「週末を屍人とともに」
↓第四回 〔第一章・シーン1・その@ 2006年10月16日(月)更新分〕↓
こうなったらバイトなんかに行っている場合じゃない。
壁掛け時計は午前九時三十分を示していた。出勤時間を三十分も過ぎている。
携帯電話から、バイト先であるファミリーレストランの番号にメモリダイヤルしてみたが、無機質な呼び出し音が鳴るばかりで、一向に受話器が取られる気配がない。今日は土曜日だ。週末とはいえ午前中なんてそれほど忙しい訳がないんだけどな。
諦めて、敷きっぱなしの布団の上に大の字になった。
この先どうするべきか思案していると、鉄階段を上って来る足音が聞こえてきた。続いて軽くドアをノックする音。
もう真梨子が帰ってきたのかと慌てるが、それにしては早すぎた。
「だれ?」
誰何の声をかけると遠慮がちな女の声が答えた。
「沢村です。小野田さん、無事ですか?」
自宅に来るはずのない名前を耳にして少し面食らった。おれのバイト先に、一月くらい前に入った新人の名前だったからだ。普通有り得ない事だが、店長に迎えにでも行くように言われたか。それにしても無事ですかってなんだ。
「店には電話したんだけどさ、誰も出なかったんだよね。おれ今日休むから……」
駆け寄ってドアを開け、おれは絶句した。
確かに沢村香澄ではあった。
化粧なんてしたことが無さそうな地味な顔に黒縁眼鏡を掛け、カラーなんて掛けたことがないだろう真っ黒なボブカット。名前負けして垢抜けない空気を漂わせるバイト先の後輩。
だが、おれの目の前に立つ沢村は、バイト上がりに見かけるような地味な普段着ではなく、バイオレンス映画にでも出てきそうな物騒な出で立ちに身を固めていた。
黒革の上下に登山用のバックパックを背負い、胸と手足にプロテクターを填め、左手には金属バット、右手にはスタンガンを握っている。眼鏡も掛けていないし、髪は後ろでまとめていた。
「バイトどころじゃないですよ、小野田さん」
思考停止したおれを押しのけて、沢村は部屋に踏み込んできた。
「お、おい」
抗議の声をあげるおれを尻目にドアから顔だけを出して素早く周囲を伺い、ドアに鍵をかけた。
「もしかしてまだ知らないんですか? 外は大変な事になってるのに」
ごついブーツを脱ぎ捨て、部屋の隅に据え付けてあるテレビにズカズカ歩み寄る。スイッチを入れて、画面を指し示した。
ぼんやりした光と、キャスターの悲鳴めいたアナウンスが薄暗い部屋を満たす。
↓第五回 〔第一章・シーン1・そのA 2006年10月17日(火)更新分〕↓
「……覧ください! 警察と自衛隊が築いた防衛網は、どこからともなく現れるゾンビの群れに対して懸命な抵抗を続けています! しかし! ここ数時間の攻撃で、ゾンビの数が減った気配は、まったくありません! それどころか、彼らは応戦する自衛隊員や警官を取り込んでどんどん数を増やしていますっ」
この道ウン十年のベテランとして有名な女性キャスターが、必死の形相で喚いていた。
背後には、武装した自衛隊員達が大勢背中を見せている。さらにその向こうには大きな建物が建ち並ぶビル街が見えた。
「……おい、なんだよこれ……」
そこで画面が切り替わって、女性キャスターや自衛隊員達の姿が消えた。変わってビル街の足下にびっしりとひしめく人の群れが大写しにされる。
連続する銃声や砲撃の音までが響き渡り、その度に群衆の中で少なくない数の人間達がなぎ倒され、血飛沫や肉片が舞う。が、まるで痛みなど感じないかの様に、すぐに立ち上がって再び群れに加わって行く。
「東京は、ほぼ壊滅状態です! 皆さん、早く避難してください。このままでは……」
喚き続けるキャスターには構わず、沢村は立ち上がると窓辺に近寄り窓を開け放った。柔らかい午前の陽光が、部屋の中に飛び込んで来る。
窓外に広がる町並みは、いつもと変わらず静かにその身を横たえていた。が、あちこちで黒煙が立ち上っている。普段はないそれが、起こっている事態の深刻さを暗示していた。
どこか遠くの方で上がった銃声が、風に乗って部屋に届いた。
おれの反応を伺う様な一瞥を寄越して、沢村は窓を閉めた。続けてカーテンが引かれると元通りの薄闇が戻って来た。
「テレビはまだ頑張って放送しているけど、東京はほぼ壊滅です。首都圏の人口密集地はどこも同じでしょうね。この辺りも、私が見て来た限り生きた人間はほとんどいません」
見たことのない饒舌を披露して、沢村が言う。
「店は?」
「私が行った時には、襲われた後でした……」
「なんでこんな事に……」
「今までの報道でもそれは伝えていませんでした。きっと原因が分からないまま日本は……もしかしたら世界が……滅びていくのかも知れませんね……」
沢村はテレビのスイッチをオフにして、音の消えた室内を見回した。
