tell a graphic lie
I remember h2o.



(点滅)
 いちずな雪片の合間を
 オーロラのように降りてくる
 おんなたちの足音

 にんげんの棲む家の灯の
 またたきの中を這ってきて
 みずからを惑わすすべも
 体温もろとも裸木にかけてやり
 こんやも螢ほどの正気です
 そのわたくしを起点にのこして
 のびてゆく雪の原は
 不変の距離を
 みごとに設置していった
 幼い恋人をのせ
 地表をえぐって捲きあがる挽歌のなかを
 きりもみの草履が消える
 くらい紫いろの足音が
 阿蘇連峰の夜空をこえて

 ふりしきる雪片が閉じてゆく
 無の時刻
石牟礼道子「はにかみの国」

(2005.2.1)-1
レスポンスをしてみよう。。。
(2005.2.1)-2
 ふたつの時計の秒針が
 チック、チック。タック、タック
 チック、チック。タック、タック
 0.5秒おきに、すこしも乱れず、呼びかけ、木霊し合い、
 アルコールを含んだ血液を、忙しげに送り出すぼくの心臓の
 鼓動はいつしか、それに追いつこうとしている

 「何か欲しいものはありますか?」と問われ
 「何も欲しいものはありません」と応えたく願い
 零度の朝を出迎えようと窓の外を見れば
 遠くの街の灯が
 消えることのできない、この世界の街の灯が
 渇いた、凍りかけの空気の中で
 またたいている

 ぼくは
 「何も欲しいものはありません」と言いたい
 「何も欲しいものはありません」
 それを云う、ぼくの声を、耳と心で受けてくれる人が欲しい

 「何も欲しいものはありません」
 ぼくは何も気づかないまま、手のひらが赤らむほどに、飲みつづける

 ぼくの血は固まらない かわりに ぼくの思考は固まるだろう
 秒針の音のように トビトビになってしまうだろう
 おかげで、いっつもぼくはぼくを見失わなければならない
 ぼくはちょうど、秒針が、チックと音を出すとき、タックと音を出す
 その一瞬にだけ、この世界にあるような そういうものになるだろう
 フィルムのこまのように、つづけて流せば ひとつに見えるけれども
 一枚いちまいと足し合わせると 永遠にゼロのまま
 いなかったことと同じものになるのだろう

(花がひらく)
 花がひらく
 赤ちゃんが死ぬ
 のっぺらぼうの壁の家の
 花がひらく
 赤ちゃんが死ぬ
 肉汁(しちゅう)の匂いのこぼれる扉をひらく
 赤ちゃんを 食べているのかい
 スプーンですくって
 消毒液のなかの注射針
 注射液に吸いついている
 赤ちゃんの皮と肉
 お乳を ぽんとはなすように
 針をはなして

 そのとき赤ちゃんは
 世界の錘りになって
 落ちてゆきます

 窓のないホーム
 肉汁(しちゅう)の匂い
 あたしの腕の中で
 首を折った
 ひまわりの花

 とある日
 音もなく
 そらのいちばん高いところから
 空はゆっくりひき裂ける
 そらは ぱっくり
 空は静かに
 あたしの躰の中にひろがって
 足のねもとの地面ながら
 ひき裂けてしまう

 空はぱっくり
 花が
石牟礼道子「はにかみの国」

(2005.2.3)-1
 回転する完全に理想的な球体は静止するそれとまったく同じものである
 あらゆる光波を一切の拡散を伴わず正反射する あるいは完全な吸収をする
 外部からのあらゆる衝突によって変形されることはなく
 自体の運動(あるいは静止)も影響を受けない
 理想空間の中で時間を超越し
 永久に停止と全く同義である等速運動をつづける
 このとき球体ははたして「存在して」いるのだろうか

(2005.2.3)-2
自然主義。ノー
リアリスム。ノー
シュールレアリスム。ノー
印象主義。ノー
抽象主義。ノー
ロマン主義。ノー
シニスム。ノー
ダダイズム。ノー
ファンダメンタリスム。おしい
精神主義。我思う。故に我在り。
自己。時間軸に非線形な断裂した主観的イメエジ欠片の集合の云い。
値の範囲は、純ゼロを含む複素数空間第一象限として表現されうる可能性を有す。
小説的真実。
Watch the world.

