tell a graphic lie
I remember h2o.



(2005.3.1)-1
みつき、め。されど、わがことせは、いまだたたず。
(2005.3.1)-2
都市の無機質対人間どうしのふれあいの情緒、という構図は適切でない。それは基底にはならない。では、代わってその位置を占めるべき指向性はなにか。
(2005.3.1)-3
 男は何か別のものを探してきたらいいと思っていた。たとえば、都市と人間とを対極に置こうとする構図の枠の、その外へ出て眺めてみたらいいのではないか。都市と人間の外へ出てゆく。そして、振り返ってそれらを見る。すると、そこには何か別のものが見えるのではないか。
 おそらくこれは、都市に暮らす者にとって、極く基本的なあり方だろうと思われるが、都市と人間とを眺める場合に、男の視点の正面にあるものは、自身と妻とが暮らす公営マンションの下層部に位置する一室と、そして、十年来一日も欠かさず朝夕に顔をつき合わせている妻とであった。更に言えば、男にとって、ふたつは生活と呼ばれる漠然とした一種の概念に対して結び付けられる、実質を有した存在の総てといってもよかった。男の生活は極めて単調な習慣のみによって、ほとんど灰一色に塗りつぶされており、男はそれに気づく色覚をすらとうの昔に喪失していたのである。それでも、ほとんど奇跡的にではあるが、謂わば通俗的傍若さを以て、あらゆる論理を統制しているそうした指向性に対して、疑念、あるいは忌避感を抱き、漠然とではあるが、それに代わる別のものを模索していた男にとって、十分な距離を取り、それらから関係を途絶することは必要な措置であり、また自然な行為であるように思われた。もちろん、問題のこのような捉え方は、意志薄弱の男ならではのものであり、且つまた、実際にはこの程度の明確な意識化すらし得ないままに、男はことに及んだのであるが、とにかく、男がまだ妻と共に自身の所有する居住区域で寝起きしている時分に引きずって歩いていたのは、以上のような考えだった。どこにあっても、男の背後にずるずると引きずられているそれは、そうしているうちに徐々に黒ずんだ埃を溜め込んで膨らみ、重みを増していった。男自身は実際にそれを見ることはできなかったのだけれども、着実に重くなってゆく自身の足取りは感じていた。かくして、いつしか時は満ち、男は痙攣的に行動を起こすことになる。
 それは一種の高揚感という容を以て、男自身の感覚に顕れてきた。ときに当って、感情の薄い男にあってすら、「時は満ちた!いざ、約束の地へ」と低く声に出して呟かせるほどであった。男は、その刺戟に満ちた言葉をいくども繰り返し、そうすることによって、今まさに、自分は未だ他の誰も見ない意識の最果てへと至りつつあるのだという錯覚、あるいは錯覚という名の真実を見るのだった。
(2005.3.2)-1
 男には、おそらく物心ついたばかりの頃から抱いていたに違いない――なぜなら、これまでの男の生涯には、そのような疑問を提示させるに足る、積極的なきっかけとなる出来事は、これまで何一つ無かった――或る尊大な疑問があった。その尊大さはこれも、おそらく男の生得のものであったに違いない、無邪気な諦念――ただ、面倒くさいという――によるものであったが、この場合の尊大さは、疑問の内容についてばかりではなく、男の疑問に対する姿勢に対してもあてはまるのだった。すなわち、男はおおよそ解答の期待できないその疑問に対して、相応しい態度と処遇を以て接したのである。男は、最初からその疑問に確固たる答えなどは求めず、疑問を疑問のままに放置した。しかし、それだからといって、完全に無関心であったというわけではない。むしろ、疑問のまま横たわり続けることを好んでいた。折に触れて――折とは、しばしば、極まった退屈を謂うのであるが――男はこの問題を念頭に置き、はじめから検討してみた。いつもはじめからするのだから、その作業の深まりには一定の限界があり、そしてまた、ほとんど常に、その過程は前回のそれとまったく同じものであったが、男の気質と姿勢は、それをむしろ潔しとしていた。男はいつも、問題が以前にも――おそらく昨日も――検討され、ほとんど何の成果も得られはしなかったことを、完全に考慮の外に置き、ただ、その疑問が、その尊大さのゆえに有している、一種の重大さという容貌のために、他のあらゆる瑣末な悩みよりも率先して、検討されるに価するテーマであるとみなして――実際には、それが以前も検討されているものであり、且つ、具体的解答を期待すべくもないものでしかなく、従って、検討される価などというものは、わずかですら無かったのであるが――その無益な、想像の外に出ない、それゆえに決定的に気楽な思索に耽るのだった。
