Uluru 物語 

(19)村上先輩、田村先輩

 

 村上先輩は如水モータークラブ(JMC)の初代会長。40年前大学紛争のさなか大学よりオーストラリア遠征の中止要請があり、何とか実現をと抵抗する私達に涙を飲んで説得された。客観的に見てとても実現できる状況ではなかったが、自分たちで計画し必死に努力してきたものを、自ら中止の判断を下すのは難しいことだった。私達は若かったし、その私達の気持ちを汲んでなおかつ中止の説得をしなければならなかった村上先輩のお気持ちは察してもなお余りがある。

私達がJMCの例会に顔を出すようになったのはほんの2年半ほど前からのことだった。その時村上先輩に「その節は大変ご迷惑をお掛けしました。」と申し上げた所、「いやいや。君たちには大変気の毒な事をしたと申し訳なく思っているよ。」とおっしゃられた。ずっと、気に掛けていただいたのだなあと、申し訳ない気持ちとありがたい気持ちとが入り混じって胸がつまった。

村上先輩が亡くなられたのはそれから半年も経たない2006年9月初めのことだった。

 2008年10月中旬のこと、如水会報10月号の「如水モータークラブ・オーストラリア遠征隊」の記事を読まれた田村明さんという、退職後オーストラリアのブリスベーンの近くに移住された会員の方から丁重なお手紙をいただいた。
その中に「1年先輩の村上明さんには囲碁でずいぶんお世話になったものです。 確か村上さんは自動車部にも入っていた筈で、自動車部の創設当初からの部員だったのではないかと思います。」と書かれていた。
村上さんが囲碁部に入っていらしたことはその時まで全く存じ上げなかった。

 遠征仲間の早乙女君がJMCホームページに一文を寄せて、その中に若くして亡くなった我々の二人の仲間、土岐君、江連君の遺影参加のことを書いていた。そのコピーを村上さんと同期の先輩が3周忌の時にお持ちした所、「是非主人も連れて行ってください。でないと主人に叱られます。」ということで村上先輩のお写真を預かられ、現在私の手元にお預かりしている。
 田村さんにそのお写真を画像でお送りした所大変喜ばれて、囲碁仲間の会員の方にもご覧に入れたそうである。その後メールの交換が続き、オーストラリアの交通事情(交通取締り)、医薬品の持ち込みなど貴重な情報をいただいた。さらに、光栄にもご自宅へのご招待をいただき是非お会いしたいと思ったが日程的に難しく諦めざるを得なかった。

ところがそれから数日して私達のゴールドコーストでのスケジュールが決まり、4人が豪快なフィッシング、私達はたまたま「3人」がゴルフ組となった。ゴルフをやる人なら「3人」というとピーンと来るかもしれない。『それなら田村さんに一緒に加わっていただいたらちょうど4人になる!』と、急いでお誘いした所、快諾いただいた。

 もし早乙女君が遺影参加のことを書かなかったら、もし先輩がそのコピーを村上先輩の奥様にお渡ししなかったら、もし田村さんが私にメールを送らなかったら、もし田村さんがメールに村上先輩のことを書かなかったら、もし私が村上先輩の写真を送らなかったら、もし私達のゴールドコーストでのゴルフ組が3人でなく4人だったら、もし田村さんがゴルフをされなかったら・・・。

 こんな長いストーリーの中で、これらの「もし」が一つでも欠けていたら、一緒にプレーすることは叶わなかったと思うと・・・・。

AB型のせいかどうか、「合理的」と自認している私だが『これは偶然というよりも必然ではないだろうか。運命と考えるべきなのかなあ。』と思うようになった。

 また、所詮還暦を過ぎたおじさん達の「集団的・懐古的・自己満足の旅」にしか過ぎないと思われる計画に少しでも共感してくれる方がいらしたという事はとても嬉しい。
田村さんの返信の中に「確かに、世の中は狭いものだなどという月並みな言葉以上に、今回の繋がりはなにか運命的なものを感じさせますね。これを機縁に、またいろいろな人たちとのお付き合いが始まれば私も嬉しく思います。」とあったが、事実そのとおり
囲碁友達のつながりで自動車部の宇賀先輩、青木先輩のお名前が出てきた。
こうしてどんどんと人の縁がつながって行って、
いよいよオーストラリア遠征実現まで残り2週間を切った。

続く
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