「週末を死人とともにG」




↓第二十四回 〔第三章・シーン1・その@ 2006年11月20日(月)分〕↓




 目的のマンションまではかなりの距離があった。
 なにも考えずに走り出したはいいものの、大していかないうちに息があがり、体のあちこちが悲鳴を上げ始めた。
 全身が熱を帯びて暑い。心臓が破裂しそうだ。まるで鉛のように手足が重い。もつれた足を踏ん張って体勢を立て直し、ふらつきながらも足を進める。脳裏に運動不足の四文字がよぎって、日頃の怠惰な生活を後悔した。
 どれくらい進んだのかすら把握出来ないほどの疲労に限界の思いが沸き上がって、アスファルトに両足を突き立てる。膝に手をついて呼吸を整えてもなかなか落ち着かない。汗で冷たくなった襟首を引っ張りながら見上げると、思いがけずすぐ近くに高層マンションがそびえ立っていた。
 左前方に位置していて、街道に面した部分に玄関ロビーがある。建物の手前では街道に側道が接している。バルコニーはそちら側に並んでいた。目を向けるとすぐに目指すバルコニーが見えた。下から見上げる形だから内側はほとんど見えない。が、双眼鏡で見た女性らしき人影の長い髪と衣服の一部を確認することは出来た。
「おーい!」
 精一杯声を張り上げ、地上十数メートルに向かって呼びかけた。期待した反応はなく、静けさだけが帰ってくる。届かなかったと判断し、もう一度呼びかけるために息を大きく吸い込んだ時、女性の方が顔を出した。
 三十代前半くらいで、まだまだ若い印象。どこかの奥さんというよりは、年上のお姉さんといった方がおれにはしっくりくる。が、母親らしい空気もしっかり身に纏っていた。
「助けて! うちの主人が中で襲われているの!」
 女性は信じられないものを見たという表情の後、急激に込み上げてきたものを堪えるように顔をくしゃくしゃにし、嗚咽混じりに叫んだ。崖っぷちに立たされた人があげる絶叫だった。
「すぐに行くから! もうちょっと頑張ってください!」
 おれが答えると何度も頷いてみせた。バルコニーの影に引っ込む。隠れてみえなくなった後、なにか叫んでいる声が聞こえた。きっと部屋の中のご主人を元気づけているのだろう。
 はっきりとは聞き取れないその声を聞きながら、真っ白だった頭が急激に現実に引き戻されるのを感じた。
 性急で爆発的な、おれは『これを』なんとかしなければいけないのだ、という理解。
 同時に込み上げてくる、おれが『これを』なんとかするしかないのだ、という、不安。
 もうこんなにへとへとになっているのに、この上マンションの十階まで登ったあとに動けるとも思えない。傷ひとつ付けられたらゾンビ化してしまうかも知れないのに、身を守るものもなくフライパン一個で? ロクに取っ組み合いのケンカもしたことがない身の上で、他人の命が危険にさらされているような修羅場に飛び込んで、さらに救い出すなんてことが……。
 気弱な考えが次々に浮かび、足をすくませる。肝が冷える感じがして、膝が笑い出した。無意識に後ずさりしそうになるのを感じて、逃げ出す足を引き戻す。




↓第二十五回 〔第三章・シーン1・そのA 2006年11月21日(火)分〕↓




 何をしてるんだ、おれは……。心の中で悪魔と天使が戦うとはこういうことか。弱気と良心が行き交い、交互に優位に立つ心中を自覚する。急に恥ずかしさが込み上げてきて、気が付けば足を蹴り出していた。
「うぉぉぉぉおおおお!」
 雄叫びが自然と喉から零れ出て、周囲に響き渡る。自分の声が弱気を追い散らす。玄関ロビーに続くエントランスを、ガクガクとぎこちない膝を追い立てて駆け上がる。ここで逃げ出したら自分に恥ずかしいし、沢村の手前、面目もなくなる。
 飛び込んだロビーは惨憺たる有様だった。
 ガラス扉によって外玄関と内玄関に分けられていたようだが、扉といわず、ガラス製の仕切り部分はすべて破壊され、砕けた破片が床一面に散らばっている。床や壁のところどころに赤黒い染みや乾きかけの血溜まり、なにかを引きずったような後が張り付いていて、さび臭い匂いが鼻をついた。右手の壁面に設置されたインターホン付きの操作パネルだけが、何事もなかったかのように無傷だった。
 内玄関の左壁には案内盤や掲示板、右壁にはエレベーターが二基設置されている。一応呼び出しボタンを押すと、案の定なんの反応もなかった。
 階段はどこだ? ぐるりを見回してもそれらしい入り口はない。
 ロビーの突き当たりは壁が無く、ガラスの嵌め殺しになっている。向こう側は、芝生の張られた中庭になっていて、砂場や小振りなジャングルジムなどの遊具も設置されている。それほど大きくないが、奥まったところに木立も見受けられる。
 足下に注意しながら突き当たりまで直進すると、そこから左右に通路が延びて、中庭を回り込んでいるのが分かった。見上げると吹き抜けになっている。各階の手摺りと天井を透かして、ゾンビらしい人影がいくつもうろついているのが見える。
 左右の通路を覗くと左通路の左壁、ロビーから入ってすぐのところに階段の入り口があった。フライパンを握りしめて、駆け込んだ。
 十階は目が眩むほど遠かった。辿り着く頃にはまた息が上がり、大げさに腕を振って勢いを付けなければ膝が上がらないほどに疲労していた。肺が張り裂けそうだったが、息を整える暇も惜しかった。構わず目的の部屋を目指した。
 たぶんここだと思われる部屋の扉は、枠だけを残して内側に倒れていた。
 中を覗き込む。上がり框から廊下がまっすぐに伸びて、リビングにつながっている。バルコニーまで一直線に見通せるが、さっき言葉を交わした女性どころか人の気配すらない。
 耳を澄まして様子を伺う。部屋の中に動きはない。鬱陶しいくらい静まりかえっている。
 「誰かいませんか!」
 中に向かって呼びかける。返事はない。位置的には間違いないはずだった。




