tell a graphic lie
I remember h2o.



(2005.1.1)-1
謹賀新年。年頭所感は特に無し。但し本年の計画は有り。未だに果たせずにいるプログラマの職を辞したのち、東京にて独居開始。段ボール一箱分の本を読むこと。それらをより理解するため、真剣に批判するため、自らも書くことをすること。できれば、何かひとつ、小さな成果をまとめる目途をつけること。資本は、少なくともことし一年分、切り詰めれば約二年分ある。焦らず、かつ大いに急ぐこと。本年は我二十六なり。汝の書き表すところを知れ。
(2005.1.1)-2
休みなので、溜まったCDを開封している。レッドホットチリペッパーズ(のおそらく最新のもの)「By The Way」を開ける。びっくりした。ロックとはこのようなものをいうのであろう。ここ二三日、ヘンリー・ミラーとの関連で(彼の小説にはクラシックがよく合う)バッハだったところをぐいーんと引き戻される。ただいま現代。ただ、困ったことには、聴きながら読める小説が見当たらない。とりあえず、島尾敏雄はぜんぜん駄目だった。一頁も読めなかった。ほんの数行。ふむ。金井美恵子にしてみようかしらん。あ、これはいけそう。これにしてみよう。金井美恵子「プラトン的恋愛」
(2005.1.1)-3
とりあえず、一時金として十二億ドル集まったらしい。さあ、こんなはした金、ひと月で使い切ってしまおう。使い切ったら、また、出させればいい。必要な人員を、札束を積んで、それから、ありったけの熱弁をふるって、現地の悲惨な状況をリアルタイム映像で見せつけて、有無を言わさず引っ張ってこよう。医療関係者、事務官、通訳、建設業者、エンジニア、弁護士、流通業者、大工、船員、、、ついでに、イラクで爆弾の的になっている間抜けな米国海兵隊員たちと、イラク人武装警察官たちをしょっ引いてきて、働かせよう。こきつかおう。空いている航空機、輸送船舶、重機類もすべて抑えてしまおう。空港や港湾が使えなかったり、もともとなかったりするなら、一週間で作ってしまおう。今は、メガフロートとかいう、イカした筏があるそうじゃないか。全部インド洋に向けて流してしまえ。そのうえに、周辺各国が後生大事に抱え込んでいる食糧備蓄、医薬品備蓄は、プラントごと載せて運んでいって、ぜんぶばら撒いてしまえ。手が足りないなんて言わせないぞ。はじめは仕方がないが、来月には、全てオンラインで処理したまえ。データセンターなんて、気合でやれば、二週間でできる。絨毯爆撃よりは簡単だろう。とにかく、備蓄なんて、いま使わなかったら、もう永久に使う機会なんてないぞ。金に糸目をつけるな。これ以上に価値のある金の使い道なんて、ありはしない。世界で最も有効な金の使い方だぞ。我々は完全に正しい。アイデンティファイアス。被災者のためにやるんじゃあない。我々のためにやるのだ。何のために近代文明をはじめたかを、何がための功利主義かを、懐疑派たちに思い知らせてやるのだ。自然に還れ?冗談じゃない。「前に」突き進むのだ。
(2005.1.1)-4
など言い出すのは、今日は石牟礼道子について一こと二こと書いてみようかと思っているからだ。ぼくにとって、氏を見つけたことは、2004年後半の収穫の最も大きなもののひとつだ。実は今も、特に何か言うことがあって、これを書きはじめているわけではなくて、ただ、このままほかっておいても、ずっと駄目だろうという気がするので、ちょっとずつ、ほんの一ことずつでも、言葉を置いていってみようと思ってはじめている。氏のロジックは、ぼくときれいに対立するので、ぼくは言葉のひとつひとつに反発することができる。だから、ちょっとのひまとやる気さえ起れば、詩の詩歌文集のいくつかを丸ごと写し取って、すべての揚げ足取りをしたいところなのである。ふむ。なるほど。それはよいアイデアだ。数頁のものも多いことだし、この休みいっぱいをかけて、ほんとにやってみようかしら。ふむ。
(2005.1.1)-5
まあ、とりあえず、今日は、今まで読んできての雑感をいくつか並べてみることにする。こんぐらがっているので、それもすんなりいくかわからないのだけれども。
(2005.1.1)-6
まず、文章自体から受ける印象として。石牟礼道子の文章は、フォークナーのそれを思わせる。今まで読んだ作家たちのうちで、最もフォークナーに似ている。ガルシア・マルケスが似ているということになっているようだけれど、ぼくはあれは全然別のものだと思っていて、石牟礼道子のほうがずっと似ている。あんまり性急に説明したくないので、今はしないけれども、たぶん、そんなに不思議なことではないはずだ。精神が文章としてあがってくるまでの過程の構造がとても良く似ていると思う。あまり、性急に説明したくないので、今はしないけれど。うん、これはやっぱり明日からフルパワーでやってみることにしよう。また、支離滅裂なものになってしまうだろうけれども、やらないよりはいくらかましのはずだ。
(2005.1.1)-7
ぼくは、フォークナーのエセーを読んだことが無いので、彼が「具体的に」何を意図して、彼のあのような、「すでに起ってしまった」小説を書いたのか、完全な確信を持つことができないでいるのだけれど、でも、彼の小説から少しずつ構成要素を分離して逆算してゆけば、彼の考えていたことのごく大まかな輪郭、少なくともこうではなかったはずだという程度の輪郭を得ることができる。そして、それは、あれを書くにはいくつかの自覚が必要だったはずだということを指し示してくれる。それは、フォークナーにあっては、「ロスト」という呼称が付けられているらしい、ある感覚の総体、あるいは少なくとも集合で、フォークナーにおける「ロスト」というのは、即ち、南北戦争以前のアメリカ南部社会の「ロスト」だということになっている。ぼく個人の印象としては、それは「ロスト」、失われたというよりもむしろ、その変化そのものに根ざしているのではないかというような印象を持っているのだが、それを詳しく検証するのは、今のぼくの手にはあまる仕事だし、現時点の目的ではない。ぼくとしては、ただ、その「ロスト」という感覚が、石牟礼道子の感覚に符合するものだということをほのめかせればいい。氏自身の言葉、「〜、不知火海沿岸一帯そのものが、まだやきつけの仕上がらない、わが近代の陰画総体であり、居ながらにして、この国の精神文化の基層をなす最初の声が、聴き取る耳と心を待っているのではありますまいか。」(「島へ」より抜粋)が端的に示すところの強烈な自覚が、フォークナーのそれと、ほぼ同一の性質を帯びていることをにおわせることができればいい。フォークナーが覚醒した「サートリス」(ぼく自身はまだ未読)の冒頭には、次のような言葉が置かれている。「シャーウッド・アンダーソンへ その人の好意によって初めて自分の著書を出すことができたがこの本が彼にそのことを後悔させぬものであろうことを信じている」この確信がどこから来たものであるか。また、そもそもそれは一体どんなものであるのか。ぼくは石牟礼道子の文にある「不知火海」を、フォークナーの「ヨクナパトーファ郡」に置き換えることができるとできると、そうしたとき、その文はそのまま、フォークナーの自覚をあらわすものになりうるのではないかと感じている。ぼく自身は、フォークナーが、彼の南部社会に、なぜあれほどの強烈な「ロスト」を抱いたのか、ほとんど理解できかねているといっていいと思うのだけれど、石牟礼道子については、もう少し直接に想像することに対しての余地が与えられているように思っている。水俣には、水俣病という、極めて明確な症状があり、またその社会的背景についても、いくらかの知識を得ることができるし、現在の感覚からそこに至ろうとする思索も、あながち徒労に終わるばかりでもないことが、いくらかは期待できる。石牟礼道子について考えることは、フォークナーにつながる。そして、その二つを結ぶ線は、文学というものの北半球だが、実は南半球だか知らないけれども、とにかくその半分を演繹する、あの聖書から延々と伸びている業苦への応答としての祈りという、深遠の使命へと続いている気がする。
(2005.1.1)-8
ちょっと、風呂敷を広げすぎた。できないことはせぬがよい。リセット。話はもっと単純である。すなわち、それを石牟礼道子は自覚しており、また、自覚し続けているということである。彼女の文学を成立させているものが、水俣病という災禍そのものだということを。この身を引き裂くような矛盾の自覚こそが、石牟礼道子の文学の基底をなす意識である。不幸があるから、不幸であるからこそ・・、それは書かれる。氏もまた、ある側面から見れば、マンイーターの一人であるという痛切な自覚。
(2005.1.1)-9
それは、フォークナーにも通じる。端的には、「バーベナの匂い」が、それをよく示しているし、「赤い葉」や、そのほか、彼が知識階級以外の口を用いて語らせるものの大部分がそれを示唆する。それはおそらく、「寓話」である究極へ達したのだろうけれども、ぼくには、その予感がするだけで、よくわからなかった。
(2005.1.2)-1
作品より先に、雑文を写すのもどうかと思ったので。「苦海浄土」は、水俣病を扱ったものだけれども、ぼくらがすぐに思い浮かべるような、内省を伴わないヒューマニズムとは完全に別物で、その多くの部分において、むしろそのような捉え方と対立するようなものだ。読むにあたって、この手の主題の前提として常に突きつけられているような気になってしまう、同情や問題意識の脅迫には一切かまう必要はない。石牟礼道子の文章はそういった安易な共感を完全に拒絶する。それは、彼女の文章中のあらゆる水俣病患者においても同様である。要するに、ただ普通の小説を読みはじめるときと、同じようにやればいいのである。
(五月)
 水俣市立病院水俣病特別病棟X号室
 坂上ゆき   大正三年十二月一日生
 入院所見
  三十年五月十日発病、手、口唇、口囲の痺れ感、震顫、言語障碍、言語は著明な断綴性蹉跌性を示す。歩行障碍、狂躁状態、骨格栄養共に中等度、生来頑健にして著患を知らない。顔貌は無慾状であるが、絶えずAtheotse様Chorea(舞踏病)運動を繰り返し、視野の狭窄があり、正面は見えるが側面は見えない。知覚障碍として触覚、痛覚の鈍磨がある。

 三十四年五月下旬、まことにおくればせに、はじめてわたくしが水俣病患者を一市民として見舞ったのは、坂上ゆき(三十七号患者、水俣市月ノ浦)と彼女の看護者であり夫である坂上茂平のいる病室であった。窓の外には見渡すかぎり幾重にもくるめいて、かげろうが立っていた。濃い精気を吐き放っている新緑の山々や、やわらかくくねって流れる水俣川や、かわらや、熟れるまぎわの麦畑やまだ頭頂に花をつけている青いそら豆畑や、そのような景色を見渡せるここの二階の病棟の窓という窓からいっせいにかげろうがもえたち、五月の水俣は芳香の中の季節だった。