(Depression Modern)
I have seen this night before i remember it in theory i can never tell of i erased it or it erased me. i have seen this night before or else I made it up comletely i can never tell of i erased or it erased me
Aarkitica "Bleeding Light"

(OJ Gude)
to view cities for where ends meet and points cross above the streets the new electric keeps from sleeping all of Broadway city planning is anatomy. and your blood electricity what made you think to fight the precinct so you could light the way with gold and silver bulbs?

So create eternal morning to reign above the night to be a god in New York City to be the King of Lights
Aarkitica "Bleeding Light"

(2005.2.6)-1
昨日、Aarktica "Bleeding Light"のなかのひとつ、"
A wash a sea goodbye it's me" を、五時間くらいループさせながら原民喜全集を読んでいると、ふと、これで新しい小説が書けるかもしれないと気がついた。起点となる、あるいは到達点となるイメージが欲しいと思ったので、まずは、いつもやるように、詞を訳してみようと思い、ブックレットを取り出してみたのだけれど、あいかわらずのぺらぺらの見開きには、上の二つの詞しか載っていない。"A wash..." は、プロモーションビデオを作ったので満足したのだろうか。"OJ Gude"は、調べてみると、ブロードウェイのメインストリート一面の電飾を手がけた人の名前らしい。今でいえば、ミレナリオをやってる人みないなもんだろうか。しかし、上のふたつだけでは、やはりちょっと足りない。歌を聴いて、詞を書きとれればいいのだが、どうも英語は駄目である。どうしよう。メールを出そうかしら。"How do you do, Mr.Jon DeRosa? I am a listener of Aarktica who lives in Japan. My name is Kiyoto Suzuki. I like your music, especially I love "A wash a sea goodbye it's me". Now I think I do write a novel based on it. So I'd like to know the lyric to write my novel. Please give me the text of "A wash a sea goodbye it's me". I will translate it to Japanese, and construct a small story." うーん。
(2005.2.6)-2
太宰に「玩具」というのがあって、
(童話)
 人ががやがや家のうちに居た。そこの様子がよくは解らなかった。誰か死んだのではないかしらと始め思へた。生まれたのだと皆が云った。誰が生まれたのか私には解らない。結局生まれたのは私らしかった。
 生まれてみると、私はものを忘れてしまった。魚や鳥やけだものの形で闇のなかを跳ね廻ったり、幾世紀も波や風に曝されてゐたのは私ではなかったのか。
 私は温かい布に包まれて、蒲団の上に置かれた。それが私には珍しかったが、同時頼りなかった。気持のいい時は何時までもさうして居たかったが、時々耐らなく厭なことがあった。家の天井とか、電燈とか、人間の声が私を脅した。眼が覚めて暗闇だと、また私は死んだのかなと思った。しかし、朝が来ると、私の周囲はもの音をたてて動くのであった。
 私は母を覚えたのは大分後のことあった。母を知った瞬間は一寸不可解な気持だった。その顔は他人でもないし、私でもなかった、つまり突然出現した一つの顔であった。それから大分して後、父か兄姉を識った。或る朧気な意識が段々私を安心させた。私一つがぽつんと存在するのではなく、私に似たやうなものが私の周囲にあって動く。しかし不思議なことに彼等はそれがあたりまへのやうな顔つきである。私は時々彼らの顔が奇異に見えた。
 私の眼の前にある空間はもう不可避だった。空間にはさまざまの苦痛と快楽が混っているゐるやうに思えた。あまり長い間視凝めてゐると、眼が自然に(まばたき)する。すると忽ち空間が新しくなった。が、次の瞬間にはやはりもとの空間だった。私はもう大分長い間生きて、生活にも慣れて来たやうだった。乳が足りて睡りが足りたので、恍惚と眼を空間に遊ばせてゐた。すると何処からか微風が走って来て、私の頬ぺたを一寸撫でた。私は微笑した。

