tell a graphic lie
I remember h2o.



(2005.1.15)-1
E. S. Asia quake & tsunami」スマトラ沖地震・津波の写真、300枚以上。
(2005.1.15)-2
スライドショーを見終えたあと、堪えきれなくなり、部屋中をうろ、うろ、歩きまわる。
(2005.1.16)-1
上田三四ニ「うつしみ」読了。死の捉え方についての話し。大筋に於いて賛同し、結びの部分に於いて反抗する。
(2005.1.16)-2
あまり文を書く気分ではないのだ。頭がうまく動かない。せめて、いくつかメモを取っておきたいのだが、たったそれだけのことにすら難しい。何の動作だかよくわからないが、ぼくはやたらと顔の皮膚を擦りながら、スライドショーを見ている。不用意な描写をしようとすることに対して、ただちに警告が発せられるので、これ以上は書き付けることができない。今、酒の力をかりて、ようやくこれだけ書いている。
(2005.1.17)-1
平日に何を書いたらいいかということに少し迷っている。なんでも、時間がかかるようになってきた。書くというのは、なかなか怖いことだ。
(2005.1.19)-1
「アブサロム、アブサロム!」下巻の再読を開始。少しずつ、トマス・サトペンが、ウィリアム・フォークナーに見えてくる。
(2005.1.19)-2
本が届く。 それから、劇団ひとりのDVDも一緒に届く。さっきまで、これを見ていた。とてもよい。ぼくもこういうのが作りたい。
(2005.1.19)-3
プログラムを書いたからといって、何だというのか。それが、何ゆえに、また、どのうようにして、現金に化け、ぼく自身の懐にまでもたらされるのか、それが、未だに、全く理解できない。
(2005.1.19)-4
今あるものは皆見慣れたものにして鈍磨せる我が心を研ぎたまふもの無しや
(2005.1.19)-5
冬の大気が澄んでいたからといって何だというのか
(2005.1.19)-6
平和、善、友愛、どれも、おかしき言葉と響く。我は独りなり。いくつかの概念を焼却し遂せる。
(2005.1.19)-7
人として優れている。人として優れていない。人として。見たまえ、あれは空だ。人ではない。
(2005.1.19)-8
ぼくの心臓は隠れている。そして、君には心臓があるのだろうか。ぼくにはそれがわからない。それは、ぼくが、ぼく自身の心臓を隠しているためなのだろうか。
(2005.1.19)-9
人はなぜ死ぬのだろうか。人はなぜ孤独を感じるのだろうか。勝者が口にする、「人はひとりでは生きられない」に対して、ぼくが述べる言葉の連なりは、本当に存在しえないのだろうか。何か、音にしてみることくらいは、できるのではないだろうか。例えば、「人は完全に他人の関与無しでは生活し得ないが、完全なる無関心のうちに生存することは可能だ」ぼくは千円札を取り出し、それを相手に渡す。それの肖像は、最近、明治のなんちゃって英文学者から、貧乏化学者に代わった。これが紙幣に用いられる肖像である。国語の教科書には、山頭火の句が収められている。つまり、そういうことだ。すべては、言い訳に過ぎない。君の言説の正当性は、他人の大多数が、それと同じものを指示するという現実のみに依拠している。そして、その大多数というのは、労苦よりも怠惰、厳密よりも安易、飛躍よりも談合を目指す心によって承認されたものだ。
(2005.1.20)-1
更に、本が届く。たぶん、明日も、また届く。 ゲーテ、モリスン、ウルフ、コルタサルといったところ。平石貴樹は、読みかけのフォークナー評論(先へ進むにはモリスンを読まなければならない)を書いた人で、自身も推理小説を書いているというので、ひとつ買ってみた。たぶん、評論と同じように、丁寧に積み上げてゆくのだろう。
(2005.1.20)-2
本はどんどん溜まってゆくけれども、ぼくはぜんぜん先へ進もうとはせず、それどころか、「アブサロム、アブサロム!」を再読している。二度目にして、ようやく話の筋を把握しかけているところである。
(2005.1.20)-3
そして、ウラッハのクラリネットに戻る。
(2005.1.20)-4
もう仕事のやる気が全然ない。はやくリリースしてしまいたい。バグ残っててもいいから。
(2005.1.20)-5
深刻以外の方法。深刻と茶化すとの境界線を。笑うことは止めた。けれども、それが直に深刻になってしまうのは、気に入らない。たぶん、異った在り方もあるはずだ。
(2005.1.21)-1
またまた、本届く。今日は三島由紀夫。 三島由紀夫はやっぱりすぐに届く。
(2005.1.22)-1
モチーフが見つかるまでは。
(2005.1.22)-2
「アブサロム、アブサロム!」二回目をおわる。余勢を馳って、続いて「フォークナーとアンダーソン」という評論を読む。彼がどのようにして、あそこまでたどり着いたのかについて、興味があるのである。内容自体は、残念なことに、凡庸なレポートの域を出ないのだが、しかし、そのおかげで、アンダソンについての「知識」を得る。フォークナーについては、どうにも、いまいちである。常識を用いるという、大愚を犯している。
