tell a graphic lie
This document style is copy of h2o.



(2004.6.16)-1
半月が経ち、ここのログファイルを新しいものに取り替えることが、ほとんど唯一のと言っていい、時間の経過に気づくときで、こうしてぼくはまた半月が過ぎたことを知り、そして今は、もうすぐ今年も半年が経とうとしていることを知る。満二十五歳も半分が過ぎようとしており、残り時間は徐々に少なくなってゆく。そして、ぼくの書く量といえば、相変わらず半月に 10KB〜50KB のあいだをうろうろしているに過ぎず、このままでは、それは減ることはあっても、増えることは無いように思える。ぼくが忘れていても時間は経ち、いずれ致命的なまでに進んでしまう。どうあっても一度切らなければならないのだと思う。恐れるべきは、安穏である。忌むべき不幸は、再びそのときが来た際に、またもや書きつくすことができないことであり、更には、そのときがもう二度とめぐっては来ないという喜劇的な事態である。
(2004.6.16)-2
今もまだ、「何のために?」にとり憑かれている。もう若くもないというのに。
(2004.6.16)-3
何のために?
(2004.6.16)-4
何のために、ぼくはあなたのからだや、そのなかを流れる血が温かいと思ったりするのかしら。そして、そのなかに射精して、いくつかの欲求や感覚を満足させたりするのかしら。何のために髪を撫でるのかしら。何のために笑いあったりするのかしら。何のためにふたりでいるのかしら。何のために。からだは欲しいかしら。こころは欲しいかしら。何のために。
(2004.6.16)-5
ちがう。ぼくはそんなの要らないよ。要らないのだから、何のためにでもないよ。ぼくにはどれもリアリティが無い。ぼくがそれを見たのは、あのとき在った死ななければならないという感覚と、その実現の夢想とにだけで、あとのものは、だいたい似たようなもの、全部どうだっていいことばかりだ。この世で最も重大なことは、ぼくは死ななきゃいけないっていう役柄と、それの実現とだけだ。ぼくのあらゆる行為はそのため・・・・にあって、すべてはそこへ至る過程にすぎない。ぼくはたぶんあなたと寝て、射精して満足することができるだろうけれども、そんなことはどうだっていい、やってもやらなくてもいいことで、だから実際には、ぼくはそれをしないだろう。ぼくはただ死ねればよくて、それだから、死ぬほどの興奮だけにあこがれる。そんなわけでぼくは他人をまったく信用していないから、誰からも必要とされていない、という自覚では死ぬことができず、ただ、覚醒とその興奮とによってのみそれは為し得られ、
(2004.6.17)-1
また、ひとりになれるかしら。あの猛烈な感覚をおぼえるかしら。あれだけは間違っていないような気がする。そして、そのほかの多くは間違っていそうな気がする。ぼくは豪そうに自分のことを話したり、自分にできることをしたり、自分にできないことをしなかったりするけれど、それらはみんな、真っ赤な嘘のような気がする。
(2004.6.17)-2
穏やかな生活!それはなんてスバラシイモノだろう!それがどれだけの佳作を書かせることか!そして、それがどれだけ傑作を拒むことか!
(2004.6.17)-3
「戦後短篇小説再発見」を読んでいる。基本的に、とても良い。まさに、日本小説の良いところ、といった観がある。みな、決して派手ではないが、それぞれの取り扱っている、世界に対する或る部分に於いて、必ずクリティカルである。そのどれも、ぼくには決して書くことができるようには思えないが、同じようにして、彼らの誰もが書けないものをぼくは書くだろうという気もする。それが思い上がりや勘違いでないことを祈りながら、よい間合いを計りながら、一篇々々読んでゆく。「基本的に」とはじめに書いたが、中には、「読めない」作品もいくつかある。出来がひどいのではなく、また感覚的なものでもなく、生理的に駄目なのである。これは非常に興味深い事態で、この選集を読むにあたっての、佳作と作家を知るため以外の主要な目的のひとつであるような気がする。まだ二冊しか読んでいないが、そう感じる作品、二三篇だが、それらはみな、女流作家のものである。このことは面白いと思う。それらはみな、男性には決して持てないような、妙な感覚や、妙なロジックに基づいて書かれてある。作品中の男性は、巧妙に隠そうという努力は見られるものの、決定的な部分において女性に従属的であり、それがぼくに不快感をもたらす。それをどんなに許容しようと意識しても、どうしても生理的に不快に感ずるのであり、これと同じようにして、女性の読者は男性作家の作品に対して、これと同じような感覚を抱いているのに違いないのだと思う。それがぼくには興味深い。ぼくが今書いているものについても、女性は盲目的なまでに、男性の意図に追随するのであり、それは致命的な欠陥なのだが、現在のぼくにはそのようなものしか書くことができないという認識のもとに、それを書いている。彼女は、母親よりも慈悲に満ちており、ほとんど傍若無人ともいえる彼の態度に理解を示すのである。ぼくは彼女のことを「庸子」と名づけ、男のほうは、まったく気に入らないも関わらず、その名前を実に気に入っている。庸子の庸は、中庸の庸であり、女性にあっての中庸というのは、即ち母性のことだとぼくは夢想しているのである。まあ、ぼくの書くものなんてどうでもいいのだが、この読めない作品が在るという事実と、その作品たちはみな女性が書いたものだという事実は、非常に興味深いものだというのが、「戦後短篇小説再発見」を読んでの、大きな収穫の一つであることを、メモしておきたいと思う。