 母が私を抱いて窓の外に出た。すると遽かに眼の前が明るくなった。そこは私にとって見馴れないものばかりだ。菜の花の上を蝶々が飛んでゐた。私の掌の指はそいつを見ながら動いた。すると蝶々は高く高く舞上がった。くらくらする眩しい梢の方で葉が揺れた。私は蝶々が木の葉になってしまったのかと思って、掌を上に挙げた。が、掴めなかった。

 私は池の鯉を見た。鯉は水のなかに気持よさそさうに泳いでゐた。
 朝、夕、雀が訳のわからぬことを云って啼く。私以外のものは大概ものを云ふのに、私はものが云へないからもどかしい。ものが云へないのは壁や柱だが、時計は絶えず喋っている。夜なんか特にガンと大きな響がしてびっくりさす。しかしそれが鳴り止むと、今度はキッチンキッチンと(せは)しい音が続く。逃げろ、逃げろ、とその音は()かしてゐるやうだ。どうして逃げなきゃならぬのか、何処へ逃げたらいいのかは解らないのだが、私は妙に絶望的な気持にされる。私の気持は熱に浮かされたやうになる。

 大人が私に馬の絵を見せて、頻りにその真似をしてみせる。すると私も馬になったやうな気持がする。非常に速く走ったり、暴れたりすることはどんなに愉快か、私も自由に動いてみたい衝動で一杯なのだ。大人の腕によって私の身体が楽々と持運ばれて行く時、障子や、天井や、畳は私のほとりを動く。障子や、天井や、畳が動かない時、その時は全体が何か一つの怪しい謎を秘めてゐるやうだ。特に夕方、電燈の点かぬ前がさうだ。現在の私は腥い塊りで、それが家のなかに置かれてゐる。家の上には暮方の空が展がってゐる。そして、それはすべて確かなことだが、確かなことほど朧気でならない。

 熱が出て私は寝かされてゐた。何処かでしーん、しーんと不思議な音が続いた。眼を閉ぢてゐると、見たこともない老人が現れて来て、何か難しいことを云って私を責め出した。泣かうと思ふのに声は出ない。はっと思ふと、私と同じやうな子供が、実に沢山の子供達が左右から走って来ては衝突して倒れる。倒れても倒れても後から子供達は現れて来る。一頻り合戦が続いた後、一匹の馬が飛び出して来た。見れば皮を剥がれた馬で、真赤な肉をピリピリさせてゐる。
 ふと気が着くと、私はまだ死んではゐなかった。母の手が私の額をぢっと抑へてゐた。私は何だか嬉しくなって、つるりと笑った。

 ひとりで私は畳みの上を這い廻ってゐた。そこに転がってゐるのは犬の玩具だが、私はもう珍しくはなかった。しかし、ふと犬の耳を引張ってみると、それは簡単に捩げさうになった。私は夢中になった。と、その時私を後から誰かが軽く抱き上げたので、犬の耳を持った儘、私は高く挙げられた。相手は巧みに私を抱きかかへて、何か云った。見知らぬ女に抱かれたのだと気が着いても、私は別にむつがらなかった。女は私に頬をすり寄せた。それから私を畳へ下した。もう私は犬の耳へ気を奪られなかった。その女が家にゐる間、その女を私は不思議に感じた。私は作り変へられるのだろうか。

 或朝、家の外を楽隊が通った。単純な、浮立つばかりのメロディが私を誘惑した。楽隊は皆を引連れて、山を越え、谷を越え、海を渡って、何処までも、何時までも続いて行くのだから、君にも従いて来給へと云ふ風だった。遠ざかって行く楽隊を見送って、私は耳の底にふわふわと動くものを感じた。もしやもう一度、楽隊は帰って来はすまいかと、毎日毎日私は待った。
原民喜「焔」

