SFジュブナイル
「週末を死人とともに」 ↓第七十一回(第五章 シーン4 その1 2007年2月8日(木)分〕↓ 「たくさんあるからね、もっと食べても大丈夫だよ」 ドライカレーを盛ったアルミ皿を差し出しながら沢村がいう。 「すみません」 少年は皿を受け取って恐縮してみせた。ステンレス製のカップからコーンスープを一口。空になったアルミ皿と入れ替わりで、ドライカレーに取りかかる。 おれと向かい合わせに沢村が、右手の側面に少年が座を占めてロールテーブルを囲んでいる。 アルミ製プレートとスチール製スプーンがぶつかり合って立てるくぐもった軽い物音、暖かい光を投げかけるランプが放つ燃焼音が、静けさを取り戻したフロアに家庭的とも言える雰囲気を作り出していた。 「おまえさぁ、ここに隠れてたんなら自分で飯食えただろう」 おれがいうと、少年はスプーンを動かす手を休めてプレートから顔をあげた。 モデル並みに顔が小さい。色白の細面に、端正でロマンティックな顔立ちといっていいと思う。某有名芸能事務所がプロデュースするアイドル達に似た雰囲気を感じた。が、それも再び口を開くまででだった。 「お、追いかけられててそれどころじゃなかったし……、ここにこんなに色々あると思わなかったから……」 面目なさげに答えた。ビクついていて落ち着きがない。気が小さいヤツなのかもしれないと思った。それでも、よっぽど腹が空いていたのだろう。食べ始めてから「お代わり」を連発し、すでに三食分は平らげていた。ドライカレーで四食目だ。もっともキャンプ用の携帯食なんて食いでのある物じゃないから、成長期の食いっぱぐれには一食分なんておやつ程度にしか感じられなかったかもしれない。とにかく、食の進み具合だけは男らしかった。 「そうか、まぁゆっくり食えよ」 おれがそう返すと、少年は再びプレートに顔を埋めるようにしてスプーンを動かしはじめた。 ここにある物がなにでどう使えるのか分からなかったわけだ。沢村がいなかったらおれも同じだっただろうなと思うと親近感が沸いた。もっとも、沢村がいなければおれがここに来ることはなかったんだが。 おれは、目の前に置いてあるカップを手にとって口に運んだ。半分ほどに減ったコーヒーは、曲がりなりにもドリップで、味は悪くないがいかんせんすっかり冷めている。一口だけ啜ってテーブルに戻した。 なんとなく向かいに目を向けると、感心した様子で少年の食いっぷりを眺めていた沢村が、こっちを向いて目が合った。 「新しいの淹れましょうか?」 沢村がカップを指して軽く首をかしげた。表情が不自然に強ばっている。黙って見つめていると、真面目顔の頬が二、三度痙攣し、堪えきれないという風に口角が持ち上がった。とたんに表情が崩れて、嬉しさと照れ臭さが入り交じったこれ以上ないというくらいの笑顔になる。頭上に「えへへぇ」という擬音がみえるようだ。上機嫌だった。 ↓第七十二回 〔第五章 シーン4 その2 2007年2月13日(火)分〕↓ 「あ、ああ、頼む」 「はい、少し待ってくださいね。いまお湯を沸かし直しますから」 にこにことかいがいしくコーヒーの準備を始める。沢村がふりまく幸せオーラに当てられて、おれはこっそり吐息を漏らした。不覚だった。本当に不覚だったと思う。 『香澄っ、返事をしろ、香澄っ!』 身動きしない沢村を抱き起こした後、必死に呼びかけ続けていると沢村のまぶたがうっすら持ち上がった。何度か瞬きしてからやっと意識がはっきりしてきたようで、思い出したように左胸と後頭部を押さえた。 『あいた〜』 『おまえ、大丈夫なのかよっ』 取り乱し気味に刺されたはずの胸へ目を落とすが、ジャケットには血の一滴も付いていなかった。そんなはずはないと床やナイフへと視線を飛ばしてみてもどこにも血なんかこぼれてなかった。