SFジュブナイル







 

 「週末を死人とともに」




↓第九十回 〔第六章 シーン3 その1 2007年3月15日(木)分〕↓




 少年たちの気配は、階段を通してすぐに伝わってきた。
 足音は、軽やかだがまとまりがなく無遠慮に響き、何事かやり取りしている会話の声も、まだ幼さを残す年相応のそれではあっても、言葉の節々に不穏な響きが張り付いている。
 横柄さを内包した濃厚な気配。確かに史郎のいう通り、話し合いの出来る相手じゃないのだろう。人の意見を受け入れるよりも、自分の要求を押し通すことの方にこそ慣れた人種の匂い。そんなものを嗅いだ気がして、悪寒に身震いする。
 言葉の通じない相手、腹の中身が見えない他人と対した時の焦燥や恐れが意識をよぎり、胃の辺りを冷たい鉛の塊が圧迫する。脳天が痺れたようで落ち着かない。
 ――本当にやれるのか?
 首筋にちりちりした感触が走り、弱気が這い昇ってきて耳元に囁く。ここまで来てやれるもなにもない。やるべきことをやるだけのことだ。いまさらなにを弱気になってるんだ、おれは。
 深く息を吸い込んで、吐き出す。恐れも弱気も一緒に吐き出しているつもりでも、頭の芯の痺れたような感触は拭えない。
――また無様を晒すだけじゃないのか?
 マンションでの屈辱が蘇り、脳味噌が沸騰した。心臓の鼓動が早まり、全身が熱を帯びる。あんなのは二度とごめんだ。今度は計画も立てた。状況を見極めて必要なら実行する。たったそれだけのことだ。今度こそやり通してやる。
 数瞬の自問自答の後、近づいてきた足音で我に返る。と、少年たちの階段を上ってくる足音がどやどや響いて、二階へ移動してきたのを知らせた。すぐ真下、床を隔てた向こうで濃度を増した気配が、白熱した意識に突き刺さってくる。さっきまで不明瞭だった会話が、具体的に意味を捉えられるようになった。
「ちょろ、右、まっつん、左。……ダメだ、お互いの射線に入るんじゃねぇ」
 不機嫌そうな、高い凄んだ声の後、足音がフロアの方へ遠ざかっていく。と同時に、フロア入り口辺りを探る靴音が響く。ふたりが二手に別れてフロアを探り、ひとりが入り口付近で警戒。残りのひとりが指示を出している。そう読み取ったおれは、これまで以上の脅威を改めて感じた。
 思っていたよりも統制が取れている。まとまりのない無法者の寄せ集めならば、つけ込む隙も出来やすいと思っていたが、そうではないらしい。せっかく高揚していた気持ちが、一気に萎縮した。手足から力が抜けていくのが、自分でも分かった。