(2005.2.6)-3
神秘という言葉は、いつも、さも豪そうに振舞うので好かないのだけれど。ぼくが、こうして今、ぼくは居ないのではないか、という疑問を提示しているということは、裏を返せば、それまで、ぼくは居るということを、全く無反省に是認していたということを云ってもいて、それで。。。存在の神秘、という言葉が、ほとんど唐突な感じを以て、浮かび上がってくる。他の誰でもなく、ただ「ぼくが」生まれたという事実を、どう取り扱ったらいいのか、それが、本当に事実でなのかという問いを含めて。。。あの、存在の神秘というやつが、ぼくの前にもやってくる。感謝や感動や思念をもたらすものとしてではなく、ぼく自身はそれらからもれているのではないかという懸念と、それが確定する以後の疎外感を以て。Don't I exist in this World? I'm not be a one of human beings? 構造的な言葉としてならば、解釈可能な、ぼくは居ないのに居るのではないか、という懸念。愛は美しい。笑顔は美しい。共感は。。。and so on... そのとき、たしかにぼくはそこには居らず、じゃあ、ぼくは何なのだろう、と思う。それは、ぼくが何ものかであることを仮定した上での問いで、じゃあ、ぼくは何なのだろう。「誇り」と「埃」が同じ読みであることの意味を最近よく思う。
(2005.2.7)-1
困ったな。原民喜、相当すごいんですけど。
(2005.2.7)-2
そして、今日も石牟礼道子を写す。だんだん、この人が悪魔に見えてくる。今日のふたつは、特にひどく

(娼婦)
 はじめに みずうみありき

 うっすらと通ってゆくあなたたちだから
 虫とり草の しあわせがわからない

 蛇よ 首をやすめるんじゃない
 おまえの平らな頭ほどにも
 わたしをもやいになんぞ
 できないのよねえ 男たちは
 のぼって のぼって
 泡立つ葉ずれの闇
 もうすこしで
 みんなの

