そして、それがゆえに、「シンセミア」は決定的な部分において「深入り」することができていないのだ。物語は、結局のところ、物語を読む快楽という目的のみにその体の正面を向けており、物語を読む快楽というのは、小説のもっとも表面的な部分であるから、それは当然のことなのである。その結果、そこに記述されたのは、極めて直感的な欲求(肉欲、金銭、権勢、ドラッグ、暴力、脅迫、恋愛、性的倒錯、ゴシップ等)と、それをめぐるすばらしい狡智と打算と息をのむような駆け引きと、それらを包み込む集団心理の大きなうねりだけになってしまった。ほんとうに、それだけになってしまった。もちろん、「それだけ」をうまく書きつくすことがどんなに困難なことかは、いまは度外視している。その上で、なおも言わなければならないのが、ぼくは小説に対してそんなものを望んだことは一度もないのだ、ということである。小説はあらゆるものを書き表さなければならない。それも知っている。しかし、これはぼくの求めるものとはずれている。中盤以降の文章はおしなべて、広げつくしたカードたちをいかに組み合わせて、或る規則(物語のロジック)にしたがって、最終的に順序良くならべられるようになるまでの手腕のみに重点が置かれたようであり、それ以外の目的はどこにも見当たらなかった。八十人もの登場人物と、それと同数にもなろうかと思われる小道具やエピソードを、無様にならずに取り扱うのは、ほんとうにほんとうに難しい。ぼくには一生できないことだろう。できないから、こういうように書かざるをえないのである。ぼくはちがうものを書こう。ちがうかたちで、フォークナーを目指そう。サートリスも、コンプソンも、サトペンも、物語の都合ではなく、現に滅びるべく運命づけられていたために、実際に滅んだのであり、それは必然なのであって、フォークナーはそれを書いて表したに過ぎない。それは田宮一族や、盗撮団「オレンジ」のメンバや、警察官中山正、チンピラ隈元光博の顛末とはまったく異なったものだ。彼らは物語のために死んだに過ぎない。その違いは決定的なもので、幸か不幸か、そのように決定的な記述されるべきものを現代の日本において見出すのは甚だ困難なことといわざるを得ないのである。はじめに、八割が間違いだと言った。残りの二割の正解とは、すなわち、過度の可視化という点が主のようである。
(2004.7.6)-1
自己を愛しむ心。一人称。

(影向)
 ホームに入って電車を待つ列についた老人は、列の前にさっきの女を見出した。
 乗客は乗車位置に三列に並んで待つ。地下の階段を出てすぐの列についた老人の前二人おいた筋ちがいに女はいた。老人は右の列の六番目、女は左の列の三番目である。女は淡い虹のようなスカーフに髪を包んでいた。
 夕方になっても、暑気は退かない。もの憂げでだれた感じのシャツの男たちにまじって、頭ひとつ低いそのスカーフは目立った。
 女は袖なしのブラウスを着ていた。卵色の地に小さな藍の渦巻きをあしらったブラウスは、首のえぐりが大きいので、首筋が付根までひろく見える。右肩がこころもちさがってブラウスの襟首もすこしそちらにずれているのは、右手に重い紙バッグを提げているからだ。糸のような金の鎖を這わせた首の付根は白く、夏も終わろうというのに陽に焼けたあとがない。
 さっき、地下鉄を降りた老人は、改札を通って通路に出たところで、女に追い越された。地下鉄では車輛がちがっていたのか、気付かなかった。
 女はジーンズを穿いていた。堅太りで腰の張ったその後姿は、店で買物をすればまず「奥さま」と呼ばれる年恰好で、普通の日本の女の体つきであるのに、ジーンズがふしぎに似合って、堅い服地のつつむ腰が老人の前で揺れていた。女は体をまっすぐに立てて、スカーフの端を耳のうしろにひらひらさせながら、通路の人混のあいだを縫って歩いて行った。老人はその足早に驚いたが、眼がはなせない思いで、人混に見え隠れする後姿を追うようにして、乗換の電車に急いだ。
 地下の通路は前方正面にデパートの入口が明るく開いてケーキの売場が見えてくるところで丁字に分かれ、右にとると郊外電車の乗車口に出、左は、地上への階段や地下街につづく。女は老人との距離を何間もひろげて、右に折れた。
 あんなに急ぐのは家に子供を置いてきたからだろうか。女の姿の消えた通路が急に味気ないものになったのを覚えながら、老人は胸のうちでつぶやいた。今どき、スカーフとはめずらしい。女は引越しの手伝いにでも行ってきたのだろうか。それとも、病人の世話をしてきたのだろうか。家族の誰か----自分のような年寄が入院しているのかもしれない。物見遊山とはちがう生活のにおいが、その動きやすそうな服装にも、きびきびした動作にもあった。
 老人は想像した。