(2005.1.22)-3
罵詈雑言を吐いていると、いたたまれなくなるので、自分は何を書いたのだろうと、以前のものをほじくり返そうとする。けれども、いや、当然のことではあるのだが、ほとんど、何も見つからない。せめて、詩人でないものが書いた(正確には、だから、書こうとした)詩とおぼしき、数行の文でもあればと思い、あちこちうろついてみるのだが、そんなものは、どこにもみあたらない。ただ、「歩きながらなにか思っている」だけが、わずかにぼく自身のこころを引くことができる。
(2005.1.22)-4
そう、せめて、一片の詩を。詩人の書く、正銘の詩ではなく、詩のような文を。
(2005.1.22)-5
ということで、今から「詩」を書こうとしてみる。もとより、潤滑油の注入に及んでのことである。今日のこの次がなければ、この試みは失敗に終わり、泥酔したぼくは五十センチ後ろのベッドに転がって、日の沈むころまで眠っているはずである。いや、うまくいったところで、それは同じことなのだけれども。
(2005.1.22)-6
ぼくの今日が、実際には無かったのだとしても、喪失感は、それすらやって来はしないだろう。ぼくは、眼を開いて、そして、どこも、何も見ずに、ただ、それをちょっと意識している。そのはずである。だって、ほんの、ほんのちょっとでも、意識することなしには、それをこうして書き付けられはしないだろうから。だから、ぼくは、ほんのちょっと意識する。これが、今年はじめての、ぼくの意識。はじめて持った、ぼくの意識。
(2005.1.22)-7
目覚めよ、と鳥たちが唄う。ぼくはつんぼだ。そして、夢を見ない。ぼくは眠っている。もっとも平穏な時間が、そこにある。目をあけたぼくは、いつものように路上で物乞いをしに、雨のなかにはいってゆくのだから。
(2005.1.22)-8
勇気とか、愛とか、熱狂とか、たぶん、そういったことを。ぼくはそれらの二字、数音の言葉たちが、何らかの意味と価値とを蔵していることを知っている。そう、ぼくはとても勉強熱心なので、それらが現に存在していることを知っている。I know it. とぼくは言い、そして頷く。
(2005.1.22)-9
ぼくはたいてい眠っている。君が快活さや優しさや真摯を示している時間を。ぼくは眠って過ごしている。夢の、君が居るところとはぜんぜん別の、熱気も思いやりも決断も、無気力も無関心も回避も、みんな同じように、ただひどくクリティカルなだけの、ぼくだけが持つことのできる、そして、そこのことによってつまり、ぼくと他人とが明確に識別されうるのだという根拠を成すところの、あの非線形な、不連続の世界に居る。そこは、君が居るところとは別のところだから、君は居ない。君はふたつにはならない。おそらくそれは喜ぶべき、祝福されるべきことなのだけれども、ぼくはそうして、眠っている。それで、ぼくは君には逢わない。ぼくが言うべき事実は、たぶん、それだけなのだ。世界の進歩も、新たな情況も、ぼくが歳をとってゆくことも、みんな、どうだっていい。それらは、どうしたってやって来ることで、だから、言われなくてもかまやしない。ただぼくは、君が居るとき、ぼくは眠っているのだと、それだけを言う。夢のなかでは、目覚めよと、鳥たちが唄っている。そして、君が眠っているとき、ぼくは中世の騎士みたいに、そう、ランスロットみたいに、ひざまずき、君の手の甲にくちづけをする。それが、君自身の眠りを妨げぬことを気にかけながら。七面鳥を口に含みながら、ぼくは夢想する。
(2005.1.24)-1
トニ・モリスンのひとつめ。「青い眼がほしい」をはじめる。なるほど、たしかに、これはフォークナーにかぶれてやがる。など、その点に関しては多少にんまりするが、内容はにんまりするようなものではない。フォークナーのロジックが描き出すものというのは、すでに起こってしまったことたちなのだ。それは「過去」なのではなく、むしろそれを含まない全ての「すでに起こってしまったこと」たちなのだ。「現在」でも、また、「記憶」でもなく、ただ、起きているもの、そのものとしてとどまり続ける、何と言ったらいいのか、ええい、、とにかく、やはり、「すでに起こってしまったこと」たちなのである。
(2005.1.24)-2
どうやら、上田三四ニ「うつしみ」は役に立っているらしい。しばらくは、頭の片隅におきながら書くことになるだろう。ぼくは、自分が生きものであることを前提とすることができないので、彼の言うことには、その一ばんはじめの部分において承服しかねるものがある。自分が人間だと、どこのだれが証明してくれたのだろう。
(2005.1.25)-1
風呂で眠ったせいで、六時半になっても寝付けない。状態は、よくない。書く糸口はつかめず、仕事はやる気が起こらず、質量を有したものたちが乏しい。けれども、十二月ほどではない。その八割をこそぎ落として始末しさえすれば、「ぼくは何も書けない」という単純な事実を言い表わすヴァーチャルな音響をすら発することができる。