床にうずくまっていた少年も起きあがってきて、自分の手が汚れていないことに気が付き、『あ……』と間抜けな声をだした。 『備えあれば憂いなしですよ、小野田さん』 といって、沢村はずっと着ているジャケットを指差した。切っ先が当たったと思われるところの布地が少し乱れてはいたが、それも注意してみなければ分からない程度だった。そこでそのジャケットが軍用の防弾機能付きだったことを思いだし、やっと自分の間抜けさを悟った。防弾ってくらいだから、ナイフくらいどうってことないのか? っていうかおれ、着てるの知ってたよな。 『ごめんなさいっ』 突然響いた声に顔を向けると、少年が少し離れたところで両手を床に付け深々と頭を下げていた。 『僕っ、あのっ、殺されると思って、あうっ、ごめんなさいっ』 平静を失って乱れまくっていた。呼吸まで乱れて、へんな息遣いが混ざった。 『殺されるっておまえ……』 『なにか理由があるんでしょう? むこうでご飯でも食べながら話を聞かせて』 少年の有り様に言葉を継げなくなったおれの脇から、沢村が落ち着いた声音でいった。 『う、うんっ』 顔をあげた少年の顔がぱっと明るくなった。それを受けて沢村が立ち上がろうとした。 『おい、大丈夫なのか?』 『大丈夫ですよ』 おれが肩を貸す形で立ち上がった。この時、沢村が耳元で囁いた。 『名前で呼んでくれましたね、小野田さん』 沢村は立ち上がると、だらしなくにやけた笑顔を一瞬こっちに向け、即席リビングへ歩き出したのだった。 十数分前の出来事を全部思いだし、おれは眉間にしわをよせた。いずれ沢村と決別しようと決心したばかりなのに、おれはいったいなにをやっているのだろう。また溜め息がもれた。 ↓第七十三回 〔第五章 シーン4 その3 2007年2月14日(水)分〕↓ 「お待たせしました。はい、どうぞ」 沢村がカップを差しだしていた。絶好調のにこにこ顔だ。礼をいって受け取った。ひとくち啜る。やっぱりコーヒーは淹れたてがいい。 「あの……ほんとにごめんなさい」 おれがカップをテーブルに置くのを見計らったようなタイミングで声がかけられた。いつの間にか食事を終えた少年が食器をおいて座り直していた。姿勢を正し改めて頭を下げる。おれと沢村に交互に視線を向け反応を待っている。右まぶたの上が腫れ上がって青黒くなっていた。 「気にしないでいいよ、私はなんでもないし」 まだ舞い上がっているのか沢村が軽い口調でいった。大事に至らなかったとはいえ刺されたのには変わらないと思うんだが、おれが名前で呼んだことでその辺はもうどうでもよくなってしまったらしい。それとも少年への気遣いか。たぶんどっちもあるのだろう。 こっそり横目で見ると沢村と目が合う。沢村は照れ臭そうにはにかんでみせた。おれは敢えて目を反らして少年に向けた。 「それで? なんで突然襲いかかってきたのか、ちゃんと説明できるんだろうな」 少々凄んでみせる。結果どうあれ行為は行為だ。簡単には許せない。少年はすでに胸ぐらを掴まれてでもいるみたいに身を引き、震えを帯びた声音でいった。 「あ、あの、ほんとにすいませんでした」 「それはもういいから」 「小野田さん、もうちょっと優しくいいましょうよ、ね? まず、きみの名前は?」 沢村がにこやかにいうと、少年の表情から若干固さが抜ける。 「ぼ、僕は、薙原史郎といいます……史朗と書いてふみおです」 宙に人差し指で描きながらいう。 「史郎くん。私は沢村香澄。この人は小野田一樹さん」 沢村が、手で示しながら紹介した。 「それで? なんであんなことをしたんだ」 おれが質問すると、史郎はまた身を固くする。 「僕は、深夜まで線路の向こうの避難所にいたんです」 「ええっ、あの小学校にいたの?」 「そうです。でも、あの避難所は全滅してしまって、友達と三人で線路に沿って移動してたんです。なんとなく向こうの方だったらいくところあるかなって思って。