(2005.3.3)-1
 男の尊大な疑問とは、シニスム的な感傷のことであったが、その発露が疑問というかたちを採っている点が、活力の薄い男にはいかにも似つかわしかった。男は、疑問の内容そのものと同じか、それ以上に投げやりな態度を以て、それを口にし、その後かならず脣をゆがめて、歯を白く僅かにのぞかせるのが常であった。男は、「わからない」と常に言うのだった。「なぜ生きているのかわからない。なぜ生き続けなければならないのかもわからない」アイキャントアンダースタンド。ワッダズミーン。
(2005.3.4)-1
本日晴れてお役御免。我、自らを祝せり。
(2005.3.4)-2
明日は、手続き関係の洗い出しをして、明後日から部屋探し、動き出します。プータロウの日々がやってくるわけです。本を読み、感想を書きましょう。そのうちの幾つかについては、お返事の小説を書きましょう。よく街を歩き、景色を人びとを見たいように見つめましょう。ぼくの実体と、ぼくの記憶、ぼくの断絶、ぼくの自殺という事柄に関して、いくつか提言を示し、自らの感覚を観察することによって、それを検証しましょう。それは小説になりますか。それは小説ですか。問いましょう。
(2005.3.10)-1
世界はくるくるまわるから。
(2005.3.11)-1
基本的に、書く速度は追いつかない。まして、それを少しまともな風にしようという意識を持っているヒマなど、とてもない。それで、何も書かない、ということになっている。ぼくの頭のなかは、楽しい想像でいっぱいで、それが実際に可能かどうかや、ぼく自身にそれをするだけの能力の持ち合わせがあるかどうかなんてことは、ぜんぜん問題になるヒマがない。ぼくにはそれをあらわす小説が書けないのだとしても、きっとだれかがぼくの思ってもみなかったような、すばらしいかたちで、それを仕上げてくれることだろうという、楽しい確信がある。それは、もう既にそこにあり、それをだれが仕上げるかなんて、大した問題じゃない。仕上がればいいのだ。きっと、それはとてもよいものだろう。ぼくも、それを仕上げただれかも、ともに喜びを(彼の方が、より大きなものではあろうけれども)感ずることができるだろう。だって、それは出てきたのだから、祝福を受ける権利がある。共に祝福を。それで十分じゃないか。
(2005.3.11)-2
といいながらも、時間があまりないので、できるだけ、作業しようとする。来週は、後片付けのために、出社しなければならないのだ。
(2005.3.11)-3
小説自体が目的なのか、小説自体は道具としてあるのか、という点に関しては、依然曖昧なままである。ぼくは、まだ、ぼくは小説を書く、ということに対して疑問を持たないことに決めただけで(この言い方は、ぼくには小説が書ける、ということを前提にしているわけだが)、そのことが、小説自体を目ざすことをいっているのか、それとも他の何かのために小説を書こうとしているのかは、わからない。小説自体を目ざす、というのは、非常にエレガントな立場だと思うのだが、そういうことを言いながら小説を書いていた作家がいたというのは、あまり聞かない。でも、これはただ、単にぼくが作家のノートをあまり見ていないというだけのことなのかもしれない。
(2005.3.11)-4
