tell a graphic lie
I remember h2o.



(2004.11.3)-1
「黒い雨」を読み終える。今後、日本の小説で何を読んだらよいかと、もし問われたることがあるならば、これを薦めようと思う。小島信夫の前に、これだろう。
(2004.11.3)-2
それから、菊池寛か。。。読んでみよう。
(2004.11.3)-3
「富士日記」のなかで、武田百合子氏は時折、「黒い雨」を読んでいる。日記のなかで、読書についての記述があるのは、ほとんどこの「黒い雨」だけである。ほかは、松本清張「砂の器」の、これは映画についての記述が少々あるが、それを除けば、まるで、その余の小説の一切は存在しない、或いは、読むに値しないというかのように、「黒い雨を読む。」という記述が、ぽつりぽつりと出てくるだけなのである。それで、ぼくはこの「黒い雨」に畏敬に近い念を覚えていたのだが、しかしそれは、まったくの見当違いだったようである。そうではなく、その記述から察するべきところは、「黒い雨」が日記に書かれるほどに、氏に親しく寄り添った小説であったということだったのである。何べんも読み返して飽くことは無く、しかも、考えさせるのではなくて、感じるものなのだ。そうだ。感じる、というのが正しい。敢えて言うが、「黒い雨」には、抜粋して見せるような段落はひとつだって無い。それを見たいと思うのなら、この文庫本にして、三百八十頁ほどの全文を一度に見れる状態で受け取るよりほかはない。ところどころに、きちがいじみて巧い、情景描写などがあるが、それだって、決して抜き出して存在することはできない。それは、抜き出したら意味が通らなくなる、ということではなく、その文章は、どうしても、小説の、その部分を構成するためにあるのであり、つまり、抜き出せないほどに、そこに馴染んでおり、その単体としての出来にも関わらず、もし抜き出してしまったら、何か非常に重要な部分が、大きく落ちてしまうように感じられるからだ。ぼくも、しばしばすることであるが、抜粋という行為が、小説作品一本に対するどれだけ横暴な行為かということは、せめて、知っているだけでもしなければならない。何度でもくりかえすが、最良の小説は、要約不可能なものである。それは、それより他のかたちを取りようがないから、そこにそうしてあるのだ。要約で済むのなら、要約を書くがよろしい。だから、ぼくに言えるのは、ただ、「黒い雨」を読め、ということで、自分の感想すら、そこに添えてみようとは思わない。武田百合子氏の「黒い雨を読む」という記述も、おそらくはそういうことを示唆していたものなのであると、それを読み終えた、今のぼくは信ずる。これだって、それから、二三日前の中途での感想文だって、余計なことだ。「黒い雨」はもう既に書かれて、本になっており、それだけでもう十分なことなのだ。
(2004.11.4)-1
お、Owen の新しいのが9日に出る。
(2004.11.4)-2
同期に、ようやくクラシックを聴きはじめました。言うと、なら、サティなんてどうでしょ。と言ってくれる。サティなんて、どうなんでしょ。名前聞いたことあるっきりだわ。
(2004.11.4)-3
価値観。回転。波立つ油面。アロー、アズ、ディレクション。浮遊。高揚感。ジョイント、ウィズ、マイ義。君に非ずや。遅延と。やさしさやさわやかさなんかを、ぼくが言ってどうなるというのか。海底ホール。閉じこんだ空気。ぼくの生活とは、つまるところ。ピークなど無い。一切は惰性。育つ。敗北は育つ。記憶は掠れるが。即ち
(2004.11.5)-1
巧い小説をみると、単純に嬉しくなる。今日は、ポーの「黒猫」と「メイル・シュトロム」を谷崎精二の訳で。どうやら、児童書らしく、大きな活字で、ルビの振られている割合が高い。うまーい。読んでいて、すごく楽しい。
(2004.11.5)-2