 わたくしは彼女のベッドのある病室にたどりつくまでに、幾人もの患者たちに一方的な出遭いをしていた。一方的というのは、彼らや彼女らのうちの幾人かはすでに意識を喪失しており、辛うじてそれが残っていたにしても、すでに自分の肉体や魂の中に入りこんでいる死と否や応もなく鼻つきあわせになっていたのであり、人びとはもはや自分のものになろうとしている死をまじまじと見ようとするように、散大したまなこをみひらいているのだった。半ば死にかけている人びとの、まだ息をしているそのような様子は、いかにも困惑し、進退きわまり、納得できない様子をとどめていた。
 たとえば、神の川の先部落、鹿児島市出水市米ノ津町の漁師釜鶴松かまつるまつ(八十二号患者、明治三十六年生―昭和三十五年十月十三日死亡)もそのようにして死につつある人びとの中にまじり、彼はベッドからころがり落ちて、床の上に仰向けになっていた。
 彼は実に立派な漁師顔をしていた。鼻梁の高い頬骨のひきしまった、実に鋭い、切れ長のまなざしをしていた。ときどきぴくぴくと痙攣する彼の頬の肉には、まだ健康さが少し残っていた。しかし彼の両の腕と脚は、まるで激浪にけずりとられて年輪の中の芯だけが残っておかに打ち揚げられた一根の流木のような工合になっていた。それでも、骨だけになった彼の腕と両脚を、汐風に灼けた皮膚がぴったりとくるんでいた。顔の皮膚にも汐の香がまだ失せてはいなかった。彼の死が急激に、彼の意に反してやって来つつあるのは彼の浅黒いひきしまった皮膚の色が完全にまだ、あせきっていないことを、一目見てもわかることである。
 真新しい水俣病特別病棟の二階廊下は、かげろうのもえたつ初夏の光線を透かしているにもかかわらず、まるで生ぐさい匂いを発しているほら穴のようであった。それは人びとのあげるあの形容しがたい「おめき声」のせいかもしれなかった。
「ある種の有機水銀」の作用によって発生や発語を奪われた人間の声というものは、医学的記述法によると”犬吠え様の叫び声”を発するというふうに書く。人びとはまさしくその記述法の通りの声を廊下をはさんだ部屋部屋から高く低く洩らし、そのような人びとがふりしぼっているいまわ・・・の気力のようなものが病棟全体にたちまよい、水俣病棟は生ぐさいほら穴のように感ぜられるのである。
 釜鶴松の病室の前は、ことに素通りできるものではなかった。わたくしは彼の仰むけになっている姿や、なかんずくその鋭い風貌を細部にわたって一瞬に見てとったわけではなかった。
 彼の病室の半開きになった扉の前を通りかかろうとして、わたくしはなにかかぐろい・・・・、生きものの息のようなものを、ふわーっと足元一面に吹きつけられたような気がして、思わず立ちすくんだのである。
 そこは個室で半開きになっているドアがあり、じかな床の上から、らんらんと飛びかからんばかりに光っているふたつの目が、まずわたくしをとらえた。つぎにがらんと落ち窪んでいる彼の肋骨の上に、ついたて・・・・のように乗せられているマンガ本が見えた。小さな児童雑誌の付録のマンガ本が、廃墟のように落ちくぼんだ彼の肋骨の上に乗せられているさまは、いかにも奇異な光景としてわたくしの視覚に飛びこんできたのであるが、すぐさまそれは了解できることであった。
 肘も関節も枯れ切った木のようになった彼の両腕が押し立てているポケット版の小さな古びたマンガ本は、指ではじけばたちまち断崖のようになっている彼のみずおちのこちら側にすべり落ちそうな風情ではあったが、ゆらゆらと立っていた。彼のまなざしは充分に精悍さを残し、そのちいさなついたての向こうから飛びかからんばかりに鋭く、敵意に満ちてわたくしの方におそいかかってくるかにみえたけれども、肋骨の上においたちいさなマンガ本がふいにばったりと倒れると、たちまち彼の敵意は拡散し、ものいわぬ稚ない鹿か山羊のような、頼りなくかなしげな眸の色に変化してゆくのであった。
 明治三十六年生まれの、頬ひげのごわごわとつまった中高な漁師の風貌をした釜鶴松は、実さいその時完全に発語不能におちいっていたのである。彼には起りつつある客観的な状勢、たとえば――水俣湾内において「ある種の有機水銀」に汚染された魚介類を摂取することによっておきる中枢神経系統の疾患――という大量中毒事件、彼のみに絞ってくだいていえば、生れてこのかた聞いたこともなかった水俣病というものに、なぜ自分がなったのであるか、いや自分が今水俣病というものにかかり、死につつある、などということが、果たして理解されていたのであろうか。
 なにかただならぬ、とりかえしのつかなぬ状態にとりつかれているということだけは、彼にもわかっていたにちがいない。舟からころげ落ち、運びこまれた病院のベッドの上からもころげ落ち、五月の汗ばむ日もある初夏とはいえ、床の上にじかにころがる形で仰むけになっていることは、舟の上の板じきの上に寝る心地とはまったく異なる不快なことにちがいないのである。あきらかに彼は自分のおかれている状態を恥じ、怒っていた。彼は苦痛を表明するよりも怒りを表明していた。見も知らぬ健康人であり見舞者であるわたくしに、本能的に仮想敵の姿をみようとしたとしても、彼にすればきわめて当然のことである。
 彼は自分をのぞいた一切の健康世界に対して、怒るとともに嫌悪さえ感じていたにちがいなかったのだ。そうでなければ死にかかっていた彼があんなにもちいさな役にも立たないマンガ本を遮蔽壕のように、がらんとした胸の上におっ立てていたはずはないのだ。彼がマンガ本を読んでいたはずはなかった。彼の視力はその発語とともにうしなわれていたのであるから。ただ気配で、まだ死なないでいるかぎり残っている生きものの本能を総動員して、彼は侵入者にきあおうとしていた。彼はいかにもいとわしく・・・・・恐ろしいものをみるように、見えない目でわたくしを見たのである。肋骨の上におかれたマンガ本は、おそらく彼が生涯押し立てていた帆柱のようなものであり、残された彼の尊厳のようなものにちがいなかった。まさに死なんとしている彼がそなえているその尊厳さの前では、わたくしは――彼のいかもいとわしいものを見るような目つきの前では――侮蔑にさえ価する存在だった。実さい、稚い兎か魚のようなかなしげな、全く無防禦なものになってしまい、恐ろしげに後ずさりしているような彼の絶望的な瞳のずっと奥の方には、けだるそうなかすかな侮蔑が感ぜられた。
 わたくしが昭和二十八年末に発生した水俣病事件に悶々たる関心をちいさな使命感を持ち、これを直視し、記録しなければならぬという盲目的な衝動にかられて水俣市立病院水俣病特別病棟を訪れた昭和三十四年四月まで、新日窒水俣肥料株式会社は、このような人びとの病棟をまだ一度も(このあと四十年四月に至るまで)見舞ってなどいなかった。この企業体のもっとも重層的なネガチーブな薄気味悪い部分は”ある種の有機水銀”という形となって、患者たちの”小脳顆粒細胞”や、”大脳皮質”の中にはなれがたく密着し、これを”脱落”させたり”消失・・”させたりして、つまり人びとの正面からあらわれたのではなかった。それは人びとのもっとも心を許している日常的な日々の生活の中に、ボラ釣りや、晴れた海のタコ釣りや夜光虫のゆれる夜ぶり・・・のあいまにびっしりと潜んでいて、人びとの食物、聖なる魚たちとともに人びとの体内深く潜り込んでしまったのだった。
 死につつある鹿児島県米ノ津の漁師釜鶴松にとって、彼のいま脱落しつつある小脳顆粒細胞にとってかわりつつあるアルキル水銀が、その構造がCH3-Hg-S-CH3であるにしても、CH3-Hg-S-Hg-CH3であるにしても、老漁夫釜鶴松にはあくまで不明である以上、彼をこのようにしてしまったものの正体が、見えなくなっているとはいえ、彼の前に現れねばならないのであった。そして、くだんの有機水銀とその他”有機水銀説の側面的資料”となったさまざまの有毒重金属類を、水俣湾内にこの時期もなお流し続けている新日窒水俣工場が彼の前に名乗り出ぬかぎり、病室の前を横ぎる健康者、第三者、つまり彼以外の、人間のはしくれに連なるもの、つまりわたくしも、告発をこめた彼のまなざしの前に立たねばならないのであった。
 安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる。
 このとき釜鶴松の死につつあったまなざしは、まさに魂魄こんぱくのこの世にとどまり、決して安らかになど往生しきれぬまなざしであったのである。
 そのときまでわたくしは水俣川の下流のほとりに住みついているただの貧しい一主婦であり、安南、ジャワやから、天竺をおもう詩を天にむけてつぶやき、同じ天にむけて泡を吹いてあそぶちいさなちいさな蟹たちを相手に、不知火海の干潟を眺め暮していれば、いささか気が重いが、この国の女性年齢に従い七、八十年の生涯を終わることができるであろうと考えていた。
 この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたしの中に移り住んだ。
 次の個室には八十四号患者――三十七年四月十九日死亡――が横たわっていた。彼にはもうほとんど意識はなかった。彼の大腿骨やくるぶし・・・・や膝小僧にできているすりむけた床ずれが、そこだけがまだ生きた肉体の色を、あのあざやかなももいろを残していた。そしてこの部屋には真新しい壁を爪でかきむしって死んだ芦北郡津奈木村の舟場藤吉――三十四年十二月死亡――のその爪あとがなまなましく残っていた。このような水俣病病棟は、死者たちの部屋なのであった。
 つくねんとうつむいたきり放心しているエプロンがけの付添人たち(それは患者の母や妻や娘や姉妹やであった)を扉ごしにみて、わたくしは坂上ゆきの病室にたどりついたのである。このような特別病棟の様子はさかんな夏に入ろうとしているこの地方の季節から、すっぽりとずり落ちていた。

 ここではすべてが揺れていた。ベッドも天井も床も扉も、窓も、揺れる窓にはかげろうがくるめき、彼女、坂上ゆきが意識をとり戻してから彼女自身の前進痙攣のために揺れつづけていた。あの昼も夜もわからない痙攣が起きてから、彼女を起点に親しくつながっていた森羅万象、魚たちも人間も空も窓も彼女の視点と身体からはなれ去り、それでいて切なく小刻みに近寄ったりする。
 絶えまない小きざみなふるえの中で、彼女は健康な頃いつもそうしていたように、にっこりと感じのいい笑顔をつくろうとするのであった。もはや四十を越えてやせおとろえている彼女の、心に沁みるような人なつこいその笑顔は、しかしいつも唇のはしの方から消失してしまうのである。彼女は驚くべき性質の自然さと律儀さを彼女の見舞人に見せようとしていた。ときどき彼女がカンシャクを起こすのは彼女の痙攣の強まるのでみてとれたが、それは彼女の自然な性情をあらわすべき肝心な動作が、彼女の心とは別に動くからであった。
「う、うち、は、く、口が、も、もとら、ん。案じ、加え、て聴いて、はいよ。う、海の上、は、ほん、に、よかった。」
 彼女の言語はあの、長くひっぱるような、途切れ途切れな幼児のあまえ口のような特有なしゃべり方である。彼女はもとらぬ(もつれる)口で、自分は生来、このような不自由な見苦しい言語でしゃべっていたのではなかったが、水俣病のために、こんなに言葉が誰とでも通じにくくなったのは非常に残念である、と恥じ入った。そのことはもちろんごうも彼女の恥であるべきはずはなかったが、このように生れもつかぬ見せもののような体になって恥かしいとかなわぬ口でいう彼女の訴えはしかし、もっともなことであるともいえなくもないのであった。

 ――うちは、こげん体になってしもうてから、いっそうじいちゃん(夫のこと)がもぞか(いとしい)とばい。見舞にいただくもんはみんな、じいちゃんにやると。うちは口も震ゆるけん、こぼれて食べられんもん。そっでじいちゃんにあげると。じいちゃんに世話になるもね。うちゃ、今のじいちゃんの後入れに嫁に来たとばい、天草から。
 嫁に来て三年もたたんうちに、こげん奇病になってしもた。残念か。うちはひとりじゃ前も合わせきらん。手も体も、いつもこげんふるいよるでっしょが。自分の頭がいいつけんとに、ひとりでふるうとじゃもん。それでじいちゃんが、仕様ンなかおなごになったわいちゅうて、著物の前をあわせてくれらす。ぬしゃモモ引き・・・・着とれちゅうてモモ引き着せて。そこでうちはいう。(ほ、ほん、に、じ、じい、ちゃん、しよの、な、か、お、おな、ご、に、なった、な、な。)うちは、もういっぺん、元の体になろうごたるばい。親さまに、働いて食えといただいた体じゃもね。病むちゅうこたなかった。うちゃ、まえは手も足も、どこもかしこも、ぎんぎんしとったよ。
 海の上はよかった。ほんに海の上はよかった。うちゃ、どうしてもこうしても、もういっぺん元の体にかえしてもろて、自分で舟漕いで働こうごたる。いまは、うちゃほんに情けなか。月のもんも自分で始末しきれん女ごになったもね……。
 うちは熊大の先生方に診てもろうとったとですよ。それで大学の先生に、うちの頭は奇病でシンケイどんのごてなってしもうて、もうわからん。せめて月のもんば止めてはいよと頼んだこともありました。止めゃならんげなですね。月のもんを止めたらなお体に悪かちゅうて。うちゃ生理帯も自分で洗うこたできんようになってしもうたっですよ。ほんに恥かしか。
 うちは前は達者かった。手も足もぎんぎんしとった。働き者じゃちゅうて、ほめられものでした。うちは寝とっても仕事のことばっかり考ゆるとばい。
 今はもう麦どきでしょうが。麦もかんばならんが、こやしもする時期じゃがと気がもめてならん。もうすぐボラの時期じゃが、と。こんなベットの上におっても、ほろほろ気がモメて頭にくるとばい。
 うちが働かんば家内が立たんとじゃもね。うちゃだんだん自分の体が世の中から、離れてゆきよるような気がするとばい。握ることができん。自分の手でモノをしっかり握るちゅうことができん。うちゃじいちゃんの手どころか、大事なむすこば抱き寄せることがでけんごとなったばい。そらもう仕様もなかが、わが口を養う茶碗も抱えられん、箸も握られんとよ。足もじだにつけて歩きよる気のせん、宙に浮いとるごたる。心ぼそか。世の中から一人引き離されてゆきよるごたる。うちゃ寂しゅうして、どげん寂しかか、あんたにゃわかるみゃ。ただただじいちゃんが恋しゅうしてこの人ひとりが頼みの綱ばい。働こうごたるなあ自分の手と足ばつこうて。
 海の上はほんによかった。じいちゃんが艫櫓ともろば漕いで、うちが脇櫓ば漕いで。
 いまごろはいつもイカ籠やタコ壺やら揚げに行きよった。ボラもなあ、あやつたち・・・・・もあの魚どもも、タコどももももぞか(可愛い)とばい。四月から十月にかけて、シシ島の沖ばなぎでなあ――。

 二丁櫓の舟は夫婦舟である。浅瀬をはなれるまで、ゆきが脇櫓をを軽くとって小腰をかがめ、ぎいぎいと漕ぎつづける。渚の岩が石になり砂になり、砂が溶けてたっぷりと海水に入り交い、茂平が力づよく艫櫓をぎいっと入れるのである。追うてまたゆきが脇を入れる。両方の力が狂いなく追い合って舟は前へぐいとでる。
 不知火海はのどかであるが、気まぐれに波がうねりを立てても、ゆきの櫓にかかれば波はなだめられ、海は舟をゆったりあつかうのであった。
 ゆきは前の嫁御にどこやら似とる、と茂平はおもっていた。口重い彼はそんなことは気ぶりにも出さない。彼がむっつりとしているときは大がい気分のいいときである。ゆきが嫁入ってきたとき、茂平は新しい舟を下した。漁師たちは、ほら、茂平やんのよさよさ、舟も嫁ごも新しゅうなって!と冷やかしたが、彼はむっと口をひき結んでにこりともしなかった。彼の気分を知っている人びとは満足げな目つきで、そのような彼を見やったものである。
 二人ともこれまで夫婦運が悪くて前夫と前妻に死に別れ、網の親方の世話でつつましく灘を渡りあって式をあげた。ゆきが四十近く、茂平は五十近くであった。
 茂平やんの新しい舟はまたとない乗り手をえて軽かった。彼女は海に対する自在な本能のように、魚の寄る瀬をよくこころえていた。そこに茂平を導くと櫓をおさめ、深い藻のしげみをのぞき入って、
「ほーい、ほい、きょうもまた来たぞい」
 と魚を呼ぶのである。しんからの漁師というものはよくそんなふうにいうものであったが、天草女の彼女のいいぶりにはひとしお、ほがらかな情がこもっていた。
 海とゆきは一緒になって舟をあやし、茂平やんは不思議なおさな心になるのである。

 あんころは今おもえば百間の海にゃ魚はおりよらんじゃったもん。うちは、水俣の漁師よりか、魚の居るとこは知っとりよったもん。沖に出てから、あんた、心配せんでよかばい。うちが舵とるけん、あんたが帆綱さえ握ってこちょこちょやれば、うちが良うかとこに連れてゆくけん。うちは三つ子のころから舟の上で育ったっだけん、ここらはわが庭のごたるとばい。それにあんた、エベス・・・さまは女ごを乗せとる舟にゃ情けの深かちゅうでっしょ。ほんによか風の吹いてきたばいあんた、思うとこさん連れてゆかるるよ。ほうらもうじき。
 彼女はそんなふうに目を細めていつもひとりでしゃべっているのだった。茂平やんは鼻から息の抜けるような安らかな、声ともいえぬほどの返事をするのであったが、二人はそれで充分釣り合った夫婦であった。
 魚はとれすぎるということもなく、節度ある漁の日々が過ぎた。