ひとつ付け加えておくべきことを思い出した。小説に対するこのようなとらえ方は、小説を書くこと自体は、他の(つまり、小説以外の)要因によって強制されることはない、ということを前提としている。生活のために、小説を書くというのは、基本的にありえない。なぜなら、小説(少なくとも、ぼくのやるそれ)はペイしない。そして、ぼくは一般的にいわれるような、かなり大きな範疇としての小説というのには、ほとんどこだわりは無く、ただ、ぼく自身の思うかたちによる小説にだけ、ぼく自身の持つ最も大きな関心を示す。そのほかについては、それが小説と呼ばれているものであろうが、そうでないものだろうが、さして変わりない。したがって、ぼくはそれを書こうとすること以外のことを、何かの要請によって(それは、ほとんどの場合、生活費を稼ぐ必要があるということだが)課せられる場合、無理に一般的にいわれるような小説というジャンルにこだわる必要はない。その程度の意味では、プログラミングも十分に面白いものであり、また、その他の職業も、ぼく自身の適正にあわせて(ぼくには、営業マンやサービス業はあまり向かない。その他の単純労働は、わからない)、なるようになるであろう。しかし、それにしても、大学の講師というのは、なんと魅力的な職業であることよ。
(2005.3.11)-5
問題はむしろ、「ぼくのする小説」からの要求によって、生活費の欠如を容認せざるを得ない、という事態である。ひらたく、また表層的にいえば、書くのに忙しくて、ほかの事まで手がまわらない、というわけである。ただ、このような場合、実際には、何らかの問題のすり替えが起こっているために、そうなっていることが多いように思われる。即ち、現実と向き合い、問題を解決しようとする努力を怠ることによって得られるリソースを現在とりかかっている作品へ注ごうとするものである。これは、作家という人種の基本的特性で、かなり多くの佳作たちが、そうしたすり替えの成果であるように思える。具体例については、今さらあげるのも馬鹿馬鹿しいが、直接にそうとわかるものだけでも、太宰の全作品、山頭火の全作品、葛西善蔵の全作品、これは生活費のためではないが、島尾敏雄の夫婦生活を描いた一連の作品等々、枚挙にいとまがない。一昨日読んだガルシア・マルケスの「大佐に手紙は来ない」は、一年間収入の途を閉ざされていたあいだに、十一回の書き直しのすえに仕上げられたものだそうであるが、おそらく、この内容と完成度からいって、その間、ガルシア・マルケスは、自身の生活状態の改善について、一切の積極的打開策の行使を執っていない。ジョイスのフィネガンズ・ウェイクもまた、それを書いているあいだが、現実生活の軋轢から逃れることのできる唯一の時間であったという。したがって、このすり替えは、小説を書くという観点からみるとき、非常に歓迎すべき事態である(そして、実生活者という観点から見ると、完全に破綻していたり、気が狂っているということになる)もっと積極的にいえば、このすり替えこそが、よい小説を作るのである。その根拠は極めて単純で、そこには、より多くの労力が込められている、というだけのことである。あるひとつの仕事のかたまり(作家の場合は、一本、あるいは一連の小説)に対して、より多くの労力をかけることのできるよう、あらゆる手を尽くすことは、仕事をする者の善意としては、極めて当然のことである。正しいのは、よりよい小説を書くことであり、したがって、いかにしてよりよくするかは、常に、作家の最大の関心事であり続け、その意味からいえば、すり替えを止めさせる理由は存在し得ない。それがやってきたとき、自覚の有無はともかく、作家は職業的、あるいは人種的な本能からその到来を喜び、できるだけそこに留まろうとする(一生、そこに居ようとするものすらいる)。そして、それは正しい。このすり替えは、逃避あるいは敗北と呼んでもよい。
(2005.3.11)-6
ぼく自身もまた、だいたいそのようなことを想い描いて、仕事を辞めるという暴挙に及んだわけであるけれども、それが他の優秀な作家たちのケースと同様プラスに働くという保証は存在しない。基本的に、このすり替えは、その作品を作るために現在の自身が持ち合わせている、他のすべてのリソースを使い切ったあとで、それを更に、自分の能力を越えたものへと、半ば無理矢理に、乗せようとする際に採られる、謂わば非常手段といった類のものであり、また、作品自体が、その負荷に耐えられる構造を有していることが前提となる。もともと、可能性のないところには、何も入らない。したがって、実際には、そのすり替えを込める際に要求される、作品の最低限のスペックというものが存在するのだが、ぼく自身の着想がそれを満たしているかどうかは、依然として疑わしい。(ちなみに、これを保証するための一つの手段として、先ほども触れた、「常に」すり替えを起こしておく、という方法論があり、実際にそれを実行している方々がいらっしゃるわけだけれども、これを意識的にやろうとするのは、ほとんど不可能といってよく、生得の性質が必要となることが、それらの方々の事例からも、大筋で事実であろうと結論づけされそうである)