↓第九十一回 〔第六章 シーン3 その2 2007年3月19日(月)分〕↓




――本当に大丈夫なのか? あんな思いつきのプランが、本当にうまく行くのか?
 不安が募り、自分の考え、行動への不信が脳内で圧力を高めていく。おれはあまりに呑気すぎたんじゃないか? こうなった世界をまだ現実的に捉え切れず、ゲーム感覚の軽い思いつきに行く末を委ねようとしているんじゃないか? 自分だけならばともかく、沢村や史郎までそれに巻き込もうとしているんじゃないのか?
 階下からの物音の切れ間に、ふいに誰かの息づかいが聞こえた気がして耳を澄ませた。確かに、荒い呼吸音が聞こえる。沢村か史郎のものだろうか? あいつらも緊張してるんだな。もう少し押さえてくれないだろうか、下の連中に気が付かれてしまう。そんな思考を巡らせた後、なんとなく思いついて息を止めてみると、呼吸音もピタリと止んだ。
 音を立てないように、ゆっくりと深呼吸をする。自分の呼吸に気が付かないほど張り詰めた神経を自覚して、思わず苦笑が込み上げる。
――バカが。
 本当にバカだな、おれは。心の中で呟くと、肩の力がにわかに抜けた。まだ直接対峙してもいないのに、ひとりで心乱している。もし、誰かがどこかから見下ろしていて、おれの頭の中まで見通していたら、呆れて笑っているに違いない。
 階下で散開していた複数の足音が、おれの下に収束して来ていた。物思いを収めて気を引き締め直す間にも、少年たちは階段を上る音を立て始めた。無遠慮な靴音が、隔てるものを無くしてクリアに届く。
 なにを思う間もなく、見下ろす手摺りの向こうに金髪の小柄な背中が姿を現した。続いて同じような年頃の背中がみっつ。どんどん踊り場に向かって階段を上り詰めて行く。
 その姿を目の当たりにして、おれはさっきまでの自分の神経過敏をバカらしく思った。統制が取れているといったって、サバイバルのプロじゃあるまいし、まして十五、六の子供だ。付け入る隙は必ずある。現に今目の前で、誰がいるかも分からない上階へ向けて無防備な背中を晒しているじゃないか。
 そう思ったとたん、冷静な頭が戻ってきた。ささくれ立っていた神経が、さざ波ひとつ無い湖面さながらに静まり返る。
 要はバランスの問題だ。嘗めてかかってはいけないし、過大評価し過ぎてもいけない。大事なのは相手を見極める嗅覚。状況を正確に捉える目。的確な判断力。それを次に繋げる行動力。
 冴えきった頭の奥の方で、意識するでもなくそれらの思考を重ねながら、おれは少年たちの一挙手一投足を捉え続けた。
 無造作に踊り場までの階段を上り切り、床に目を落としたままこちらに向き直る。次の階段へ踏み出すために顔を上げ、ほとんど表情を変えずに少年たちは足を止めた。




↓第九十二回 〔第六章 シーン3 その3 2007年3月20日(火)分〕↓




 八対の目がおれに集中する。階段を挟んで、見えない緊張の糸が張り詰めた。目の奥に困惑を宿し、少年たちは沈黙したまま全身を石にする。ボウガンは手にぶら下げたまま、慌ててこちらに振り上げるような愚は犯さなかった。
 史郎に聞いたとおり、窓から盗み見たとおりの四人組。先頭に金髪が立ち、背後に三人が付き従う形で並んでいる。全員派手なスニーカーになぜか制服らしいチェック柄のズボンを履き、思い思いの防寒着を身に着けて大振りなリュックサックを背負っている。上着から覗くシャツも制服の物らしいワイシャツで、昨日が金曜日だったことを考え合わせればどこかに集って燻っているところを今回の事態に遭遇したと推測出来る。
 背後の三人は、それぞれロクでもなさそうな雰囲気を漂わせていても、凡百の中の一種と片付けられる面をしている。が、金髪だけは違う。窓から見下ろした時と同様、侮れない空気を身に纏っている。ひとりだけ眼光が違うのだ。おれは、見合わす目の中に利発や聡明と同居した狡猾を感じ取り、警戒心が強まっていくのを自覚した。
 抜け毛が落ちても音を立てそうな静けさの中、互いに探る目を向け合い続ける。
 永遠にも思える数瞬が過ぎた。
 逡巡しているのか、口を切るきっかけを探しているのか、次の行動に移れないままの少年たちに向かっておれは言った。
「帰ってくれないか」
 声はおれと少年たちの間に落ちて、放散した。余韻が完全に消え去ってしばしの時が過ぎた後、金髪が溜め息を漏らした。
「いきなりそれは酷じゃないっすか?」
 困惑を眉宇に引き写し、いかにも痛惜の至りといった表情を見せる。が、口を開く一瞬、微かに口角が持ち上がったのを、おれは見逃さなかった。
 やにわに襲いかかって来たりしなかった以上、ここは何らかのやり取りをしなければ話が先に進まない。団地で会った中年男との対話を思い起こして、あれを真似しようと決めた。飽くまで受け入れ拒否を演じ、平行線を辿って反応を窺う。諦めて引き返すようなら良し、襲いかかる素振りを見せたら、即フロアに駆け込む。
「ここはおれと仲間が先に避難させて貰ってる。君たちまで受け入れる余裕はないんだ」
 キッパリ言い渡すと、沈痛な面持ちで両手を広げた。
「オレたちだって、行き場無くして困ってるんすよ。仲間に入れてくれたっていいと思うけど。腹も減ってるし、みんな疲れてる。ここで追い返すのは……人間のやることじゃないっすよ」
 必死に食い下がっているつもりなんだろうが、それにしてはなんて言い草だと思う。脅迫まがいの懇願というのは初めて聞いた。おれが思っているほど賢く無いのか、もしくはバカにしているのか。だが、それよりも言葉を切る直前の一言が、引っかかった。思わず反論が口を吐く。




