「週末を死人とともに」




↓第三十三回 〔第三章・シーン3・その@ 2006年12月5日(火)分〕↓




 ひとしきり気が済んで顔を上げると、沢村が同じように手を合わせていた。
 うつむいた顔には粛然とした表情が浮かび、真剣に故人を悼んでいるのが伝わってくる。
 横顔を眺めていると冷え切った気持ちが暖められるようで、そんな心中を自覚するだに胸が締め付けられる。もっと早くに出会いたかったと思う。
 沢村が黙祷を済ませて顔を上げた。
「ありがとうな」
 おれは、思わず口にしていた。
沢村は沢村なりに死者に敬意を表しただけのことなんだろう。けれど、なぜだかおれと同じ理由で、おれの為にそうしてくれたような気がしたのだ。おかしなことを言ったのだろうと思う。でも、これはこれで尊い気持ちだ、とも思った。
 沢村はそれについては何も言わず、ただ笑みを浮かべてひとつ頷いた。
「いきましょうか」
 穏やかにおれを促す。それで、その場を離れる足を踏み出すことになった。必然的に、窓に近い位置にいる沢村から、リビングに入ることになる。
どうやってこのマンションから脱出するつもりなのか、まだ聞いていなかった。上ってきた階段が塞がれている可能性が高い以上、他に逃げ道を考える必要がある。
疑問を思い浮かべながら後に続こうとすると、敷居を跨いだところで沢村が急に立ち止まった。背中に背負った登山用バックパックが、おれの腹に当たった。
「どうした?」
 沢村の頭の上を通り越して室内に視線を投げる。理由はすぐに分かった。
「本当かよ……。どうするかな、どうしたらいいと思う?」
「ええっ、そういわれても、私もどうしたらいいか分かりません」
「とりあえず動かない方がいいよな。物音は立てたらヤバイよな」
「はいっ、そう思います。物音はヤバイです」
 急速に高まった緊張感に、おかしなテンションの会話を交わす。大げさなほど声を潜めて、妙に早口になった。
 沢村が首をゆっくりと左に向ける。視線を巡らし、今度は右に向ける。また視線を巡らし、正面に戻す。それからやっと右にずれて、おれが入れるスペースを作った。リビングに上がって周囲を見渡す。人影がないことにひとまず安心して、改めて床に視線を投げた。
 フローリングの上には、まだ乾いていない血溜まりが広がっているだけで、何も無かった。この部屋の主の死体が、どこにも見当たらなくなっている。
 ゾンビ化する予定の死体が無くなったということは、つまり、予定が満了したということでしかない。おれが、悠長に時間を浪費している間に動き出したのだろう。バルコニーでの話し声がリビングに届かない訳がなく、良く気付かれなかったと胸を撫で下ろした。