 マンションの窓がいて、女がその服装であらわれる。ベランダの花の鉢に水をやり、小物の洗濯物の、環に吊したのを窓際に掛けたりする。ベランダに陽がさして、手の甲をかざしたのは、まぶしいのか。それとも、額の汗を拭いたのか。振り向いて何か言うのは、後ろに小さな子供がいるからだ。女はそういう生活の額縁にはめて、ぴったりと納まるようであった。
 老人の想像はまた別のところに動いた。
 女はその姿のまま、カウンターの中にいて、ウイスキーの水割などをつくっている。スカーフとジーンズでは、バアはおかしいだろうか。女はその構わない身なりのなかに、ふりこぼす精気のようなものを秘めていた。
 乗車口で切符を買ったり、乗る電車のホームを確かめたりしているうちに、女のことは老人の念頭から離れていった。都会の雑踏は印象をすぐにも塗り替える。女の後姿は老人のつよい注意をひいたにもかかわらず、改札を入ってホームへの階段をのぼるとき、老人はもう女のことを考えていなかった。階段を踏むたくさんの足にいてのぼりながら、ただ暑いと思うだけのぼんやりとした気持だった。日曜日なので、ラッシュの時刻でも平日ほどの混雑はないが、いくつもあるホームからひっきりなしに出るこの時刻の電車で、もういちど女に会うなどとは考えもしなかった。
 女は人生の崖っぷちに身を置く老人のこころに、灯をともすようなものを持っていた。後姿からだけではいえないが、女は十志子に似ているようだった。
 電車の到着を告げる放送があった。老人のうしろに、列が出来ている。
 女が入ってくる電車をうかがうように、横を向いた。スカーフで髪をまとめているので、横顔がすっきりとかくれなく見えて、すこしきつく結んだ唇の紅が冴えた。よじった首に、ひと筋、ななめに溝が入る。
 女は顔をもとに戻した。虹のようなスカーフがまた女の頭部を支配する。
 老人は、女の横顔を見たことで彼の想像がこわれなかったのをよろこんだ。
 もういちど、振り向く。白い顔が動いて、こんどは額が老人の目を惹いた。生え際をすこし残すあたりをスカーフの縁が限って、額をいっそう白くうつくしく見せていた。その下に尋常な眉と目がある。鼻筋から脣につづくやわらかい線にも、彼は惹かれた。
 女は瓜二つとはいえなかったが、顔立にも、体つきや身のこなしにも、十志子を思わせるものがあった。遠い記憶を揺りおこすかのように、一人の見知らぬ女がそこに立っている。例にないことだと老人は思った。どれだけたつのか、顧みて彼自身さえ驚くほどの歳月が一跨ぎの距離となってそこに置かれていた。人生の時間の感覚が混乱してゆくようであった。
 老人はハンカチを出して、首の汗をぬぐった。
 電車が入って来た。
 そこは終着駅で、車内の客が向うのドアから降り、車内が空になって、それが閉まってから、列の前のドアが開く。
 老人は席を取りそこねた。座席の前の吊革につかまるのは、席を譲ってもらいたがっているようで、いやだった。老人は黒革の手提鞄を網棚に置き、突当りのドアに向って、シートの端ちかく立った。押し合うほどの混みようではない。
 老人の鞄のなかには、最近出た有名な俳人の句集が入っている。席が取れれば、取り出して読むつもりだった。読書用の眼鏡も鞄の中にある。句会の詠草も入っていた。老人は区民会館を借りて行われる、所属結社の月例句会の帰りだった。
 定年で会社を辞めてから、老人は俳句をつくりだした。定年後就いていた傍系会社の嘱託も先ごろ退いたので、老人にとってこの世の甲斐は俳句だけになっていた。
 さして素質があると本人も思っていないが、執念が稔って、いまでは同人のかなりのところになった老人は、死ぬまでに一冊句集を持ちたいと考えて、ひそかにこれまでの句を整理にかかっていた。主宰者になんと言われるか。たぶん、まだ早いと言われそうだった。整理をしてみて、自分の句の底の浅さがはっきりしてくるのを感じた老人は、申し出るのを躊躇してきたが、その日、句会のあとで、思いがけないことに向うから、
「あなたもそろそろまとめてみてはいかがです。」
 と囁かれた。
『どういう題にしようか。』
 嬉しくなった老人は、そんなことをあれこれと考えながら地下鉄に乗ったのだった。
 彼の句は年に似ず艶があると言われることがあった。そういうとき、老人は、彼の句の底にひらめく朱の色を否定しなかった。
 十志子は国元にかえってから、土地の白桃を送ってきた。
「生きていますしるしに----」
 と、次の年からは季節のり物だけがとどいていたのが、何年かたって、
「もうお送りできませんわ。つらい病気で入院しますから。」
 そう言ってきた。
 手紙をしおに、贈り物は絶えた。老人にはそれが遠い昔のことにようにも、ついこのあいだのことのようにも思える。罪を負って、生きてきたようなものだった。
 車中の女は立っている老人のちかく----端から二番目の席に、中年の男にはさまれて掛けていた。大きな紙バッグを足許に立て、ハンドバッグをその口に落して、膝先に揃えた両手でいっしょにつるを持って、背すじを伸ばしている。