↓第九十三回 〔第六章 シーン3 その4 2007年3月21日(水)分〕↓




「人殺しは人間のやることなのか?」
「……」
 金髪が押し黙った。上目遣いにおれを見据える。背後で、他の三人が困惑気味に金髪の背中へ目線を落とす。
「駅の向こうで死体をふたつ見つけた。背中に矢が刺さってたよ。そのボウガンで撃ったんだろ?」
 これで認めるとは思わない。思わないままに口にした。死体に刺さっていた矢とボウガンを持っている事実だけでは、証拠というには弱い。軽いジャブのつもりだった。
「これは護身用に持ってるだけっすよ。屍人は撃つけど、人間なんて撃ったことないっす。なぁ?」
 案の定、金髪は否定した。後ろを振り向いて同意を求める。背後の三人は、それぞれ肯いてリーダーを援護した。全員真剣な顔をしているが、内心ほくそ笑んでいるような、おれの反応を楽しんでいるような空気が滲み出ている。
「お前らが撃ったふたりの友達を匿ってるんだ。話は聞いてる。全部知ってるぜ。……それでも、まだシラを切るか?」
 切り札を突きつけるつもりで、言い切る。即座に答えが返ってきた。
「じゃあ、ソイツが嘘吐いてるんじゃないっすか? オレたちほんとにそんなことしてないし、人殺す理由なんて無いっすよ」
 おれに考える間を与えず、一気に捲し立てる。
「だいたい、ソイツの話だけ聞いて一方的にオレたちがふたりも殺したなんて、簡単に信じちゃっていいんすか? ホントにオレ達じゃ無かったらどうしてくれるんすか? オレたちこんなだから、なんかあるとすぐ疑われっちまうけど、結構傷つくんすよね、そういうの。そんなに悪く見えますかね……」
 金髪は言い終えると、おれから目を反らして床に目を落とした。傷ついた素振りを見せ、それきり黙り込む。ああ、見える、お前らはおれと同じ最低の極悪人だ、とは言えなくなった。
 おれは、確かに史郎の話しか聞いていない。自然に史郎を信じていたが、裏付けを取ったわけでもなく、真実だという保証はどこにも無い。ボウガンのことにしても、団地の男の話では避難所で武器として使っていたと言うのだから、少年たちが持っている四丁ですべてじゃないだろう。これまで史郎の話を根拠に成り立っていた自信が、急速にしぼんでいくのを感じた。
 証拠も無く疑われることの辛さは知っている。ファミレスでバイトをする以前の話だ。スーパーのレジ打ちのアルバイトをしたことがあった。閉店前に「レジ締め」という、一日の売上金の合計を計算し、データと一緒に現金を事務所に戻す作業があるのだ。
 ある日、レジ締めを終えて更衣室で着替えていると、店長が慌てた様子で駆け込んできた。おれを見つけるや否や前置きもなにもなく、「金抜いただろう!」といってきたのだ。「売り上げが足りない」ではない。いきなり犯人扱いされたのだった。