でも、歩いてると駅を越えたあたりで、同じくらいの歳の四人組に襲われてバラバラに逃げ出したんです。友達二人はどうなったか分かりません」 おどおどしつつも、史郎は簡潔な言葉で説明した。意外としっかりしたところもあるらしい。話を聞いて、駅向こうでみた死体を思い出した。 「あの二人はおまえの友達だったのか……」 おれが思わずこぼした言葉に、史郎は顔を輝かせる。 「会ったんですか? よかった、無事だったんだ」 「……」 「……」 返す言葉をなくして、おれと沢村は黙り込んだ。史朗は、不思議そうにおれ達を見回した。すぐに感づいたらしく、深く息を吐き出した。 ↓第七十四回 〔第五章 シーン4 その4 2007年2月15日(木)分〕↓ 「ふたりともですか? それとも、ひとりだけ?」 まっすぐに見つめてくる史郎のまなざしを受け止めた。ほんとのことを知りたいという気持ちが痛いくらいに伝わってくる。それまでの怯えた雰囲気は消し飛んでいた。 答えを告げるために口を動かした。 「小野田さんっ」 横合いから沢村が慌てた口調でいう。 「こういうことはちゃんと教えてやった方がいいんだよ。下手に隠す方が逆効果だ」 「ぼくは大丈夫です。いってください」 最初は沢村に、後の方はおれに向けていた。おれは胸苦しさを覚えながら告げる。 「ふたり一緒だった」 「そうですか……」 史郎は目を閉じ、そしてうつむいた。間が空いて声が漏れだした。静まり返ったフロアを嗚咽が満たした。 「いいヤツらだったんですよ、あいつら。ぼくが転校してきたときも、真っ先に話しかけてきてくれて……」 押し殺した泣き声と一緒にこぼす言葉を黙って聞いた。ぽつりぽつりと話すエピソードに相づちを打つ。大した内容じゃなかった。震えていた声に同情を誘われたのはだからこそかもしれない。沢村は目頭を押さえていた。 「すみません」 しばらく聞いていると気が済んだらしく、史郎は鼻を啜って顔をあげた。 「襲ってきたのはどういう連中だった?」 気の毒だったが、ずっとそうしているわけにもいかない。話を進めた。 「四人とも僕より少し年上で、ひとりが金髪で、鼻ピアスをしてました。他の三人も似たり寄ったりでした。どうも、世界がこうなって逆に自由を得たと勘違いしているらしくて、それでほかの生き残りの人間を襲い始めたようです。僕らが避難所から持ち出してきた食料や荷物を狙ってきたので素直に全部渡しました。背に腹はかえられないから。なのに……」 史郎はそこでいったん言葉を切った。 「あいつら、僕達が歩き出したら後ろからボウガンを撃ってきたんです。『さっさといけ』っていったのにっ。僕は怖くなって一目散に逃げ出して、ふたりが殺されたなんてちっとも思わなかった……。その後、追いかけてくる連中を撒いてなんとかここに逃げ込んだんです。このフロアに隠れたあと、疲れがでてうたた寝してしまって、小野田さん達がきたのに気が付かなかった。目覚めて物音を立てたあとに香澄さんが目の前に迫ってきているのに気が付いて、それで逆上してあんなことを……。ほんとにごめんなさい……」 そして、もう一度頭を下げた。 ↓第七十五回 〔第五章 シーン4 その5 2007年2月19日(月)分〕↓ 「大丈夫なんだから、もう気にしないでいいよ」 沢村が、思わずといった感じでこぼした涙を拭っている。それを横目におれは訊いた。 「その四人組はどこにいったかわかるか?」 「たぶん、まだ僕を捜していると思います。しつこい連中でしたから」 おれ達がここに辿り着く前にはそれらしいヤツらは見かけなかった。ということは見当違いの方向に逸れていってしまったか、もう諦めたか。 「ますます気が抜けないですね」 落ち着いたらしい沢村が、おれに向かっていう。緊張感が戻ってきていた。 「ああ、そうだな……」 もし、おれ達がたまたまその四人組に出くわさなかっただけで、まだ史郎を捜してこの周辺にいるとしたら、確かに厄介なことになるかも知れない。