 おんなを ちょうだい
 おとこを ちょうだい

 きのうのことはわすれる
 あのひとのやいばを胸ふかく刺す
 けむりをたてる生ま身の胸の中を
 なんとか抜けて出たら
 村境の椿が みえてきた

 きこえるでしょう ほら
 いとしい岩の中のとかげが
 先細りするチャルメラでうたうのが
石牟礼道子「はにかみの国」

(乞食(こつじき))
 こなれない胃液は天明の飢饉ゆずりだから
 ざくろよりかなしい息子をたべられない

 わかれのときにみえる
 故郷の老婆たちの髪の色
 くわえてここまでひきずってきた
 それが命の綱だった頭陀袋
石牟礼道子「はにかみの国」

(2005.2.7)-3
自分が人間でなければ、自分は人間かと問われることはない。けれども、その問いが常に真に帰結するとは限らない。
(2005.2.8)-1
適当な修飾が思いつかない。ただ、囚われているという知覚だけがようやく。ただ、ここで(つまり「ぼくの部屋」と呼ばれている決まった場所で)、こうして(革張りの椅子に腰掛け、状態に対して適当な音楽を選択して流して、自身は画面とキーボードとに向かって)いること、それ自体が囚われていることに相違ない、という知覚だけが。それは、「囚われている」ということ、まさにそのものではないか。
(2005.2.8)-2
毛穴が開き、そこから或るガスが漏れ出す。内臓が溶け出し、気化した、抽象的な概念として存在し続けている自己が、物質化して気化した、ガスが。ぼくはどんどんカラッポになり、カラッポになり、薄っぺらの表皮だけの、どんどん漏れ出して、薄くなってゆく表皮一まいしかない、外殻だけの、何ものでもない何ものか、空隙ですらなく、まして、光すら取り込む超密度では決してなく、ただ、カラッポのスカスカ、ほんとうは、名前はおろか、そういった形容すら拒絶する、何ものかに、限りなく近づいてゆく。掠れてゆく意識は、掠れてゆくがゆえに、そして、その必然の予感のゆえに、「ぼくは無か」と問うことを繰り返し続けざるをえず、そのループはその問い自体が掠れ、消滅する瞬間まで、決して完全には費えず、飽くなき循環を続ける。おそらく、その最後まで残るのは、「ぼくは無だ」という自覚であり、微分的その一瞬まえには、それを愛で慈しむ、原初の感情が残っていることだろう。しかし、それはまったく瞬時の、ゼロに収束する直前の、無限にゼロに近い有量の時間に限ったことであり、その瞬間が存在するのと同じだけの重量を以て、「ぼくは無か」と問い続ける時間は、皮膚の皺に溜まる垢のように、積み重なり続ける。ぼくはカラッポだ。ぼくはカラッポだ。ぼくはカラッポだ。ぼくは思い続け、問い続け、必ず同意を得、そのあいだも、ぼくからは或るガスが漏れ出し、外殻はどんどん薄くなってゆくが、にも関わらず、最後の瞬間まで(「ぼくは無だ」という自覚と、それを愛でる感情とだけが残る、その一瞬まえのある瞬間まで)、ぼくはそれに抵抗し続ける。
(2005.2.9)-1
重量のない真っ白の靄がただ深く厚く立ち籠め、ぼくの視野を潰している。ただそれだけのことで、ぼくは自由をまったく奪われ、ほとんど動きを停止している。たったそれだけのことで、右往左往することすら、止めてしまう。摘み上げられ、掌に乗せられただけで、死んだふりをする、臭いにおいのする甲虫のように仮死する。それが、自分の身を護ることだと思っている。そのうち、それは、実際の死と完全に同等になるまで、徐々に進行してゆくだろう。
(2005.2.12)-1
ここに自然は無いから、美しい風景のことは書けない。ここに人間は居ないから、弾む会話や触れあう肌のことは書けない。ここは叡智とも真理とも無縁だから、覚醒する意識のことは書けない。ここには倫理も汚辱も無いから、慙愧も憐憫も書きようがない。ここには幸福も不幸も見当たらないから、悲劇も喜劇も書かれない。ここにはただ、何ものでもない何ものか、もはや移動せず、段々と減衰してゆく、まっ黒というよりは、ただ色を帯びないだけの、空隙でもなく、虚無でもなく、分解不可能な質量の集合であるダークマターのような、けれども実際には、ただそれが見るに価しないだけであるために、そのようになっているに過ぎない、固着した、非存在の一歩手前にある、いじけた存在が転がっている。一切の特長を剥ぎとられ、他のいかなるものとも区別できないので、それは一切の直接的修飾を拒絶する。それがあることは、その周辺の事物や人物を丹念にえがき出すことによって生まれる、まだ書かれていない部分として、あるいは、現在ではなく、過去から演繹される必然的帰結として、あらわされうる、したがって、「無」とは少し異なった、しかしそれによく似た何かがある。