(2005.1.25)-2
内的。内的ということを考えよう。各頁に載った字面は、どうしたって外的なものだけれども、ある規則に則り、ある水準に達すれば、内的なものへとシフトし得ないとも限らない。
(2005.1.28)-1
Redefinition. リデフィニション。再定義。再構築とまではいかないにしろ、、、なぜなら、ぼくは「する」のではなく、「見る」だけの
(2005.1.28)-2
「青い眼が欲しい」読了。感想は明日以降。素晴らしい。フォークナーの後継がここに確かにあり、しかもそれは、黒人で、かつ女性なのである。
(2005.1.28)-3
あとがきに、「不法で」という単語を見つける。そうだ、これこそがフォークナーと、それからモリスンのロジックのキーになる言葉だ。「違法」でも、「脱法」でもなく、「不法」。それは、法律や、それどころか、一般的な常識、倫理、行動規範から逸脱しているばかりではなく、それらと照らし合わせることすら不可能な、けれども、絶対に「可能である」ことを意味する言葉である。それは、極めて無作法で不自然で、グロテスクですらあるようにぼくらには見えるのだが、それが現に存在するため、あるいは完全に存在可能であることは疑い得ないために、ぼくらの実に曖昧で、集団内の合意のみに依拠する感覚たちには打ち負かされようがなく、そのため、依然としてあくまでそこに「在り続ける」。そして、ぼくらは、その「在り続ける」という単純な事実から、猛烈な圧力を受ける。それは、ぼくらが作り上げ、運用し、その結果、それに依存している、一連の意識や倫理のシステムに対して、恒常的に、それが不十分であり、信頼するに足りない、というメッセージを送り続けることになるからだ。その存在を無視したまま、補完や拡張の議論を展開しても(そして、それのみが、ぼくらに可能な取り組み方なのだが)、おそらく、それは不十分なものであり続け、いつまで経ってもそれが十分になることはなく、その中で奉じられたあらゆる崇高さが、あの美しく完全な「真理」という血統に至る黄金の道を見出す可能性は皆無であることを、そのシステムの一連の論理によっても、やはり認めざるを得ないであろうということを、ぼくらは知っているのだ。その積み上げは、何かしらが決定的に欠けている(その「何かしら」を、ここで指摘できないのは、それが名前を持たないためではなく、単に、ぼくの認識の不足のためである)。だから、ぼくの言うことは、おそらく、どこか間違っている。そして、それに肯くことのある君の、考えることもまた、おそらく、どこかおかしなところがある。何かを、完全に(したがって、激烈に)排斥しないことには、君の言うことに、完全な普遍性が付与されることがない。
(2005.1.29)-1
(2005.1.23)に書いたものを「歩きながらなにか思っている2」として、独立させました。
(2005.1.29)-2
個人という言葉には、人という文字が入っている。
(2005.1.29)-3
ぼくは硬くなった。
背中を丸め、股を開いて坐り、とうもろこしの酒を飲み
「ぼくは存在する」とも思わず
「ぼくは存在しない」とも思わない
「ぼくは死にたい」ではなく
「ぼくは死ぬだろう」と思い
けれども
「ぼくは明日の朝目覚めるべきではない」とは言わない
「ぼくは生まれて来るべきでなかった」「早う死ね」
それは、あまりに自明のことなので、もはや切迫感を失ってしまっている
ただ
「ぼくはいるのか」
という曖昧な問いかけだけが
手帳の表紙の右隅に記されたサインのように
ふとしたとき、目に入る
ぼくはそれに多少の意味を感じる
そこに僅かな温度や湿度を見出す
「死ぬ」ということは、それまで、そこには「生」あったことを、前提として、暗黙裡に承認する
ゴーストは、もう死ぬことができない
静物は決して生物としては存在しえない
もともといないものは、いるものにはならない
「ぼくはいないのではないか」
それだけが、残ったかたちになっているぼくは固まっているぼくは干乾びていて硬いけれども金属には決してなれはせずただ朽ちて風化しさらさらの砂粒になることを
「ぼくははじめから存在して、」
ぼくにはそれが残っており、それは固い
永続的に蒸し返され、ぼくは、「あれ」と思い
そして、主にそこからNoを引き出す
ことが続く、それだけが継続する
そこにおいて、ひとが安易に奇跡だと形容するものを、おそらくぼくはたしかに実感している
ぼくはいたことにはならないだろう
ぼくは硬く、したがって、ぼくは亡びることすらかなわない
「いないのではないか」
砂糖のように、水によく溶ける。
(2005.1.30)-1
本が届く。 そして、さっそく石牟礼道子の詩集を開く。五十年で三十篇。
(尺取虫)
 花びらを
 縁どりながらひろがる海が
 天上の夕映えを 懐胎しつづけていた