そして、音楽は、バッハをかけているのである。ふたつをかけあわせてみると、ポーもバッハも、偉大な単純さがあるような気がしてくる。両者とも、それぞれの分野の基本的資質に、非常に率直なのである。即ち、音楽は楽器たちの持つ音を組み合わせて旋律を構成することであり、小説は単語たちの持つ意味を組み合わせて物語を構成することであるという、ごく単純な事実に忠実なのである。その余のあり方などは、まったく、思いもよらないのである。
(2004.11.5)-3
あなたが言っておられた、「バッハは脳細胞が一個ずつ整列しなおすような気がしますよね。PCがフォーマットされるみたいに。」というのは、ようやく納得できるようになりました。たしかに、そうですね。ちょっとがんばって、ちがう比喩をしてみるならば、バッハの曲の一音いちおんが、まだらなオセロ盤を、端から白一色、あるいは、黒一色に、とにかく、色をひとつだけにしてゆく、という感じでしょうか。まあ、それって、フォーマットのことなんですけどね。C で書くなら、 void brain_format(char *your_brain, size_t your_own_brain_size) { memset(your_brain, 0, your_own_brain_size); } ですね。左下から、ザーって舐めてゆく感じがします。
(2004.11.5)-4
今の音楽が、バッハのそれようには、決してありえないという事情も、わかるような気がします。バッハの時代は、楽器を、それのあるがままに鳴らせるだけでよかったのだろうけれども、今はもうそういうわけにはいきません。なぜなら、そういった素直な試みは、バッハの時代に、もうすでに為されてしまったことであるので、それ以降は、違ったアプローチを試みる必要があります。そのアプローチの方向性としては、やはり、音楽をより人間的なものにする、ということより他には無かろうと思います。音楽という、人間とは異なった存在を、より人間のほうへ近づける。音楽に、感情や精神を表現させようとする。あるいは、人語を話させたりしようとする。そうしようとする営みは、逆に、人間がより音楽へ近づいてゆくということでもあって、つまりそれは、音楽というものを、人間として、より深く理解してゆこうという営為なのだと思います。
(2004.11.7)-1
やる気がでない。というより、びびっている。あの空白の三時間がいやなのである。我慢ならないのである。酒をかっくらって、寝てしまいたい。
(2004.11.7)-2
ということで、今週はまったく踏んばれずに飲酒に至っているわけである。ちょうど、七面鳥さんも空いたところである。話題は、特に無い。いや、無くもないような気もするんだけど、三時間、なもので。
(2004.11.7)-3
不安定の
(2004.11.7)-4
いや、要するに、書きたく、ないのである。グラスの「ブリキの太鼓」が、それを教えるのである。ちくしょう、きっちり、やってやがる。彼に言わせれば、「ぼくの生れるずっと以前のことから話を始めよう。というのは自分がこの世に生を享けた日付を書きしるす前に、せめて祖父母の片方だけでも思いだす根気のない人間は、だれも自分の生涯を書きしるすべきではないからだ。」ということらしい。それで、彼は、彼自身と彼の一族とをプラウドするわけだが、
(2004.11.7)-5
過去ログを見直す。小説を、書いていないと、駄目だ。はやく次のものを書き始めたい。それには、仕事を辞めなければならない。はやく、辞めなければ。そのことについて、少し想っただけで、吐き気がする。ひどい話になる。ひどい気分になる。いやだ。これ以上考えるのは、いやだ。あした、外へ出れなくなる。仕事へ、行けなくなる。ぼくは腰抜けの、卑怯者の、人間の屑にもなりそこねた、溝鼠に似た、けれどもそれですらない、何ものでもない、何ものかだ。いや、あらゆる形容詞は不十分だ。そのもの・・・・を記すことだけが、それを