 舟の上はほんによかった。
 イカは素っ気のうて、揚げるとすぐにぷうぷう墨ふきかけよるばってん、あのタコは、タコはほんにもぞかとばい。
 壺ば揚ぐるでしょうが。足ばちゃんと壺の底に踏んばって上目使うて、いつまでも出てこん。こら、おまや・・・舟にあがったら出ておるもんじゃ、早う出てけえ。出てこんかい、ちゅうてもなかなか出てこん。壺の底をかんかん叩いても駄々こねて。仕方なしに手網たびの柄で尻をかかえてやると、出たが最後、その逃げ足の早さ早さ。ようも八本足のもつれもせずに良う交して、つうつう走りよる。こっちも舟がひっくり返るくらいに追っかけて、やっと籠におさめてまた舟をやりおる。また籠を出てきよって籠の屋根にかしこまって坐っとる。こら、おまやもううちの舟にあがってからはうち家の者じゃけん、ちゃあんと入っとれちゅうと、よそむくような目つきして、すねてあまえるとじゃけん。
 わが食ういおにも海のものには煩悩のわく。あのころはほんによかった。
 舟ももう、売ってしもうた。
 大学病院におったときは、風が吹く、雨が降るすれば、思うことは舟のことばっかりじゃった。うちが嫁にきたとき、じいちゃんが旗立てて船下しをしてくれた舟じゃもん。我が子と変わらせん。うちはどげんあの舟ば、大事にしよったと思うな。艫も表もきれいに拭きあげて、たこ壺も引きあげて、次の漁期がくるまではひとつひとつ牡蠣殻落として、海の垢のつかんようにていねいにあつこうて、岩穴にひきあげて積んで、雨にもあわさんごとしよった。壺はあれたちの家じゃもん。さっぱりと、しといてやりよった。漁師は道具ば大事にするとばい。舟には守り神さんのついとらすで、道具にもひとつひとつ魂の入っとるもん。敬うて、釣竿もおなごはまたいで通らんとばい。
 そがんして大事にしとった舟を、うちが奇病になってから売ってしもうた。うちゃ、それがなんよりきつかよ。
 うちは海に行こうごたると。
 我が食う口を養えんとは、自分の手と足で、我が口ば養えと教えてくれらいたおやさまに申しわけのなか。
 うちのような、こんなふうな痙攣にかかったもんのことを、昔は、オコリ・・・どんちいいよったばい。昔のオコリどんさえも、うちのようには、こげんしたふうにゃふるえよらんだったよ。
 うちは情けなか。箸も握れん、茶碗もかかえられん、口もがくがく震えのくる。付添いさんが食べさしてくれらすが、そりゃ大ごとばい、三度三度のことに、せっかく口に入れてもろうても飯粒は飛び出す、汁はこぼす、気の毒で気の毒で、どうせ味もわからんものを、お米さまをこぼして、もったいのうてならん。三度は一度にしてもよかばい。遊んどって食わしてもろうとじゃもね。
 いやあ、おかしかなあ、おもえばおかしゅうてたまらん。うちゃこの前えらい発明ばして。あんた、人間も這うて食わるっとばい。四つん這いで。
 あのな、うちゃこの前、おつゆば一人で吸うてみた。うちがあんまりこぼすもんじゃけん、付添いさんのあきらめて出ていかしてから、ひょくっとおもいついて、それからきょろきょろみまわして、やっぱり恥かしかもんだけん。それからこうして手ばついて、尻ばほっ立てて、這うて。口ば茶碗にもっていった。手ば使わんで口を持っていって吸えば、ちっとは食べられたばい。おかしゅうもあり、あさましかなあ。扉閉めてもろうて今から先、這うて食おうか。あっはっはっは。おかしゅうしてのさん。人間の知恵ちゅうもんはおかしなもん。せっぱつまれば、どういうことも考え出す。
 うちは大学病院に入れられとる頃は気ちがいになっとったげな。ほんとに気ちがいになっとったかも知れん。あんときのこと、おもえばかなしか。大学病院の庭にふとか防火用水の堀のありよったもんな。うちゃひと晩その中につかっとったことのあるとばい。どげん気色のしよったっじゃろ、なんさまかなしゅうして世の中のがたがたこわれてゆくごたるけん、じっとしてしゃがんどった。朝になってうちがきょろっとしてそげんして水の中につかっとるもんやけん、一統づれ(みんな揃って)、たまがって騒動じゃったばい。あげんことはおかしかなあ。どげんふうな気色じゃろ。なんさま今考ゆれば寒か晩じゃった。
 うちゃ入院しとるとき、流産させらしたっばい。あんときのこともおかしか。
 なんさま外はもう暗うなっとるようじゃった。お膳に、魚の一匹ついてきとったもん。うちゃそんとき流産させなはった後じゃったけん、ひょくっとその魚が、赤子ややが死んで還ってきたとおもうた。頭に血の上るちゅうとじゃろ、ほんにああいうときの気持ちというものはおかしかなあ。
 うちにゃ赤子ややは見せらっさんじゃった。あたまに障るちゅうて。
 うちは三度嫁入りしたが、ムコ殿どんの運も、子運も悪うて、生んでは死なせ、育てては死なせ、今度も奇病で親の身が大事ちゅうて、生きてもやもや手足のうごくのを機械でこさぎ出さした。申しわけのうして、恥かしゅうしてたまらんじゃった。魚ばぼんやり眺めとるうちに、赤子ややのごつも見ゆる。
 早う始末せんば、赤子ややしゃんがかわいそう。あげんして皿の上にのせられて、うちの血のついとるもんを、かなしかよ。始末してやらにゃ、女ごの恥ばい。
 その皿ばとろうと気張るばってん、気張れば痙攣のきつうなるもね。皿と箸がかちかち音たてる。箸が魚ばつつき落とす。ひとりで大騒動の気色じゃった。うちの赤子ややがお膳の上から逃げてはってく。
 ああこっち来んかい。かかしゃんがにき・・さね来え。
 そうおもう間もなく、うちゃ痙攣のひどうなってお膳もろともベッドからひっくり返ってしもうた。うちゃそれでもあきらめん。ベッドの下にぺたんと坐って見まわすと、魚がベッドの後脚の壁の隅におる。ありゃ魚じゃがね、といっときおもうとったが、また赤子ややのことを思い出す。すると頭がパアーとして赤子ややばつかまゆ、という気になってくる。つかまえようとするが、こういう痙攣をやりよれば、両の手ちゅうもんはなかなか合わさらんもんばい。それがひょこっと合わさってつかまえられた。
 逃ぐるまいぞ、いま食うてくるるけん。
 うちゃそんとき両手にゃ十本、指のあるということをおもい出して、その十本指でぎゅうぎゅう握りしめて、もうおろたえて、口にぬすりつけるごとくして食うたばい。あんときの魚は、にちゃにちゃ生臭かった。妙なもん、わが好きな魚ば食うとき、赤子ややば食うごたる気色で食いよった。奇病のもんは味はわからんが匂いはする。ああいう気色のときが、頭のおかしうなっとるときやな。かなしかよ。指ばひろげて見ているときは。
 うちは自分でできることは何もなか。うちは自分の体がほしゅうしてたまらん。今は人の体のごたる。
 うちは何も食べとうなかけれど、煙草が好きじゃ。大学病院ではうちが知らんように、頭に障るちゅうて煙草ば止めさせてあった。それでじいちゃんも外に出て隠れて吸いよらしたとばい。
 どうにか歩けるようになってから診察受けに出たときやった。
 廊下に吸殻が落ちとるじゃなかな。
 頭にきてからこっち、吸いよらんじゃろ。あんたもう嬉しゅうして。
 わあー、あそこに吸殻の落ちとるよ、うれしさ、うれしさ。よし、あそこまでいっちょまっすぐ歩いてゆこうばい。そう思うて、じいっと狙いを定めるつもりばってん、だいたいがこう千鳥足でしか歩けんじゃろ。立ち止まったつもりがゆらゆらしとる。それでも自分ではじいっと狙いをつけて、よし、あそこまで三尋みひろばっかりの遠さばい、まっすぐ歩いて外さぬように行きつこうばい。
 そう思うてひとあし踏み出そうとするばってん、いらいらして足がもつれるようで前に出ん。ああもう自分の足ながらいうこときかんね、はがゆさねえとカーッと、頭に来て、そんときまた、あのひっくりかえるような痙攣の来た。
 あんた、あの痙攣な、ありゃああんまりむごたらしかばい。むごたらしか。
 自分の頭が命令せんとに、いきなりつつつつつうーと足がひとりでに走り出すとじゃけん。止まろうと思うひまもなか。
 そうやっていきなり走り出して吸殻を通りすぎた。しもうた、またあの痙攣の出た、と思いながら目はくらくらしだす。ちょっと止まる。やっと後を向く。向いた方にゆこうと思うけど、足がいうことをきかん。
 じ、じ、じいちゃん!た、た、お、れるよっ!じいちゃんが後ろから支える。体が後ろに突っ張るとばい。それで後ろさね走るようにして、倒れるときは後ろにそっくり返って倒れるとばい。そうすると今度は倒れとるヒマもなか。すぐまた痙攣が来て跳ね起きて走り出す。うちゃガッコのころの運動会でも、あげなふうに跳ねくり返って走ったことはなかった。自分の足のいうこときかずにあっちでもこっちでも馬鹿んごと走り出すとじゃもん。吸殻のあるところば中心にして、自分もひとも止められんごつして走りまわる。そこらじゅうにおる人間たちも、うったまがっとるが、本人になればどげんきつかですか。涙が出る。息がひっ切れそうになる。そのうちぱたっと痙攣が止んで、足が突っぱってしもうた。そして、息が出るようになる。きょろきょろして、あれ、吸殻はどこじゃったけ、と思うとる。やっと口をぱくぱくしながら、じいちゃん、あの煙草が欲しかとよ、ちゅうたら、じいちゃんが泣いて、好きなものなら、今のうちにのませてもよかじゃろちゅうて、そんときからちいっとずつ、吸わせてくるるようになった。それでも一日三分の一本しか吸わせてくれんもん。

 熊本医学会雑誌(第三十一巻補冊第一、昭和三十二年一月)

  猫における観察
 本症ノ発生ト同時ニ水俣地方ノ猫ニモ、コレニ似タ症状ヲオコスモノガアルコトガ住民ノ間ニ気ヅカレテイタガ本年ニハイッテ激増シ現在デハ同地方ニホトンド猫ノ姿ヲ見ナイトイウコトデアル。住民ノ言ニヨレバ、踊リヲ踊ッタリ走リマワッタリシテ、ツイニハ海ニトビコンデシマウトイウ、ハナハダ興味深イ症状ヲ呈スルノデアル。ワレワレガ調査ヲハジメタコロニハ、同地方ニハカカル猫ハオロカ、健康ナ猫モホトンド見当タラナカッタガ、保健所ノ厚意ニヨリ、生後一年クライノ猫ヲ一頭観察スルコトガデキタ。
ソノ猫ハ動作ガ緩慢デ横ニユレルヨウナ失調性ノ歩行ヲスル。階段ヲオリル時ニ脚ヲ踏ミハズシタガ、コレハオソラク目ガミエナイコトモ原因ノ一ツト考エラレタ。魚ヲ鼻先ニ持ッテユクト、付近ヲ嗅ギマワルノデ嗅覚ノ存在スルコトハワカル。皿ニイレタ食餌ヲアタエタ場合、皿ニ噛ミツクトイウ状態モミラレタ。発作時以外ニ鳴クコトモナク、興味アルコトハ、嗅覚ガ刺戟トナッテ、ツギニノベルヨウナ痙攣発作ガオコルコトデアル。ワレワレガ鼻ノ先ニ魚ヲツキツケルト、数回、痙攣発作ヲ誘発シタ。シカシ魚ヲ食ベサセルト発作ヲオコサナカッタノデタンナル嗅覚刺戟トイウヨリモ、食ベタイトイウ強イエモーションガ刺戟ニナルノカモシレナイ。マタ発作ト発作ノ間ニハ、アル程度ノ感覚ガ必要デ、発作ノ直後ニ魚ノ臭ヲ嗅ガセテモ、発作ハオコラナカッタ。マタ発作ハ嗅覚刺戟ノホカ偶発的ニモアラワレタ。
発作ガアラワレルト、猫ハ特有ナ姿勢トナル。スナワチ魚ヲ探シマワッテイタ場合ハタチ止リ、スワッテイタ場合ハ立チ上リ、右マタハ左ノ後脚ヲアゲル。同時ニ流涎ガ著明デ、咀嚼運動ガ見ラレルコトモアル。ソノ後チョットヨロメイテ、発作ノ頓挫スルコトモアルガ、ツイデ他側ノ後脚デ地面ヲ軽クケルヨウナ運動ヲスル。前脚ハ固定シタママ後脚デ地面ヲケルタメ、人間ノ逆立チト同様、体ガ浮キ上ガルヨウニナル。ワレワレハコレヲ倒立様運動トヨンデイル。ニ、三回倒立様運動ガアッテ、痙攣ガ全身ニオヨブト、猫ハ横倒シニナリ、四肢ヲバタツカセル。右側ニ倒レタラ左脚ハ強直性、右足ハ間代性ノ痙攣ヲオコシタコトモアッタガ、マタ反対側ニ倒レテ痙攣中ニ、三回、体ヲ反転スルコトモアッタ。トキニハ倒立様運動ヲシナイデ、痙攣ノオコルコトモアッタ。
前進痙攣ハ約三十秒ナイシ一分ツヅキ、ツイデ猫ハ起キアガリ、付近ヲ走リマワル。コノ場合走リダシタラ止マルコトヲ知ラズ、狭イ部屋デハ、壁ニブツカッテ向キヲ変エテ走リ、反対側ノ壁ニ突進スル、トイッタ状態デ、水俣地方デ水ニ飛ビコンダトイワレルノハ、オソラクコノヨウナ状態デアッタト思ワレル。コノ運動ハ非常ニ激烈デ、手デハ制止シエナイホドデアッタ。一分グライデコノ走リ回リ運動ガスムト、異様ナ奇声ヲ発シナガラ、アタリヲ無差別ニ歩キマワル。コノ時ノ歩キ方モハヤリ失調性デアル。マタコノトキ流涎ノ著明ナコトモアッタ。三十秒歩キマワッタ末、放心シタヨウニスワリコム。以上ノヨウナ発作ノ全経過ハ約五分デアッタ。本例ハ観察一日デ、不慮ノ水死ヲ遂ゲタ。


 それからうちはあの、肺病さんたちのおらす病棟に遊びにゆきおったい。
 あんた、うちたちゃはじめ肺病どんのにき・・の病棟につれてゆかれて、その肺病やみのもんたちからさえきらわれよったとばい。水俣から奇病の者の来とる、うつる・・・ぞちゅうて。それでそのうちたちのおる病棟の前をば、その肺病の者たちが、口に手をあてて、息をせんようにして走って通りよる。自分たちこそ伝染病のくせ。はじめは腹の立ちよった。なにもすき好んで奇病になったわけじゃなし。そういう特別の見せもんのように嫌われるわけはなかでっしょ。奇病、奇病ち指さして。
 それでも後じゃ、その人たちとも打ちとけて仲良うなってから、うちは煙草の欲しかときはもらいに行きよった。
 うちは、ほら、いつも踊りおどりよるように、こまか痙攣をしっぱなしでっしょ。
 それで、こうして袖をはたはた振って、大学病院の廊下ば千鳥足で歩いてゆく。
 こ、ん、に、ちわあ、
 うち、踊りおどるけん、見とる者はみんな煙草出しなはる!
 ほんなこて、踊りおどっとるような悲しか気持ちばい。そういう風にしてそこらへんをくるうっとまわるのよ。からだかたむけて。
 みんなげらげら笑うて、手を打って、ほんにあんたは踊りの上手じゃ、しなのよか。踊りしに生れてきたごたる。
 ここまで踊って来んかいた、煙草やるばい。そぎゃん酔食えくらいのごて歩かずに、まっすぐんかいた。
 ほらほら、あーんして、煙草くわえさせてあぐるけん、落とさんごとせなんよ。
 うちは自分の手は使えんけん、袖をばたばたさせたまま、あーんして、踊ってゆくもんな。くわえさせてもろうて、それからすぱすぱ煙ふかして、すましてそこらへんをまわりよった。みんなどんどん笑うて、肺病の病棟の者は、ずらありと鳥のごと首出して、にぎやいよったばい。うちゃえらい名物になってしもうた。