(2005.3.11)-7
これらの事情から、すなわち、ぼくの小説はペイしない、という点と、失職がもたらすであろうことが期待されるすり替えが、ぼくの書く小説をよりよくするだけの構造を、ぼくが用意する能力を未だ取得できずにいるかもしれない、という点から、ぼくの退職は、ぼくの夢想していたような結果には至らず、いたずらに、既得の権益(いい単語が思いつかない。なんかなかったけ?)を放棄するに過ぎない、すなわち、本物のバカである、という可能性に対して、完全に反駁することはできない。ぼくはただ、「そう、ぼくはバカかもしれない。けれども、その証明は実際にそうしてみるより他に、方法はない」というコメントを出し、そして、「本物のバカでもいいや。ただ、今の状態よりはリコウだ」と内心思っている、ということになる。この内心の開き直り気味の思いに対する反証を、ぼくは三年間探し続けたわけだが、見つかるのはそれを補強する材料ばかりであった。それはまた、もう少し感覚的で、わかりいいもの言いによっても言い表わされる。すなわち、「イヤなことはしなくていいんだ」これは、ぼくの行動に眉をしかめさせる、生活の保障を何よりも優先させる心情と同義なのであるが、ここではいちいち説明しない。ヘンリー・ミラーを読め。
(2005.3.11)-8
さて、あらためて、冒頭のテーマに戻る。小説自体が目的なのか、小説自体は道具としてあるのか。そして、そもそも、それを明確にする必要があるのか。小説の持っている性質や、それを保証する理屈について、ぼくはほとんど知識を持たないので(最近、ようやく、フォークナーについての論文や、デイヴィッド・ロッジの「小説の技巧」によって、そういった事柄への知識をわずかながら得つつあるけれども)、確かなところはいえないのだが、主に一般向けに発せられている作家たちの言葉を見る限りでは、この問いかけに対する明確な回答は、あまり見当たらない。
(2005.3.11)-9
いま、ぼくは、小説自体が目的、という言い方をしているけれども、これはもう少し哲学的執拗さ(苦笑)をもって言う必要があるかもしれない。すなわち、小説自体を目的とするということは、小説というものが、確固として存在し、そして、それが存在する限りにおいては、つまり、小説が小説であるかぎりは、それ自体が目的となることができる、という立場のことで、例えば、小説を書くのが楽しくてしょうがない、というのは、これにあたらない。それはぼくの見方からいけば、小説は自身の充実感を得るための道具である、ということである。そうした小説と私、という構図を持ち出し続けるかぎりは、ほとんどすべてのアプローチが、後者、すなわち、小説は道具であるということになるのではないかと思う。ぼくがいいたいのは、そういったことではなく、小説から小説以外の見返りを得ようとは思わない(なぜなら、それ自体が目的であるから)、という立場のことである。良い作品を読んだり、書いたりする喜びというのは、小説そのものとは何ら関係がない。
(2005.3.11)-10
どうして、ぼくがこのような立場にこだわるのかといえば、ぼく自身が、さきの例でいえば、小説から得られる喜びというものに、なんら意義を見出していないからである。喜んで、それで、何だというのか。それは、苦しんだり、悲しんだりすることと、何かちがいがあるのか。苦しみによっても、文が書ける環境にある限りは、小説は書けるであろう。喜びも、感情の動きのひとつに過ぎず、それだから小説を書く、というのは、非常に不安定な土台でしかないように思われるのである。それを保証するのは、これまでもずっとそうだった(小説を書くことに喜びを感じ続けてきた)から、これからもそうだろう、という経験に基づいた予測であり、実際は明日にでもそれに飽きることができる、という選択肢を完全に棄却できない。それは、小説を書く根拠として不十分である。そんなものなら、無理に(ペイしないのに)する必要は無い。
(2005.3.11)-11