(2004.11.7)-6
「君は、小説、小説、と言っているばかりで、バカに見える」
(2004.11.7)-7
キレそうになって、窓の外に目をやると、寝転んだ三日月が、さっきより上へ昇っている。
(2004.11.8)-1
戦い方。そして、その末の敗北のあり様。理屈は要らぬ。
(2004.11.9)-1
七面鳥を薄める水が尽きた。久々に、ちび、ちび。
(2004.11.9)-2
僕はたった二十五歳だ、捨てろ、捨てろ、
(2004.11.9)-3
苦しくなると、太宰を読みだす。
(2004.11.10)-1
マイク・キンセラはあいかわらず強くはない。
(2004.11.11)-1
いくつかの疑問。

 君はなぜ小説を読むのかね。
 君はなぜ音楽を聴くのかね。
 君はなぜ絵を観るのかね。
 君はなぜ旅行をするのかね。
 君はなぜ運動をするのかね。
 君はなぜ勉強をするのかね。
 君はなぜ仕事をするのかね。
 君はなぜ試験を受けるのかね。
 君はなぜ電車に乗るのかね。
 君はなぜ車を運転するのかね。
 君はなぜ持ち運ぶのかね。
 君はなぜ家を構えるのかね。
 君はなぜ樹木を植えるのかね。
 君はなぜ動物を飼うのかね。
 君はなぜテレビを観るのかね。
 君はなぜ新聞を読むのかね。
 君はなぜ雑誌をめくるのかね。
 君はなぜ煙草を吸うのかね。
 君はなぜ酒を飲むのかね。
 君はなぜ料理するのかね。
 君はなぜ食事をするのかね。
 君はなぜ入浴するのかね。
 君はなぜ掃除するのかね。
 君はなぜ洗濯するのかね。
 君はなぜ電話をかけるのかね。
 君はなぜ手紙を書くのかね。
 君はなぜ荷物を送るのかね。
 君はなぜ写真を撮るのかね。
 君はなぜ時計を置くのかね。
 君はなぜ明かりを灯すのかね。
 君はなぜ修理するのかね。
 君はなぜ化粧するのかね。
 君はなぜ服を着るのかね。
 君はなぜ靴を履くのかね。
 君はなぜ整理するのかね。
 君はなぜ記録を取るのかね。
 君はなぜ採用するのかね。
 君はなぜお金を貰うのかね。
 君はなぜ物を買うのかね。
 君はなぜ税金を払うのかね。
 君はなぜ給付されるのかね。
 君はなぜ保険に入るのかね。
 君はなぜ口座を設けるのかね。
 君はなぜ契約を結ぶのかね。
 君はなぜ約束をするのかね。
 君はなぜ他人に頼むのかね。
 君はなぜ会話するのかね。

 君はなぜ美しさを見出すのかね。
 君はなぜ酸鼻を感ずるのかね。
 君はなぜ誠実なのかね。
 君はなぜ義務を負うのかね。
 君はなぜ投げやりになるのかね。
 君はなぜ充実しているのかね。
 君はなぜ他人より優秀なのかね。
 君はなぜ劣等感を抱くのかね。
 君はなぜ安心するのかね。
 君はなぜ味方するのかね。
 君はなぜ手をつなぐのかね。
 君はなぜ評価するのかね。
 君はなぜ理解するのかね。
 君はなぜ信仰するのかね。

 君はなぜ歩くのかね。
 君はなぜ持つのかね。
 君はなぜ選ぶのかね。
 君はなぜ驚くのかね。
 君はなぜ強ばるのかね。
 君はなぜ熱狂するのかね。
 君はなぜ欲情するのかね。
 君はなぜ排泄するのかね。
 君はなぜ抑制するのかね。
 君はなぜ拒むのかね。
 君はなぜ戦うのかね。
 君はなぜ笑うのかね。
 君はなぜ歌うのかね。
 君はなぜ喜ぶのかね。
 君はなぜ優しいのかね。
 君はなぜ愛するのかね。
 君はなぜ諦めるのかね。
 君はなぜ待つのかね。
 君はなぜ眠るのかね。
 君はなぜ老いるのかね。
 君はなぜ思い出すのかね。
 君はなぜ孤独なのかね。
 君はなぜ呼吸するのかね。
 君はなぜ確かめるのかね。
 君はなぜ書くのかね。
 君はなぜ生きているのかね。
 君はなぜ死なないのかね。

 君は正しいかね。

(2004.11.12)-1
また、なんかいろいろ届く。来るときは、まとめて来るものだ。
そして、メモを取らないと、何を買ったのかすら忘れてしまう。