 大学病院のあるところはえらいさみしかとこやったばい。くすの大木のにょきにょき枝をひろげて、草のぼうぼう生えて。昔お城のあった跡げなで、熊本の街からぽかっと一段高うなっとる原っぱじゃった。下の方の熊本の街はにぎやいよるばってん、そこだけは昔のお城のあとで、夜さりになれば化物のごたる大きな樟の木がにょきにょき枝ひろげて、しーんとして、さみしかとこやった。ああ想い出した。そこは藤崎台ちゅう原っぱやった。
 あんた、大学病院ちゅうとこは、よっぽどよか所のごと思うでしょ、それがあんた、藤崎台の病院ちゅうとザーッとした建物の、うちらへんの小学校の方が、よっぽどきれいかよ。そんな原っぱの中のゆがんどるような病院の中に、うちら恰好のおかしな奇病の者たちが”学用患者”ちゅうことで、まあ珍しか者のように入れられとる。うちたちにすれば、なおりたさ一心もあるけれど、なおりゃせんし、なんやらあの、オリの中に入れられとるような気にもなってくる。うちは元気な体しとったころは歌もうたうし、ほんなこて踊りもおどるし、近所隣の子どもたちとも大声あげて遊ぶような、にぎやわせるのが好きなたちだったけん、うちはもう、こういう体になってしもうて、自分にも人にも大サービスして、踊ってされき・・・よるわけじゃ。
 夜さりになれば、ぽかーっとしてさみしかりよったばい。
 みんなベッドに上げてもろうて寝とる。夜中にふとん落としても、病室のみんな、手の先のかなわん者ばっかり。自分はおろか、人にもかけてやるこたできん。口のきけん者もおる。落とせば落としたままでしいんとして、ひくひくしながら、目をあけて寝とる。さみしかばい、こげん気持ち。
 おかに打ちあげられた魚んごつして、あきらめて、泪ためて、ずらっと寝とるばい。夜中に自分のベッドから落ちても、看護婦さんが疲れてねむっとんなさるときは、そのまんまよ。
 晩にいちばん想うことは、やっぱり海の上のことじゃった。海の上はいちばんよかった。春から夏になれば海の中にもいろいろ花の咲く。うちたちの海はどんなにきれいかりよったな。
 海の中にも名所のあっとばい。「茶碗が鼻」に「はだか瀬」に「くろの瀬戸」「ししの島」。
 ぐるっとまわればうちたちのなれた鼻でも、夏に入りかけの海は磯の香りのむんむんする。会社の臭いとはちがうばい。
 海の水も流れよる。ふじ壺じゃの、いそぎんちゃくじゃの、海松じゃの、水のそろそろと流れてゆく先ざきに、いっぱい花をつけてゆれよるるよ。
 わけても魚どんがうつくしか。いそぎんちゃくは菊の花の満開のごたる。海松は海の中の崖のとっかかりに、枝ぶりのよかとの段々をつくっとる。
 ひじきは雪やなぎの花の枝のごとしとる。藻は竹の林のごたる。
 海の底の景色もおかの上とおんなじに、春も秋も夏も冬もあっとばい。うちゃ、きっと海の底には竜宮のあるとおもうとる。夢んごてうつくしかもね。海に飽くちゅうこた、決してなかりよった。
 どのようにこまんか島でも、島の根つけに岩の中から清水の割れ目の必ずある。そのような真水と、海のつよい潮のまじる所の岩に、うつくしかあをさ・・・の、春にさきがけて付く。磯の香りのなかでも、春の色濃くなったあをさ・・・が、岩の上で、潮の干いたあとの陽にあぶられる匂いは、ほんになつかしか。
 そんな日のたくさいあおさを、ぱりぱり剥いで、あおさの下についとる牡蠣を剥いで帰って、そのようなだしで、うすい醤油の、熱いおつゆば吸うてごらんよ。都の衆たちにゃとてもわからん栄華ばい。あおさの汁をふうふういうて、舌をやくごとすすらんことには春はこん。
 自分の体に二本の足がちゃんとついて、その二本の足でちゃんと体を支えて踏んばって立って、自分の体に二本の腕のついとって、その自分の腕で櫓を漕いで、あをさをとりに行こうごたるばい。うちゃ泣こうごたる。もういっぺん――行こうごたる、海に。
石牟礼道子「苦海浄土」ゆき女きき書より

(2005.1.2)-2
これが石牟礼道子の基本であります。こんなんに一人相撲ながらも、喧嘩売ろうってんだから、ぼくも底抜けの阿呆にはちがいない。
(2005.1.3)-1
正月早々ごくろうさまです。ぼくは今週休みですので、ぼちぼちいくことにしたいと思います。どうやら、ぼくはいくつかの事柄に反抗したいようなのですが、それがまだ単語になってくれないので、もうちょっと待ってみたいのです。とりあえず、明日、何も書けないようだったら、随筆の短いもの、「海はまだ光り」と「言葉の秘境から」あたりを写してみたいと思います。
(2005.1.3)-2
人のを写した次の日というのは、一日じゅう淡い充実感と虚無感がつきまとう。昨日、数時間かけて打ちつけた二十数頁の文章は、普段ならば到底一にちでは書くことのできない量であるばかりではなく、自身ではまだ一度も書いたことのない質を有したものであり、それがたとえ、単に写しただけであっても、普段自身が書くほとんどの文章よりも大きな充足感をもたらしてくれるのである。何かひとつ仕事をしたような、少なくとも、積み上げることは確実にできた、というような。虚無感については、わざわざ説明することもないと思われるが、二種類のそれの複合である。ひとつは、それが自身によって書かれたものでは決してないという事実、もうひとつは、実際は同じことなのかも知れないのだが、それが自身の問題そのものを書きあらわしたものでは決してないという事実。その文章のオーナーは、ぼく自身ではなく、昨日写した「
五月」でいえば、それは石牟礼道子なのだという、極く単純な事実。実際には、前者、充実感の方がだいぶ強いものであるらしく(それは「物理的」である)、翌日は、ご褒美の休暇という色彩が、気分のうえで濃くなる。実際は何ごとも起きていないにもかかわらず。
(2005.1.3)-3
いま、ふと思ったのだが、この「ご褒美の休暇」というのは、こうして、人の文章を写したときにしか味わうことができないものかもしれない。自身の書いたものについては、未だそのような気分になることができたことがない。
(2005.1.3)-4
石牟礼道子の短歌をいくつか。比較的、「直」なものを。ぼくは短歌の人間ではないので、うまく抜き出せているか、あまり自信がないのだけれども。

 誓ふとは汝がしあはせをいはねどもひた抱きてゐて祈るに似たり
 人の世はかなしとのみを母われは思ひてゐるをせめられてをり
 金のことにわがふれずあり息ひそめ夫と真向ひおそき夕餉す
 それより先はふれたくなきこと夫もわれも意識にありて遂に黙しつ
 帰りきて冷えそめし夜の板の間に手をつき倚ればきはまるかなしさ
 吐息する毎にいのちが抜けてゆくうつろさを支へゐる暗い板の間に
 老いていよいよ険しくなれる父の顔よ酔へば念仏をいひて泣きたまふ
 うつくしく狂ふなどなし蓬髪に虱わかせて祖母は死にたり
 