↓第九十四回 〔第六章 シーン3 その5 2007年3月22日(木)分〕↓




 その日は日曜だったから、フルタイムで同じレジにずっと入っていた。おれしかそのレジには入ってはいない。長い勤務時間中にミスをしたのかもしれない。だが、売上金を懐になど入れてはいない。よっぽど信用されていなかったのだと悟って、情けなくなった。
 その後、「抜いた」「抜かない」の押し問答を繰り広げ、結局証拠が無いということでそれ以上の追求は無かったのだが、そんな店長の下で働き続ける気にもなれず、しばらくタイミングを見計らってスーパーを辞めた。いまだに店長はおれがくすねたと思っているのかもしれない。……生き残っていたらの話だが。
 苦い経験が脳裏を過ぎって、重ねる言葉を無くした。罪悪感が刺激され、どうするべきか迷いが生まれる。揺るぎないと信じていた大地が、確固とした感触を曖昧にして来ていた。
 どう答えるべきか分からない。金髪の話を鵜呑みにする気もないが、疑惑が芽生えた以上、全否定してしまうのには、ためらいを感じる。
 痛いところを突かれて思考停止した頭を、なんとかフル回転させようと奥歯を噛みしめる。と、背後で足音がして脇を見下ろすと、史郎がシャッターをくぐっているのが目に入った。
「ふ、ふざけるなっ!」
 おれの左隣に肩を並べて、史郎が頼りなげな怒声を上げた。ふわっとした茶髪が勢いに揺れる。肩が小刻みに震えていた。
「あいつら殺しておいて、なに言ってるんだっ。ふざけるのも大概にしろっ!」
 史郎は、ナイフを取り出して少年たちに向かって突きつけた。
「アンタ、誰? 人違いしてるんじゃないの?」
 金髪が、訳が分からないという顔で首を傾げる。
「しらばっくれるな! そうやってこの人まで騙すつもりだろ、お前たちの思うとおりにはさせない!」
 史郎と金髪が睨み合う。もっとも、史郎はギリギリのところでやっと金髪に向き合っている様な有り様。金髪の方は、さっぱり状況が呑み込めないと言う顔をしている。余裕を感じるのはおれの先入観か、勝利への確信か。
 史郎が、縋るような顔をしておれを見る。
「こいつらの言うこと信じるんですか? 小野田さんっ」
 悲哀の滲んだ顔で、史郎は言った。
「史郎、落ち着け」
 気を静めるために肩に手を伸ばすと、史郎はナイフをおれに向けて半歩退いた。
「信じてくれないんですかっ。いまだってあいつらが……」
 史郎は言葉の途中で、苦虫を噛みつぶした様な顔をした。もどかしげな様子で言葉を切る。
「あいつらって、なんだ? なんのことを言ってるんだ」
 史郎から返事は返って来ず、ただ悲しげな目をしておれを見つめている。金髪たちのことを言っているのなら、普通はこいつら、もしくはそいつら、だろう。史郎とのたった小一時間程度の短い付き合いの中で感じた、いくつかの違和感が頭に浮かんだ。
 交差点での『彼女もその方がいいと言ってますから』と言った後、わざわざ『香澄さんのことですよ』と補足した不自然。ついさっき、踊り場から金髪たちを見つめている時に見せた、憎しみではなく悲しみの表情。まだなんなのか分からないそれらが、史郎への信頼を薄れさせていく。