 石牟礼道子「苦海浄土くがいじょうど」「ははたちの国」
 李良枝「由熙ユヒ
 安部公房「壁」
 色川武大「狂人日記」「生家へ」
 野間宏「暗い絵・顔の中の赤い月」「文章入門(上・下)」
 原民喜「戦後全小説(上)」
 舞城王太郎「阿修羅ガール」
 絲山秋子「イッツ・オンリー・トーク」
 以上、活字

 ウラッハ モーツァルト「クラリネット協奏曲 イ長調 K.622」同「ファゴット協奏曲 変ロ長調 K.191 (186e)」
 ウラッハ モーツァルト「クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581」 ブラームス「クラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115」
 佐藤奈々子「Funny Walkin'」
 湯川朝音「逆上がりの国」
 Build An Ark「Peace With Every Step」
 Ann Saly「day dream」
 Yes「Close To The Edge」
 Turtoise「TNT」
 Scatman John「The Best of Scatman John」
 Rickie Lee Jones「it's like this」
 Nona Reeves「The Sphynx」
 Kraftwerk「Tour De France Soundtracks」
 Crazyfingers「Pianoforte」
 Shawn Colvin「a few small repairs」
 以上、録音

原民喜「戦後全小説(下)」はなぜか買っておらぬ。一緒に注文した「フィネガン辛航記」が無いせいで、ヘンリー・ミラー「北回帰線」「南回帰線」、グールドの「ゴールドベルグ協奏曲」はまだ来ない。
(2004.11.12)-2
とてもさばききれない。今月は、ギュンター・グラスだけで手一杯である。彼の小説は、疲れていると、読み進めることができない。音のほうは、Owen、Rickie Lee Jones、Horowitz+Schuman、新居昭乃氏、Chara、小谷氏があれば、それだけで十分で、むしろ多すぎるくらいだ。
(2004.11.13)-1
久しぶりに16時間くらい眠る。残りの、起きている時間で、絲山秋子「イッツ・オンリー・トーク」と、舞城王太郎「阿修羅ガール」の半分くらいまでを読む。ギュンター・グラスは、疲れていると読めない。
(2004.11.13)-2
まだ、ほんのふた月ほど前のことなのに、すでに絲山秋子のことをどこで知ったかについては忘れてしまったけれども(たぶん、どこかで書評を目にしたのだと思う)、彼女はサイトを持っていて、そこで日記を書いている(何様日記)。その文章の感じが好みだったので、買ってみることにした。思ったよりもずっといい。単行本「イッツ・オンリー・トーク」は、デビュー作である表題の一本と、もうひとつ、同じ程度の長さの「第七障害」という小説が収めらている。表題作は私小説で、「第七障害」の方は、迂回している。彼女は、言葉を重ねるよりも、スポットで言葉を置いてゆくタイプの作家だが、そういった小説では、一文が非常に多くの、その文そのものが通常所有している意味よりほかのものを持たなくてはならないので(しかも、詩とはちがって、具体的、世俗的なイメージである必要がある)、それには自身以外の誰かの生活よりも、そのものから取り出してきた方が、精度や確度は格段にあがる。そのためか、表題作の方により鮮烈な印象がある。「第七障害」のほうは、他人の生活を記述するためか、説明書きの部分が多くあって、それをどうかして削ることができたならば、もっとよくなるだろうと思った。もちろん、それはただ削るだけでは駄目で、小説の流れを崩さないまま、それらを集約する文に置きかえてゆくというかなり困難な作業が必要で、それをうまくやりおおせるには、やはり、自身の生活から取得した文のほうが、よりうまくゆくという話なのだが。