(2005.1.3)-5
現代社会の極めて重要な、おそらく根幹の一部を成す、重要なスペックに、皮相というのがある。それは情報の飽和という環境がもたらす必然的帰結である。知識は演繹されることなく、まったく直にマニュアル的知識量として顕れるよりほかに術を持たない。インテリの優劣は、Tipsの蓄積量によってのみ規定される。人びとは、自身の購入した住宅が、震度8になぜ耐えうるか、20数年間の風雨になぜ耐えうるのかについての明確な知識を持たずにそれを所有する。先ごろ購入した自家用車が、なぜそのような非常な廉価で取得されたのか、リッター20kmという驚異的な燃費をたたき出すのか、なぜ、150km/hにおいても不快なぶれをほとんど感じないのか、なぜブレーキペダルを踏むことが、たしかにブレーキとして作用することが保証されているのかについて、明確な知識を持たずに所有する。なぜ、TV電波は映像に変換されうるのか、なぜ、インターネットという広大な場が、破綻せずに存在しえているのか、なぜ、衝撃に強く、かつ柔軟な樹脂が存在するのか、なぜ、特定の症状のみを抑制する薬品が存在しえるのか、なぜ、そのファーストフードは廉価なのか、なぜ、ある国のほとんどガキの思い込みとしか思えないような計画が、実行に移され、未だに「失敗」だとは公式に言われていないのか、そういった事情のすべてを知ることなく、それらがもたらす現実を、ほとんど盲目といっていいような、無反省とともに、許容する。反芻するほどの知識を得ることができないままに、それを利用するのである。あらゆる人間は、完全に無自覚なままに、虐殺者や略奪者となり、また、同時に、篤志家、好事家となる。即ち、あらゆる人間は、今までとは比較にならないレベルにおいて、全くの「部分」となるのである。すべての行為はサーヴィスを利用するという行為になる。自分自身の独力で行うものなど皆無になり、人間からある種の決定的自覚が失われる。個という概念は、政治家たちが用いる時代遅れのなぐさめ以上の意味を有さなくなり、人類社会は、蜂もしくは蟻の社会と本質的に同じものとなる。しかし、これは確かに進歩なのである。それもまた、間違いのないところである。かくして、新たな文学が求められ、実際に生み出されるであろう。
(2005.1.4)-1
スマトラ沖地震に対する取り組みのあり方に関心を持っている。3年ないし5年後に、総括的なレポートが出版されたら読むだろうと思う。ドキュメンタリが放映されるのであれば、見ることだろう。なんども言うが、これは試験だ。超国家規模の、というよりも、地球規模の、明確な形を伴った災厄に対して、文明社会の様々な機構が有効に対処することができるか否か。試験問題は、これまでに無く明示的である。したがって、回答もまた、おそらく明示的になるであろうことが期待できる。
(2005.1.4)-2
今日は思い立って、渋谷へ買物に出かけ、適当に無駄遣いをした。アンティークのウィスキーグラス、お茶を入れる大きめのコップ、アメリカ式のプレゼントを入れるボックスのような、丸い木箱(値段を見ずに買ってしまったが、高い。二万もする。おかげで、店員のねーちゃんとちょっと仲良くなる)、バーゲン品のパーカ、、、それから、本を一冊だけ買ってきた。平石貴樹「小説における作者のふるまい」。「フォークナー的方法の研究」という副題がついていて、内容は、まあ、それなのだが、序文が五十頁もついていて、小説を読むにあたっての読者の態度というものはそもそも、という議論から入っていく、なかなか懇切丁寧なものだったので、書棚の前で十頁ほど読んだあと、レジに持っていった。で、いま、それを読んでいるわけである。詳しい感想は、読み終えるまで保留したいのだが(それを書き付けるかどうかも、わからないのだが)、とりあえず、できるだけ進まない、という態度がなかなかによい。実際は、部分部分ですっ飛ばしているのだけれども、それを識別できるほどに、進むことを抑制している。直接的には、ここ数日でやろうとしている、石牟礼道子感想文への影響は無いのだけれど、間接的に、つまり、読み手の態度と書き手との関係といった部分に関して、何らかの訓辞が得られるように思うので、読み終えてから始めたいと思う。もう、半分ほど読んだので、明日には読み終えているだろう。
(2005.1.4)-3
小説における、手法や形式、文体の直接的な意義、すなわち、それを採用することによって、書き手が得られる利益について。確かに、フォークナーの小説は、その可能性に対する挑戦によって、文学界に屹立している。しかし、彼の創出した手法はいずれも、今日の文学の標準として取り入れられていないように思われる。彼の手法は、再利用がきかないのである。これは、おそらく、彼がそうした標準化に、まったく無関心であったためであり、言語の可能性について、ほとんど絶望していたためでもあるようである。結果、フォークナーに似ている、と評されるのは、栄誉として認識されるようになる。
(2005.1.5)-1
また、割り込みが入る。十二月の勤務表を提出しておらず、電話で呼びつけられて、出社する羽目になる。提出したついでに、せっかく外へ出たのだからと、宮崎駿を観て帰る。これが一ばん処理しやすそうなので、これの感想からはじめることにする。石牟礼道子、フォークナーときて、宮崎駿なわけで、なんともだらしのない手の広げようであるが、まあ、それぞれ、一こと程度のコメントをつけてまわるだけのことだし、それに、ぼくにとっては、それぞれはそんなに離れたものとして映らない。要するに、ぼくの関心は、如何にして小説を書くかという一点につきる。どのように映画を解釈するか、どのように小説を読むか、どのように社会問題と向き合うかではなく、どうしたら小説が書けるのか。ただ、それだけである。そういうことになっているのだから、そうすることにする。
(2005.1.5)-2
さて、宮崎駿「ハウルの動く城」である。ぼくは、少なくとも前作「千と千尋の、、、」を観ていない。最後に観たのは、「もののけ姫」で、これは前々作なのだろうか。あまり記憶がないのだが、とにかく、久しぶりに宮崎駿を観たことになる、ということを、(僕に対して)まず確認しておく。次に、観ているあいだに思っていた、ごく率直な印象としては、二点ほどあって、ひとつめが、すばらしいカッ飛ばしっぷりだなあ、ということであり、もうひとつが、おかえり宮崎駿ということである。このふたつは、感想というよりは、作品の作りをそのまま言葉にしただけのものだが、前者は、ストーリーが無いとすら言ってよいほどの、簡明な物語の筋立てへのありふれたコメントであり、後者は全体を通して用いられた作画手法が、ほとんど回帰といってよいほどの、往年のアニメらしい雰囲気を前面に押し出していたことに対しての、やはりありふれた感慨である。観終えて、部屋までの電車の発車を待つあいだ、感想として口にする一ことについて、あれこれ思いをめぐらしていたのだが、与えられたのは、抒情詩という単語と、ある領域に達したものたちが持つあの鷹揚さや奔放さ、といった言葉たちであった。別荘に引っこんでからのピカソの作品や、武田泰淳の「めまいのする散歩」のような。そして、まだ読んだことの無い、イリアスやホメロス、それから、ゲーテ「ファウスト」などに、ぼくがぼんやりと想い描いているイメージ。ぼくらにとっては憧憬であり、宮崎駿にとっては懐かしい記憶とでもいうべき。
(2005.1.5)-3
そして、いつものとおり、真っ暗の浴槽に浮かびながら、映画を反芻する。心裡描写が見当たらない。そのような視点を持って映画を眺めたわけではなかったので、正確なところはわからないが、おそらく、限りなくゼロに近いと思われる。そして、視点はつねに、主人公の娘(名前忘れた)から、離れることはなく、あくまで、彼女が立ち会う場面についてのみが描写されることによって、物語は進行する。そして、その全ての場面において、決定的に前後の文脈が遮断されている。即ち、どこからともなくハウルやその他のキャラクター(人物とは限らない)が現れ、物理的、心理的、両面における常識的な根拠の無いままに、何ごとかを起こし、娘(名前忘れた)もまた、それらに対して一切の疑問を持たないまま、物語は進行することを許されている(あるいは、強要される)。これが何を意味するかといえば、少なくとも進行上においては、「ハウルの動く城」という物語は、一切の合理性から解き放たれるということである。ハウルは、ほとんど時間と距離とを超越して、娘の前に現れたり、どこかへ行ってしまったりする。そして、彼女もまた、あるときは、いつの間にか、またあるときは、明示的に若返り、九十歳の老婆という制約を軽々と飛び越えてしまう。そして、それらは極めて当たり前のことなのである。
(2005.1.5)-4
しかし、これらのことは、さして珍しいことではなく、まして、批難されるべきことでもない。もともと、常識に基づいたロジックに沿った物語というのは、必要でもなんでもない、ひとつの創作手法に過ぎないのである。ぼくらは、それに当てはまらない事例を、すぐにいくつか思い浮かべることができる。小児の読む絵本、童話、昔話、神話、等々。「ハウルの動く城」のキャラクターたちは、それらに登場するものたちと、まったく同じ魅力を有している。というような、まわりくどい言い回しをせざるを得ないほど、普段のぼくらは、常識上の虚構というものに慣れきっているので、ようやくここで、言うべき言葉が見つかる。「ハウルの動く城」は、原作と同じく、童話である。ふう、疲れた。では、その内容に入ってゆくことにしよう。
(2005.1.5)-5
といっても、内容についても言うべきところはあまりない。主題は、宮崎駿のいつものものであって、つまり、ナウシカの変奏と呼べるものである。「ハウルの動く城」のキャラクターたちは、ナウシカに登場した人物、その他たちをいくつか統合したものと見て、ほぼ間違いない。一部、ナウシカのキャラクターの方に、複数の役割や性質を割り当てられていた者たちがあるので、場合によっては、分割する必要もあるかもしれないが、基本的にナウシカの物語は極めて細分化されており、今回の「ハウルの動く城」のような単純なケースには、その和、複合であると捉えてよいだろう。と、普通ならここで、「即ち」と書き、具体的な組み合わせを列挙すべきなのであるが、これは別に批評文ではなく、ただの個人的感想に過ぎないのであるから、そういったあまり気乗りのしない作業は省くことにして、ここでは、ぼくが興味を持った、多少ことなった見方のほうをもう少しいじりまわしてみたい。
(2005.1.5)-6
しかし、これもまた、別段異色のある見方というわけではない。ごてごてした言い方をすれば、「ハウルの動く城」の心理学的見地からの考察ということになる、インテリ臭をにおわせたい連中が好んでやる見方である。キーワードは、そう、「無意識」に、「抑圧」に、「XXXコンプレックス」、それから、フロイト先生。
(2005.1.5)-7
心理療法のひとつに、たしか、箱庭療法というのがある。名前はもっと大げさな感じがするものだったかもしれないが、やることは、とにかく、被験者(患者)に、砂を敷いた底の浅い木箱と、人形などを与え、その箱のなかで自由に自身の世界を表現してもらい、それを解釈することによって、被験者の無意識をおもてに出してゆこうというものである。多くの場合、何らかの原因によって抑圧され、無意識として存在していたイメージを表出することは、それ自体が治療になる。(詳しいことはここでは省くが、それは、たしか、高校の終わりごろから、大学一二年あたりのどこいらかで読んだ、河合隼雄の本に載っていたもので、フロイトの「精神分析入門」「夢判断」からの知識ではなかったと思う。興味のある方は読まれるとよろしい)なぜ、今さら、そんな古くて曖昧な知識を持ち出してきたのかといえば、「ハウルの動く城」は、非常に、この箱庭療法的であると思いついたからである。いや箱庭療法的な物語なのではなく、この物語自体が箱庭としてあるといってもいいかもしれない。宮崎駿が独力で作り上げた、彼の内部にある、巨大で壮麗なひとつの箱庭。この、劇中の世界が新たに案出されたものであるというよりは、宮崎駿の内部に既にあったものだという見方は、あの宮崎駿的な、ぼくらももうすっかり見慣れてしまった、数世紀前の西欧の街並みや、登場する数種類のメカニック(二種類の戦艦、個人か数人乗りの小型飛空挺、そして城)が、あからさまにナウシカ等において既出のものであるという事実からも補強される。そして、この箱庭は実によくできている。ぼくは心理学の専門的知識を持たないので、実際に割り当てることはできないのだが、「ハウルの動く城」のキャラクターたちは、おそらく、心理学上の名称をひとつひとつに与えることができることだろう。主人公の娘(だから、名前忘れた)、ハウル、火の悪魔、子ども、何とかの魔女(やばい、どうやら、「ハウル」以外の名前をひとつも憶えていないらしい)、かかし、犬、女王、母親、妹、、、彼らはすべて、何らかの抑圧なり、コンプレックスなりの象徴として顕れてきた、ほとんど典型ともいえるものたちであり、そして、彼らが運動する機械と魔法が中世的色彩によって調和するあの世界こそが、それらを同時に表出させる箱庭なのである。宮崎駿はそのなかで、極めて自由に振る舞う。彼にとっては、そこで起こるすべての現象や存在は、説明の必要もないほどに自然なことである。そしてまた、実際はほとんど度し難いほどに狭小である、物語中に現れる世界も、これによって説明されうるだろうし、主人公の娘の一見、無感情のあやつり人形と思えるほどの感情の変化やとっぴな行動も、やはり納得されることだろう。更に、ハウルの暗部についての描写の驚くほど少ないのも、これによって理解できる。即ち、暗部は、実際に暗部なのであり、それは表出されることがないので、ぼくらはそれを、直接的な像として見ることができない。ただわずかに、ハウルの変身した姿や、彼の部屋の動的に変化する状態や、どこでもドアの深部にある、彼の孤独および、その象徴としての悪魔との契約の場面のみを、視覚的に把えられるばかりである。そしてまた、ぼくらは宮崎駿の暗部の実際についての知識を、彼のこれまでの作品によって、実際には持っているので、今回のような形式にも耐えることができる。その内部における精神の深淵へと向かう冒険については、ナウシカを参照すればよいのである。あれは、ほんとうによくできている。
(2005.1.5)-8
キャラクター個別の役割については、前述のとおり、ぼくには心理学の知識がないため、割愛するが、一点だけ指摘しておきたい。すなわち、劇中において、ハウル以外のキャラクターは直接的な殺傷を一切していないという点である。女王や魔女も、それはしていないはずである。ただ、巨大な機械である戦艦とハウルのみが、殺傷を行う。これも、実は、それに注意して眺めたわけではないので、確言はしかねるのだが、おそらく間違いの無いことだろうと思う。戦艦は外部からの暴力の象徴であり、それをほとんど本能的に憎悪し、攻撃するハウルは、宮崎駿の最も男性的、攻撃的な部分の象徴である。そして、今回はじめて、そういった部分を明示的に自身の裡のものとして「救済」したのである。それは、救われうるものだし、また、救われるべきだと、それを彼は確定させたのである。
(2005.1.5)-9
さて、ようやく、ぼくの関心のある部分へと話は移る。のだが、あいかわらず、ここで力尽きる。明日以降、石牟礼道子に戻ることにするが、その際にもし意識が移ることがあれば、言及しようと思う。基本的に、ぼくは宮崎駿を必要としていない。ただ、彼には戦い方を学ぶためのヒントのようなものを、ナウシカによって教えられただけである。当時、ほとんど気ちがいのように映った彼の沈潜を、今は、少なくとも表面的には、合理的、実際的な行為として認識している。つまり、ただ、彼は正銘の大作家であり、ぼくはそうではないというだけのことだ。
(2005.1.5)-10
そして、平石貴樹のフォークナー批評「小説における作者のふるまい」の第一章を読み終える。次の第二章は、まだ読んだことのない、フォークナーの後継とみなされている黒人女性作家モリスンを材に取っているようなので、一度ここで切り、モリスンを読んだあとに、また再開することにする。とりあえず、第二章の冒頭で、フォークナーが女性蔑視などの問題に対するテキストとして取り扱われている(た)という現状があり、フォークナーが女性蔑視者であるという批判が存在するようだが、これは、ぼくにはまったく理解できない。何の話をしているのやら、さっぱりである。フォークナーがいつどこで、女性問題を取り扱ったというのだろうか。少なくとも、ぼくの乏しい記憶のうちには無い。そんなものが、彼に問題として認知されたことすらない。彼が白と黒との問題を取り扱ったために、その延長として、男と女の問題をもそこに見ようとしているのだろうか。だとすれば、えらく突飛な錯誤である。ほとんど気ちがい沙汰である。言っておくが、小説の批評において許されるのは、書き手が書き付けたテーマについてのみである。その範疇において、作家が意識しなかった部分を指摘するのは構わないが、そこから逸脱した言及は一切許されない。それは、決して作家の横暴なのではなく、それがコミュニケーションというものだからである。相手が自身の恋愛について語っているときに、半年後の経済動向についてのコメントを出す者がどこにあるか。フォークナーに女性問題を見出すものたちのしていることは、それと同程度に、或いは、フォークナーが彼の小説に全霊を捧げているという理由から、それ以上に無作法で、野蛮な行為である。小説を読み、それにコメントするという営為に対する、基本的に認識を欠いている。実際に、そういった類の論評を目にしたわけではないので、最終的な断定は据え置くが、それらはほとんどヒステリーといって差支えないものにちがいない。したがって、たしかに、「歴史における真の主体としての女性を発見するためには、われわれはフォークナーよりハートスンを、ジョイスよりウルフを読むべきだ」という言説は、ぼくはハートスンもヴァージニア・ウルフも読んだことがないが(ジョイスだけは、ほんの数十頁)、自明のことであり、ほとんど無内容ともいえる断案である。馬鹿である。
(2005.1.6)-1
石牟礼道子に戻る。以下、ベースとして、随筆をひとつ。当初予定していた「海はまだ光り」と「言葉の秘境から」ではなく、長めのこちらを選択した。
(昏れてゆく風)
 水俣から出て来て熊本の仕事場に入った。某寺の一隅だが、一夜明けたら境内は落ち葉で埋まっている。大通りへ出て郵便局へゆく。それから滞在中の食料を買い出しに、スーパーマーケットにゆく。
 出て来た日、銀杏の街路樹はまだ青々としていたのだが、二日経ったばかりというのに、心の遠い内景が、一時にはっとひらいたほど黄ばみはじめ、夕闇近い大地に浮き立っていた。厚みのある曇天だった。広い鋪道はがらんとして人影はみえず、にわかにゆき昏れたようなはかない感じがおそってくる。ゆく手に昏れてゆく風景と、心の奥に閉じていた景色がふいに広がり重なって、あの時間の中にまた這入ってしまったとわたしは思う。
 頭上に高くくろぐろと、巨大なくすのきの枝が重なりかぶさってくる神社の脇を通り抜けた時、その感じはやってきた。まだ若木の銀杏の並木は昏れ方の風を伴って、広い鋪道が展けていた。その道に這入ってゆくのはわたしだけだった。しばらくわたしは立ち止まった。自分が里程標になった気がしたからだ。まだ出来上がらない地方都市と、その都市を成立させるために解体し、埋没した村々との間の里程標に。
 はるか彼方にひとたびは完成し、そして凋落しつつある大都市の影が、初源の村の方へと伸びてくる。文明のたそがれの色が。
 解体する村々の瘴気にあぶり立てられて、出郷して行った者たちを、わたしはずっと見送り続けた。出郷者たちが置いて去った者たちを、看取らねばならなかったから。村に残り、蛇たちのうごめく腐木の洞に落ちて、悶え死にしたおびただしい者のことも見て来た。しかしながら村はずっと美しかった。
 ありとあらゆる悪意の集中を受けて引き裂けたために、まだ未解読の宗教と哲学が残り、最後の村にはあの、いぶし銀という色さえかかった。銀杏がわたしを誘うのはそのためだ。銀杏の色は、現世と黄泉とをつなぎ合わせ、村か都市かのどちらかへ、逃げこまねばならない者たちの肩に舞いかかり、この世のたそがれを教えてくれる。
 わたしの内なる情景は、薔薇色の光をたたえてひろがる朝の海と空から始まり、この列島をゆき来する細い野面の道が見える。その道は訳知りたちが粗雑にびならすあの、前近代の方に昏れ入っている。
 草がふるえる。風が大地から湧いてくる。地表の下にくずれている村々の、田んぼや泉からそれが湧いてくる。泉の多い村々だったのだ、たぶんここら一帯は。
 わたしがいつも立ち止まってみるところは、きっと草っ原だったのだと思う。かなり広い畑地の続く野面だったにちがいない。大樟の森がそんな風を呑み込み、電車の通る背後の市街へ送りやる。わたしは覚醒し、未完の都市計画の地図の部分をなぞるように、郵便局へゆく途中だったことを思い出す。
 郵便局へゆく道すじを覚える途中で、畑と畑をつないでいた野道のはしっこや、馬小屋の柱石を見つけたり、野葡萄の茂みが、建築会社のプレハブの、空小屋の下敷になっているのを見たりした。大通りへ出ると、半年ぐらいでしょっちゅう代替わりしているらしい、角の和風スナックの店からその鋪道は始まっていた。
 若い友人をもてなそうと思って、開店したばかりの初代の店をのぞいたことがある。めったにそのような場所へゆかぬわたしは、店そのものが珍しかった。カウンターと畳敷にわかれた畳の方に坐り、木の香の匂う造りを感心しながら眺めていたが、頼んだ焼き鳥が出てきて驚愕した。
 木の葉と見まがう薄さに切った鳥のレバーの、ひらひらの薄さの間に、よくもはみ出さずに刺したと思われるほど、上手に竹串を刺し、ニセンチ角ほどの三枚で一本の串になっている。店を賄っている青年と小母さんのやりとりを聞いていると、親類同士であるらしい。出されたお茶がまた国鉄顔負けのものであった。
「なんというコクハク……」
 呑み助の若い友人は首を落として呟いた。その友人が小声でいうには、この串の三倍くらいの量が刺してあれば、他の店の定価とつりあうのだそうだ。
 愛想だけはきわめてよかった。真新しいエプロンがけの物腰からして、近郊の百姓のかみさんが、にわかに転業した趣であった。その転業したての思い切ったコクハクぶりが、一種の甲斐甲斐しさにみえなくもなかった。
 うっすらと漾う店内の煙を見ながらわたしは思い当たった。自分の村にいた名だたるあの「辛抱神」たちのことを。ゆいの行事の二十三夜や川祭りに、めいめい持ち寄る重詰めや鉢盛りのご馳走を、どのようなことがあろうとも、絶対に人の三分の一くらい持参して、かならずわたしの家や他家の分をいそいそと、自分の皿に大山盛りに入れて貰って帰る、あの小母さんたちの同類がそこにいたのである。
 わたしは胸のむずかゆいような親近感をもって、まじまじと、落ち葉のように反っている焼き鳥の串を眺めながら、思うことがあった。新興の街となりつつあるこの一角に、一事が万事あの主義で、やり通して来たであろう辛抱神たちの一統が、進出しつつあるのかもしれない。
 しかし、経理能力のまるで無いわたしから見てさえ、彼女らの度外れにわびしい計算は、新しい街の商売のやり方に、うまく乗っているとは思えなかった。
 わたしの知っている村のならいでいえば、彼女らのような存在への、まるごとの認知があった。村は賑わわねばならなかったから、それくらいの個性も交じっていて均衡が保たれていた。彼女らが名うての辛抱神、つまり吝嗇神であることは、そうでない女たちに恰好の話題を提供し、それはいつでも民話や落語の原型をなしていた。何らかの理由で彼女らは村から出発した。おそらくその時点で、村は彼女らの中で解体したのであろう。
 けれども彼女らのいる街は完全に出来上がってもおらず、客たちは、別々の村からやって来た人間だった。野中を貫いた十メートル道路は目新しく、角に出来た和風スナックは、周辺の若者や通りすがりのよそ者の気を、ちょっとくらいひくにすぎない。ほんの束の間、この店で顔を合わせたものたちは、双方ともに、まだどこへも行きつけぬ者たちだった。都市は村の人間たちをどんどん消費するのである。
「あの店は、ありゃあ、すぐ潰るるですよ」
 その種の店にくわしい友人は、恨みのこもった顔付きで断言した。その通りだった。角の店はすぐに代替わりし、幾度も看板が変わった。
 角から三軒目は大きな農家である。通りに面して窓のないトタン壁の倉があり、母屋と向きあってその背後は竹林に囲まれている。窓のない倉は不自然に見える。思うにこの十メートル道路は、倉の裏壁すれすれを通ることになり、窓をつけていた、もとの土壁をずり落とし、青く塗られた波形のトタン板で応急処置をほどこされたにちがいない。そのような倉の向きは、トラックの轟音にゆさぶられることとなった母屋を、うまく防御している恰好なのだが、わたしの目をひいたのは、小屋の根元に生えていて野草化している箒草だった。
 二十年ぐらい前まで、わたしの家でも庭箒用に栽培して、要らない分は軒下に吊るしておくと、村の人が見つけて貰いにくる。市販の箒より丈夫で、根元をくくって逆さにすれば、穂先がすぐさま箒になるのである。荒れ地でもよく根付くので、塀を仕切って境を強調しなかった時代の、家と家との裏口をつなぐドブ川や、小径の縁などが、箒草で出来ていた。そのような小径は曲線になっていて、村中にはりめぐらされた通路でもあった。このような小径を誰も来なくなるとその家は村八分にされたのである。しかし村八分などはめったには起きなかった。水俣病だけが例外だった。
 新しい鋪道の下やそのわきに、どのような小径がめぐらされ、畑地があり藪があり、草っ原があったのか、聞けばこの鋪道が出来て七、八年という。
 気をつけてみると、村は、新しく建ち始めた建築物の間にまだ残っていなくもなかった。背高泡立草に寝食され始めた空地に、不動産やの電話番号を記した横標識が立つ。するとその標識に、秋になると葛の鼻が絡まり咲いたり、夏は根元に、草苺の赤い実が成ったりした。萱も笹も自然薯も、豆蔦も、まだ季節の色をもち、測量設計事務所の看板を包んでいたりする。
 鋪道の脇に経ち始めた建物には、水俣にない種類がいくつかある。
 金銭登録機販売会社というのが、ここを通る度にわたしにはわからなかった。店の構えからして銀行でもなし、金銭登録のというのが古いイメージに思えたから、わたしの想像したものは、箱枕の中に小銭のヘソクリをしていた大叔母のイメージもあって、つまりはそのような意味のヘソクリ用機械であろうかとも思いつつなお、怪訝な感じであった。
 なぜこのようなことを記すかというと、わたし自身が、さまよえる村の目である、わたし自身の内景、すなわち日本近代を形造ってゆく生理としての村の情景を、その基底のところから読み解いてゆきたいからだ。
 さてかの農家の三軒先には、運送会社の住宅という三階建てのアパートがある。クレーン、ブルドーザー、重量トラック、バックホーを取り扱い、宅地造成、引っ越しすべて引き受けると看板が出て、自家用のガソリンスタンドを持つ。事業主の本宅への、道路標識が立っているのを見れば、相当の経営体と思われる。このような種類の事業主も水俣では見当たらない。男性のためのパーマ屋を兼業する、超モダンな美容院の先に、十字形の辻があって信号がついた。人が居ないことが多いので、わたしも向こうから来る車も、どんどん赤信号で渡ってしまう。するとその先、この地では名の知れ渡った古い神社の脇に、「グローバルマンション」なるものが建ったのである。
 神社の向かいの鋪道に面して去年まで、三味線の音じめの聞こえる二階家があった。マッチ箱を立てたような形の下の階は、よろい扉がいつも閉まっていて、鋪道よりは引き上がっているので車庫とは思えない。様子からしてもとの前庭を、重量トラックが地ひびきを立てて通ることになったのだろう。三味線の鳴っていた二階も、今は閉じられたままで借り手もないらしい。
 神社のまん前には、西南役に参加した熊本隊出発の碑があり、志士たちが、戦勝の祈願をこの神社にしたとある。続いて不動産会社、測量事務所、海上火災保険会社職員アパート、建設会社のオフィスという具合に、新しい建物が、村のためにあったバラ科や蔓性植物を押しひしいで、畑をはさみながら十メートル鋪道の脇に点在する。
 畑には、さきごろまで野稲や大豆、ささげ、茄子、トマト、唐黍などがつくられていた。長い畝のつくり方からして、家庭菜園というより、市場出荷向けの栽培と思われる。今は京菜や葱や、里芋、甘藷、畑山芋、人参、大根、白菜などがつくられていて、こう寒いと甘藷が霜にやられはすまいかと、よそさまの畑の心配をしたりする。ついこの間までずいぶん肥沃な野で、畑地や村をつなぐ、草丈のたかい原っぱが点在していたろうと推察される。わたしの仕事場あたりは竹林であったという。
 つまりこのように書いてみれば、少しばかり色の薄い村落共同体の夢のあとを、ゆき場のない不知火海のほとりの遺民が、さまよい歩いているわけなのである。
 ゆく手に昏れる風景と心の内景とが重なるのは、じつは十年前に、東京チッソ本社前の路上に坐り続け、泊まり続けて見ていた、風景としての日本近代(そこでは人のありようも風景として見えたから)と、そのゆき止まりの情景が心にあるからだ。そしてわたしの心にある景色とは、出郷することが出来なかったものたちが抱えこんで来た、内側からの、日本近代の負性としての風土に生き死にする人間の情景である。
 水俣、そのこあら百キロばかり移動して、前途の行き止まり地点と、流出の基盤であった風土との間に立てば、出郷した者たちと、しなかった者たちとの影がゆき来する。わたしの内部を彼らは往き来しているゆえに、わたしは自分自身を通底の軸にして、胸に昏れる未来と前近代の間をつなぐ地下水の通路を、たどりたく思っているのだ。
 情況とは常に、わたしにとっては風景なのだった。いかなるひき裂けた情景といえでも、その裂け目こそが世界というのだった。今もそれは変わらない。無常という風がわたしに向かって吹く。
 魂のゆく手を指示してくれたのは、一九七一年の東京においても、根元をコンクリートでふさがれ、半ば奇形化した骨だけになった丸の内ビル街の深夜の鈴懸だった。まだ生きていた鈴懸の木々から、わたしは日本列島を貫いている虚無を教えられた。高度成長の結果という言い方もあるだろうけれども、わたしは形而上的な意味ではなくて、実質としての虚無、その反面としての功利主義が、この列島の顔となって、日本人の表情が休息に変貌しつつあるのを見ていた。もちろん水俣のおかれている情況から視えはじめて。
 人びとは、人間的情感をうしなうことを代償にして、情報の媒体そのものとなっていた。まるで新聞の縮刷版だったり、雑誌で出来上がったような人間たちに逢った。思想も風俗で、流行り廃りがあり、人間的感情さえもコピーされたもののようだった。コピーが精緻であるか、粗雑であるかの差が問題にされているようだった。それがまさしく「時代」というものだった。
 そしてまた、そのような人間群が権力構造の中に集約されて、姿をあらわす形もさまざまに見ることが出来た。坐り込みの相手はチッソでもあり、国家とその諸機関でもあった。極点としての水俣は、情況――政治はいうに及ばず文化――を計るに、縮尺自在な物差しともなることをわたしは知ったのだった。いわばそれは全構造の、組み合わせの形のひとつにすぎないことも教えられる。
 もちろん、そのような組み合わせの多層性のそこかしこから、送られてくる信号、あのばらばらに引き離されたものたちの痛苦のようなもの、吐息のようなもの、あるいは稀に、大地の微笑のような人間的歓喜などが聞こえてくるゆえに、わたしのアンテナもまだ死なないでいるのだろう。
 さてまた水俣に戻れば、こういうことがある。
 ヘドロの底に生き埋めとなった藪くらや、渚に居て賑わっていた生類たち、あの狐や蟹や、葦の葉に登る魚たちのことを、絵物語にりにすることが進行中なのだが、若い編集長と、絵を受け持って下さる丸木俊さんを案内して、漁師さんの家をたずねた。今は亡くなったおじいちゃんの代の頃から、漁のことだけでなく、生きるということについて、深い示唆を受けている家で、もとより一家は水俣病家族である。
 わたしは、記憶の中にある昭和初期以前の農漁民の使っていた道具の数々や、仕事着について、下手な略図を書いてみたがどうも心もとない。ことに漁師の、舟の上での仕事着の男女差についてはうろ覚えなので、たしかめたかった。
 前もって訪問したい意向を伝え、ご都合をたずねておいた。案内を乞うと、いつになく咽喉につっかえたような返事が奥の方でして、いつものように透明な朗らかさが帰って来ない。やがてきしみながら襖が開いて、出てくる女主人を見て色を失った。
 必死な形相で、身をよじるようにしながら這い出てこられるのである。あっ、あっ、と言いながら突っ立っているわたしに、彼女は顔を振り上げ、おどろくな、おどろくな、というような表情をなさる。そのような顔をつくるのにどれだけ渾身の力を要していることか、次の瞬間には虚空の彼方に向けて、まなじりが張り裂けんばかりにひらくのでわかった。わたしは息をのみ、おろおろするばかりだった。
 しばしば遭遇するもと漁家での情景、つまり水俣病の突然の重症化ということが、わつぃをわし掴みにしたのではない。それももちろんないとは言えなかった。彼女がここ三十年間に歩いて来た、生きるための軌跡のそれぞれの部分について、ほんの幾分かわたしも知っている。
 全戸洩れなく被病して、激甚な水俣病集中多発地区となってしまった村である。父母も親族たちも発病し、死ぬべき者は死に尽くした。網子たちも壊滅したので、網元であった家がまったく立ちゆかなくなった時期に、相愛の仲であった青年が入り婿となった。病の軽い日には鴛鴦おしどりのごとく並んで漁に出る。五人の男の子たちが両親をよく助ける。歯を喰いしばり、のたうつ日々のふとした空隙にも、家族の誰かが賑わいごとを考え出す。四つ五つの末子が、親の気質を受け継いで、賑わい神になって笑わせたりする。
「父ちゃんと海に出る時がいちばんの極楽。舟の上でなあ、踊ったりして」
 彼女がそう言えば、まわりがどっと賑わう。そのまわりとは、彼女と等しいほどの受苦を共に体験した人びとである。
「栄子は賑やわせ神じゃもん」
 人びとはそう言って目元を崩す。
 彼女一家が村から突出して、第一次訴訟に踏み切った当時の、村中の憎悪は凄まじく、この一家を孤立させた。それに参画した村民たちは、徐々に破れて行ったタブーのあとで、被病を名乗り出た人びとでもある。そのようなまわりをまとめるための、賑わいは、ケの日をハレの日にする祭祀であることを、彼女自身も人びとも知っている。村はながい情況を経て、時の目盛りを超えねばならぬ時期に、来ているのかもしれなかった。失われていた共同の結が、笑って賑わうという形で、もとに戻りはじめたのだろうか。
 息子たちが早く成人してくれたら、船団を組んで海に出たいと願い、どの子も赤児の時から舟に乗せて出た。船団は中々組めない。持続して海に出られる体力ではないのである。裁判の勝訴と東京チッソ本社坐り込みによって補償金が出た。彼女を実子よりも慈しんで育ててくれた養父の死に金であった。
 岬に弁天さまのいらっしゃる、小さな入江に向いた彼女の家に、大量旗よりつつましい「栄子食堂」という看板がかかげられたとき、わたしたちは、やった!と思ったものだった。茂道もどう部落はじまって以来の食堂だった。補償金をめぐって、虐殺された者の遺族、まだその毒を心身に蓄えて生きねばならぬものたちの懐をさしのぞいて、勘定し、難くせをつける者たちのキャンペーンが、張られ続けていたからである。
 妻は白いエプロンをかけておでんの鍋を炊き、焼き飯や、「ちゃんぽん」のメニューがかかっていた。飛び切り盛りがよく、元手がオーバーするのではないかと皆が思った。夫は櫓を漕いでいた手に出前箱を提げて、にこにこと忙しげだった。合間に夫婦は、はだしの医者塾をはじめた熊大の原田正純先生や塾生たちに、自分を実験台にした薬草の採取法や、効き目のさまざまについて講義した。
 食堂の前の道は二メートル幅ほどで、今でも小型自動車一台が、下の崖に落ちないように、そろそろとゆくが、そこらが束の間、茂道のメインストリートだった。食堂は長くは続かなかった。はためにも蒲柳ほりゅうたちと見える夫の雄さんが入院したのである。食堂をはじめる前にも水俣病が重体化して、わたしたちは熊本市内の病院にかつぎ込んだ。今度は胸の疾患だった。栄子食堂の看板はしかし下されていない。いつでも直ちに復帰するつもりなのだ。折々舟を出すとみえ、白魚に似た、ちりめん白子しろこや、片口イワシがはるばる届いたりした。
 わたしは、この夫婦が交互に横になっていて、長すぎる受難の日々をやわらげあい、ご先祖や、村の中で死んだ者たち、魚、猫、狐、カラス、水鳥、人間たち、そして生きている自分たちの供養を続けているのを知っていた。漁にも出られず、食堂もあけられぬ日々を、静謐な祭りごとで過ごし、患者たちや村のもめごと、悩みごとの相談相手になって送っていると考えていた。それはそれで、たいした思いちがいではなかったろう。
 彼女が四つん這いで出て来たとき、わたしがはげしく搏たれたのは、彼女の心と躰の、なにものにもおおわれていないその意力だった。  彼女はいつも絶やさぬあの微笑をこしらえようとするのだが、この日ばかりは、なかなかそれが出来なかった。なにしろその日は、手で歩かねばならないようにみえた。足はついて来ないふうだった。手と足の間で、お腹と背中と、腰が、ばらばらにねじれるようだった。なんとかねじれを止めようとした彼女は、柱にとり縋って立ち上がった。このごろの日常動作の過程のひとつなのかもしれない、とわたしは思ったりした。去年は踊りが出来たのに。
 激症に戻ってしまった原因にわたしは思い当った。この夏、沖合でひっくり返った舟から落ちた人間を、夫婦で助けあげたからである。救助は困難をきわめた。溺死人(その人は仮死状態になっていた)を掴んでいて、その重さで失神寸前になった時、
「魚なら、網にかかった魚なら、重すぎた時は海に打ち捨つるばってん、人間は、打ち捨てられん」
 夫婦ともそう思ったという。大ざっぱに記して、彼女が自ら敷いて来た生身の軌跡とはそのようなことであった。今、目の前にある彼女は、自ら敷いたレールの上に、傷みきった舟を乗せた、でこぼこのトロッコのような形になっていて、いや、ひょっとして猛スピードで、やって来つつあるのかもしれない。そのようにわたしは感じた。わたしの見たのは、たまたまそういう姿のストップモーションの一カットだったとも云える。それはじつに凝縮された姿だった。
 一年前、二年前と、丸木俊さんも彼女と逢っていた。彼女は土着の日舞の師匠についていて、ともすれば曲ったり転んだりする足腰を鍛えようとしていた。漁婦が舞踊家に転じたわけではない。あるひとときの舞い姿が、丸木さんの絵筆で描き留められてもいた。天性の漁婦の海でのありようをどう説明したものか。
 九州の胎内のような地形にある不知火海は、外洋とはまるで異なり、この島国の風土の生命の潮の湧くところ、というふうに見える。舟に乗っている彼女の姿は、そのような潮の、内と外へ呼びかける神舞いのように闊達でのびやかである。魚たちの群は彼女をめぐって回游し、彼女の声はまた、魚たちとともに空を游いだりする。あの巫女と名づけられる古代牧歌の精霊たちの母のように、自由の始原をあらわす女、彼女を評するとすれば、そのような存在と云えよう。六年前から始められた、不知火海沿岸総合学術調査団の諸先生方も、来られる度に必ず彼女のもてなしを受け、水俣での気の晴れぬ日々に、活力を与えられて帰ってゆかれる。
 彼女が日常語る言葉を総合すれば、ほとんど詩篇そのものと云ってよく、中空にそよぐれんぎょうの花のような声の光を持っている。あねごのようで、天性の深い智慧を授けられたものの率直さでものを云う。わたしより年下だが、
「道子さんは、世間のことには暗かなぁ」
 といわれてしまう。
 彼女が重度の症状を持つ身であることを知らぬではなかった。にもかかわらず彼女と逢えば五体満足(でもないが)なつもりのわたしは、常に関係が逆転してしまい、高度の精神的医術をほどこされたような、心が綿玉のようにやわらかくなるのを覚えるのだった。
 いま思う。彼女は残された村で、日本近代の病根のもっともふかいところ、もっともねじれの深い、しめ木のところに身を置いているのである。誰かが物理的にひき受けねばならぬ、もっとも分の悪いところを彼女は引き受けている、とわたしにはおもえる。
 極度の傷みがやわらいだと思えるまで待っているうち、わたしは訪問の意味を思い出した。舟の上での漁婦たちの仕事着の短さ、太股の、どのあたりまでであったかを、夫の杉本雄さんにたずねた。するとかたわらから、音符が光のさざ波を立てるような声で、彼女が教えた。さきほどの姿の延長のような躰のままで。
「はあもう、道子さんなあ、短さも短さ、ちらちら見えよりましたです。舟の上では男も、おなごも、足をちょっと、こう上げれば。わたしの父親も母もそうでした。みんなそうばい。
 どの舟でもそうした眺めじゃった。それでなければ仕事が出来んとですもん。冬なんか、潮に濡れれば、ドンザ(刺子の厚いボロ着)が三日も四日も乾かんですけん、濡らさnのが大事じゃったですよ。それで股の間がいよいよ寒うなれば、褌やら腰巻きやら、それもえらい短こう、膝の下までくることはなかった。はい、素足で。
 草履のなんの、土足じゃ上がりません。舟に上がる時は座敷に上がるのと同じ。草履揃えて上がりよったですよ、そういう恰好で。今もそげんするです」
 彼女の声を聞いていれば、世界の奥はさらに深く、どこまでも広い。
石牟礼道子