↓第三十四回 〔第三章・シーン3・そのA 2006年12月6日(水)分〕↓




 死後、ソンビ化するまでの所要時間が、これほど短いとは思っていなかった。悔恨の念が沸き起こって気持ちが萎縮してしまいそうになる。が、これ以上グズグズしている時間はない。
 玄関前の廊下までの距離を目算する。せいぜい六、七メートルか。一気に走り抜けられる距離だ。
「沢村っ、走るぞ!」
「はい!」
 手を取って腰を落とし、走り出そうとした瞬間―――
「あんた達、そこで何をしてるんだ?」
 唐突に、キッチンから人声が響いて、タイミングを逸した。崩れそうになる体勢を、立て直して踏み留まる。生き残った人間がいるのか? 顔を振り向けると、リビングの左隣にあるダイニングに人影を見つけた。
 玄関に向かって左奥、対面式キッチンの向こう側でこちらに視線を向けているのは、紛れもなくリビングに横たわっていたこの部屋の主だった。今、見渡した時にはいなかったのに……。
 連れ合いと同じく、三十代前半くらい。年齢なりに丸みを帯びた腹が少々目立つが、ガタイが良く十分屈強にみえる。昔は悪さもした若い父親、そんな感じの印象を受けた。が、着ているシャツはあちこちに赤い花を咲かせているし、その下にはいくつも生々しい傷跡が透かし見えている。そして、なにより目立つ左首筋の大きな咬傷。そこを中心に上半身左半分は血にまみれていた。頸動脈を食い千切られているのだ。生きていられるはずがない。
にもかかわらず、廊下からみて一番奥に設置された冷蔵庫の前に仁王立ちし、なんのダメージも受けていない様な面持ちで、ジッとおれたちを睨み付けている。
 ゾンビ化して、動き回っているだけならまだ分かる。特徴のひとつである、異常に血色の良い肌色も発現している。それなのに、死に至るほどの大怪我を負っている以外、生者と変わらなく見えるのはなぜだ。普通に理性を持って、喋っているのはなぜだ。
「そこで何をしているのか、聞いているんだ」
 凄味を含んだ声音に、全身の血が沸き立ち、首筋の産毛が総毛立った。浮き足立ちながらも、じゃあ記憶も無いのだと、思いつく。
「あ……」
 なにか言わなければと言う思いが先に立って、なんと言うべきか思いつかない。口を開いたものの後の言葉が続かず、ぱくぱくと空気を食む。
「私達は」
 状況に引き比べて冷静な、沢村の声が背後で発した。続きを考えているような間が空く。
「奥様に依頼されてお邪魔した、ルームクリーニングの者ですっ」
 呆気に取られて沢村をみた。顔を真っ赤にして息をついている。やっちゃったぁ、はっきり書いてある顔をおれに向けて、縋るような表情を浮かべた。
 もうちょっとマシな嘘を言えって。それとそんな顔しておれに助けを求めるなっ。おれ達のどこをどう見たらルームクリーニングにみえるんだぁっ。




↓第三十五回 〔第三章・シーン3・そのB 2006年12月7日(木)分〕↓




「そうか。ご苦労さん」
 男は事も無げに、おれの内心のつっこみを裏切ってくれた。
「いーのかよ、それでっ! ふぐぅ」
 びっくりし過ぎて思わずつっこむ。沢村が慌てておれの口を手で塞いだ。
「なにがだ?」
 男が首をかしげて訊いてくるのに、「ななななんでもありませんっ!こっちの話でっ」沢村が取り繕う。「そそそそうなんですよっ、こっちの話です!」 おれも、沢村の手を引き剥がして同調した。怪しい。思いっきり怪しいぞ、おれ達。
 男は、心臓が破裂しそうなこちらの思いなどまったく気が付く素振りもみせず、しばらく腕組みをしたままおれ達を値踏みしていたが、やがて笑顔になった。
「ウチの掃除は大変だったろう。妻は片付けるのが下手でなぁ。恥ずかしい限りなんだよ。……あ、それともこれからか?」
「いいえっ、もう終わったところですっ。奥様とてもお部屋を綺麗にしていらして、私達も楽にお仕事をさせて頂いたって、今話していたところなんですよぉー、そうですよね、小野田さんっ」
「そうです、そうです。こんなんでお金貰っちゃっていいのかなぁってくらいでして……」
 男はおれの台詞を全部聞きはしなかった。
「そういえば、あいつらどこにいるんだ?」
 ふと思いついたという様子で口にする。キッチンから廊下に出た。玄関に向かって歩いていく。
「おい、早苗、義信、どこだ?」
 玄関からリビングの間にある扉を片っ端から開けていく。退路を塞がれた形になった。
 沢村が隣で真っ青になっていた。右手で金属バットを握りしめている。手が震えていた。
「ゾンビ化してるのは間違いない。認識力が低下してるみたいだ。切り抜けられるかも知れない。少し様子をみよう」
 安心させるために小声で囁やく。沢村は、額に冷や汗をかきながら、コクコク頷く。
 家中の扉を開けて諦めた男が、リビングに戻ってきた。出入り口とおれ達の間に立つ。
「あんた達、ウチの妻と息子知らないか?」
 血濡れた顔をおれに寄せる。
あっ、あー、そういえば買い物に行かれるとか言われていた様な……」
「そうです、そこのスーパーに行かれると言っていました」
「じゃ、すぐに帰ってくるかな」
 男は急に興味を無くしたようで、踵を返してキッチンに戻っていく。カウンターの向こうにしゃがみ込んで姿が見えなくなった。だから、最初に確認したときには、気が付かなかった訳だ。廊下側から覗き込むと、冷蔵庫の前の床に座ってなにかを貪っている。おれに気が付いてこちらを向いた。
「なにか無性に腹が減ってなぁ」
 手にした丸のままのハムを示し、また囓り始める。チャンスだった。




