ペルー、ボリビア2002
初めての南米大陸

2002年9月15日(日)〜26日(木)

人のつながり

 今回が初めての南米大陸。
日本からの距離や時間、経済上のつながりそして関心の薄さなどを考えると、何でここまで来ようと思うようになったのか。
今振り返ってみると自分でも不思議な気がする。
でも、ひとつひとつの出来事、偶然と必然の出会い、たまたま人に教わったこと自分で決めたこと。これらをつなぎあわせて思い返すと、人と人とのつながりと、その無限の広がりにあらためて驚かされると共に、生きていることに無上の喜びを感じる。
そして今回も、ペルー、ボリビアに旅をしてあらたな素晴らしい出会いがあった。
 そもそものきっかけは3年前のクリスマスイブ近くの金曜日。会社の友人(新井さん)と飲み屋を探して勤務先の立川北口や駅ビルを転々とし、どこも満員で南口に流れ、やっと入れた南米料理の店ラ・バンバで演奏していたのがロス・トレス・アミーゴス。
ケーナとサンポーニャの音がとても気に入り、早速CDを買い求め、それからずっと毎月お店に通うようになった。
やがて通信販売でケーナを買い、サンポーニャを買い。家族の迷惑もかえりみず、出ない音を無理して吹いていた。そのうちインターネットで知った「アンデス何でも塾」に入れてもらい、たまたま家内が新聞記事で見つけたミニコンサートホール「やまぼうし」での彼らのコンサート。
それがきっかけとなり、家内や息子も引き込んでまもなく彼らの追っかけ家族となる。翌年の4月から息子と二人でリッキーさんのケーナ教室に通うようになり、息子は一人でチャランゴも始める。
昨年2001年9月11日のテロ事件の後の20日、塾仲間のUちゃんのボリビア行き。「必ず来年ボリビアに行くからね。」と予告し、ちょうど1年後の9月20日にペルーのリマ、クスコ、そしてプーノから陸路でラパス入りし1年振りの再会。彼女はすっかりボリビア社会、とりわけフォルクローレ会に深く浸透し、今や両国の文化大使的な存在といってもおおげさではない。(高校時代の英語表現を借りると、”It is not too much to say that she is an ・・・・.” となるのだろうか)
アヨパヨマンタの新チャランギート
右はウィルソン ハンサムで話す声もかっこいい
2002.9.22

 


一昨年4月の「やまぼうし」におけるロス・トレス・アミーゴスのライブの後の打ち上げ、そしてオーナーのKさんとの出会い。Kさんとは昨年の登別での何でも塾全国交流会に向かう飛行機が一緒となり、偶然羽田空港でお声を掛けられた。
そして今回はペルー人のお友達 Lさんをご紹介をいただき、宿泊までさせてもらい、ご自宅で彼の友人のミュージシャンと一緒にフォルクローレを演奏したり、お仕事の忙しい中マチュピチュまで一緒に付き合っていただいた

Peru のLさんと友達。2002.9.15 L さんとマチュピチュで演奏。
後ろにそびえたつ山はワイナピチュ
2002.9.18



今年の2月、日本のコチャバンバでの宍戸誠さんのカルカス正式メンバー決定お祝い会での宍戸ご夫妻との出会い。それがきっかけとなって宍戸さんの川柳絵やスケッチ、カルカス同行記のご紹介へとつながり、お付き合いをさせていただいている。
今回も誠さんにいろいろ連絡を取っていただき、9月20日ラパスでのLos Kjarkas y Sombras cantaran al aire libre を見ることが出来た。そればかりでなく、人生かくありたいという理想モデルにさせていただいている。

 そしてそのきっかけとなったコチャバンバの安岡さん。何でも塾はもちろんのこと、今回ボリビアのコチャバンバに驚異的な安さで宿泊させていただき、Nさんにもすっかりお世話になった。ボリビア支局に宿泊したフォルクローレを志す若者から、第ニ第三の宍戸誠が次々と現れることを期待したい。
「こちらは安岡さんの友人で、・・・」と紹介させるとミュージシャンはそれだけで「やあやあアミーゴ」という間柄になる。おかげで多くのミュージシャンにお会いすることが出来た。

 アヨパヤマンタのリーダー、オルランドさん。大きくてとてもにこやかで優しいおじさん。年齢的には同じか、彼が少し若いのではないかと思われる。トイレをお借りして詰まらせてしまいどうやっても流れなかったが、「心配要らない。私が直す。」と言って始末してくれた。
 

 
アヨパヨマンタのリーダー、オルランドさん


Qori T'ika のメンバーの若い女の子達。彼女達の家にお邪魔しチャランゴや、サンポーニャを作っているところを見せていただいたり、ボリビア人の庶民の生活と心の美しさを直接知ることが出来た。また、アヨパヤマンタとともに彼女達の地区のお祭りでの演奏はとてもリズミカルで自然に踊っているように思えた。ボンボを叩くファビオラなど、ボンボを叩きながら踊っているのではなくて、踊っている過程で自然にボンボを叩いている感じ。体をリズミカルに動かすというのはとても素晴らしい表現なのだとわかった。(私もEntiendo これでリズム感が良くなれば一皮向けるかも。)

 横浜エスニック・倶楽部のMさん。大木岩夫さんとともにライセスのフォルクローレ塾やコンサートを企画して、私達をバックアップしてくれた。たまたま、お住まいがかつて我が家を建て替えていたときに住んでいた同じ団地だったことからメールを差し上げてそれが縁でお付き合いさせていただいている。なおかつ、娘が就職したとき同じ団地にいた子と一緒になったという偶然まであった。
 
 ハザマセイジさん。大木岩夫さんとともにライセスのメンバー、 横浜エスニック・倶楽部のMさんの紹介による私のスペイン語の先生。おかげで少しは南米でコミュニケート出来るようになった。(というより出来る可能性を感じた。今の実力でも充分楽しかったが、もっと語学が上達すればもっともっと楽しくなるだろう。)

 そして、ロス・トレス・アミーゴスの3人。全てはここから始まった。
とりわけ、リッキーことウーゴ・リカルド・ロドリゲスさんは私と息子のケーナの先生であり、息子のチャランゴの先生でもある。


 
コチャバンバのローカルなお祭会場でお会いして名前を思い出せない人、メールアドレスをいただい人。日本でお会いした大勢のフォルクローレ愛好家の方々。このようなフォルクローレつながりの中で、今回本当に楽しい、充実し、感動した旅をすることができた。
このようなつながりはもっともっと広がって行くのだろう。
 
最初に右のおばチャンに踊りを誘われた。
これでリズム感は少しは良くなったか?
右の女の子には何度も誘われて、
「疲れた。」と言うと手を引いて椅子まで連れてってくれる。
(世話女房タイプ)そばに付いて離れない。
とにかくおばちゃんと子供に持てた。
いくら若い子が良いといっても彼女は8歳。



最後に

クスコのバス・ターミナルで一緒にサンポーニャを吹いてくれたり、
一緒に話をしてれた少年。この賢そうな眼。
でも、彼は最後に ”No tengo un quena."
「僕はケーナを持っていないんだ。」と言って分かれた。
2002,9,20


 続く


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