(2005.1.6)-2
テーマは、互いにほとんど被るところのないものが、ふたつみっつある。ひとつは、近代社会に関しての氏の立ち位置について。もうひとつは、はじめにちょっと言ったように、フォークナーとの類似について。さらに余計なものとして、昨日まで読んでいたフォークナーについての論文への応答として、作家と読者との関係について。とりあえず、主なものはひとつめなので、それだけを取り扱うことにしよう。
(2005.1.6)-3
平石貴樹の論文を読んでいて、フォークナーの「敗北主義」という言葉を見つけた。。。と、もう時間切れだ。続きはまた明日。今は、色川武大を読んでいる。彼の父親が、トマス・サトペンにちょっと似ている。そして、彼の視点や境遇は、野坂昭如によく似ている。彼の幻聴その他は、ぼくの感覚との類似が幾つかあり、非常に豊かである。小説が書きたいなあと思う。彼の書いたうちのひとつでも、実際に自分で書けたらいいだろうに、と思う。
(2005.1.7)-1
 坐っている。坐って、画面を眺めている。室内には、モーツァルトのクラリネット五重奏曲が流れている。クラリネットの奏者は、レオポルト・ウラッハ、一九五一年のヴィーンでの録音である。部屋として切り出された十畳程度の空間は、今のところ、ぼくに専用権があり、ぼくはその中をモーツァルトのクラリネットで満たしている。マンションの分厚な強化ガラスを主な素材としてなる窓は閉じられ、空気は比較的密閉されている。その中をクラリネットと四つの弦楽器の音色が、部屋の両端に設置されたスピーカのコーンから、振動に再生されている。つい先ほど開封されたばかりのこのCDは、ウラッハのクラリネットを取りあげたもので、四つの弦楽器の奏者については、あまり強調されていない。モーツァルトのほかに、もうひとつ、ブラームスのクラリネット五重奏曲が収められている。ぼくはこれらの事柄をCDケースの裏面を読むことで知る。その間も、モーツァルトの五重奏曲は進行し続けている。そして、先ほど開封したばかりだというのに、ぼくはそれをあまり聴いていない。別のことを思っている。
 窓の外を見る。マンションの二十二階のこの部屋からは、ここから東京湾沿岸までの一帯が一望される。太陽は随分まえに、地表の別面を照らす位置に移っていったので、建物には灯りがともっている。夜景である。しばらく眺めて、ぼんやりしていると、視点が部屋から窓の外へとダイナミックに移動し、マンションを見下ろす、ちょうどヘリコプターか何かが通るような高さにいる(そういえば、このマンションの屋上にはヘリポートがある)。もちろん、頭のなかにおいてのことである。そして、ぼくはぼくを見る。マンションがあり、それは筒状の多層構造をしている。各層には、部屋という単位の、いくつもの小さな孔があいており、その一つに今ぼくは収まっている。時刻は正確に現在である。たしか、現在という時刻は存在するのだったと思う。部屋はモーツァルトで充満しており、そのほぼ中央に、PCの液晶ディスプレイの方を向いたぼくが、椅子に坐っている。ときどき、両脇に開いた状態で逆さに置かれた本を手にとって、しばらくその中を覗きこんでいたりする。頁はほとんどめくられず、進んでも二三頁である。しばらくすると、また逆さにしてもとの位置に置く。本人が「あまり聴いていない」と書いているのだから、おそらく、モーツァルトは聴かれていないのであろう。実際には、すでに演奏は次のブラームスの方に移っているのだが、それにも気づいてはいまい。
 彼は今、小説のことを考えているのである。あるいは、小説家のことを。最近になって、はじめて読んだ石牟礼道子という作家のことを、あれこれ思っている。そのことは、ここ数日、彼が書きつけた数頁の、雑文とすら呼べないような、メモ、つぶやきのような文たちによっても知れる。それによると、今、彼は石牟礼道子氏が、氏の作品を通して鮮やかな陰画として描き出したところの近代社会と、それの集約であり、象徴であり、幻灯機でもある、都市という場と、それに内包される人間たちについて、彼なりの想いをはせ、そこから、氏への応答らしきものを抽出しようとしているらしいのである。「ほぅ、何ともまぁ、ずいぶんと高邁な試みのようで」など冷やかしたり、大丈夫かしらと心配したりするのは、たいへんにありがたい心づかいではあるけれども、ご覧のとおり、彼はいま何も、モーツァルトですら聴いてはいない。却って、心をくだいてくださる方々の徒労になってしまうようである。
 彼は今、こんなことを思っている――
(2005.1.7)-2
 石牟礼道子が視つづける、あるいは感じつづける、日本近代の虚無。(続きは、また明日。難しい。。。)
(2005.1.8)-1
しきり直しそうとするも、本日の具体的成果は無し。キーワードは見つかったような気がしているが、それは書きつけないことにする(すでに、何度か書いているものだし)。上記のように、小説風の記述による処理を試みたが、あまりうまくゆきそうになく、今日は、詩のような形を思っていたが、それもまとまりがつかない。明日、明後日と、まだ二日ある。切れはしでも書き付けられれば、さいわい。
(2005.1.8)-2
寓話的な形式。何か媒体があればいいのだけれど。少し、気にかけていることにしよう。。。
(2005.1.8)-3
ネタに使ってしまったけれども、ウラッハのクラリネット五重奏曲ふたつ、とてもよい。少しずつ、クラシックに移行していっているのを感じる。最適な比率がどの程度であるかはまだ不明だが、少なくとも何割かがクラシックになるだろう(お金が無くて無理かも知れないけれども)。ホロヴィッツのシューマンは、やっぱりまだ時折聴いている。なんとも不思議である。
(2005.1.8)-4
トルストイが届く。いくつか重複して買ってしまっているが、とりあえず、目録を書き付けておくことにする。
自分自身でもいまいち、この脈絡が理解できない。 一緒に届いた、その他の作家のものは、以下のとおり。「影向」の上田三四ニ、その他。 濫読に近いですね。最後のガルシア・マルケスのは、お気楽で建設的なミーティングのログです。まあ、参考書というやつです。ガルシア・マルケスは、この類の作家にはめずらしく、普及を意識している人でしたので、その意味でも信頼し、かつ尊敬しているというわけなのです。プイグはホモの世界だそうです。まだ、読んでいないので、なんとも言えません。原寮はハードボイルド・探偵小説の佳作のようです。これもまだ読んでいないので、なんともいえぬ。
(2005.1.9)-1
トルストイ「文読む月日」を開く。ありがとう。おがみます。
(2005.1.9)-2
石牟礼道子をもう一つ。これらは氏の予感であり、おそらくは、ぼくはまだ見ないけれども、その具現が「不知火」なのだろう。

