「週末を死人とともに」




↓第二十九回 〔第三章・シーン2・その@ 2006年11月28日(火)分〕↓




 分からない。
 なんでここにいたはずの母子が死んでいるのか理解できない。
 窓は閉まっていた。割られてはいない。ゾンビはおれが来るまで抵抗する父親を痛めつけ、ついには致命傷を与え、貪り……いや、狩った獲物に止めを刺そうとしていたはずだ。そこを、おれが邪魔した。そのとき、まだ母子はここにいたはずで、危害が及んでいてはおかしい。それが路上で死んでいるのはなぜだ。
 分からない。
 なんでここにいたはずの母子が死んでいるのか理解できない。
 窓は閉まっていた。割られてはいない。ゾンビはおれが来るまで抵抗する父親を痛めつけ、ついには致命傷を与え、貪り……いや、狩った獲物に止めを刺そうとしていたはずだ。そこを、おれが邪魔した。そのとき、まだ母子はここにいたはずで、危害が及んでいてはおかしい。それが路上で死んでいるのはなぜだ。
 分からない。
 なんでここにいたはずの母子が死んでいるのか理解できない。
 窓は閉まっていた。割られてはいない。ゾンビはおれが来るまで抵抗する父親を痛めつけ、ついには致命傷を与え、貪り……いや、狩った獲物に止めを刺そうとしていたはずだ。そこを、おれが邪魔した。そのとき、まだ母子はここにいたはずで、危害が及んでいてはおかしい。それが路上で死んでいるのはなぜだ。
 分からない。
 なんでここにいたはずの母子が死んでい……。
「……のだっさんっ、しっかりしてください!」
 左の頬に走った痛みで物思いから引き戻された。張った掌を頬に触れさせたまま、沢村が心配げに覗き込んでいた。
「ショックなのは分かるけど、立ち止まってる時間はないんですよ」
 語尾の音程をわずかにあげた、優しく諭すような言い方だった。
「あ、ああ……ごめん。ぼんやりしてた」
 頭を振って物思いを払う。
 穏やかな風が吹いて、ベタついた肌を冷やしていく。窓際に吊されたカーテンがそよいでいた。
 数分前まで母子がいた場所に立っていても、なぜなのか見当がまったくつかない。なんでだろう。なんで……。考えが引き戻されそうになって、「考えるのは後だ」 自分に言い聞かせた。
「すぐにここを出ましょう。この階にくる途中、各階のゾンビたちが階段に向かって来ているのを見たんです。上ってくるかもしれません。それに、さっきのゾンビが立ち直るのも時間の問題だし、その人もそのうち動き出しますよ」
 沢村が、把握した事実を正確に列挙した。




↓第三十回 〔第三章・シーン2・そのA 2006年11月29日(水)分〕↓




「……ああ、そうだな」
 そうとしか答えられなかった。
 玄関ロビーから吹き抜けを見上げたときに、各階にゾンビがうろついていたのを思い出したのだ。分かっていたのに思いつきもせず、階段をドタドタ上ってきてしまったのも思い出して、自己嫌悪の渦に呑み込まれそうだった。沢村はそうは言わなかったが、ゾンビ達を呼び寄せてしまったのはおれだ。
 さらに、マンション入り口で迷ったことやすぐに階段を見つけられなかったこと、結局沢村の助けを借りなければなにも出来なかったこと、目の前の遺体が当然ゾンビ化することにも思い至らなかった考えのなさ、が、次々と去来して追い打ちをかける。
 自分勝手に行動しただけでまったく結果を出せていない。身の縮む思いがした。自分が心底情けなかった。
「沢村、ごめん」
 思わずその場でしゃがみ込み、開いた両膝それぞれに手を突いて頭を下げた。無意識にそうしていた。
「……どうしたんですか?」
 なんでなのか呑み込めていない沢村の声。
「ごめん」
 説明の口を開くことも出来ず、ただ繰り返す。
「小野田さん……」
「ごめん……」
 おれはナメていた。軽く考えていた。突然変わった世界を。ゾンビを。生命を脅かされるほどの危機というものを。窓が開いていようがいまいが、間に合わなかったのはおれがもたもたしていたせいだ。退路を断たれて沢村まで危険に巻き込んだ上で、まだこんなことをして時間を浪費している……。
 穴があったら入りたいの言葉通りの心境で、身動きひとつ出来ず、ただうつむいているしかなかった。
「わ、わたし、こういうときにどうしたらいいのか、分からないんです。けど、でも」
 うわずった沢村の声が頭のすぐ上で発して、ぐっと近づく気配に顔を上げた。沢村が屈んで、顔を近づけて来ていた。頬に頬が触れる感触のあと、首筋を伝わっての沢村の手が背中に回された。抱きしめられていた。
「も、もう、いいですよ、小野田さん。……赦します」
 耳元でどもり気味に囁く。沢村の息づかいを耳元で感じてくすぐったい。が、不思議と心地よかった。
「もう、いいんですよ」
 もうどもってはいない。落ち着きを取り戻した包容力を感じさせる声音で、鈍くさくても変わっていても沢村も女なのだと実感させられた。涙が出た。自分でもなんでかよく分からない。
「沢村」
 腕を沢村の腰に回して抱き寄せていた。いや、しがみついたと言ったほうが近いかも知れない。