そうではなく、つまり、ぼくの状態に依存するのではなく、小説はそれ自体でぼくの目的となっているべきである。それが、小説以外の理由を持たない、ということであり、先ほど述べたようなすり替えを正当化しうる根拠となるのではないかと思っている。世界は小説のために、すなわち、世界はそれが記述されるために存在している、と考えるのはとても楽しい。エレガントだと思う。だから、できることなら、ぼくは小説自体を目的としたい。
(2005.3.11)-12
しかし、指示代名詞が多い。それ、その、そう、ばっかり言っている。英文直訳的である。
(2005.3.11)-13
小説それ自体については、そんなところだ。次は、ぼく自身が何を対象として小説を書くのかという点に移ろう。小説は、いずれきっと全てを書きつくしてしまうだろうけれども、ぼく一人でそれをするわけではない。ぼくは、あくまで、その一翼を担う(おうとしている)だけのことで、それだから、ぼくは自分の領分を見つけて、そこから小説を切り出してゆくことになる。この構図自体は、別に小説特有のものではなくて、ある領域に関わろうとする者が、必ずしなければならない、ごくありふれた操作だ。ただ、小説の場合は、(それが世界を記述するものだから)小説をすると決まっただけでは、ほとんど何も決まっていないに等しい。ただ、最も基本となる作業が、文字を書くことになったというだけのことである。つまり、次は、何を書くかを決めなければならない。
(2005.3.11)-14
細かい過程は省くことにして、少なくとも現在の、ぼくの主な関心は、ごく初歩的、基本的な、低レベルの領域におけるコミュニケーションであることがはっきりしてきた。そうだな、ここ数日、とりあえず使ってきた、この「コミュニケーション」という言葉の意味するところを、まずは、もう少しはっきりさせることをしなければならないだろう。
(2005.3.11)-15
ぼくは、その基底として、コミュニケーションの不可能性という、何十年前にメジャーだったのか忘れてしまったが、伝統的な態度を採用している。つまり、人間が二人居て、そこに「相通」がありえるか、というとき、それはありえない、と答える。たぶん、それがトレンドだった頃は、その不可能性を実証する(小説における実証というのは、常に特異点の提示をいうのであるが)作業に主なウェイトがあったのだろうけれども(なぜなら、それまでは、会話の不可能性について疑うなんてことはなかったという点が、それをトレンドにまでしたのだから)、ぼくの場合はむしろそれを前提に置き、さらには、それが特異点ではなく、むしろ自然の状態なのだという立場から入る。つまり、会話(および、一般的な人間同士の触れ合いのすべて)は、不可能か、可能であっても、非常に難しく、大きな負荷を伴うものだという態度である。そして、その根底にあるのは、自身の疎外感であることも、どうやら、わかってきた。そして、これは、小説を書こうとしているものにとっては、非常に勇気づけられる要素である。このような態度によって、コミュニケーションを捉えた場合、まず行うべきは、接触の定義であり、次に、如何にして接触を持つかについてが問題となり、接触の継続もまた問題になり、そのあとには、相通の定義があり、そして、接触が相通へと至る過程がある。たぶん、ぼくはこのあたりまでを取り扱うことなる。そして、また、人間同士はコミュニケーションを取り合うものだという点についても、疑問を投げかけてゆく。ぼくはそんなことを強制された覚えはないし、される覚えもない。そして、昔はそうだったかも知れないけれども、今は、と言う。
(2005.3.11)-16
ちょっと、ブレイク。たとえば、h2oという軟体動物をどう取り扱い、そのほとんど不可解な挙動とどう折り合いをつけてゆくか、という課題に対して、ぼくと彼とは、非常に親密に、問題意識を共有することができると思う。この非常に不可解で、頼りないくせに確固たる質量を有しており、ほとんど無限のかたちのパターンに自ら変化することに対して、何の抵抗も示さない、永遠につかみどころない、けれども、そのくせ、自分が相手を抱擁するのだという自負を頑として譲ろうとしない、大変に頑迷固陋で、それゆえに理性逸脱的に愛おしいスライムのような、体温と鼓動とを有した生物に対して、ほとんど不可避で限定的な、愛情という、非常に薄い皮膚しか持たない自身の精神の或る部分を晒して、それを包もうとする、せざるをえない気分にさせられてしまう存在を、どう取り扱うかという、実に複雑で、そして、結構楽しい問題について、大変に話しがあうだろう、という予感がする。ぼくらは、同じ、一人の女性に心を奪われており、如何にしてそれを満足させるのかという難題を、ともに解いてゆこうとしている。