↓第二十六回 〔第三章・シーン1・そのB 2006年11月22日(水)分〕↓




 左右の部屋も確認しようかと背を向けたとき、出し抜けに室内で音がした。慌てて振り返る。
 なにか固い棒で床を突くような物音だ。フローリングに鈍く響く。
 しばしの間が空き、同じ音がもう一度。また間が空いて、もう一度。そこから連続して物音がし出したと思うと、リビングの入り口に見知らぬ男が姿を現した。
 背が高くガタイのいい男で、室内だと言うのにスニーカーを履き、ジーンズとタンクトップと言う出で立ちだった。どれもかぎ裂きだらけでボロボロだ。左腕と右腹に引き裂かれたような、噛みつかれたような生々しい傷跡がある。顔面には断末魔の際に浮かべたのだろう苦痛にゆがんだ表情がそのまま張り付いていて、目は虚ろと言うよりは死人のそれそのものだった。ただ、肌だけは異常に張りがある。生者以上に血色がいい。今溢したような生々しい色をした鮮血を滴らせて、口元から胸元にかけて真っ赤に濡らしている。
「……アァァァァー」
 ゾンビは姿を現すと一息に突進してきた。同時に血生臭い匂いが一緒になって迫ってくる。体自体は普通の死者と同じく硬直しているのか、動きはぎこちなく、足を下ろす度に床を突くような音を立てる。思ったより素早い動きだった。
 おれは、初めて直接対峙している緊張感と、なにより気味悪さに一歩も動けない有り様だった。鉄の玄関扉を引き倒してしまうような連中だ。片手でもつかまれたらひとたまりもない。それに、ひとつでも傷を付けられたらアウトになる可能性がある。足が震えて言うことを聞かない。迎え撃つつもりで構えたフライパンも、威嚇には役不足だった。ゾンビはあっという間に間合いを縮め、目前まで迫ってきた。
 唯一の武器を震える両腕で振り上げ、思いっきり振り下ろす。同時に、ゾンビが右手を突き出した。手に衝撃が走り、こーん、という間抜けな音とともに、柄の感触が消えていた。両手が余韻でビリビリ痺れる。背後で、だいぶ遠い下の方からフライパンがあげるかん高い着地音が届いた。こんっ、ここん、と、乾いた音が続いた。
 ゾンビがそのままの勢いで、のし掛かってくる。両腕を振り上げ、上から覆い被さるように。死者そのままの目と目が合った。限界だった。
「うわっ、うわぁぁぁっ!」
 腹の底から悲鳴を張り上げる。その場から脱兎のごとく逃げ出した。少しでも速度を落とせば、それでもう死んでしまう。そんな気がして死に物狂いで走る。
 昇降口に突進し、飛び込んで壁際に身を隠す。顔だけ出して確認すると、ゾンビとの距離はだいぶ開いていた。後を追ってきてはいるが、今、このまま階段を下りてしまえば逃げることは出来ると思った。