↓第九十五回 〔第六章 シーン3 その6 2007年3月26日(月)分〕↓




「どっかで見たことあると思ってたんすけど」
 金髪が出し抜けに口を挟んで来た。おれが顔を向けると、史郎に指先を向けながら先を続ける。
「ソイツ、学校で有名な嘘つき野郎っすよ。学年一個下だからすぐには分からなかったけど、間違いないっす」
「違う! 僕は嘘なんか吐かないっ」
「オレたちがふたりも殺したってさっきの話、ソイツから聞いたんですよねぇ? 信じちゃダメっすよ。ソイツに殺されるかも知れないっすよ」
「嘘なんかじゃないっ! 信じてください、小野田さんっ」
 史郎は、発言する度に激昂していく。金髪は、言葉こそおちょっくっている様に聞こえるが、真剣そのものの顔つきだ。
「信じちゃダメっすよ」
「小野田さんっ!」
 双方ともに張り詰めた顔でおれを見る。
 史郎の方が真実味がある。だが、一抹の違和感も確かに感じる。一方、金髪の方は、なにか嘘くささが付きまとう。だが、自分で言うようにそう見えやすいというデメリットを差し引くと、一概に不信だけを持ってしまっていいのか迷う。いずれにしろ、両方の話を突き合わせれば、どちらかが嘘を吐いているのに間違いはない。
 おれは、他人の嘘を見破るような慧眼は持ち合わせていない。両方の話を詳しく検証している時間もない。簡単で確実に嘘をはっきりさせる方法……縋る気持ちで、内心に呟く。そんな都合のいい方法、あるわけが……。
 そこまで考えて、唐突に真梨子の顔が浮かんだ。
 おれ達の部屋、横座り、テーブル、頬杖、気だるげな表情。背後の窓に広がる夕暮れに染まった赤い空。蚊取り線香、扇風機、飲みかけのビール、食べかけのプリン。ふたりで顔を向けるテレビ。ブロンドの白人、手錠、犯罪、詐欺師? 世界の犯罪者とか銘打たれた番組。
 いつのことだか、自分でも分からない印象の羅列。次々蘇ってくる記憶の断片。
『他人の頭の中なんて、解ると思うのが間違ってるってことよね』
『そうかー? 嘘なんて相手の態度でわかるだろ』
『だから、騙されるんでしょ。自分は騙されないと思ってるから』
『じゃあ、おれ騙されてるかもなぁー』
『へへへ、どうだろうねぇ』
『なんだー、浮気かー?』
『どうだろうね』
 唐突の沈黙。ふいの真面目な顔。気まずくなって話題を変えた記憶。
『じゃあ、もしおれが浮気してたらどうやって見破る?』
『あたしなら……』
『一樹の吐く嘘に乗ってあげる。きっと、ひとつやふたつはもっともらしいことを言えても、十や二十嘘を吐く間には、どこかで必ずボロが出るでしょ?』
『押してダメなら引いてみなってことかー』
『そう、発想の転換』
 思わず頬が持ち上がる気分。ダメだ、そんな気長にやってられない。それに、そんなことしなくても、ボロを出したじゃないか、真梨子。
 深夜、部屋の玄関、整いすぎたスーツ、残業して来たにしては脂分の少ない鼻っ面。
『なんだそれ、首筋。どこかでぶつけたのか?』
『そう! 会社のっ、階段で転んだの!』
 覗き込もうとするおれ、慌てて首筋を手で覆う真梨子。気まずい沈黙。おれを避けるようにクローゼットに向かう背中。
『嘘だよ。なんにも付いてねぇよ』
 振り向いた真梨子。呆気に取られた表情。驚きに見開かれた目。
『……キスマークでも付けられたと思ったか。心当たり、あるんだろ?』
 その後、真梨子は……。
 閃きにも似た勢いで、記憶の奔流が過ぎ去っていった。
 後味の悪い思いを噛みしめながら、史郎に目を向ける。史郎は不思議そうな顔で見返して来た。次の行動を悟られないよう合わせた目を反らさず、一気に右手のナイフに手を伸ばす。史郎が気付いて力を込めるより一瞬早く、おれはナイフを奪い取っていた。




↓第九十六回 〔第六章 シーン3 その7 2007年10月1日(月)分〕↓




「なにするんですっ!」
 史郎は驚愕の入り交じった怒声を発しながら、空になった掌をおれが掴んだナイフを追う様に突き出す。おれは、それを反射的に逆の手で弾いた。
「なにをじゃないだろ!」
 腹の底から吐き出した怒りを史郎の顔面に叩きつけた。ナイフを史郎から遠ざけつつ、空いた右手で思いっきり肩を壁に押しつけた。反撃を警戒して、腕を伸びるだけ伸ばして距離を取る。史郎は呻きを上げ、整った顔立ちを苦痛に歪めた。
「こんなもん突きつけて信じろだとっ? 信用されたいなら武器なんて向けるんじゃねぇよ。 そんなもん脅迫じゃねぇかっ!」
 意識していなかった自分の行動の意味を、おれに突きつけられてやっと理解したのか、史郎はうろたえて目を泳がせた。
「あ……、そんなつもりじゃ……」
「おまえがどういうつもりだろうと、おれにはそうとしか見えないんだよっ」
 畳みかけるおれの言葉に、史郎は落胆を隠しもせずにがっくりうなだれる。気の毒なくらい力をなくし、今にも自己嫌悪の泥沼に落ち込んでしまいそうだった。
 まだだ。まだ、塞ぎ込んで貰っちゃ困る。内心に呟き、続きを一気に捲し立てた。
「おまえには、いくつか不審な点がある。こうなったら、そこをはっきり説明して貰わない限り、今までみたいには信用できない。さっきの『あいつら』ってどいつらのことだ? おれを迎えに来たときに沢村のことを『おれの彼女』と回りくどく言ったのはなんでだ? その窓からこいつらを見下ろした時、なんであんな悲しそうな顔をしてた? 普通、友達を殺した相手なら抱くのは憎しみだろう。なんでだ。おまえはなにを隠してるんだ? ちゃんと説明してみせろよっ」
「それは……」
 おれが疑問を叩きつけると史郎は暗い目をして口を開いた。なにか言おうとして言いよどむ。
「説明出来ないのか?」
「今話しても信じて貰えないから……」
 史郎は悲しそうな顔でおれをみつめた。嘘を吐いている目じゃないな、心の中で確かめる。おれ達を騙そうとしているなら、もっともらしいごまかしを言えばいい。今のおれの立場を考えれば、それで十分混乱させられる。そうせず、『今は言えない』とだけ言う史郎は、信用してもいいのかも知れない。が、まだダメだ。言えないことがなんなのか、それがはっきり分からなければ、どこまでも史郎はグレーな存在でしかない。このままの状態で史郎を信用するなら、金髪達が黒だとはっきりさせなければ。
「じゃあ、こいつらの言うことを信じることにするぞ。いいんだな?」
「しかたありません……」
 肩を押さえつけていた手を緩めると、返事をしながら史郎はその場にへたり込んだ。苛めている様で胸が痛んだが、こういう答えが返ってくるのは好都合だった。金髪達の警戒を緩めるのに一役買ってくれるに違いない。おれは、踊り場で成り行きを見守り続けていた金髪達に向き直った。




