ペルー、ボリビア 2002
初めての南米大陸

2002年9月15日(日)〜26日(木)

マチュピチュで出会ったペルー人ガイド

 9月18日(水)クスコ⇒マチュピチュ⇒クスコ 日帰りの旅
片仮名で書くと「マチュピチュ」と抑揚なく、一つの単語として発音してしまうが、現地の人と話すと必ず「 チュ、 チュ」と、マとピにアクセントを置いてマとチュ、ピとチュの間を少し空け、さらにマチュとピチュを二つの単語として話しているような気がする。
それもそのはずで、Machu Pichu とつづり、二つの単語から出来ていて、アクセントはスペイン語では珍しい第一音節にある。これまたそれもそのはずで、実は Machu Pichuはスペイン語ではなくケチュア語である。

ここで他の本を調べたら Mchu は同じだがPicch と c が二つになっていた。どうも現地で聞く発音だと、ピチュ ではなく ピッチュ と聞こえるので発音的には後者が近いような気がする。
Machの意味は”年老いた”、Picch の意味は”峰”。したがってマチュ ピチュは「老いた峰」。
正面に見える山はHuayna Picch でHuayna の意味は”若い”。Huayna Picchは「若い峰」。
Mach Picch から ウルバンバ川を見下ろす
 マチュ ピッチュ は熱かった。カラッとしていたが陽射しが強い。肌が直接こげるようだ。
日焼けしていくのが実感できる。
とうに正午は過ぎた。ここではレストランは1軒しかない。ペルーとしてはかなり高いがやむをえない。帰りのバスを待っていると物売りの女の子、やけに愛らしく可愛い。といって特に買うものはないし。
真赤な服を着た少年。もしかしたらGoodby Boy? そう。
バスが出発したと思ったら斜面に消えた。その後は、コーナーを曲がると彼の声と姿が一番下まで続く。最後に彼がバスに乗ってきた。社内は皆拍手。可愛いが目が鋭い。何かをやり遂げた目だ。
しかしまあ、こんなビジネスモデルがあろうとは。

バスを降りて、駅へ向かうみやげ物屋の並ぶ通りを歩いていたらポツリポツリと雨が落ちてきた。
たいした事はないがコートのフードを頭にかけて歩いていたら急に強く降り出した。急いで駅まで走る。わずか20mほどだったので事無きを得た。
 列車は他が満員で最上クラスしかなかった。朝食、帰りの軽食付き。隣のボックスに日本人の旅行客と斜め前にそのツアーのペルー人ガイド。横で話を聞いていたら良く日本のことを知っていて、日本人論ぽい話しになっていた。ツアー客はあまり興味なさそうだったが、私はとてもこの手の比較論とかが興味あるので、いつのまにか二人で話をすることになった。
その中で彼いわく。日本人はとても凝り性で、例えばペルー人でも知らないような古いフォルクローレの曲を知っていて、しかもペルー人よりも上手に完璧に演奏してしまう。それもプロでなく、普通の人が趣味で。これは一体何なのだ。やり過ぎではないかと思うが、ペルー人は自分達の音楽なのにそこまで完璧さを追求しない。こんな民族は日本人だけだ。
クスコに眼の悪い人がケーナを吹いてこじきをしているが、どうも顔つきからして日本人らしい。
別にお金がなくてやっているのではなく、あれも趣味でやっているらしい。
 私も、2000年9月に6回目のスコットランド訪問をしたときにエディンバラの城から続くロイヤルマイルでバグパイプを吹いている人がいて、良く見たら若い日本人だった、という話を聞かせたらガイド氏大いに同調してくれた。
 いや、実は私のフォルクローレ仲間が来月、アイキレのフェスティバルに大挙して出演するのだ、といったら、してやったりという顔つきをしていた。さらに、実は私もマチュピチュでケーナを吹いてきたところだと白状して二人で大笑い。
 
 とにかくこの人相当なインテリと見た。近々日本に来ると言っていたがURLとアドレスを教えて、メールをもらうことになった。


 続く


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