(2004.11.13)-3
舞城王太郎については、おもしろい。の一ことでよろしいかと思う。新しい日本語(早い話が、2ch的、携帯メール的である)を縦横に駆使している。ここまでやれば、それらもかなり使えるツールとして機能するのだということがわかる。ただ、話としては、昔むかしにどこかで読んだような、児童小説的筋書きで、恋愛と暴力とセックスと殺人鬼とが出てくる、ある意味で、懐かしいといった印象を受けるものだ。ぼくとしては、この新しい日本語が、そういった内容以外のケースにおいても機能するかを知りたいと思うので、また、ほかのものも読んでみるかも知れない。彼の文章には勢いがあるが、その勢いは、いくつかのことを、書き落とすというよりは、むしろ完全に素通りし去ってしまうというような性質を内包していて、それが致命的な欠陥とならないことを確認したい。といいながらも、半分読んで閉じてしまったあと、再び続きを読もうという気があまり起らないのが、我ながら情けない。単語としては、いくつも光るものがある。文には勢いがある。だが、それまでで、それ以降がないのが惜しい。とても、惜しい。ぐりぐりやって、その辺を、なんとか、ならないものか。それができたのなら、ほんとうに二十一世紀の日本の小説の本流になると思う。文語の呪縛から解き放たれるのだから、まさに日本小説の新世紀である。ぼくも、即採用しようと思う。(ただ、それが相当に困難な仕儀であることは、ジョイスが既に完成された形でもって示している。また、その彼のあとに続くものは、どうやらいないようにも思われることも、それを補完する)
(2004.11.13)-4
小説を読んでいる以外は、自分の書いたものを、Word で縦書きにする作業の本番をやってしまう。これであとは、印刷をして、募集要項にある情報を書いたレポートを一部用意して、送るだけだ。また、読んでみて、自分の書いたものが、太宰や島尾敏雄よりも、今日読んだ絲山秋子や舞城王太郎の方に似ているとしきりに思う。それが、彼らが単に「今」の作家であるためなのか、あるいは、二人ともぼくと同じように、ネット系のテイストの文章の作家だからなのか、それともほかに、別の理由があるためなのか、ぼくには今ひとつわからない。それがわからないということは、自分の文章の型を把握できていないということだから、わからなければならないような気がする。
(2004.11.14)-1
昨日に引き続き、太宰賞投稿のための作業をちまちまと。原稿用紙換算は、百二十八枚と出ました。あぁ、なんか、できの悪いレポートを提出する準備をしているようで、実に憂鬱だ。酒のんじゃお。あとは、プロファイル情報を作成しなければならない。新横浜で駄目リナックスCプログラマをやっています。でも、もうちょっとで辞めます。以上。じゃ、駄目かしら。それにしても、MS Word はなかなかよくできている。処理がいちいち泥臭さそうな動きなのは、いたし方あるまい。途中で、一回落ちる。SEGV ちゃんやその他の異常終了時(テンポラリファイルの存在や、そこに書き込まれているフラグを見ているものと思われる)は、復旧ファイルのリストを出したりして、いろいろせわしない。プログラマとして身につまされるものがあるので、それを笑ったり憤ったりすることは、もちろんできるはずもない。五十頁を越えるドキュメントなので、一括置換やペーストなんかをすると、スレッドで走っているのがよくわかる。すべて、タスク積み上げ型で処理しているようだ。GUIの基本的な掟だが、にしても、普通はこんなにごりごりにはやんないよ。すばらしい。よく動いてる。っていうか、なんでも、アンドゥーできるのねぇ。すげえなぁ。きっと、厳格な作法をコード的に実践しているエクセレントなオブジェクト指向なんだろうなぁ。じゃねえと、こんなごついの、動くわけねぇ。pptもすげえなぁ、っていつも思うけど、これは、それ以上だな。