「恋人と同棲されていたんですね……」
妙に落ち着いた声音で呟く。部屋のそこここに置かれた真梨子の持ち物を、興味深そうに眺めては手に取った。
↓第六回 〔第一章・シーン1・そのB 2006年10月18日(水)更新分〕↓
「あ、これ、私も使ってます」
化粧品類の置かれた棚の中から、保湿クリームを手に取って沢村が言う。
「これ、いいんですよね。肌荒れが酷かったのに使い始めてから顔とかつるつるになったんですよ」
真梨子も同じ事を言っていた。確か「細胞の中から肌質を改善する」とか言う謳い文句の商品だったはずだ。が、おれにはそれよりも気になる事があった。沸いてきた疑問を沢村に投げかけた。
「なぁ、こんな時になんでわざわざここに来たんだ?」
おれと沢村には、非常事態の折りに真っ先に駆けつけるような関わりはない。バイト先の先輩後輩の間柄、それも一月に満たない期間の付き合いでしかないのだから。ついでに、それほど話をした憶えもない。仕事の仕方は多少教えたかも知れないが。
「……私が初めてホールに出た時に、小野田さん、エプロンの付け方教えてくれた上に、背中の紐結んでくれたじゃないですか。嬉しかったんです、私」
「はぁ……」
確かにした憶えはある。だが、それは一応ホールリーダーと言う立場上、新人教育の一環としてやっている事であって、何も沢村一人にしたことじゃあない。その後入って来た新人にも同じことをしているのを沢村だって見ているはずだった。おれの内心の突っ込みには気が付かず、おもむろに近づいて来た沢村は目の前に座った。両手を差し出して、おれの手の上に重ねる。
「それから私、初めては小野田さんとって決めてたんです」
沢村の頬は心なし紅く染まって見えた。
「決めっ……えっ! ええっ?」
決めてたっておまえ、そう言う大事な事は一人で勝手に決めちゃダメだろう。そう言うことを言いたかったのだ。だけど、びっくりし過ぎて何も言えなくなってしまった。
沢村が、さらに距離を縮めて、おれの目を覗き込んで来る。心なし瞳が潤んでいるのは気のせいじゃないだろう。
「そんなことしてる場合じゃないだろー」
おれは手術前の外科医のごとく両腕を体の前に持ち上げた。
手を払い除けられる形になった沢村は、おれの腕をくぐって腹の辺りに抱きついて来た。
「こんな場合だからじゃないですかぁー。私、男の人も知らずに死にたくないんですよ!」
沢村のごついプロテクターを填めた手が、おれのズボンを脱がせにかかった。
「いや、ちょっと待て、沢村ぁ!」
下がってゆくパジャマのズボンを、おれは必死で引き上げた。
「香澄って呼んでくださいっ。お願いします! 小野田さぁん!」
沢村が、パジャマに掛けた手にさらに力を入れる。
↓第七回 〔第一章・シーン1・そのC 2006年10月19日(木)更新分〕↓
お願いします!
いや、待て待て!
何度も言い合い揉み合う内に、体勢が入れ替わって沢村が床に背中を着けた。
一瞬の隙を見逃さず、おれは沢村を組み敷き、両腕を押さえつけた。
「ちょっと落ち着けよ、沢村。まだ人類全部が滅んだって決まった訳じゃないだろう」
「小野田さんは、街を見てないからそんなことが言えるんですよ!」
叫んだ沢村の顔は、涙でぐちゃぐちゃに濡れていた。
「……みんな死んだんですよ。私の両親も、友達も、バイトの人達もみんな……」
溢れる言葉は止まらず、呟きになってこぼれ落ちる。
「私だって、小野田さんだって、みんな死んじゃうんですよ! 最後くらい好きな人と過ごしたいと思うのがそんなに悪い事なんですか……」
「……」
悪くない。全然、悪くない。けど、こっちにはこっちの都合って物があるんだぜ。頭に浮かんだ台詞を、だが、おれは言葉に出しはしなかった。
よく見れば、沢村が身に着けているプロテクターや皮ジャケットには、引っ掻き傷や切り裂かれた様な後がいくつも付いているし、床に転がる金属バットも、血やよく分からない液体が乾いてこびり付いていたからだ。どんな修羅場をくぐり抜けてここへやって来たか、今となっては容易に想像が付く。
話くらいは聞いてやるか……。
「……沢村。男と女の事は、お願いします、はい分かりました、って訳には行かないものなんだよ。おれもお前もお互いの事よく知らないだろう。違うか?」
返事はない。沢村は諦めたように、ただおれの目を見つめている。
おれは、右腕だけを離して、涙で湿った頬を拭ってやった。
「……だからさ、お茶でも煎れるから、まず話をしないか?」
なんと言うのだろう、花が咲くと言う表現がぴったりな表情を、おれは久しぶりに見たと思う。以前は、真梨子もよく見せてくれていた眩しい表情だった。
「……はい!」
驚きと嬉しさの入り交じった笑顔を見せて、沢村は元気に返事をした。
(一章 シーン1・了)
☆第八回へ続く☆
SFジュブナイル