↓第九十七回 〔第六章 シーン3 その8 2007年10月2日(火)分〕↓




「こういう事になった。そっちを信用することにする」
 少年たちは、揃って事情が良く呑み込めていない様子で戸惑っていたが、おれが呼びかけると金髪が頷いた。
「分かってくれてうれしいっすよ」
 緊張を解き、笑顔を見せる。うしろの三人も、それぞれに表情を緩めた。
 緊迫の後の弛緩。付け入るなら今この瞬間がチャンスだ。目には目を。歯には歯を。嘘には嘘を。首筋を押さえて慌てる真梨子の姿が脳裏を過ぎって、やるべきことをおれに教えた。
 おれは、史郎のナイフを左手に持ち替えた。ただし、刃を人差し指の腹に当て、親指を背の部分に当てる。左手を後方に振りつつ親指に力を込め、ナイフを放り出す。指先が熱を持ち、鮮烈な痛みが目論みの上手くいった事を伝える。ナイフが、後ろで乾いた音を立てた。金髪たちには、気取った、もしくは変わった投げ方に見えたはずだ。そう願う。
「悪かったな。中に入ってゆっくりしてくれ」
 左手を軽く握りしめて階段を下り、金髪の前に立った。
「どうもっす」
 早速、前に踏み出そうとする金髪たちを、右手で制して押しとどめた。
「悪いが武器はここに置いて行って貰う。休息するには必要ないだろ?」
 それを聞いた四人の間に、隠微な空気が漂った。うしろの三人の視線が、迷うように金髪の背中に集まる。金髪は、三人とは対照的に動じたりはせず、軽く「いいっすよ」と言ってのけた。
「じゃあ、その辺に武器を置いて中に入ってくれ。食事でもしながら情報交換をしたい」
 おれは金髪に右手を差し出した。金髪が即座に右手を出し握手を交わす。その手を握り返しながら、おれは金髪の首筋に視線を落とした。いかにも今気が付いたと言う感じを意識して覗き込む。握り合った手を離さないまま、金髪と目を合わせた。
「ちょっと待った。なんだこれ」
 ここが正念場だ。振り向かせたら、背後の三人に金髪の首筋を見せたらアウトだ。視線の先、金髪の顎の右下辺りに顔を寄せ、握った左手で首筋を拭う。親指を立て、金髪の鼻面に突きつけて見せた。
「血だよな、これ。どう説明してくれるんだ?」
 親指に付着した血はおれの物だ。だが、金髪たちが黒で史郎の友人ふたりを殺したのならば、返り血を浴びた心当たりがあることになる。簡単な引っかけでしかないものの、馬脚を現す率はかなり高いはずだ。もし、金髪が黒で、なおかつ演技力が本物ならば、もう実際に襲いかかって来るのを待つしかない。
 金髪は、おれの指先を見つめた。口を開くことはせず、ただ黙って指に付着した血に視線を注ぎ続ける。涼しい顔をしたままで表情に変化はない。凍てついた沈黙が続き、時を経るにつれて額や首筋に冷や汗が吹き出してくる。嘘を見透かされた時の気まずさが胸を鷲掴みにし、そろそろ堪えきれないと言う思いが込み上げて来るのを自覚した刹那、金髪の肩越しに震える声が上がった。




