Uluru 物語 
(1)きっかけ

1968年。当時私達は20から22歳の学生。

このプランを思い立ち、準備を進めていたのは大学2年生の終わりから3年生にかけての、まさに青春真っ盛りの頃だった。一橋大学自動車部。学生時代の思い出の大半はそこにあった。

我が一橋大学自動車部は創部当時の1858年〜1959年に、石原慎太郎氏を隊長としてスクーター5台による南米遠征を敢行していた。
新しく執行部になるにあたって「我々も海外遠征をやろう。南米の次はどこだ。いまさら北アメリカ、ヨーロッパでもないなあ。アフリカはちょっとなあ。日本との関係で言えばオーストラリアだろう。一周しようか東半周か。8の字に回るか。」などと夢を語り合い、夢の実現を目指して行動を起こしていった。
一橋の学生らしくアカデミックに、まずはオーストラリアについての理解を深めるべくゼミを開いた。指導教官は山澤逸平専任講師(当時)。どういう経緯で先生にお願いしたのかは忘れてしまったが、恐らく大学との交渉の中で、オーストラリア遠征を大学として認める条件として、大学側の交渉窓口である学生部長蓼沼助教授(当時。今は故人となられた。)からプライベートゼミを行うことが出され、オーストラリアなら小島清教授に相談せよということになり、さらに小島教授から推薦されたのだと思う。
そして、山澤先生から当時オーストラリア政府から派遣されて一橋に留学していたブルース・パイパー君を紹介され一緒にゼミを始めることとなった。もちろん使用言語は英語。

 当時、時代は大きく動いていた。ベトナム戦争の末期で、全米から全世界でベトナム反戦運動が起きていた。そして東大紛争・封鎖をはじめとする大学紛争は全国の大学に広がって行った。時代の波は都心から遠く離れた国立キャンパスでも例外ではなく、かなり遅れて始まり、そして結果としてはあっけなく終わったものの、その中にあって我々の遠征計画も頓挫した。

1970年、私たち11名のうち1名は大学に残り、他の10名は卒業した。就職先は、自動車部らしく、自動車会社、石油会社をはじめ、総合商社、繊維会社、百貨店などであった。
いざ卒業すると皆忙しく、なかなか会う機会も減ってしまった。
大学院に進学した1名が2年後に亡くなり、しばらくして昭和63年にもう一人仲間を失うことになる。
悲しいことだが、そのたびに彼らが、残った我々を再会させてくれた。

 その後の日本経済は、ニクソンショックやオイルショック、バブル経済の崩壊などの試練はあったものの、その都度切り抜けて今日に至っている。そして、我々もその真っ只中で企業戦士として働いてきた。
それぞれ家庭も持ち、子供にも恵まれ、定年ももうすぐという頃、如水会館で定期的に集まるようになった。
この間30数年が経っていた。しかし、皆の気持ちの中に、喉にささった小骨のように何か引っ掛かるものがあった。

我々が還暦を迎えるようになった2007年初め、いつもの集まりの時に「おい。そろそろオーストラリアさぁ、行ってみないか?」という声が上がった。どことなく語尾が上がる独特のしゃべり方は、昭和63年に亡くなったA君の栃木訛りが今も我々の中に残っているものだった。
続く
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