(海はまだ光り)
 人間の上を流れる時間のことも、地質学の時間のようにいつかは眺められる日が、くるのだろうか。水俣などから、神話的な世界がすっかり過ぎ去ったのちの世に。
 ――生きていた人びとの上にも、地表を風化させてゆくのと同じ時の流れが通って往った。この地のことは砂に埋もれ、かつての在り場所もわからない。わずかに、宗教史の研究家が、水俣という秘蹟の地を記している……
 そんな風に、わたしの生まれ替わりに似たのが書くだろう。人類がまだ居ればのことだけれども。
 大崎うざきが鼻の、磯の先の岩場によく歩いてゆく。自分の育った場所へ。行き帰りにいやでも水俣川川口の向うに広がるチッソの全景と、残渣の山を眺めねばならない。錯乱のような眩暈がいつも旧火葬場の上あたりでおきる。ここを通らなければ、育った場所へゆきつけないとはどういうことか。そしてここは、死人さんの煙が山を越えて立ちのぼっていたところなのだ。
 川口の向うを見まいとして、岬をまわる。昔は細い山道を、生い繁るヘゴ山をかいくぐって越えたところが海岸道路となっている。そこを通って二つ三つと岬をまわるのである。もと日窒水俣工場長、橋本彦七氏が水俣市長時代、失対事業のひとつにつくった海岸道路で、その頃からもう、昔日の渚の景観はうしなわれたが、かわりに、くるま道が出現した。
 岬が近づくたびに、胸がぎしりとするようなのは、ここらに来るときいつも生い繁る木の下影の宵闇で、うしろを振り返ればひょっとして、姿のみえないものたちが、ひたひた、ひたひた、ついて来はじめるからかもしれない。
 五月の終わりごろだから、ここらあたりは楊梅やまももの熟れ時なのだが、目がうすくなったせいで、楊梅の木の群落が探し出せない。ひょっとして、道路開通事業のときやら、環境庁の、国立水俣病センターが建てられた前後に、楊梅の木は伐られてしまったのかもしれない。それもだけれど、楊梅の木に囲まれていた山の神さまの祠が、いくら探しても、三つともなくなっているのはどうしたことか。
 湯の児温泉や、湯の児リハビリセンターにゆき来する車も、ある一刻をすぎると絶えてしまう。すると、幼ない頃の鬱蒼とした山の気配がおおいかぶさって来て、胸がねじれるような詩篇の時間にひきこまれる。たぶん祠を失って出歩きはじめた小さな神々が、木々の霊や、磯辺から揚ってくるものの怪たちとともに、まわりを歩いているにちがいない。
 水俣病三十年なのか。わたしにとっても患者たちにとっても、三十年ではない。けれどもそれを云い立てたところで、永さくらべをするつもりではないのだから、せんないことである。
 山の暗さにとりかこまれながら、昏れのこる海面の、わずかな光をあかりにして、みえない気配たちと歩く。歴史というものは、一世紀くらいの振幅を抱いて動いているということが実感される。
 それより何よりよくわかるのは、歴史の巨大な坩堝の中で、そのきしみ合うところに居合わせた者たちの、日々刻々の痛苦が、時の流れの秒針にほかならないということだ。生ま身の秒針たちが、世界という文字盤からはぎとられて、ここ蟻地獄の淵のようでもある不知火海に、こぼれ落ちてくる感じがして、そのせいで、夕方から夜に入ってゆく海が光るのだろうか。
 人類史の目盛りを一世紀ずつに区切るとするならば、ここらあたりはつねに、区切られることの不可能な、世紀と世紀の境目に当たるところなのかもしれないのである。なぜならば、自分を何のなにがしだと、名乗ることさえ羞じらい続けて来た、心情の風土であるからだ。たとえば近代と前近代とを、二つの価値に分ける考え方などがある。近代とは中央を意味してもいて、東京がその顔とされるが、こちらが進んでいるのだと、位階をつける無神経者がいるとする。そのようなとき、おおむねわが辺土は、下の位になって控えたい習性を持つ。
 このへりくだり精神は卑屈さではなく、世界に対する思念の深さによっている。辺土に呪縛されねばならぬ身の上であろうとも、いやそれであればなおさらに、至高の世界への思念は純化されて、ゆけない都が美しくみえてくる。その都に向かって出郷してゆく者が居れば、果たすことのできない自分の志をたくしてひそかに見送り、声なきはげましを惜しまない。出郷者たちが運よく出世でもすれば、わがことのほまれとするのだが、都会人となりおおせたものたちは、物蔭から見送り続けた辺土の心を解せない。血縁地縁のわずらいと切って捨て、そこからの解放をえて、ほっとするのかもわからない。
 田舎と都会の心のありようは、おおよそ百年くらい離間し、容易につながらぬ亀裂をつくったと云ってさしつかえなさそうである。この動向は、さきに村を出た知識人たちがヨーロッパに目を向け、高度成長期までに村々を出払った者たちが東京に目を向けて、Uターンしてくるまで、ひとつの流れをつくっていたと云ってもよい。知識人たちが村の選良であったのに対し、おおよそ一世紀あとから村を出た者らは、庶民であったのにも意味がある。離間と亀裂を、知識人と庶民の間のこととしてとらえてもよいのではあるまいか。双方の最後衛地、動かぬ海という原郷とは、文明にとって何なのであろうか。
 草深い村々の、未明の睡蓮の葉に乗る、朝露のような真情に囲まれていながら、チッソ幹部たちは、ついに地域社会の真情に気づかなかった。
 たぶん日本の近代的知性も、自分らが、村々の物蔭からひそかな志をたくされた者であることに気づかない。そのことは書物に記されなかったから。
 たぶん日本列島は、毒を呑んだ原郷の地点から、その痙攣によって真皮が剥がれ、ぐるりと裏返りつつあるのではあるまいか。すべての社会的諸現象は、そのことを証明しつつあるのではあるまいか。そのことは、ホモ・サピエンスが、文明的に野蛮帰りしたことの結果ととらえるべきかもしれない。たとえばあの類人猿たちの、種の分岐にかかわる問題でもあるのだろう。人間の内面に生じた功利主義と精神主義、あるいは宗教と科学の断絶とを、霊長類の研究テーマとしてとらえ直す人が出てくるのだろうか。しかしこういうことを、いくら研究したところで甲斐ないことに思われる。
 それよりもわたくしは、人間はなお荘厳である、と云いたかったのである。
 度外れた災厄に魅入られたために、この地は神話的な界域に入ったかにみえる。人びとは聖と俗との顔をくっきりと分け持ち、進行中の歴史的象徴世界に、どの人間も役割を持って生き死にしている。
 しかしここはなんとも時間が長すぎ、事柄が凝縮しすぎる。胎児性患者を産んだ母親のある者は、寝たきりのまま初潮を迎えた娘を残して死んだ。父親も患者で、寝たきりの娘を嫁御にしたと、村の人びとは囁きあう。畜生ばいと。オイディプス王の血縁はどこにでもいるのである。いやいや、むかし奥深い村々にあった構図を垣間見ただけなのだ。かつての村の日常が、ほとんどそのままの形で、水俣病のしがらみに取り憑いて浮上した。
 その父親と海辺の道で逢うことがある。変哲もない日常の顔で互いに挨拶をかわす。
「夕子ちゃんはどうしとりなさいますか」
「はあい、やっぱりなあ、いっちょも変わりませんとばい」
 実直な顔で父親は答える。わたしはもうずっとその家にゆかない。母親を見送ったあとは。
 もひとりの母親は舅を死なせ娘を死なせ、もひとりを看とり、自分も夫も病んでいる。病夫は、
「頭がだいぶ、おかしゅうなっとるもんなあ」と妻のことをいう。
 おかしくならずにいれるだろうか。彼女の人さまに対する慇懃さは変わらない。抱えきれない災厄に、首の上までひたされていた心と躰とを、彼女の方から、海の波に任せるように、すっかり任せてしまったようにみえる。漂ってゆくような目つきと足つきで、病院をいつの間にか抜け出すことがある。重なって波打つ海が、ひたひたと彼女を連れにくるにちがいない。
 人びとの多くは、長い災厄の時間に洗われながら、不思議に年をとらない。白髪になり、深い皺を額に刻みながらもなぜか年をとらないのである。長すぎる時間の濃度が、人びとの精神を凝縮させ昇華させるのかもしれない。
 そしてわたしは、「茂道もどうの栄子さん」から、しばしばあの秘蹟を授けられる。
 パンと聖水に相当するものは、魚と塩である。地の胎に生じた潮、その潮に生じた魚とをよく授かる。茂道の人びとと共に。彼女は復活への祈りを仏前で唱えもするが、もっと日常のさりげない時に、親愛をこめた冗談で祈ってくれる。茂道の人びとが、エロスのこもった彼女の冗談にふかく心を傾けている様子をみれば、彼女自身が、甦った人であることをよく知っているからと思われる。
 茂道だけでなくここらの共同体は、なにか希有のことがら、もちろん水俣病だが、しかしそれ以上のものに参画しつつあるのだ。
 彼女が苦痛の中で祈っている時、わたしは背後の海を見る。人々の記憶で織られている祭壇画のような、波の動く海の光を。
石牟礼道子