 老人は女をやや右の方から見下ろすかたちになった。女の前に立っている人はない。
 発車を待つあいだの落着のわるいしばらくを、女は眼をあげて向いの網棚の上の広告をながめた。老人も何となくあたりを見まわすていに、その方を見た。建売住宅がある。水虫の薬がある。結婚式場がある。結婚式場に並んで、公園のような景色を絵にした霊園の広告があった。霊園はとおい沿線の、丘陵地の人造湖に臨んでいた。老人は最近、そのあたらしく出来た霊園に墓地を買っていた。
 眼の前にいる十志子に似た女は、彼の記憶にある十志子よりもいくぶんふけて見えた。国元にかえった十志子が、生きているしるしにといって送ってきていた年々の生り物を、「もう送りませんわ」と断ってきたころの年齢に当るのだろうか、と老人は考えた。
 ターミナルを出た電車は冷房を入れて走った。
 しばらく高架を走り、そこでゆるやかに大きく曲って、西を目指す。
 カーブにかかると、窓に夕陽が射してきた。入口ちかくに立っている老人の半身を染める夕陽は、スカーフの女の首すじを明るくした。金の細い鎖がひかり、肩も明るんで、光は肩口をすべってななめに胸のふくらみにとどいたと思うと、また波のひくように、肩まで退いて、そのままうごかないでいる。背後を陽に照らされて、女の顔は翳った。
 高架の上に見おろす街は夕陽の底に沈んで、城のようなマンションが、片面かたもをあかくかがやかかせながら、窓のむこうを遠ざかっていった。雲はまだ夕焼まえの、憂えをおびた灰色である。
 気付かれてはならない、と老人は思った。だがこうも見ないでいられないからには、老人の無礼な視線はもう気付かれているかもしれなかった。
 夕陽の窓を背に、表情を翳らせるスカーフの女を、老人は窓の外にはなつとおい視野の中にとらえた。目の下につづく家並も、道も、道を行く車も人も、遠方の黒ずんだ森も----それらの風景は彼には見慣れた風景なのに、いつもとは、違って見えた。旅にあるような気分だった。
 岬への旅に、十志子は髪をスカーフに包んできた。彼の誘いが急だったからだろうか。老人のこころは過去にむかって、浮いた。
『あのころは流行でしたのよ。いまのは実用ですけど。』
 スカーフの女が答えた。逆光に荘厳されて、表情ははっきりしない。声もきこえたのではなかった。
『巻き方も違っていたようだが。』
『ええ、ターバン風に巻きましたの。印度更紗でしたわ。』
 そうだった。老人は思い出した。宿で十志子はスカーフを解き、浴衣に替えた。用意してきた浴衣だった。部屋にそなえてあるのとはちがって、糊をころした、地の厚い浴衣だった。
 ベランダに出ると、眼下に黒い海があった。島影が迫って、船の灯も、島の灯も見えない。夜気のおりたベランダに、十志子は花模様のある白い浴衣の後姿を見せて立った。
『梅の花だったね。梅に短冊があしらってあった。』
『短冊ではありませんわ。お御籤よ。それが枝に結えてあるの。』
 一晩すごした浴衣を十志子は服にもどった膝をついて、ていねいに畳んだ。畳む横顔の、真剣なまたたきを彼は見ていた。
「この浴衣には思い出が残るわ。かなしい思い出に、しないでね。」
 畳み終わると、小豆色の伊達巻を端によせてその上に重ね、もう半分に畳んだ。鞄におさまるかたちになっている。
 彼は引けないところに来ていた。それが昨日のことのように思われる。
 電車は大きな迂回の個所を過ぎようとしていた。女の首すじに落ちていた夕陽は、引きしぼられるように窓を離れていった。
 最初の停車駅で、かなりの人数が降りた。まだ、立っている人も多い。電車は高架から平地に移って、あるところは家の軒ちかく、あるところは道路にそって、いくつもの踏切で人や車を塞止めながら走った。家の庭に、夾竹桃きょうちくとう百日紅さるすべりの花が咲いていた。乗客が減っただけ、女を見詰める自分が目立つかと、老人は警戒した。
 女はハンドバッグをあけて、赤革の手帳を取り出した。手帳の背中から細い鉛筆を抜く。何か書きつけようとして、鉛筆を持つ手を脣に当てて、考え込んだ。手帳を持つ手の肘が、隣に眠っている男の領分を犯しそうになる。
 いつのころよりか老人は、女の肘のみずみずとうつくしいのに、惹かれるようになっていた。肘だけというのではなかった。顔も、手足も、衣服の包む部分も、女の全体が匂いやかに彼の前に動いて、いつまで見ても飽きることがないなかで、肘も彼の眼にかがやいて見えてきたのだ。男たちといえば、男は若い者もそこに胼胝たこや黒ずんだ皺をつくっていた。老人は夏も上衣を着たが、それは車内や建物ののなかの冷房が身にこたえることのほかに、醜さを恥じる気持もあった。
 老人は嗜欲がうすくなったにもかかわらず、街に見る女の丸い足首や、うすいピンク色をした踵にも、どうかするとどうかすると気もそぞろになる自分を見出して、あやしんだ。死の前ぶれのような気がしてならなかった。