(2005.3.12)-1
休憩とは、ほとんどの場合、手詰まりのことを言う。
(2005.3.12)-2
 男の年齢は、37から39。おそらく、39。職業、通信系の企業に所属するメンテナンスエンジニアか、あるいは中程度の規模の企業に勤務する、ITに近い事務系の職員。とにかく、企業内の情報機器の操作・管理にある程度の知識を持っている。趣味は特に無し。読書、映画を人並み程度、それからインターネット。
 妻は、34から36。自宅近くの建築事務所に事務員としてパート勤務。趣味は、テレビドラマ、キルト製作を多少。そして、こちらも、インターネット。ウェブ上の個人サイトに日記やキルトに関する小コラム等を掲載しており、これを通じての交友関係がいくらか存在する。(あるいは、自身のサイトのblogへの移行を検討しているところかも知れない)
 子供はいない。おそらく、男は勃起障害。男はそれを認識していない。妻は、その可能性を意識している。
 結婚生活は、原作と同じく、一〇年程度。

(2005.3.12)-3
 男の性格は原作と同じく、
「精神はいつも長い、そこはかとない思索に耽っていて、当て所もなく模索する傾向があり、目的を達成する活力に欠けていた。」「第一は、彼の不活発な精神に錆ついてしまっていた、ある種の無言の利己主義。次は、ある種の奇妙な虚栄心。これは彼につきまとう最も安定性のない属性だったが。次には、技巧に走ろうとする気質。もっともこの気質が、暴露する値打ちもないケチな秘密をひた隠しに隠そうとする効果以上の積極的効果を生んだためしはついぞなかったのだが。そして最後に、この善人に時折見いだされる、「ちっぽけな不思議さ」と彼女が呼んだもの。この後者の特性は定義不能であり、あるいは非存在だったのだろう。」

(2005.3.12)-4
 男は、これまでの結婚生活の長さについての、漠然とした意識(ひっかかりのようなもの)を、何かのきっかけで持つようになっている(あるいは、それらしき契機として挙げられる出来事は全く見当たらないかも知れない)。あるとき、男がその意識をもてあそんでいる際に、それは「結婚一〇周年のプレゼント」という観念と結びつく。その後しばらくして、「結婚一〇周年のプレゼント」として、「男の韜晦」というアイデアが男に与えられる。男は、その考えに興奮し、その後数日間にわたり、熱心にそれを検討するが、やがて飽きられ、忘れられる(数頁のメモ等が男のPCに残る)。
 結婚一〇周年は、特に何ごともなく、連休を利用した数日間の記念の国内旅行だけに終わる。ただ、男の漠然とした意識は、相変わらず男の中に居座り続けている。
 その後しばらく(数ヶ月程度)して、男は妻の男に隠れて頻繁に閲覧しており、また、妻自身も参加しているサイトを発見する。その内容は、結婚生活の悩みや男や一般的な夫に対する不満を扱うサイトで、男は妻のハンドルネームによる投稿記事を読む。内容自体はさしたるものではないのだが、ただ、妻の心情吐露のなかから、長いあいだある種の倦怠感を抱え続けていることを、男は感じとる。男の内部で、自身の漠然とした意識と、以前作成した「結婚一〇周年プレゼント」の計画案とが結びつく。それは、暗い皮肉というよりもむしろ、いたずらによって妻の倦怠の、気晴らしを計ってやろうという意図からの行動であるように、そのときの男自身には感じられる。男はその時点で、その計画の実行を、ほぼ、決定する。
 数日後の夕食時に、男は妻に三四日程度の「出張」に出なければならないことを話す。妻は、男の職が、そのような出張が発生するようなものではないことを知っているので、多少不審に思うが、特にそれ以上突き詰めようとは思わない。二日後、男は予定どおり「出張」に出かけ、そのまま失踪する。

(2005.3.12)-5