 潮は朝々満ちて
 山奥に 赤んぼが生まれたとき
 お婆さんたちはうなずいていた
 ちょうどなあ 潮満ち(どき)じゃったよ
 きのうの茜空が
 なんともいえんじゃったもの

 そしてこのころ 巷の車をのがれた
 一匹の尺取虫が 歩道橋のてっぺんで
 瑠璃億光年の夕刻に うなじを傾け
 前世をおもいだして呟くには
 おや 潮の香りだよ
 とおいねえ あそこは でも
 このぶんじゃあ 町にゃあ赤子が
 ニ、三千人生まれるよ

 そのような空の色といっしょに
 不知火(しらぬひ)という名の海は
 人が自分のなかに封じこめ 押し殺した
 大切なものを
 ぜんぶ 呑み込んで
 今朝も満ちているのだよと
 海霊(うなだま)さまの声が 耳元でして
 生まれる前に死んだ
 きれいな泡のような 赤子たちの
 声といっしょに
 尺取虫がゆく
石牟礼道子「はにかみの国」

(入魂)
 ここのほとりから出てゆく時と、返ってくる時、不知火海は、まるで違う海に見える。
 時間のちがいもあるのだが、朝の若やかな波を揺らしている海にくらべ、
 これが自分の知っていた海であろうかと息を呑むほど、荘厳に変貌する海がそこにある。
 舟一そう見えない光凪の、たそがれてゆく時間の中にいると、この海は一日のうちに、
 太古からの営みをすべて復元し、夕方にはみずからそれを受容して、夜を迎えるのだと思えてくる。