 老人はつややかに光る女の肘を見、肘の関節の内側のほのぐらいひだを見た。めずらしく、嗜欲がかえってくるようだった。
 女は細い鉛筆の尖を立てて、指のしなう持ち方で、手帳に何か書きつけた。
『何を書いているのだろう。』
 買物のメモだろうか。明日にもしなければならない外出の手順だろうか。それとも、パートから送らせる品物の数や宛先だろうか。老人の想像はそのあたりを出ない。瞳が寄って、女は引緊った顔になった。
 まだ灯をともすにははやい車内は外光よりいくらか暗く、夕陽のさすのが止んでからは、均一なほの明るさになった。閉め切った冷房車は、髪を乱す窓からの風も、吊り広告をあおる扇風機の風もない。老人の頭の上で、冷たい空気の噴き出す音がしていた。家並が切れて、菜畑などのまじる郊外の景色があらわれた。
 停車駅に来た。女の右隣り、老人にいちばんちかい隅の席に眠っていた男が、急に、女の肩を乱暴に擦って立ち上がって、降りていった。
 女はおどろいたように出て行く男を見送ったが、空いたあとに坐ろうとする老人と、目が合った。飽かず見詰めすぎたと思った老人は、女の目に、咎める色のないのをみて安心した。そればかりか、彼は、ちら、と見上げた女の目に、咎め立てでも、無関心でもない、或るひかりをみとめたと思った。本当だろうか。年寄の分別が、それを打ち消した。
 空いた席は肩幅のある老人にやや窮屈で、彼の腕は上体を立てた女の後ろの腋あたりの肉に押された。振動が接触の感覚をつよめるので老人は困惑したが、女は気にするようではない。しずかに、手帳にむかってまばたきをしている。においが、老人をいっそう悩ました。
『余儀ない仕儀とはいえ、女に警戒の色のないのは、老人だからだろうか。』
 見ようとしないでも、女の白い顔は目の隅にあった。手帳をもつ手に、冴え冴えとある翡翠らしい指輪が、なまぐさいほどしなやかにその指を見せていた。
 女は手帳をハンドバッグにしまった。口金を開けると、内張りの布のかもす濃い臙脂の闇もそこにたまっているかのようで、老人はそういう動作の逐一を、後ろの腋ちかい、女の腕の感覚をとおして受け取った。盗んでいるという気はしない。それが老人には救いだった。
 車内に灯が入った。外はまだあかるいが、沿線の家の窓の、灯の色も見えてくるようになった。
 女はうつむいて、目を閉じた。眠ったとみえて、すぐにも体がやわらいできた。電車の振動は老人を単純に揺するだけだが、女の体にはもっと微妙にはたらきかけて、それを内部に留め、留めながら増幅するかに思われ、老人は彼によりかかる女の弾みを重ねるような揺れ方にこころを奪われた。それに、冷房によわい老人に、押しつけてくる剥き出しの肌の温みは、恵みといってよかった。老人はいつしか、女の腰にも押されていた。
 岬の宿で、湯のあとの膝ゆるく坐っていた十志子が思い出された。彼は梅にお御籤をあしらったその浴衣に、あつい息を吐いた。
 旅のおわりの列車のなかで、十志子は彼の肩にターバン風に包んだスカーフの頭をあずけて眠った。
「みっともないわ。」
 醒めるとあたりを見まわしてそう囁いたが、肩にあったその重みが、彼には幸福の量のように思われた。
『それなのに、自分はその女を幸福にしなかった。枝に結ばれたお御籤は多くは凶だというが、またあまりの吉兆は、かえって恐れをさそう。あの浴衣地に描かれたお御籤には、どんな辻占が書かれていたのだろう。』
 とおい日のことだ、と老人は回想から逃れようとした。しかし彼は自分の句が、いまも、どうかすると梅の枝に結ばれたお御籤を解こうとしているのに気付いていた。
 三たび電車が停まって、動き出したとき、立っている乗客はなくなっていた。ところどころ空席もできていた。
 停車のあいだも、女は眼を醒まさない。振動や減速や加速は、感覚に慣れてしまおうとする老人を絶えず励ましていた。揺られながら眠る女は、やわらかい、いい匂いのする、輪郭の曖昧な物体となって、電車の動きのままに、圧迫を加えたり、緩めたりしながら、ますますつよくりかかってきていた。
 車内は静まりかえって、走る車輪の音と、噴くような冷房の音が、人語のない夕暮れどきのひそやかな感じを強めていた。
「夏スカーフ----」
 突然、老人は声を聴いたと思った。句会における披露とおなじ、高い調子で、女の声だった。老人はぎくりとした。
「----ついに妻たりがたき身を。」
 声はつづいて、そう言って、止んだ。どこから聞こえてきたのか、澄んだ声だった。
 老人はあたりを見回した。乗客は眠ったり、本を読んだりしていたが、誰も声に驚いた様子はない。彼は隣りの女をうかがった。女はぐっすりといった様子に、彼に凭りかかって眠っていた。女が声を出したということも、ありそうになかった。
 空耳にしてはあまりにはっきりと聴こえたので、老人のこころは騒いだ。不安だった。けれども電車はこともなく走りつづけ、乗客は静まりかえって、蒼ざめた老人に注意を向けるものもいない。