↓第二十七回 〔第三章・シーン1・そのC 2006年11月23日(木)分〕↓




 気持ちはだいぶ逃亡に傾いている。だが、ためらう気持ちも同時にあった。
 室内でコイツを相手にしていた人物は、おそらくもう生きてはいないだろう。バルコニーのふたりはどうしたのか。リビングの窓は閉まっていた。まだ生きているはずだ。なんとか救い出したいと思っても、ゾンビをどうにかする手段を持ち合わせていない。こうしている間にもどんどん近づいてくる。どうする。どうするっ?
 階下から階段を駆け上る足音が聞こえた。見ると、ひとつ下の踊り場に沢村が丁度、到着したところだった。
「小野田さんっ!」
 荒い息のしたから、無事を確かめる声を出した。
「沢村っ、おせぇよっ」
 苛立ち混じりにぶつけたセリフには動じず、「だいじょうぶですか?」の声と一緒に上ってきて、おれの横に立った。廊下を覗き込んで視線を巡らせる。状況を呑み込んだのか、沢村はおれの袖をつかんで階段を上り始めた。
「小野田さん、上ですよっ、ひとつ上の踊り場に陣取りますっ」 そういって金属バットをおれの手に握らせる。 「ゴルフのスイングの要領で、振り下ろしてください!」 肩を叩いて、後ろでガサゴソやり始めた。
 説明不足だが、やろうとしてることは呑み込めた。焦りや迷いは、それで消えた。
 ゾンビが、気味の悪い足音を立てながら、昇降口に姿を現した。進むべき方向を見定めるように逡巡する。
「こっちだ、こっち」
 おれは、手にした金属バットで床を打ち鳴らした。音に反応して、ゾンビが階段を上り始めた。バットを振り上げて、その瞬間を待つ。
 一段、二段。
 一歩段を上るごとに、その分頭が高くなる。
 二段、三段。
 まだ、まだまだ。
 四段。
 もうちょいだ。堪えろ堪えろ。
 五段。
「この野郎っ!」
 ゴルフボールと違ってインパクトのポイントが遠い分、左足だけを一段踏み降りて金属バットを振り下ろした。棒を倒すには先端を狙った方が倒れやすい。ゾンビも一緒だった。斜め下方向からの打撃を顎で受け止めたゾンビは、派手にひっくり返って階段下に落下した。
 仰向けに転がったまま、激しく手足を動かしている。沢村が脇をすり抜けてゾンビに駆け寄り、手を伸ばした。
 バヂン!!
 青白い光が弾けた音を発てる。暴れていたゾンビの動きが止まった。立ち上がった沢村の手にはスタンガンが握られていた。




↓第二十八回 〔第三章・シーン1・そのD 2006年11月27日(月)分〕↓




「倒したのか?」
 階段を下りて間近で確認すると、完全にとどめを差したわけでは無いことが分かった。手足が微かに痙攣している。放って置いたら、そのうち動き出しそうな感じだった。
「一時しのぎです。ゾンビが死ぬことはないでしょう。もう死んでるわけですし……行きましょう。また襲われないうちに」
 沢村は、廊下を目的の部屋に向かって歩き出した。おれも、後に続いた。
 目的の部屋は1006号室だった。表札には部屋番号と、「杉本」の苗字だけが記されている。リビングに踏み込むと、フローリングの床の上に世帯主らしき男が、血にまみれて横たわっていた。
 腕や胸元に、いくつも裂傷や打撲傷があり、肩から左頸筋にかけて一際目立つ抉り取られたような咬傷が残っている。床にはおびただしい量の血溜まり。全身の血液が流れ出してしまっているような気がして、冷たい汗が額を伝わった。
 沢村が傍らにしゃがみ込む。頬を叩くと、男はうっすら目を開けた。
 「だいじょうぶですか?」とは聞かないようだった。一目で大丈夫ではないからだろう。
「……妻と……息子……」
 男は、動こうとしない唇を震わせて、焦点の合っていない目を窓の外へ向けようとする。窓の向こうには人影はない。嫌な予感がして、おれはバルコニーへの一歩を踏み出せなかった。沢村が窓を開けてバルコニーへ出た。手摺りから下を見下ろし、こっちを向いて首を振った。
 バルコニーに飛び出し、身を乗り出した。足下の側道に母親と息子が抱き合ったまま倒れていた。頭の下に、赤黒い水たまりが広がっている。物音を聞きつけたゾンビの群れが、ハイエナよろしく群がってきていた。
 リビングの窓は開いていなかったのだ。割れてもいなかった。あのゾンビは、まだふたりには到達していなかったはずだ。
「なんでだよ……」
 襲われてもいない者がどうして路上に屍をさらしているんだ……。まだ無事だった証拠があるのになぜあそこで無惨に死んでるんだよっ!
 おれの心の叫びを封じるように、沢村が人差し指を口元にあて、男の傍らに戻っていった。
「奥さんと息子さんは無事です。安心してください」
 耳元で優しく囁く。
「……よかっ……」
 男は呟いて目を閉じた。顔に安心したような笑みが浮かびあがり、同時に全身が弛緩した。事切れたのだと分かった。


(第三章 シーン1 了)




                    ☆第二十九回へ続く☆




                        






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