 男の計画は、原作のウェークフィールドとほぼ同じで、隣接する区にウィークリーマンションを偽名で借り、一週間から二週間程度、そこに逗留することによって、行方をくらますことだった。ただ、妻の監視について、日課的に自宅と妻とを高台の公園から双眼鏡を用いて眺めるというほかに、いくつかの現代的な手法を、男は採用した。すなわち、数種のスパイウェアによる妻のPCの監視と、携帯およびPCからの電子メールの監視、ネット上での偽名による妻との接触。
(2005.3.12)-6
うーん、面白くない。ぜんぜん、面白くない。
(2005.3.12)-7
そうそう、ひとつ書いておかなければならない。よい小説にとって、昂揚を伴わないものを含んだ、あらゆる種類の感動というのは、必須ではない。それが間違いなくよい小説であるのならば(それを保証することは、そんなに簡単ではないが、また、そんなに難しいものでもない)、それは読者を必要としない。保坂和志が、小説はそれが読まれているあいだにだけ存在する、という非常に美しい見方を教えてくれたけれども、ぼくはそれをもうちょっと押し進めてしまおうと思う。すなわち、かつて、その意味において、一度でも存在したことのある小説は、それがただの一度、すなわち、それが書かれているときだけであったとしても、その存在(と言いえなければ、その価値)は無くなることはない。なぜならば、それはもう既に存在したのであり、もう読まれることが不可能になって(すなわち、消失してしまって)いたとしても、そのことは小説自体をいささかも損なうことはない。
(2005.3.12)-8
うーん、なんという原理主義的な発想だろう。
(2005.3.13)-1
興味深い小説そのものよりも、それを書いた人間が、なぜそれを書いたのか、ほかのあらゆる可能性ではなく、何ゆえにその小説だったのか、についてのほうに依然として興味がある。なぜ、書き手は、他のあらゆる題材ではなく、それを取り出したのか、他のあらゆる手法ではなく、その書き方を選んだのか。それは、書き手本人の世界の受けとめ方といったものへとつながってゆき、その先には、書き手にとっての小説というものがあり、さらには、小説そのものとは何なのかという、はじめの問いかけがある。
(2005.3.13)-2
それは、この「書き手」という部分を、「小説の主人公」に置きかえることによって、ぼくの書く小説の内容についての記述になる。すなわち、
(2005.3.13)-3
興味深い出来事そのものよりも、それをした主人公が、なぜそれをしたのか、ほかのあらゆる可能性ではなく、何ゆえにその行為だったのか、についてのほうに依然として(おそらく永久に)興味がある。なぜ、主人公は、他のあらゆる行動ではなく、その行動を採ったのか、他のあらゆる段取り、手順ではなく、そのやり方を選んだのか。この見方を採るとき、小説は主人公本人の世界の受けとめ方についての記述にならざるを得ず、その先には、その主人公を記述する作家と、記述対象である主人公との関係性についてのはっきりとした指向性をともなった意識があり、さらには、結局のところ、それは作家自身にとっての小説というテーマへの試みへとつながってゆくのである。
(2005.3.13)-4
 少し前に読んだ、岩波文庫赤の、坂下昇編訳「ホーソーン短篇小説集」(以下、引用はすべてここから)をぼくは思い出す。そのなかのひとつに、「ウェークフィールド」という十数頁の、初期の作に分類される一篇――表題でもある「ウェークフィールド」という名前の男が、永い間、自分の妻からゆくえを暗ませるという事件を、軽妙な語り口でつづった、一種のルポ形式の小説――がある。作品冒頭の記述によれば、これをものした作家ナサニエル・ホーソーンは、この事例を「夫婦関係不履行の事案として、記録に残る最悪のものだとは到底いえないにしても、おそらくは最も不思議な事例であることに変わりはないだろう。のみならず、人間の奇癖悪癖も数々あるなかで、驚くべき点にかけては、いずれ劣らぬ奇抜な出来心のなせる事件」であるとし、その梗概を簡明に書き記している。「婚姻を契った二人はロンドンに住んでいた。ある日、男は旅に出ると称して自分の家のすぐ隣りの街に貸間をとると、そこから、妻にも友人にも消息を断ち、二〇年以上もの間、そのまま住んでいたのだが、この自己配流を正当化する理由のひとかけらだってなかったのである。この期間、彼は毎日のように、自分の家を眺めていたし、同じくらいの頻度でうち棄てられた人妻、ウェークフィールド夫人を見ていたのである。