 空耳、と思うしかなかった。そう思うことで老人はすこし落着を取りもどした。声のひびきに、懐かしさを誘うもののあったのも、老人を慰めた。
「夏スカーフ、ついに妻なりがたき身を。」----言い取ってみて、老人は俳句だと気がついた。どこかで読んだことがあるのだろうか。記憶になかった。
 降りる駅がちかづいていた。老人は女に別れるのが惜しく、自分の方から押し返して、女の体を験したりした。降りるためにも、そうして押し返しておく必要があった。力の加えようが慎重なせいか、女は目覚める気配がない。
『どこまで帰るのだろう?』
 電車が駅の構内に入って、老人はしずかに体を抜くようにして立ち上がった。女が身じろいだ。起したのかと思ったが、そうではないらしい。女からはなれると、老人は体じゅうの力が抜けていくようだった。彼は網棚から鞄をとり、その位置から女を見下ろした。別れを告げる気持だった。スカーフの女は、ジーンズの膝の上のハンドバッグに両手をそえて、うつむいて眠っている。
 黄昏のせまったホームに降り立った老人は、寄せてくる暑さに喘ぎながら、振り返った。まばらになった車内に、女は同じ姿勢で眠っていた。
 老人は会談までの長いホームを歩いた。かたわらを、灯の明るさの目立ちはじめた電車の窓が、しずかに動き出した。
 老人はその窓をのぞくようにして歩いた。後尾の車輛が近付く。電車は次第に速力を増していた。
 老人はもういちど、女を見ようとした。
「いない。」
 空のシートが老人のそばを明るく過ぎて、電車は、濁った夕焼ののこる西方に向ってみるみる遠ざかって行った。
「いない。」
 老人の足はよろめいた。
 奈落のような階段が見えてきた。降りようとして『影向ようごう』、この言葉がひらめき、踏み出した老人は辷って、崩折れた。
 呼ぶ声が、老人の耳に、遠くなった。
上田三四二

(2004.7.7)-1
新居昭乃氏の新しいアルバム、めでたく発売が決定いたした。実にめでたい。氏を知ってから、はじめての作品集である。氏は、この一枚を作るのに、ぼくがここを貰ってはじめてからよりも長い時間をかけている。丸三年。たいへんにうらやましいことである。市中に出回るのは、九月八日である。ぼくのものも、それまでには間に合うだろう。
(2004.7.7)-2
そんなことより、「かいそう」が止まってから、じきに一年にもなってしまう。下手くそになっているというのは、あながち思い過ごしではあるまい。
(2004.7.7)-3
ジョアン・ジルベルトのチケットも取れた。行ってこようと思う。あの爺さんのライブは行く価値がある。生存している在り難い人間のひとりである。
(2004.7.9)-1
半月球
(2004.7.10)-1
 ぼくひとりが、という想念に取り憑かれて部屋を出た。うつむいて顔をあげないまま歩き出し、違和感に近い感覚をおぼえて顔をあげると、眼球と頭蓋の隙間に冷たい空気が入りこみ、そのまま頭のなかを一巡して費えるのを感じた。体の正面で一瞬の突風を受けるときのようなその感覚をぼくはかろうじて抑えつけ、その先からやってくるものを凝視しようとしてこめかみに力を篭めなければならなかった。表面を覆う水膜が干上がり、むき出しになってしまった眼球に映るすべてのものは、いつもとまったく同じ部屋の前の路地の風景で、木造モルタルのアパートがあり、それを囲うコンクリートブロック製の外壁があり、それが切れたところに立っている、目の高さの部分を広告紙で一まわり包まれてしまっている細い電柱や、そのたもとの乾いた土から伸びている、よく見かけはするが名も知らぬ数種の雑草たちや、ゴミ収集箇所であることを意味する緑のネット、路地を成す目地の粗いアスファルトの路面、そこに描かれた塗料をけちられたために早くも剥げかかっている、狭い路地にはまったく無意味な路側帯の実線や、黄色いコーティングが同じように剥げかけているマンホールカバーや、そのすぐわきの五十センチほどの路面のひび割れ、越してきたときから転がったままのコンクリートの欠片、ぼくの捨てたものもいくつか雑じっているであろう風化しつつあるタバコの吸殻たち、それから、それらのうちのより太陽に近いものたちがより遠いものたちに与える黒い影と、陽に照らされ熱を帯びた部分とのコントラスト、それらは完全にぼくに見慣れられてしまったものたちだったが、今のそれらがあらしている形相は見慣れていなかった。あらゆるものが、ほの明るく光っていたのだった。
 その強烈な光景に眼が眩んだぼくは、足が竦んでこれでは一歩もあるけないと感じ、その場に立ちどまった。そして、両手の先で目蓋を押しつぶすようにして揉んでから、もう一度目を開き、その光景を見た。すべてのものはやはり光っていた。光は、外光の反射によるものではなく、もの自らの内部から滲み出てくるものようだった。影すら光を発している。ぼくは全身に悪寒の痺れが走るのを感じた。