↓第三十六回 〔第三章・シーン3・そのC 2006年12月11日(月)分〕↓




「そ、それじゃあ、僕たち、これでお暇しますので」
「おうっ、ご苦労さん」
 おれ達は駆け出したい衝動を堪えつつ、廊下を玄関に向かった。数秒後には、何事もなく玄関の外に出て、安堵の溜め息を吐いていた。
「僕ですって?」
 沢村が、おれに目を向けながら、いたずらっぽく言う。
「ぷっ、僕でっす」
 小さく吹き出す。笑いが込み上げてきて、二人して小声で笑い出す。
 そうしながら通路の向こうの昇降口を見やると、先ほど倒したゾンビが立ち直ってぼうっと佇んでいた。やはり、戻るのは無理そうだった。
 裾を曳かれて振り返る。沢村が通路を反対側に歩きだそうとしていた。
「こっちですよ」
 付いていくと、昇降口と同じくらいの距離を歩いたところで、通路の反対側の端に辿り着く。そこは小ロビーのようになっていて、左側に階段が、右手に通路が伸びているが、それらには見向きもせずに、沢村は正面に設置された扉を開けた。
「やっぱり」
 そういって扉をくぐる。視界が開けて見晴らしが良くなった。立体型の駐車場が、マンションに寄りそう形で設けられているのだ。この十階が最上階で天井はない。上層の住人の分まで賄うために、かなりの広さを取ってある。駐車スペースのほとんどが車で埋まっていた。人気はなかった。
 背後で、ドアが音を立てて閉まった。ロックがかかる音が響く。右壁に操作パネルが設置してあり、こちらからも無断侵入出来ないようにしてある。マンション内にはもう戻れない。戻りたくもないが。
"なにか無性に腹が減ってなぁ"
 緊張が緩むと、今聞いたばかりの男の言葉が頭に浮かんだ。
"お腹空いたなぁ"
 アパートを出た直後の真梨子の呟きも蘇ってきて、二つが重なり合う。
 間違いなく死んでいたのに、生者と同じように考え喋る男。頸の骨が折れているのに痛みも感じず、普段と変わらなかった真梨子。共通点は他にもある。記憶の部分的欠損、異常に血色の良い肌、認識力の低下。
「沢村、ゾンビ化した直後のゾンビをみた事があるか?」
「いいえ。ありませんけど……でも今の男の人がそうだろうとは思います」
「おれもそう思う」
 二つのケースだけで判断していい物か迷うが、ゾンビ化直後にいきなりマンションで襲ってきたようなゾンビになるわけではなく、男や真梨子のような状態を経て、徐々に本格化していくと言うことだろう。逆を言えば、朝の真梨子はやはりゾンビ化していたのであって、どこか宙に浮いた思いが、これで落ち着き場所を見いだした。やっぱり真梨子は死んでいたのだ。