(2005.1.9)-3
離陸するイメージ。回転する単語たち。宙を舞う。宙を舞う。あるものははじけ、あるものは風景の裏側に飲み込まれ、あるものは膨張しつつ薄れ、掻き消える。ぼくはたぶん、話すべきことを持っている。という、いくつかの予感。第六次元にあって、そこから極めて淡い信号を送り続けている。ぼくはそれを信じようとする。すがろうという心根でいる。体は感じているのだ。もう、ぼくの感覚は信頼できない。もう、ぼくの感情は信用できない。何か他のもののうえに。他のもののうえに、立って歩くちからを。頬の筋肉を持ち上げるちからを。本能的に、自身の危機を察知した、黒く、多くの皺の入った体は、探しはじめている。ほとんど、盲目的に、手探りで。抗う必要があるのだ。どうしても。彼はいま、侵食されかかっている。影が光を侵すように。水蒸気が空中で、白く凝結するように。ぼくは人間ではない。という恐ろしいアイデア。では、そうでなければ、他の何であるというのか、と訊かれても答えることはできない。ただ、ぼくは人間ではない。というアイデア。それだけがはっきりとした輪郭と体重を有した意識として、迫りつつある。黒死病が、粘菌が、ヴィールスが、怨嗟を苦痛を凄惨を、圧倒的な食慾で平らげながら、西方からやって来る化け物のように迫りくるのを。それだけが、わかる。聖なる領域テリトリーに篭り、怯える虐殺されることを運命づけられた存在たちを、魔人はあざわらい、宣告する。壁で止めることのできぬ、神の音声をもって。それは真理だ。さあ、この扉を開けよ。抵抗者たちは、それぞれに思う。これは真理なのだろうか。ああ、この扉を開け放ってしまいたい。その向うに漂う、黒死病の霧は、我らを天界へと導く香気なのではなかろうか。頭を振り、その想念を振り払おうとする。そして、すがるべき、かすかな声を見つけ出そうとする。けれども、単語は宙を舞い、めいめいが散り散りに失せてゆく。正しき言葉はどれか。正しき声はどれか。救いはいずこ。ぼくは人間か。
(2005.1.10)-1
休暇は今日でおしまい。あと、もう少しだけプログラマとしての日々が残っている。今日は島尾敏雄を一篇だけ読む。島尾敏雄を読むのは、とてもむずかしい。未だにどう読んでいいのか、よくわからない。やっと作品集の半分まできたというところだ。いつも傍らに積んである本のうちの一冊は、島尾敏雄である。それから、「文読む月日」を一日分。E・キューブラー・ロス「死ぬ瞬間」は、主要な論説が終わったので、あとは流し読むことになるだろう。久しぶりに精神科医の書いた文章を読んだので、新鮮な印象があった。ロスの述べることは、大筋ではまったくそのとおりだと思う。ただ、これだけでは、病院のベッドから離れて、外へ出て行くことはできない。そのことは、主に序説の部分でいくつか見つかる違和感が物語っているように思われる。話をしただけで満たされるような事柄は、大きな問題ではないというのが、小説の立場かと思われる。いずれにしろ、原因と結果がはっきりとしている、このようなレポートを読むのは、たまには良いことである。少なくとも、それらは除外されてよいものなのだ、ということを思い出させてくれる。それから、CDをまた一枚開封する。Tortoise「TNT」。ジャケットがふざけた感じ(ノートの落描き)だったので、一時期、何を思ったか数枚買ってしまっていた、うるさいばかりの下手くそガチャガチャパンクかと思って、長くほったらかしになっていた。今日は休暇の最後なので、ひとつ処分してしまおうと思い、ほとんど期待しないで聴いてみたのだけれど、その予見は全く見当外れでした。あわてて、ネットで調べてみたところ、「シカゴ音響派」なる怪しげな一派を確立した佳作らしい。すごいよくできている。おかげでウラッハのクラリネットに戻れなくなる。やれやれ。
(2005.1.10)-2
もうタイムリミットなので、メモをしておくことにする。平石貴樹のフォークナーの論評で得た情報で大きなものは、ふたつある(技術的な部分については、もっとずっと多いけれど、それらはほとんど忘れられてしまった)「敗北主義」と「言語を信頼していなかったという事実」である。ともに、思いもよらない見解であった。というより、これまでぼくは、フォークナーをひとりの書き手として認識していなかったことがはっきりした、という方がより適切かも知れない。あんまり、人間だとは思っていなかった。どうも、どこからか小説が勝手に生まれてきて、それがウィリアム・フォークナーという名前を使って出版されているのだとでも思っていたらしい。写真を見ても、書いている姿を想い描くことができない作家というのは、フォークナーだけである。他の作家は、その想像が当っているか、外れているかは抜きにして(おそらく、全てが間違っているだろう)、ともかく、机に向かっている姿が思い描かれたが、フォークナーはうまくゆかない。彼が終生住みつき続けた丸太小屋の前で撮った写真をみても、そこに写っている男が、ジェファソンのオーナーとして、そこで暮す数千人の人間を統括(最も究極的な形での)をし続けた姿が思い浮かばないのである。その男を机の前に座らせることはできた。近くから切り出してきた木材の、比較的上等なものを継ぎ合わせ、鉋と鑢をかけ、ニスを塗ったばかに大きな机に、聖書と数冊の小説、ランプ、インク、ペン、紙(便箋)が、大きすぎるスペースを持て余すようにして、散らばっている。彼、フォークナーは、机を組んだ際に出た余剰な木材でできた、大きすぎる机には不釣合いに小さすぎ、ちびた、という印象を与える、背もたれの直角な椅子の前半分に腰かけて、手垢にまみれ、握りの部分が黒ずみ、一部変形しているようにすら見受けられる羽ペンを、それを握るには少しばかり大きすぎる、また無骨すぎると思われる右手でつかみ、便箋に向かっている。彼が書き付ける言葉を探しているあいだ、彼自身とその周辺のあらゆる事物は、微動だにせず、ただランプの芯が規則的に燃焼する焔の揺らぎにあわせて、ピク、ピク、と動いているが、それはほとんど観察不可能な、停止に耐えかねる時間の揺らぎともいうべきものに過ぎない。フォークナーは時間が止まっているときの人間があらわす深い呼吸をしながら、半分と少しだけ、青黒く埋められた便箋を睨んで、次の言葉を探している。そこまでは、ほとんど機械的に想い描くことができる。けれども、その便箋に書き付けられた言葉たちが、「響きと怒り」であり、「アブサロム!アブサロム!」であり、「バーベナの匂い」であり「赤い葉」であり、「ウォッシュ」であり「エミリーにバラを」であり、「寓話」であると、信じることができない。それらは、もっと、全く異なる過程を経て、この世にあらわれ出たもののように思えるのである。そして、それがいかなる作用によるものであるか、ぼくにはわからない。ただ、少なくとも、平石貴樹が指摘していない部分によるものだということが予感されているばかりである。そして、ぼくはそこへいたるための二つのキーワードを、平石の論文から得る。フォークナーの基底には、「敗北主義」が厳然と横たわっており、彼があのような、ほとんど「非合法」の文章を生み出したり、過剰としか思えないほどの豪壮な修飾で、彼の作品を埋め尽くしたり、非合法な形式によって小説を記したりした理由が、「言語そのものを信頼していなかった」ためであるとの認識を得る。そして、その知識(認識にまで至っているかどうかについては、甚だ心もとない)が、ようやく、フォークナーを一個の作家として認識させてくれる。彼があのように書いた(書かざるを得なかった)のは、それらのためだったのだ、と。
(2005.1.10)-3
どうでもいいことかもしれないが、いま見つけた
町田康のサイトはなかなかよい。本来ならば、こういった記述をここに記しているはずだったのである。ぼくは実はここでも畸形なのである。ちなみに、またまたどうでもいい、余計なお世話ではあるが、町田康を読んだことがないならば、ぜひ一読をお勧めする。彼の小説からは、いずれやってくれるであろう、という感じがする。ぼくは失敗作かもしれないけれども、彼ならば、といった心持ちになるのである。とにかく、誰かひとりがうまくゆけば、それでよい。そして、町田康はその連体の一人であるような気がする。彼にしてみれば、大きなお世話かもしれないけれども。
(2005.1.12)-1
このあいだ、スレイプニルを導入したばかりだけれど、ファイアーフォックスに移行する。イカすぜ。ここの設定変更は、明日以降ちょっとだけやるつもり。とりあえず、フォントが明朝体になったのと、フォームのスタイルが効かなくなった。
(2005.1.12)-2
明日はサンダーバードを入れよう。
(2005.1.13)-1
今日は、サンダーバードのインストールと、ファイアーフォックスのチューニング。テーマを変える。フォルダの中身を一気に開ける、真ん中ボタン(ホイールボタン)クリック機能を活用すべく、たぶん社会人になってからはじめて、まじめに、溜まったブックマークの整理をする。マウスジェスチャーもイカすぜ。
(2005.1.13)-2
明日はまた、サンダーバードのチューニング。


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