 それから逃れるようにして、ぼくはまた歩き出した。痺れは踵から地面へと抜けていったが、周囲は相変わらず光に溢れていた。だが、もうそれはぼくの眼を眩ませるようなことはなかった。むしろその反対に、光が滲んでいることは、それらに対するぼくの注意を非常に強く惹く効果をもたらすらしかった。そして、眼に入るあらゆるものが、等しく光りを発しており、それによってぼく自身よりも強く、ぼくに認識されようとしていた。そこに在るということが、ただそれだけで何かとても意義深いことでもあるかのようだった。おかげでぼくは眼に入るすべての、そのひとつひとつを見て、そして認識してやらねばならず、そのために、またほとんど立ちどまっているのとおなじ状態にならざるを得なかった。しかし、そんなことはいくらも続けられるものではなかった。ほどなくしてぼくはへとへとになり、その強いられた観察をどうにかして放棄しなければならないと思いはじめた。けれども、もともと自ら意図してはじめたことではなかっただけに、それは簡単ではなかった。どうしても、目の前のすべてのもの、その各々がいまそこに在るのだということをぼくに認めさせようとしているように感じられて仕方がなかった。目をつぶりたかったが、それでは歩くことができない。ぼくはほとんど途方にくれた。そして結局、目をつぶり、立ちどまることになった。
 目を閉じていると、直前まで見詰めていたものたちが、鮮明な像となって黒い視界のなかに浮かびあがった。時間を巻き戻すようにして、後に見たものから順にそれらは、ぼくの目蓋の裏のスクリーンに再現されてゆき、その数は徐々に、しかし着実に増え、終いにはほとんど目を開いているのと同じになるかと思われるほどになった。けれども、フラッシュバックしてきた目前の事物たちには、少し前にぼくに見られ、認識されたものとひとつ大きな違いがあった。あのような光を滲ませてはいなかったのである。それらはただ、いつもあるようにしてぼくの前に顕れた。そのことは、ぼくを安心させた。そして今度は、ぼく自身から能動的に、再現されたものたちを見てみようと思いたった。ぼくは目を閉じて景色を眺めた。確かにそれはなんの変哲もない景色だったが、一度ぼくに認識され記憶から引き出されているためか、よく研磨されたという印象があった。見ているうちに、だんだんともう十分だろうという、こころ強いような気持になってきた。ぼくは目を開けた。そして、再び歩き出した。ものたちは相変わらず光を発していたが、ぼくは妬みのような圧迫を感じながらも、それを無視して駅にむかった。
(2004.7.11)-2
なんか、これでいいのかな、という気もしないではないのだが、とりあえず、もうしばらく書いてみよう。駄目なら、はじめから書き直しだろう。
(2004.7.11)-3
 地下の駅から、いつもどおりに都心へむかう方向の電車に乗り込んだ。湿っぽい地下への階段を下りて、直射日光から離れると、周囲のものたちは光を発しなくなっていたのだが、追い立てられる感覚に支配され、まったく気づかなかった。咽喉がうまく動かせなくなっている。気道の内側の皮がばりばりに乾いて、息を吸い込むと絞まるような気がする。だんだんと上体が宙に浮き上がってきているような感覚もあった。ほとんど喘ぐようにしてホームに下りると、何か非常にゴミっぽい空気が澱んでいて、むせるようだった。線路の暗い溝は無く、代わりに電車の開いた扉がある。車内のほうがホームよりもいくぶん明るく、汚れていないような気がした。吸いこまれるようにして乗りこみ、両足を車内に着けると、不安定なものの上に乗ってしまったことがわかった。閉まるドアが背中を擦った。車内はなぜか空いており、長いシートの端に腰をおろすことができた。座ってみると、かなり激しい動悸をしているのがわかった。手のひらで額の汗を拭うと、てらてら光って冷たい。
 数秒おきに窓の外を流れる細長い蛍光灯の光を、首を振って追いかけた。光の線は次々と客車の列の向うに去ってゆく。継ぎ目のドアはみな開いていて、カーブの具合によっては無数の吊革がぶらぶらと揺れている客車の長い列の管の先まで見通せる。どこかの窓が開いているのだろう、鉄の車輪が鉄路をぎらぎらに磨き上げているギュリギュリという音が、揺れに合わせて断続的に鼓膜を裂くように刺戟した。
 「ご乗車ありがとうございました」という車内放送がかなり執拗にあり、それによって渋谷に着いたことを知った。すると突然、自分が目的地を持たないことに思い当たり、ぼくは慌ててホームへ降りた。電車が発車して行くのを降車客の流れに乗りながら見て、ここもまた目的地ではなかったことに気づいたが、もはやどうしようもなく、そのまま流れに身をまかせて階段を上りだした。
(2004.7.11)-1
たくさんたくさん書き洩らしている!