(2005.2.12)-2
デイヴィッド・ロッジ「小説の技巧」をぼつぼつ読んでいる。これは、どこぞの雑誌か新聞かの全五十回の連載を一冊の本にしたもので、内容は、毎回、「書き出し」「作者の介入」「サスペンス」といった、小説の形式や手法をテーマに採りあげ、まず冒頭に今回取りあげる技法のよき手本を置き、それにロッジが解説を施すという方式で、一回あたり五頁ほどにまとめたコラムの集合である。よく、まとまっている。つまり、小説には、少なくとも五十のチェック項目があるというわけだ。何についての小説を書くかが決まったら、次は、それをどのようにして書くかを決めなければならないが、その際には、この各項目にてらして、適切な方式を選び出す、または選ばない、ということをしなければならない。また、書き上げた際は、この各項目によって、その小説は検閲を受けなければならない。一度にすべての項目に満たすのは無理であるが、少なくとも、それが取り入れられなかった、正統な理由は用意されていなければならない。という気にさせられる。
(2005.2.12)-3
けれども、島尾敏雄や原民喜の小説は、そのような分解をうまく受け入れてくれない。どうも、もともと、そのような方法論にたって書かれてはいないように見える。そして、ぼくもまた、テーマや題材を持って小説を書く、ということが、よく、というより、ほとんど理解できない。何かが足りないために、おそらくそうなっているのだろうと思っているのだが、いったい何が足りないのだろう。と、ぼくは首をかしげるふりをするのだが、実際は、何となくはわかっている。そして、けれども、それを知り、認めることは、ぼくから小説を書く動機を喪わせるという予感を同時に感じてもいる。それで、気づかぬふりをする。そして、何か別のところにも、それがあるのではないかと思い、その期待にすがっている。原民喜を読んでいると、あながちそれも夢想に過ぎないわけでもない気がしてくる。けれども、それが何なのか、そちらから小説を書くということがどういうことなのか、やはりよくわからない。
(2005.2.12)-4
夜はまいにち明けるけれども、それがいったい何なのかがわからない。
君はまいあさ起き上がって、支度をして出かけてゆくけれども、それがいったい何なのかがわからない。
電車はあるところから走り出して、ときどき止まりながら、別のきまったあるところまでたどり着くけれども、それがいったい何なのかがわからない。
雲が空に沸き立ち、風に流され、そのうち消えてしまったり、雨粒なって落ちてきたりするけれども、それがいったい何なのかがわからない。
誰かがひどくうまくやったり、ひどく儲けたりすると、周囲の者たちがあれこれ騒ぎ立ててわかったような口をきいたり、また、ほかの誰かがひどいへまをしたり、狡猾な抜け駆けがばれたりすると、やっぱり、まわりの人間達は、そのことを何やかや言い立てるけれども、それがいったい何なのかがわからない。
卵は茹でるとゆで卵になるけれども、それがいったい何なのかがわからない。
カップ麺は、熱湯にひたすと、水分を吸って膨らんだり、融けたりするが、カップ麺のカップは、決して水分を吸ったり融けたりはしないものだけれども、それがいったい何なのかがわからない。
音楽は聴かれ、それはある連続したまとまりとして受け取られ、多くの場合、亢奮や落ち着きといった精神の変化をもたらすけれども、それがいったい何なのかがわからない。
バーボンがあって、ぼくはそれに酔うけれども、それがいったい何なのかがわからない。
イタリアレストランでは、日替わりのパスタからはじまるディナーコースがあり、その隣りの安弁当屋にも、イタリアン弁当があるけれども、それがいったい何なのかがわからない。
植物や草々の種が土に落ち、埋まり、やがて芽吹いて、日毎に育ち、枝を伸ばし、葉を茂らせ、いずれ花を咲かせ、実をつけ、それは鳥についばまれたり、虫が食んだり、風に運ばれたりして、種はまた土に落ち、植物は枯れてゆくものだけれども、それがいったい何なのかがわからない。
ものは作られたり、壊されたり、失なったりするけれども、それがいったい何なのかがわからない。
人は美しかったり、反対に醜かったり、そういうことを人びとはそれぞれお互いに感じあっているけれども、それがいったい何なのかがわからない。
それから、人は狂っていたり、そうでなかったりするけれども、それがいったい何なのかがわからない。
ぼくは考えている?それとも、そうでない?
(2005.2.12)-5