こうして自分の婚姻の喜びに大きな終止符を打ったのち――もはや彼の死は確実と判定され、家屋敷も整理され、彼の名は人びとの記憶から抹消され、彼の妻は、遠い遠い昔に、斜陽の寡婦暮らしの日々に諦めきったころになって、彼がある夕方、まるで一日の留守のあとみたいに、物静かに家に入ってくると、そのまま死ぬまで最愛の夫として暮しつづけたのである。」作家によれば、以上がこの事件(として与えられている小説の素材)の顛末すべてである。短篇「ウェークフィールド」は、この小事件に非常なる興味をそそられた、作家ホーソーンと、それから、その代行者として作中の随所にあらわれる、どこかの地方新聞か小さなゴシップ雑誌に雇われているらしい、「僕」という一人称を識別子として与えられた、無名のライターとが、事件の細部について、奔放に溢れ出す空想を、その情熱の趣くままに書き下した傑作である。
 作家は、この小事件になみなみならぬ興味を示し、ついには一篇の作品に仕立てるほどであったのだが、作家の代弁者たる無名ライターの「僕」は、次のような熱弁をもって、その興味を作中から読者に訴えかける。「この事件は、一風変わった点では最も純粋で、他に類例がなく、恐らくは二度と再現されることもないだろうが、僕が思うに、ひろく人類の共感に訴えかけるところがあるのではないか。僕らひとりひとりが、自分はそんな愚かなことをするもんか、と心では知っていながら、どこかで誰かがやるかも知れないな、とは感じているのだから。」と、口角泡飛ばす様が浮かんできそうなほどの熱烈な弁舌をふるい、そのあげく、つい勢いあまったか、「僕らがそれを考えるのに費やす時間をちっとも惜しいとは思わない。もし読者がお望みならば、自分で考察してみられよ。」と、読者にまで、夕食後の団欒や、休日の午後のひとときを、自分と同じ作業に費やすよう誘いかけるのである。
(2005.3.13)-5
さて、どうだろう。これをもって、ぼく自身による「ウェークフィールド」の実質的な開始をみたことになるわけなのだが。ホーソーン短篇の傑作「ウェークフィールド」から、ぼくの得た着想は、だいたい三つあるようである。ひとつは、いま上で開始されたような、「ウェークフィールド」を書き下す作家ホーソーンを、彼の用いた手法と同じものによってフォーカスしてゆくもの。次は、昨日書いたような「ウェークフィールド」の物語(これ以上短くは言い表わせない)を、現代の東京に置きかえてみようとする試み。そして、最後は、最も難しくて、最も曖昧模糊としているアイデアである、「ウェークフィールド」を書こうとするぼく自身について、自分自身の過去からその立証を得ようとする(つまり、ポール・オースター「孤独の発明」や、太宰の「晩年」の約半数を占める諸作品)ような、具体的皮膚感を伴った形式の三つ。ぼくとしては、基本的に、最も根源的なテーマである、三つ目を意識しながら、残り二つの可能性を探ってゆくことになるわけだが、今のところ、それが具体的成果を伴うものであるか否かについては、態度を保留せざるを得ない。ぼくが十分に成熟することができれば(つまり、現時点の能力では、まず無理なのであるが)、それは確かに、決して不可能なことではないはずなのだが、そうなる保証は、とりあえず見当たらない。ただ、ぼく自身にはそうなろうとする意欲がある、というに留まる。ぼく自身は、この傑作短篇に限りない可能性と興味を見出すけれども、それがきちんとした成果となってあらわれるか否かについては、また別の問題である。ぼく自身は、ただ、上手になろうと思っています、としか、今のところはいえず、その成算にも、実際のところ乏しい。ぼくはただ、小説は無意味では、無価値ではない、ということを確信しているだけの者で、それが、そのまま、無意味ではない、無価値ではない、小説を書ける者であることを意味しはしない。ただ、現時点でのぼくに言えることといえば、ぼく自身にこのような一種異常な興味を引き起こさせるに至った、「ウェークフィールド」という小品を書き記した、ナサニエル・ホーソーンに対して、限りない尊敬と、彼との対話の希望を持っているという、非常に実際的な状態の事実のみである。


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