↓第三十七回 〔第三章・シーン3・そのD 2006年12月12日(火)分〕↓




「本当は、あの部屋で車の鍵を探そうかと思ってたんです」
 会話が途切れたと思ったらしい、沢村が辺りを見回しながら話題を変えた。階下に向かうスロープをみつけて歩き出す。
「あれじゃ、そうもいかないもんな」
 おれも、気分を切り替えて歩き出す。
「はい。どうします? まだまだ先は長いですけど」
 どう、と言うのは、バイク用品店に向かうかどうかと言うことだろう。お互いここまでの出来事のせいでクタクタだし、無理に行かなくても良いような気がしてきた。ただ、この先同じような事があるとしたら、装備は整えて置くに越した事はない。
「んんー、車が使えれば楽にいけたけどなぁー。どうするかなぁ」
 心底無念そうに唸ると、言い方がおかしかったのか、沢村は笑った。
「残念でした」
 そういってまたクスクス笑う。
 残念? 残念といえば気になることがあったのを思いだして、疑問をぶつけてみることにした。
「そういえばさ、なんで残念そうな顔したんだ?」
「はい?」
「いや、マンションに来る前に、戻る戻らないって」
「あー、あれは……」
「あれは?」
「本当にくだらない理由ですけど笑いませんか?」
 沢村が、神妙な表情を作る。
「笑わない。絶対笑わない。面白かったら笑うかも知れないけど」
「笑うんじゃないですか。うーん、いいかな。……私、今まで男の人と付き合ったことなくって……憧れてたんですよ、一緒に洋服買いに行って選んであげたりするの。普通の洋服とか、あんまり良く分からないですけど、防具代わりのジャケットとかなら得意ですし。それがちょっと残念だったんです」
 顔を真っ赤に染め、照れ臭そうにうつむく沢村を目にして、まずいなぁと思った。いや、ほんとにまずい。どうして、こいつはこうもおれの気持ちを掴むのだろう。一緒にバイトをしていた一ヶ月の間には感じたことの無い感情がおれの鼓動を早めている。耳や顔が赤くなってないか? 気になって顔を逸らした。まともに沢村の顔が見られない。
「小野田さん? 呆れたんですか」
 心細そうな声音で、問いかけてくる。
「いや、やっぱりいこう。それくらいの夢だったら叶えてやるよ」
 沢村が望む事なら、叶えてやりたい。そんな気持ちが胸に満ちてきていた。
「はいっ、ありがとうございます」
 満面の笑みを浮かべて、沢村は元気よく返事をした。小躍りでもしそうな勢いだ。いや、こっちがいろいろありがとうだよ。心の中で呟く。柔らかな沈黙が降りてきて、そのまま黙ってスロープを下った。




↓第三十八回 〔第三章・シーン3・そのE 2006年12月13日(水)分〕↓




「本当はね」
 おもむろに沢村がいった。
「本当は私怒ってたんです。いくら人の命が関わってるからって、小野田さんひとりで走って行っちゃって。ひとりで置き去りにされて、私はどうなってもいいのって思って。でも、もういいんです。あんなに一生懸命あやまってくれたから。……うれしかったんですよ」
 ひとりで置き去りにした!
 告白に頭を殴られたような衝撃を受けた。今までさっぱり気が付かなかった自分にもショックを受けた。言われてみれば、比較的安全な街道上とはいえ、そこかしこにゾンビが徘徊しているようなところに、女ひとりで置き去りにしてきてしまったのだ。
 感情が顔に出ていないか気になる。たぶん驚きに凍り付いているに違いない。申し訳無さ過ぎて、沢村に顔が向けられなかった。
「小野田さん? 気にしましたか」
「ああ、いや、本当にごめんな」
 顔を背けたま、また謝った。まさか、おれが謝ったのはそのことじゃないんだ、とは言えなかった。
「もういいんですよ、小野田さん」
 そういって沢村は笑みを浮かべた。今度のは優しさの滲み出るような、いたわりを感じさせる笑みだった。
 猛烈な反省の気持ちが渦巻いてはいたが、もうひとり冷静な自分も心の中にいて、それは絶対沢村にいっちゃダメだと囁いていた。おれの胸にだけ仕舞っておくことに決定した。
 傍らを歩く沢村の横顔を盗み見る。疲労も滲んではいるが、すっきりした、満足そうな表情をしていた。
 バルコニーで、おれを赦すといった沢村の声を思い起こして、女は分からない、心底そう思った。




(第三章 了)




                     ☆第三十九回へ続く☆




                        






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