Uluru 物語 

(14)江連君のこと
前回、土岐君のことを書いたが、もう一人若くして亡くなった仲間がいる。

江連正彦君。宇都宮出身で1988年7月2日41歳の若さで、奥様と子供さん二人を残して東大病院で亡くなられた。

 江連君は普段は目立つ方ではなくどちらかというと地味な存在だったが、自動車部時代に皆で議論していて熱くなったり、紛糾したり、あるいは議論が平行線になってきたりすると必ず、やや間をおいて「それはさあ〜。こうしたいいんじゃないの〜?」とか「それはさあ〜。どうも違うよなあ〜。」などと、いつも尻上りの宇都宮弁で場を和ませつつも決定的な議論の方向付けをしたり、皆を冷静にさせたりした。いつも客観的に冷静に物事を見ていたので対極的な判断が出来たのだろうと思う。

 学生時代はマージャンが得意で、ホンダN360という軽自動車に乗っていた。タバコをよく吸っていて、マージャンの時など横にくわえながら相手を煙に巻いていたのだろうと推測する。

私はマージャンをしなかったこともあり、また普段彼がどちらかというと寡黙だったこともあり、学生時代の彼の強烈な印象は少ないが、どことなく誰でもジワーッと包み込むような懐の深いおおらかさ、優しさがあった。

 むしろ彼の記憶は一周忌の時に、彼のお父さまが書かれた書籍をいただいて読んだ時の方が強烈である。

「息子と共に」(江連正:著)というこの本は80ページを超えるもので、昭和21年11月21日の長男正彦君の誕生から始まり、幼稚園、小中高等学校、受験と大学合格、一橋大学、東レへの就職、結婚、子供の誕生、闘病、そして死というあまりに短すぎる彼の一生の追憶と鎮魂の書である。

引用(「序」から):「天は非常にも正彦の生命を奪い、家族を悲惨などん底に陥れ過酷な試練に堪えることをしいられてきた。家族は、その試練に堪えて満一ヶ年、一周忌を節目として、追慕の小詩をまとめ仏前に供えることを決意した。・・・・」以下略。発刊はちょうど彼の命日の7月2日だった。

 これを読んだ時は、私も彼と同じ41歳で娘が二人で末っ子の息子が1歳の時だった。息子を思う父親の気持ちはこんなにも深いものだということを教わった。

お父さまの正彦君に対する期待、愛情の深さは、何よりもその名前に表れていると思った。また、息子に先立たれた無念さがこの本に全て込められていたように思う。

 お父さまは教育者で校長先生をされたということは後になってこの本で知ったが、絵の方も本格的で仲間の浅井君が結婚式に参列し、お祝いに全員絵をいただいたという話を聞いたことがある。あらためて本を読んだらサムホールに犬吠埼を120枚描いたとあった。こんな素晴らしい引出物は他に聞いたことがない。

サムホールとはいえ120枚とはすさまじいエネルギーである。

 それほどの期待と愛情を注いだ息子のことを想って、残された家族のことを思って、悲しみをこらえながら書きあげて一周忌を迎えたられたことを、今こうして江連君のことを書くにあたってあらためて思い出さずにはいられない。

私達は10月31日成田を発って、11月14日シドニーで解散する。浅井君は翌日帰国し、残ったものはゴールドコーストへ足を延ばし11月16日に帰国する。

帰国した週の金曜日11月21日に帰国報告会を如水会館で行うことになっているが、
11月21日江連正彦君の誕生日でもある。

続く
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