(2004.6.20)-1
明日からまた、2泊3日で韓国行きです。土、日と、その準備で潰れてしまいました。結局、こないだ一度でやってしまうはずだったものを、二度、三度に小分けしてやることになるようです。準備に追われて、ハングルの勉強をする時間がありません。まだ数字すら読めないので、また途方にくれるわけです。喋ることなんて、もってのほかなので、お互いにつたない英語でやりとりするほかないのですが、韓国人の発音は日本人と非常に似通っていますので、ネイティブよりよほど楽なのはたしかです。でも、単語を思い出すので精一杯で、語の並び順が完全に日本語(主語-目的語-動詞-助動詞)なのが悲しいところです。受動態と過去形の区別がつきません。単数複数の使い分けなんて、もってのほかです。殊にぼくは日本語的ロジックにfixするよう心がけていますから、外国語を出力するのには、実に難儀します。外国語を日本語に直すのは、小説を書くことと少し似ていますから、辞書を調べゝゝ少しずつ進めてゆけば、どうにかならないこともないのですが(小説を書くのも、小説という日本語の一方言に翻訳することに他ならないので、もとの言語が日本語か英語かハングルかというのが違うだけです)、出す方はまるで駄目です。頭の悪いぼくには、二三ヶ国語を出力することなんて、夢のまた夢であります。まあ、とりあえず、もうどうしようもありません。なるようになるだけです。それでは、また水曜日に。
(2004.6.23)-1
ただいま。今回は予定通り、あっさり帰ってきました。でも、また再来週、7月の頭くらいから一週間ほど滞在しなければならなくなりそうです。めまぐるしい。
(2004.6.26)-1
 庸子は、部屋の近くのぼくらくらいの年齢層を相手にした洋服屋で働いている。小さな店だから何かと忙しいようで、昼間は一日中、ほとんどたったままだという。それだから、仕事から帰って暫くして気が抜けてくると、大抵は眠そうに目をこすりだし、やがてうつらうつらしはじめ、ソファの肘掛を抱きかかえるようにして、丸くなって眠ってしまう。その姿勢は庸子にとてもよく馴染んだもののようで、ソファの上で眠くなるといつの間にかそうなってしまう。丸まった庸子はとても小さく見え、それはなんだかいつかTVで見たことのある、母親の腹のもとで脚を折りたたんで眠る子馬の姿を連想させる。疲れがひどいときは、窮屈な姿勢のまま寝入ってしまったり、鼾をかいたり、薄く開いた口元から涎が垂れていたりするから、楽な体勢になるよう腰の位置を変えたり、指やちり紙で脣を拭ったりすることもあるけれど、そうでもなければ、そのまま寝かしておく。ぼくはその寝顔をよく眺め、不思議な感じをかすかに受ける。化粧を落としたり、そのままだったり、それから季節や疲れの具合によって、顔の様子はいつもわずかずつだが異なっている。けれども、不思議な感じはそのために与えられるのではなくて、もっと庸子の体の奥のほうから浮き出してくるような気がする。
 しばらく眺めてそれに飽きると、ぼくはそのときどきの気分によって、食器のあと片づけ、洗濯や掃除なんかをする。台所で水を流したり、洗濯機を動かしたり、掃除機を使ったり、眠りを妨げられるような音をいろいろとたてるが、庸子は実によく眠っていて、起きることは滅多にない。膝をソファにあわせて乗せ、幼いかんじのする寝顔を無防備に晒している。ひと仕事を終えると、ぼくは風呂に湯をはって、奉仕の対価として冷蔵庫から缶ビールをひとつつまみ出してフタを開ける。ソファの空いている片側半分に腰をおろし、TVを点ける。一時間から二時間ほど眠ると庸子は目覚め、その頃には、今度はぼくが眠くなっている。実際に眠ってしまっていることもある。眠っているあいだにいくつか片づけられた家事を確認すると、「あら、ありがとう」と驚きも感謝の気持もこもらない声で言い、一応ぼくへの配慮を示すが、「どうせなら、ぜんぶやってくれればいいのにね」という、そのあとの呟きのほうが本心を表している。そして、まだ片づいていない、ぼくがしなかったものに取りかかる。