 油凪という云い方がわたしの近くにある。
 少し北上して、芦北郡沿岸にゆけば光凪ともいう。舟に乗る人たちの言葉である。
 言葉のちがいの微妙さを久しく考えていたが、夏の間、ここの沿岸の黄昏の中をゆき来してみて、光凪の感じがややわかって来た。
 凪というのは海に風がなくて、波がおだやかなのをいうのであるが、光凪といえば、海の表がまったく静止して、天の光をあまねく受け入れるために、
 一枚の鏡と化すことをいうのだろう。
 もちろんまったくの平面ではなく、こぼれてやまぬ光のために海は内側へとひろがり、無数の鏡の細片のような波のさざめきで成り立っているように見える。
 黄昏の光は凝縮され、空と海は、昇華された光の呼吸で結ばれる。
 そのような呼吸のあわいから、夕闇のかげりが漂いはじめると、
 それを合図のように、海は入魂しはじめる。
 わたしは、遠い旅から帰りつくことの出来ないもののように、
 海が天を、受容しつつある世界のほとりに、茫然と佇っている。
 そしてみるみる日が昏れる。いつもの、光を失った海がそこにある。
 海と天が結びあうその奥底に、
 わたしの居場所があるのだけれども、
 いつそこに往って座れることだろうか。
石牟礼道子「はにかみの国」

(原初(はじめ)よりことば知らざりき)
 岩の裂けめより したたり落ちる 水の雫が
 両のてのひらに満ちてくる
 手の窪 いっぱい 水の光

 神に似た声が その時云った
 汝はいま 魚の胎にいて
 水の中に入った
 汝ははじめて 世界の胎に 入った

 水は引いて 去った
 ここに残っている両のてのひらは
 何の痕跡であろうか
 てのひらは 渚
 夕陽の引いてゆく 渚
 さざ波に記されてくる
 海底からの 声

 おまえは 潮から来た者であるから
 わたしの中に流れる音と ひとつになり
 溯れ 梢にむかって そこで
 天のしるしを 受けたら
 根元の別れるところへ ゆっくり降りて
 地の底の川へゆくように
 海は その樹の(うろ)の中にあるのだから
 おまえはもう 舟に乗っているも 同じである

 しかしながら そこへゆく道しるべは
 汀の砂に交じる 鳥たちの骨にたずねよ
 炎の中を舞いつつうずくまる
 生焼けの猫の耳に 聴いてみるがよい
 まだ 息絶えぬ仏たちが 墓の中で
 泥の鈴を かき振る かすかな音を

 わたしの(うろ)に沈む 海の 光凪
 魚に似た 蝶の影が いま渡ってゆく
 生類たちの魂の
 次なる道しるべ

 緑亜紀
 標高 九三六四米
 渦巻く マリン・スノーの底
 目ざす故郷は
 青蛾山脈
石牟礼道子「はにかみの国」

(2005.1.30)-2
ぼくは何を書けばいいのか。ぼくは何を書けばいいのか。とてもきれいな朝を見た。とてもとてもきれいな朝。その吐息のなかにたたずむ街の、コンクリートの外壁の白が、うっすらと鈍く光を発していた。けれども、ぼくはそれを書いていいのか。ぼくはそれを書くことができるのか。ぼくが書いても駄目なのではないか。ぼくでは決定的に足りないのではないか。世界が光り輝くときがあったとしても、それはぼくには、、そうなのではないだろうか。文章の、言葉の、清められた、決定的な、威力。世界をあらわし、光あるものを、光あるものを。光あるものを。
(2005.1.30)-3
ぼくは何もしていない。光あるものを。しかし、光あるものを。
(2005.1.30)-4
久しく太陽を見ない。日の神、月の神、海の神、大地の神、ことごとく我を見捨てし後に、我が心生まれき。神はいらじ。神を求めし。祈れ。祈れ。心臓を奉げ、握りつぶし、最も新しき血を奉じよ。世界は固く、償いを求める。
(2005.1.31)-1
Aarktica の新しいアルバム、「Bleeding Light」。邦訳すれば、「沁み出す光」か。夜の音楽である。一にちのうちの、はじめの六時間、午前零時から六時までを、音として表出させる。夜は、もちろん、都会のそれである。夜の闇のなかで、人びとは顔を失い、ただ、声と肌と、そこに帯びる精神だけの存在となる。そこに電子音の音楽が重なる。彼らは次第に、いまだ形容された経験の無い存在、何でもない何ものかへと入りこんでゆく。


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