話をそのまま受け取れば、件の四人組にはおれ達が一緒にいるとかいないとかは関係なさそうだから。 駅向こうでふたつの死体を見つけた時に感じた予感が図らずも現実となったことに、おれは今日何度目になるのか分からない嘆息を漏らした。 史郎が沢村に襲いかかってきた理由には、まぁ納得がいった。事情が事情だけにしかたないと思う。ただ、沢村がボディーアーマーを身につけていなかったら、と思うと考えるだけでもぞっとする。 沢村の父親の防災マニアぶりとそれを受け継ぎ拡大していった沢村自身の凝り性に、密かに賞賛を送った。マニアってスゲェわ。 それにしても人が人を襲う、いや、好んで人を殺す心理とはいったいどんなものなんだろう。 食料品、衣料品、安全な隠れ場所。そういった物を生き残るために奪い合い、結果として死傷者が出たというならまだ分かる。ところが、例の四人組は物資を引き渡してその場を去ろうとする相手に対して背後から襲いかかったというのだ。その必要は絶対にないのに。 おまえらはマッドマックスか北斗の拳の敵役でしかも下っ端かっ、といってやりたくはなるが、気持ちはさっぱ解らなかった。 話に一区切りが付いたせいか、沈黙が即席リビングを取り巻いていた。 沢村はガスランプに目をやってぼんやりとなにか考えている。 史郎は落ち着かなげに、おれ、沢村、テーブルの天板、というローテンションで視線を投げかけては様子を伺っている。 おれは、とにかくこれからどうするか決めなければと考えた。四人組に出くわす可能性が高いなら、出来るだけ早いうちにこの周辺を離れる必要がある。 視線を投げると、ちょうど沢村がこっちを向いたところだった。お互いに目を見交わす。同じことを考えていたらしいと感じてこれからについて意見を述べようとすると、おれより先に口を開いた。 。 ↓第七十六回 〔第五章 シーン4 その六 2007年2月20日(火)分〕↓ 「史郎くん、避難所にいたっていったよね。詳しい話を聞かせてくれないかな」 史郎に顔を向けた。おれとは全然別のことを考えていたようだった。 「いいですよ。なにが聞きたいですか?」 問われた史郎は、ほっとしたように顔をあげた。停滞していた場の空気が動き出したことに、安堵しているようだった。 「避難所が壊滅したのは、私達も他のところで聞いて知ってる。その周辺が火災で燃え上がってるのもみてきた。私が知りたいのは避難所が全滅した原因」 「原因……ですか」 史郎は難しそうな顔をした。壊滅当時、現場にいたからといってすべてを把握してるわけじゃないだろう。むしろ、自分の周囲にしか目が届かず、起こっている事の裏側など分かるはずもない。漠然と原因と問われても、答えようがないんじゃないかと思った。 「内部にいた女の人達が怪我もしてないのにゾンビ化したって聞いたんだけど、本当?」 おれの推測を肯定するかのように沈黙する史郎に、沢村が言い募った。沢村が聞きたいのは壊滅の原因ではなく、ゾンビ化の原因だ。史朗が現れるまでまさにそのことを問題にしていたのだから、聞きたくなるのも当たり前だった。 「それは、たぶん本当です」 「詳しく話して」 史郎が答えるのを聞いて沢村はテーブルに肘を着き、一歩身を乗り出した。これまで感じたことがないくらいに真剣だった。 「屍人達が避難所に溢れた時、明け方くらいだったかな、僕は友達と一緒に体育館にいて、他の大勢の人達とも一緒でした。それまでは落ち着いてたんですよ、途中からやってきた自衛隊の人達が小学校の回りで屍人が入り込んで来るのを食い止めてくれてたし。ところが、体育館に避難していた人達の中から『屍人だ、屍人化したっ』っていう悲鳴が上がって騒ぎが起こり始めたんです。立て続けにあちこちから。