 そうやって家事手伝いみたいなことをするので、頻繁に訪ねて行っても、庸子はあまり不機嫌な顔になることはない。部屋に行くときは、直前に一度電話をかけて、庸子が部屋にいることと、ぼくが部屋に居ても構わないかどうかを確かめる。直前になるまでは連絡しないし、部屋に来客があったり、迷惑そうな声色のときには行かない。電話口の庸子の声には、そのあたりが素直に出る。
 庸子の部屋のほかへふたりで出かけるときも、前もって予定を立てておくことはまずない。よく晴れた休日に早くふたりとも目覚めた日が、どこかへ出かける日で、朝食を取るまえに電話をし、一日の計画を取り決める。そんな風だから、予約が要るような場所へ行ったり、手の込んだ遊びなどはできない。旅行もしない。一日は、いちにちの中だけで開かれ、閉じる。だいいち、そういう条件にあった日自体がひどくめずらしい。ぼくの仕事も庸子の仕事も、土日は稼ぎどきだから休みではなく、ぼくは週に二日の休みを取ることができるけれども、小さな店に勤める庸子のほうは、週に一日というより、月に四五日といった不規則なものなので、お互いの休日はあまりかみ合わない。庸子はそうでもないのだけれど、ぼくの方では特に意識して庸子と休日をあわせるようなこともしない。庸子はそういうぼくの姿勢をときどき、「わからない」という言葉を使って批難するが、どうこうする意思は、ぼくにはやはりほとんどない。
 それは別に、庸子と過ごすためのまとまった時間を持ちたいと思ってはいないということではなく、休日に限らず、ぼくには日付とか時間とかをやりくりする能力がほとんど備わっていないためで、それは特にこの仕事をはじめてしばらくしてから特に著しくなった。太陽の傾き加減や周囲の明るさや色調から、だいたいの時刻を推し量れるようになり、看板を抱えて立っているあいだに一度も時計を見ることが無くなった。季節ごとに少しずつずれてゆく、正午の太陽が上昇から下降に転じる頂点の大まかな位置も感覚で知ることもできるようになり、いちにち立ちつくしているだけのぼくは、それを見とめると看板を適当なところへ立てかけて昼食をとる。立っているだけの人間には、その程度の時間というので足り、今のぼくはそれ以上時間を管理することに違和感のようなものを持つようになっている。

(2004.6.26)-2
未来などあっては欲しくないという感覚。あるいはもっと別の
(2004.6.26)-3
誤解とか、六回とか、いろいろいっぱいして
(2004.6.27)-1
昨日、書きながらセクション割りを変更していて、ふと四万字近くになっていることに気づいて、「長くなりすぎた」しみじみ思ったことである。これはちょうど、以前写したフォークナーの「バーベナの匂い」と同じくらいの分量だから、頁数になおすと六十頁ほどということになる。いったい何をそんなに大量に書いたのだろうと思って、スクロールバーに上から下まで撫でさせてみるのだけれど、別に何が書いてあるわけでもない。たらたらと乏しい、同じような話が連なっているだけで、そんな長さがあるとはにわかに承服しがたい。「バーベナの匂い」は勇気の話だが、ぼくのは極めて臆病な微温的のもので、ただ字数が同じというだけの比較するのもおこがましいものでしかないのだが、それでも読み返してみると、ほんの少しだがよいところもあるように思われる。どのみち、もう九ヶ月あまりもかけてしまっているのだら、どうしようもない。あとは、ラストを書くだけである。最後を書くと、これがようやく「覚醒都市」になる。なに、歌詞をたどって、引き伸ばすだけのことである。書き出したときには、こんなことを言っている。(2003.9.24)。書いているあいだに、ぼくは二十四から二十五になり、そろそろ少し時間がかかり過ぎていると思いはじめている。今の三倍くらいの時間を、書くことに費やす必要がある。
(2004.6.27)-2
「書くことが生きることだ」そんなのは至極当たり前のことでした。(ほかのことなんて、くだらない)そういえば、もう蝉の声が聞こえだしています。誰がぼくを理解してくれるでしょう。ぼく自身すらそれができていないというのに。ぼくはずっと、「何のために」とか、「理解する」とかいったことを振りかざし続けるわけです。馬鹿馬鹿しい。(でも、ほかのことなんか、実にくだらない)だからやっぱり言います。「どうして生きているのですか」「死にたい」というのを一万遍くり返せば、ほんとうに死ねるそうです。今日は十度言いました。路は長いです。
(2004.6.28)-1
ジョアン・ジルベルトが今年も来るらしいので、チケットが取れたら聴きに行こうと思う。
(2004.6.30)-1
仕事を辞めることにした。辞めると言ったからといって、すぐに辞めれるわけではないが、言わなければ、いつまで経っても辞めれないので、今日言うことにする。十月くらいには退社できるようにしたい。
(2004.6.30)-2
言えずに終わった。腰抜けである。惰性である。これだから、駄目なのである。明日こそは、必ずや。


< >












kiyoto@ze.netyou.jp