(2004.7.13)-1
溢れだした自意識が認識する世界。
(2004.7.13)-2
 渋谷駅の地下道は空気の密度が薄いようで、気流ではないぜんぜん別の、何かの流れが充満しながら、そこをずっと通り抜けていた。地下から地上へ上ろうとする人びととは反対向きのその流れにつられ、幾度かうしろを振り返って、それがぼくの視界の向こう側へ入り込んで行く地点を見ようとしたが、よくわからなかった。おそらく見ようとするのが、そもそもの誤りだったのだろうが、代わりに、ぼくの視力にしてはかなり遠くがはっきりと見えた。ぼくは階段をのぼり、エスカレータをのぼり、また階段をのぼった。そのあいだずっと、人間のうしろを見詰めていた。そして、猛烈な量の人間が一ところに集められ、地上も地下も何層にも積み重ねられた鉄筋コンクリートの超硬質の盤面の上を、無数の廃油の粒がわずかな空気の揺らぎにも敏感に作用され、薄く延べられた水たまりの水面に働く表面張力の上を辷り、乱雑に交差し合って、目まぐるしくその模様を変えてゆくようにして、互いの体温を感ずるほどに肌と肌を寄せ、またそのいくらかは直に触れ合いもしながら、胎動するように周期的に細かな膨張と収斂をくり返しているその場所に出てはじめて、最も明示的に囲いのなかでかこわれている存在である囚人が、唯一閉じられていない、万人に与えられ、それゆえ何の価値も無い方位である上方を見あげるのとまったく同じようにして顔をあげたとき、そこには空があった。縦横に配された発光素子が、通過する電流のうちの何割かを光の粒子に変換し、外気へと拡散放射する。寄り集められた素子の光源から放たれた光は互いに干渉し、歪めあい、弱め、ぼかしあいながら、一体としてぼくの眼に届き、像を結ぶ。ぼくはそれを空だと認識した。あまりにも鮮やかな青をした、メッシュ状に分割されたディジタルスクリーンに映し出されている空。
(2004.7.13)-3
福永武彦の「飛ぶ男」は非常によいので、そのうち写す。最終的には、偉大な小説などというものはどうでもよく、それはただ自分のためだけにあればよい。「みんな死んでしまえ!」と強く念じたのなら、それがそのまま・・・・・・・小説になればいい。その小説から憎悪を伴った異様な昂揚よりほかの感興を受けたとしたら、それは小説が不出来なせいだろう。
(2004.7.13)-4
仕事中にふと、あらゆる行為は畢竟暇つぶしに過ぎない、というのを思い出す。一瞬タイプする手が止まり、すぐにまた動き出す。目の前には液晶の画面があり、それはその前後で寸毫も変化していない。かつて一度、これを相手に勝つために口にしたことがあったことを思い出す。蟷螂の斧。ぼくの躰は攀じれて宙に舞った。
(2004.7.13)-5
敗北の詩。世界とふたり。抱き合って生きる。猫のような発作的な怒り。誇りのために刀を抜く。割れた眉間から流れる血。くちづけていつまでも吸い続ける。いつまでもいつまでも吸い続ける。世界の終わりまで吸い続ける。
(2004.7.13)-6
君のからだに陽があたる。今は夏だから、夏の陽射しが照りつける。それを見ているぼくは、混雑するホームの真ん中で君のからだを抱きしめたくなる。それを隠して抑えてやたらに喋っている。なんということだろう。なぜ君を抱きしめないんだろう。君の剥き出しの汗ばんだ腕は実に肉感的にうっすらと湿って陽光を照り返し艶めいているというのに。なんということだろう。なぜ君を抱きしめないんだろう。明日が来て欲しいと願ったことなど一度も無いというのに。君の悦びや嫌悪なんて、実際どうだっていいはずなのに。なんということだろう。なぜ君を抱きしめないんだろう。ただ、君に夏の陽があたっているから、ぼくはそれを抱きしめたいだけだというのに。
(2004.7.14)-1
今日が無いのは昨日が無いからで、あとはすべてその繰り返しで、ふりだしまで戻る。
(2004.7.14)-2
どんどんカットされる。書くことがない。
(2004.7.17)-1
内側に関わる話をしよう。そうし続けよう。
(2004.7.17)-2
プロットをデコレートしただけのものには興味がない。必要なのは、おしまいまできちんと流れる段取りではなく、一行または数行の中核を成す文たちであり、小説はそこへたどり着くために始められ、必要なだけの迂回路を廻り尽くされたのちにそこへ至ることを目的としているのであり、それが十全に為されなければ小説は失敗するのだ。ぼくは最近、そこにあらわれるあらゆる人間たちに生命があることが必要だという、理想であり、かつ思い上がりである、自身としては描き出されるものへの愛情と誠実としてあるつもりのものを、そろそろ放擲しつつある。それは、端的には自身の力量に見合わぬ望みであることを悟ったためであるけれども、さらにいくつか多少まっとうな理由がある。すなわち、ひとつは小説と現実との構成と構造の違いであり、それから、小説における人物というものの位置づけであり、小説と人間との関わり方であり、現実の人間のほとんど機械的なまでにルーチン化された生活様式であり、それから、個人の認識と実態とのギャップである。これらの要因はどれも、少なくともまともな冊子の一章を占めるほどに記述されるべきテーマではあるに違いないが、残念なことには、ぼくにはそれらについて詳細に述べるだけの力がないし、また、それをすることに興味も感じない。
(2004.7.17)-3