それは美しくない。たとえ、美しいのだとしても、それはぼくとは関係がない。
(2005.2.12)-6
自然とぼくとは、異う。外界とぼくとは異う。それぞれ別のもので、照らし合わせて比較したり、同じ言葉で修飾することはできない。自然には、何々があるけれども、ぼくにはそれがない、とか、その反対の例だとか、そういうこともできはしない。ぜんぜん、異う。ぼくとは異う。ぼくとは異う。ぼくとは
(2005.2.12)-7
最近、酒が甘く感じる。砂糖水を飲んでいるみたいだ。
(2005.2.13)-1
そのどれに意味があるんだ?
(2005.2.13)-2
さて、どうやら、手詰まりのようである。方式を変えなければならないだろう。今のぼくは浮き上がっている。そうするには、まだ少し早い。I am the Nothing. という言説には、それなりの骨格が必要である。
(2005.2.13)-3
皮相。皮相。皮相。皮相。皮相。皮相。なぜ、お前は存続可能なのか。その根拠を開示することもできぬのに、なぜお前は存続可能なのか。
(2005.2.13)-4
惰性、というのは、つまり、見放されている、というのと同義である。担当者曰く、もう、手の施しようがない。
(2005.2.13)-5
とりあえず、今、文を書くために使っている時間を、部屋を借りるための具体的行動に割り当てようと思う。まず、引っ越そう。ここを出てゆこう。ミラーの行動は、もっとすばやかったけれども、ぼくはそんなに優秀じゃあないから。とりあえず、動く、ということを、ひとつの行為として為さなければならない。
(2005.2.14)-1
中央線、中野、吉祥寺間一帯。南は、浜田山、方南町あたりまで。北は沼袋、鷺ノ宮。管理費込みで、六万五千から七万程度。光熱費等あわせて、月十万。年間百二十万。
(2005.2.14)-2
自分を表現する、という言い方に少し倦んできた。別のアプローチが欲しい。
(2005.2.16)-1
たぶん、もうちょっとだ。もうちょっとで、次のを書きはじめられそうな気がする。あと数個の問いに答えるというか、問いを立てるというかすれば、おそらくそれははじめられることだろう。ぼくの扱う議題といえば、相も変わらず、もっとも基本的で原始的なコミュニケーションの形態やディスコミュニケーションで、つまり、要するには、相手の数が一か零かのどちらかでしかなくて、そして、ぼくはどうしても、それが理解できない。ぼくと君とが会話でき、その結果や過程に於いて、相互理解というコミュニケーションにおける最も基本的な目的が、極めて自然に達せられるという現象が、どうしても信じられない。どうして、ぼくと君は話すことができるのだろう。それは、言語学や心理学の一部で研究されているようだけれども、でも、そういうことではなくて、そういう感覚よりも厳密さ、一般性、普遍性を重視する形式では無くて、ただ単に、どうして、君とぼくとは話ができるんだろう。それだけなんだけれど、たったそれだけが、どうしても理解できない。それには、まず、ぼくがいる、ってことが確定していて、それから、君もほとんど同様の感じで、いる、ってことが確定していなければならないはずなのだけれども(あるいは、君は、想像上の存在であっても構わないのかも知れないけれど)、でも、ぼくは、ぼくがいる、ってことをはっきり言うことができない。そして、たぶん、そのために、君がぼくにとって、いる、のだということも、あまり信用していない。
(2005.2.17)-1
アナトール・フランス「シルヴェストル・ボナールの罪」読み終わる。いいじゃないか。ミラーが唾棄したというのは、非常に頷けるのだけれども、彼がそうした(そうせざるを得なかった)部分こそが、そのままアナトール・フランスの良さだ。学識や訓戒や機知やヒューモアは、それ自体で何らかの価値を有するものであり、たしかに、それは「その程度」なのだけれども、その「その程度」自体が良さを持つのだ。ぼくは、彼ら双方のどちらからも遠いので、どちらにも喜ぶことができる。ぼくは彼らの作品を堪能し、そしてヒヒヒという下品な笑みを浮かべて、彼らを同じように貶める。それが、「小説の多様性」という大義名分を所有しているから。
(2005.2.17)-2
次は、大分劣化して「戦艦大和ノ最後」にしよう。よく練られていればいい、というのは、安易な価値観で、小説の価値というのは、そうではなくて、もっと個々の作品ごとに、謂わば宿ってゆくものだ。


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