(2004.11.14)-2
アンドゥ・リドゥとか、コピー・ペーストとかって、どうやってるか、知ってます?これが、感動的なまでに、直球で、泥臭いんですよ。すべての機能(一文字追加、削除、カーソル移動、置換、等々)に、アンドゥ処理とリドゥ処理を作成して、その動作が実行されるごとに必要な情報と一緒にスタックに積みまくるんですよ。で、当然、それらのテンプレート用のメタクラスってのがあって、それ全部書かないと、動き出さないんですよ。コピペだって、同じです。コピートゥクリップボード処理とペーストトゥオブジェクト処理をすべてのデータ形式に対して用意するんです。あと、ドラッグアンドドロップもそうだ。死ぬ。とても、ひとりじゃ作りきれませんがな。
(2004.11.14)-3
うう、終わらないよう。しかも、みんなぎゃーぎゃー要望だけは積んでくし。「これって、ドラッグアンドドロップで、ここんところに移せるといいなぁ」「あぁ、、、うう。それはですねぇ。追加でここんところの情報と、あと、多分これと、これとが必要で、、、でも、これって、全然そういうことに対応できる仕組みになってないんですよねぇ。それ取ってくるたびに、いちいち全部調べなおさないといけないんですよ。。。」「なんで?」「いや、もともとのその処理書いたの、あなたじゃないですか。要求がある度に、舐めなおすって。手抜き。『なんで?』は、こっちのセリフですよ。GUIは、シーケンシャルに処理するわけにはいかないんですよ。一回やって、それで終りじゃないんだから。そこいらじゅうから、あらゆるタイミングで要求が入るんだから。取っておけるものは、きちんと、捨てないでとっとかないと、どんどん酷いことになるんですよ。じゃないと、また『遅い』『重い』とかいって、文句ぶぅぶぅいうじゃないですか。ぼくは、あくまでうわっぱりを作っているだけで、中身がきちんとしてないものについては、出そうにも、出しようがありませんよ」など言って、どうにか丸めこまなければならない。同僚のプログラマですら、これなんだから、素人さんたちの言い草は推して知るべしである。
(2004.11.15)-1
今日は雨で、寒かったけど、通勤時にOwenを聴いたら、すごくよかった。街なかで、歩きながら聴く、マイク・キンセラの一人称のオルタナティブ・ロックは、目に入ってくる周囲の映像と、ぼくの意識との間に降り積もっている埃の膜を少し拭ってくれたようだった。これは、東京を歩きながら聴いたら、もっと、いいだろう。それから、もっと寒くなれば。ポケットに突っこんだ手を握りしめ、肌をぱりぱりに硬くして、がさがさの脣にはさまれている歯を食いしばって、雑踏に混ざり、かき回されながら、なかに入っているもの全てに抵抗する。
(2004.11.15)-2
マイク・キンセラはミルウォーキーの人だそうで、ぼくにとってその街は、名前は耳にしたことがあるが、所在を知らない米国の多くの都市のひとつでしかないのだけれど、いま調べてみたら、それはシカゴの隣町、つまり東北部、五大湖周辺の街のひとつであるらしい。だから、たぶん彼には、冬には鼻を赤くして、吐いたそばから水滴になる息をしながら、ひとり繁華街を歩いていたり、雪の夜がもたらすあのきめの細かい静寂のなかで音を探していたりする日常があるのだ。
(2004.11.15)-3
コメントの書き方というのを思い出した。それを使って、あくまで自分のことを書こうとすること。それに関係しようとし続けること。それを決して、自分とはなんの関わりもないものとして、取り扱わないこと。小林秀雄が教えた、印象批評の原点、あるいは前提。その限りにおいて、ひとは印象によって対象を裁断することを許されうる。


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