小説の原理であり、そのスペックの限界であるところの、小説は文章であるという点。そして、文章というのは、完全な一次元線形をしたものであり、そのかぎりにおいて、たとえそれがどんなベクトルの向きをしていようとも、それが小説として読まれるのならば、その流れに沿うしかないのだという事実。そして、それとは対照的に、現実は決して一次元線形ではなく、厭きれるほどに多元的であり(どうしたって、二人以上の人間が同時に生きて動き、何かを認識し、精神を活動させている!)、それゆえに小説は、狭視野的に切り出すという行為によって成り立つものであり、したがって実際的には、何が書かれるかよりも、何が書かれないかのほうが、より重大な問題となるという点。
(2004.7.17)-4
一次元線形性というのは、単純に、文章中の或る一行は、必ず、それに先立つ一行に完全に依存し、支配されているものだということである。そして、その呪縛からの離脱を文章構造的に明示するための手段として、改行や改節、改章があるのだけれども、特に小説において、それらは決して完全な離脱が可能なのではなくて、あくまでそのような気になる、そのような印象を持たせるというだけのものでしかなく、どこまで行っても、一文はその前の一文に引っぱられる。だから、よい小説になればなるほど、最初から書いていくほかなく、或る一行がうまく書けないがために、その先へ進むことができないというのは、ごくあたりまえのことなのである。次の一行が書けない、という事態は、次の三つのうちのいずれかの状態から来る。
  1. それまでの文章がどこからか誤った路をたどりだしており、ついにその限界が来た。
  2. その後数行から数百行にわたる流れを決定づける岐路にあたる箇所であり、容易に書いてはならない。
  3. 何を書くべきか、わかっていない。
1. は手詰まりであり、2. は長考であり、3. は小説以前のプリミティブな問題である。そして、手段としての小説というものが書かれる理由の三分の一くらいは、3. に由来する。何を書くべきか考えるために、小説があるというケエスである。この形の特殊な一形態として、小説のための小説というのがある。
(2004.7.17)-5
「神は細部にこそ宿る」今まで当然として捉えてきたのだが、どうもそうでもないらしい。でも、他に何処に宿る場所があるというのだろう。或る箇所の或る一文における或る接続関係が他の何ものでもなくまさにその形式であったという点こそが小説そのものだというのは、冗談ではなく実際のところであるはずだ。それは、常に数十とおりの組み合わせから選択され続けるものであり、その連続だけが小説になるのだ。小説を小説たらしめているものは、それ以外には考えられない。
(2004.7.17)-6
ほんとうに、小説は書かないに越したことはない。書かないことこそが小説なのだ、と言ってしまっても構わない。言葉というのは、そのようにして選ばれてこそ力を持つのである。論理的な正しさなどというものは、表面を薄くなぞるだけのものであり、ほとんどの場合、自明のもので書かれるに値しない。一見、飛躍に見えるけれども、どうしてもそうあらざるを得ないのだ、というものだけが、書かれるに値する。
(2004.7.17)-7
i'm always pressed by a feeling that i must answer about the reason why do i exist now and here.
(2004.7.18)-1
明日からまた韓国行きです。今度こそ、五日から十日程度の不定期滞在になります。これの開始が遅れたわけは、事が思うように運んでいないからではなく、むしろその反対で、あんまり気張らなくてもサクサクと契約できてしまったからです。韓国半導体は今も随分調子が良いみたいです。まあ、そんなことはどうでもよくて、これから戻ったら、辞職のための活動を本格化させたいと思います。理由が理由だけに無理もないのですが、あんまり、本気にとられていないみたいなので、毎日、「辞めるぞ」「辞めるぞ」と連呼したいと思います。なんとか、九月十一日までに辞めれないかしら。それは、まあ無理として、次はここの三周年の十月八日が目標です。その次は、年末になってしまいますね。でも、どんなに遅くとも、二十六になるまでには、退社していたいです。残業代を全く貰っていなかったぼくは、失業保険も三ヶ月経つまでもらえないそうで、なんだか矢鱈にバカをみているような気もしていますが、それでよいのだと思います。辞めてからしばらくは、システマジックに過去をほじくり返す、「思い出」や「玩具」「逆行」のようなものをやりたいと思います。それによっておそらく、ぼくにはまともな過去などというものは、どこにも存在しなかったことが確かめられるはずです。そして、ぼくが人間だと証明するための一切の根拠とその可能性が取り払われ、あらゆる既存の倫理からぼくの自殺は自由になります。ぼくは感覚のみに従うことを強行できるようになるのです。そうなれば、残るは恐怖と臆病とだけです。あとは、何かのきっかけで、その恐怖が一時的にでも完全に忘れ去られてしまえばいいわけです。すばらしい。すばらしいと思いませんか。なんて単純なんだろう。きちんとやれば、ぼくにもできる気がする。ぼくがまっとうな社会人として自活するというのよりも、ぼくが恋愛するというのよりも、随分と現実味に溢れている。少なくとも、そこには具体的なビジョンがあり、必要に迫られれば、ぼくはそれを他人に向けて語ることすらできる。「ぼくは死ぬべきだという感覚にぼくは従いたいのだ」と言うことができる。


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