Uluru 物語 
(12)土岐君のこと

 
自動車部の同期の仲間に土岐君がいた。
名前は「立」と書いて「りゅう」と呼ぶ。京都府の舞鶴市出身だった。
お姉さんばかりの末っ子長男で、目がクリクリッとしてまつげが長くとてもハンサム。学生時代メチャッメチャもてた。
もてたのは容姿のせいばかりではなく、気持ちがとても優しく、京都弁の話し方がとにかく優雅で女心を誘ったせいもあると思う。一緒にいて彼だけがもててもジェラシーは感じなかった。そのくらい抜きん出ていた。

 1970年3月。我々同期のうち10人は皆就職したが彼だけは急に大学に残り、司法試験を目指すことになった。
4年生の時には一応就職活動も行っており、スーパーのダイエーを受けた所、下宿先だったか実家だったかは確かではないが、当時の中内社長が直接説得に来られたという話も残っている。このことは「鈴木守衛長」のところでも述べた。
 その彼が、我々が卒業して2年目頃に突然亡くなってしまった。交通事故だった。
親族のお葬式の帰り、お母様を助手席に乗せて運転中、カーブでセンターラインをはみ出してきた対向車と衝突した。とっさに母親をかばったのではないかと推測する。
私達はみんなで告別式に参列するため舞鶴に行った。
うろ覚えの記憶では、舞鶴はエキゾティックな建物が多く、道路がとても広いい割には人通りが少ないという印象だった。

 それから40年弱たった。
遠征が実現に近づけば近づくほど、彼を含め若くして亡くなった二人仲間のことを思い出さずにはいられなかった。何とかして亡くなった彼らと一緒に走りたいと思う気持ちはみんな一緒だ。
 藁をもすがる気持ちでミクシー(会員制ブログ)で「土岐」コミュニティーを見つけ、これはと思う方にぶしつけにもメールを出したりした。

 そんな矢先の8月28日、ネットを検索し、電話帳を調べて、彼のお姉様の電話番号が分かった。インターネットのヤフー電話帳から「土岐、京都府、舞鶴」と調べたところ、土岐陶器店、土岐陶器店本店、土岐陶器本店建材部、土岐米穀店と4件出てきたので、告別式に伺った時の街の記憶を頼りに地図の地名をたどって一件目に「土岐米穀店」に電話した。
中年と思しき女性が出て「H商店が親戚の方ですよ。」ということを伺った。104で電話番号を調べ、H商店の方に事情を話し、お姉さまの電話番号を教えていただいた。

早速お姉さまに電話を差し上げたところ留守電であった。
とりあえず仲間にお姉様の連絡先が分かった旨メールすると、富岡君から「土岐君が亡くなった数年後に何かの用事でお姉様に連絡を取った所、『大学時代のお友達から連絡をいただくと、弟のことが思い出されて切ないから今後ご連絡をご遠慮して欲しい。』と伺ったので慎重に対応するように。」というアドバイスをもらった。30数年たっているとはいえお姉さんばかりの末っ子長男だったから果たしてどうなのだろう・・・。私達の気持ちを素直に受けていただけるかどうか心配だった。我が家も娘二人の末っ子長男なのでお気持ちは良く分かる。
次に電話を差し上げるまでの間随分とあれこれ考えたが、『とにかく土岐君も一緒に夢見た40年前のオーストラリア遠征を実現することをご報告しよう。』と受話器を取った。

お姉さまはすぐ出られた。

「つい先ほどH商店から電話がありました。覚えていていただいてありがたいことです。弟もよろこんでいるでしょう。」

「みんな心は立君と同じで、一緒にオーストラリアを走りたいと思っています。」

ということで、快く私達の気持ちを受け入れていただけた。これで私達の喉につかえていた小骨がまた1本取れた。
 
 プロパンガスを扱っていたご実家のお店はすでに無く、お姉さまもお名前が変わっていたが、「土岐」という珍しい名前のためネットでも4件しか該当がなく、また舞鶴という街の規模が小さいためか「H商店」は1軒しかなく、こうしてあっけなくもすぐにたどりつくことが出来たのだろう。

このくらいの探索は富岡君のB.パイ一パー氏発見の時の努力に較べればはるかにたやすい。彼の成功があったからこそ土岐君のご遺族の発見につながったのだ。


 そして、昨夜、というより日付が変わった頃、ミクシーつながりでメールを差し上げた若い女性から大変ご丁寧なメールをいただいた。こうして新たな土岐姓のお友達もできた。

 

「40年前の夢を実現しよう。」ということから始まった話だが、予想外のことが現在進行形でどんどん現実になって来ている。


続く
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