それでみんながいっせいに逃げだそうとして大混乱になって、体育館から飛び出したんですけど……、その前に一回振り返ってみたんです。そうしたら、人垣の隙間から屍人が人を襲っているのがみえました。その時みた屍人は、確かに全員女の人でした」 なるほど、屍人化した全員をみた訳じゃないが、史郎がみたのは全部女だったということだ。なかなか慎重な答えで、おれは具体的な数字を訊きたくなった。 「それは何体いたんだ?」 「四、五体いたと思います」 右手を開いて五と示す。それなら、団地の男がいった『女ばかりが』という言葉の裏付けにするには充分だろう。まずいな、と思った。 「ゾンビ……屍人化した原因は誰もなにもいっていなかったの?」 沢村がほとんど身を乗り出すように質問を重ねる。その様子があまりにも一生懸命で、史郎は一瞬呆気に取られていた。 ↓第七十七回 〔第五章 シーン4 その7 2007年2月21日(水)分〕↓ 「はっきりしたことはなにも。ただ、噂はありましたよ」 とまどいをみせながらも、すぐに落ち着きを取り戻す。 「噂って?」 「ある保湿クリームのせいじゃないかっていわれてました。でも、そんな普通に売っている物のせいでこんな風になるわけないだろうってみんないってましたけど」 「やっぱりそうなんだ……」 沢村が確信を得て絶望を顔面に貼りつけた。落胆を隠さず、がっくりと背もたれに体を預ける。 「沢村、史郎も噂だっていってるだろ」 うなだれる沢村に、いくらかきつい口調で告げる。が、返ってきたのは頑なさを覗かせる固い声だった。 「火のないところに煙は立たないんですよ、小野田さん。それに避難所では根拠のない噂だったかもしれないけど、私達には根拠があるじゃないですか」 いまにも泣き出しそうな気配を漂わせていて、即刻反論するのをためらわせた。それでも、真梨子が保湿クリームを使っていた、避難所でゾンビ化の原因は保湿クリームじゃないかといわれていた、確かに符号してはいるが根拠というには弱い。真梨子がゾンビ化したのがそのせいだという証拠もない。 「ないって。そもそも沢村、全然ゾンビ化してないだろ。体調おかしいとか、異常に腹が減ってるとか、なにか感じてるのか」 トドメのつもりで言い放った。沢村の不安や怯えを理解しないわけじゃないが、そんなのは体に異変でも感じてから心配するべき事柄だ。これでもう反論できまい。実際、沢村も痛いところを突かれたっという顔をしたのだ。ところが……。 「ありませんけどっ、だけどっ」 頬を膨らませてそっぽを向く。頑なを通り越して頑固さが全身を包み込んだ。まるで子供だ。 「だったら、いまそんな心配しても仕方ないだろう」 苛立ちを押し殺して、諭すようにいう。沢村も言い返す言葉を思いつかなかったらしく、一瞬押し黙る。が、次の瞬間には再び口を開いていた。 「小野田さんは他人事くらいにしか思ってないんですよ、私のことなんて」 沢村は、不信を瞳に宿して、上目遣いにおれを睨んでいた。今度はおれの方が言葉を見つけられずに唇を舐めた。他人事に思っているからじゃない。頭に血が上って真っ白になってしまったからだ。 かわいくない。 おれが心配しているのは、半端な根拠しかない事柄に振り回されて危険を引き寄せてしまうことだ。危機的状況で判断を誤って沢村が自滅への道を選択してしまうことだ。それなのに、こいつ……。かわいくない。本当にかわいくないと思った。灼熱の温度に達した怒りが抑制を吹き飛ばした。 「あー、分かった、もう勝手にしろよ。おれは部屋に帰る」 勢いに任せてイスから立ち上がる。出口に向かって踏み出したおれの背中に、沢村の追い打ちがかけられた。 「分かりました。小野田さんとなんてこっちから願い下げです。今までお世話になりました」 聞こえないふりをしてそのまま階段へ向かう。怒りが頂点に達して膝を震わせた。 (第五章 シーン4 了) |
☆第七十八回へ続く☆ |