↓第九十八回 〔第六章 シーン3 その9 2007年10月3日(水)分〕↓




「あの距離でなんで……」
 おれが目を向けるのと、金髪が振り返るのが同時だった。金髪の仲間内のひとり、中では割とガタイのデカい少年が顔を青くしておれの指先に視線を向けていた。おそらく、金髪の背中に遮られて、指先の血を目にするのが遅れたのだろう。結果として、目の前の金髪の動向を考慮に入れられなかったこいつの、迂闊さに助けられた事になる。
 おれと金髪、ふたりに凝視された声の主は、そこに至ってやっと自分の失敗に気が付いたらしく、怯えた様子で一歩退いた。気まずそうに揺れる目は、おれよりも金髪の方へ多めに注がれているようだった。
「まっつんー」
 金髪が茫洋とした声を放った。おれの手を振り払い、体の正面をまっつんと呼んだ少年に向ける。まっつんは、笑っているとも泣いているとも取れる引きつった笑みを浮かべ、いやいやをする様に小刻みに首を振る。金髪は左手に携えたボウガンを振り上げ、まっすぐまっつんに突きつけた。
「おい!」
 おれが思わず投げつけた怒声を、金髪はまるで気に止める様子もなく、一瞬後にはボウガンを撃ち放った。まっつんは左肩に生えた矢を愕然とした表情で眺める。ワンテンポ遅れて床に倒れ、腹の底からと思える絶叫を吐き出した。
「いてぇ! いってぇよぉっ」
 残りのふたりがどうしたらいいのか分からない様子で、金髪とまっつんの脇で狼狽える。おれは引き際を悟って踵を返した。
「史郎、立て!」
 まだ何が起こったのか呑み込めていないらしい史郎に檄を飛ばし、シャッター前の短い階段を駆け上がる。手摺りの影に隠し置いた消火器を手に取り、レバーの感触を確かめる間も惜しんで踊り場に向けるのと、金髪が新しい矢を装填し終えてボウガンをこちらに向けるのがほぼ同時だった。まっすぐに向けられた矢が、まだ受けていない痛みを脳裏に想像させるのを押し殺し、あらかじめ安全弁を外して置いたレバーを目一杯握り込む。とたんにホースの先端から消化剤が噴射され、わずかに赤みを帯びた粉塵が爆発的に視界を覆い尽くした。
 階段に充満した粉末が体中に降りかかり、ジャケットから露出した肌、顔中の穴という穴から体内に入り込んでくる。吸い込んでしまった消化剤にむせ返り、身を折りながらレバーを戻すと、金髪の苦しげな怒鳴り声と同時に頭上に風切り音が鳴り、なにかがシャッターを叩く金属音が響き渡った。思わず身を縮める。消化器をその辺に放り出して、史郎がいた辺りに手を伸ばした。
「ぶわっ! げほっ!」
 史郎の驚いた声が聞こえ安堵するの一瞬、今度は出口を求めて逆の手を背後に突き出す。その手にシャッターが当たり、音を立てて存在と現在位置を知らせた。
「げへっ、ぶほっ、史郎! 行くぞ!」
「は、はいっ」
 おれは、史郎のジャケットのどこだか分からない布地を引っ張りながら、シャッターをくぐる。
「おれの合図で踏み切れよ」
「はいっ」
 史郎に呼びかけながら頭の中にフロアの配置を呼び出し、シャッターからの距離を頼りにほとんど無いはずの助走区間へと踏み出す。
 小股で四歩。暗闇の中、事前に確かめておいた距離を消化し、「跳べっ」 叫びながら最後の一歩を踏み切った。




(六章 シーン3 了)
☆第九十九回へ続く☆