↓第三十一回 〔第三章・シーン2・そのB 2006年11月30日(木)分〕↓




 沢村の温もりと息づかいを間近に感じて、柄にもなくドギマギしていた。汗とコロンの入り交じった匂いが香って意外に思った。嫌じゃなかった。ふたり分の鼓動を感じながら、しばらくそのままそうしていた。実際にはほんの数秒のことだったのかも知れない。長い時間が流れた気がした。
 顔を上げると、沢村と目が合った。瞳が潤んでいた。薄めの唇がなにかを求めるように動いた。吸い寄せられるように、おれは唇を寄せていた。沢村が目を伏せ、同じように唇を寄せてくる。
 そして……。
 触れ合う直前、真梨子の顔が脳裏をよぎった。
 驚きの表情を貼りつけたまま、なにもない空間を凝視つめる虚ろな瞳と、徐々に色を失くしていく青白い肌が鮮明に思い出された。
 縫いつけられたように動けなくなった。おれには、他の誰かと愛し合うような資格はない。
 沢村の唇がもどかしげに揺れる。伏せた目を上げると、沢村が静かにおれを見つめていた。おれの目の中になにかを見つけて、表情に失望の色を微かに宿したままゆっくりと離れていった。
 気まずい時間が流れた。
「そろそろ行きましょう」
 しばらくして、気を取り直したのか沢村が立ち上がった。
「あ? ああ、そうしよう」
 そうだ。悠長に構えている場合じゃなかった、心の中で呟いて同じように立ち上がる。と、沢村が窓際の壁に目を奪われていた。
 「……小野田さん、これ」
 そういって壁のある部分を指差す。文字、いや短い文章が書かれていた。すぐには意味を呑み込めず、何度か読み込み文章を反芻する。いたずら書きにはありえない内容だし、よく見るとインクが新しい。なんとなく足下を見ると、キャップをしてない油性マジックが落ちていた。キャップも近くにあった。隅の方に、災害避難袋が口を開けたまま置かれていた。今さっき書かれた物としか思えない。
『ごめんなさい、ありがとう』
 壁には乱れた字でそう書かれていた。
「小野田さんに宛てたものですよね、これ」
「ああ……、そうみたいだ」
 字を何度も目で追った。ここに辿り着くまでの間に書かれた物なら、間違いなく書き手はあの母親でおれ宛に書かれたものだろう。
 おれはこう推察する。




↓第三十二回 〔第三章・シーン2・そのC 2006年12月4日(月)分〕↓




 声を掛けたときには、まだ三人とも無事だった。それがその後、部屋の中で妻子を守るために戦っていた夫が、奮闘虚しくゾンビの襲撃の前に倒れた。妻はその一部始終と、貪り喰われるシーンまで目撃していた。次は自分達の番だと思った。選択をしなければならなくなった。愛する夫を失って生きる希望を失ったということもあったかも知れない。この激変した世界を見れば、今死ぬのも後で死ぬのも一緒だと思ったかも知れない。この後苦しい思いをしながら短い時間生き延びるのならば、いっそ今ここで死んだ方がましだと思ったかもしれない。子供にはなおさらそんな辛い思いはさせたくないと思ったかも知れない。嫌がる子供に諭しながら、つい今しがた言葉を交わした青年のことを思い出したのかもしれない。彼はここに来るだろうと思ったのかも知れない。ここに辿り着いて、間に合わなかったことを嘆くだろうと思ったのかもしれない。
 ため息が漏れ出た。
 だからといって、おれが間に合わなかったためにこういう結果になった事実は変わらない。だけど、彼女が書き残してくれた言葉は落ち込んだ気持ちを幾分慰めてくれた。『ありがとう』という言葉にはそういう力があるのかもしれない。
 ……それにしても。気分が少し楽になるのを感じながら、腹が立って来てもいたのだ。
「だからって自殺するなんてありえないだろ……。たったあれだけの時間でこの世界を見限って、旦那の後を追うことに決めたうえに無理心中なんてありえないだろ。その上、通りすがりの若者にメッセージまで残すなんて、絶対ありえねぇ……」
 言えば言うだけ力が籠もってしまう。全部言い終わる前にはらわたが煮えくりかえるまでの思いがしていた。なんで、もう少しだけ待っていてくれなかったんだよ。襟首をひっつかまえて怒鳴り散らしたい心境だった。
 おれの強い語調を黙って聞いていた沢村が、「でも」と呟いた。
「人の気持ちなんて当人以外には分からないですよ。これを書いた人がどんな性格で、どんな生活をして、どういう気持ちで生きてきた人かなんて、通りすがりの小野田さんやわたしに分かるわけがないじゃないですか」
 そういうと、おれを見上げてジッとみつめた。
 確かに、数十分前に少し口を利いただけの相手の気持ちなんて分かる訳がない。おれに分かるのは、あの母親はこういうことをする人だったのだと言うことだけだ。出来る人だったのだと言うことだけだ。これが、目の前の現実なのだと言うことだけだ。
「……それに、愛する人を失って死を選んだのだとしたらその気持ち、私は分かるような気がします」
 控えめに言って、沢村は口を閉じた。
 後追い自殺と言う考え自体はとても受け入れられるものじゃない。が、そのイメージにある種のロマンみたいなものが付随するのはなんとなく理解出来る。だから、沢村の言うことが実際的な考えじゃなく、憧れ染みたものなのだろうと推察は出来た。が、おれには受け入れられない気持ちだった。なぜなら、そこから最も掛け離れた立場に身を置いているのだから。
 おれは壁に背を向けて手摺りに手を突いた。路上に横たわる遺体に敬意を払って目を閉じ、手を合わせて頭を垂れる。
 心の中で、ありがとうと呟いた。




(第三章 シーン2 了)




                     ☆第三十三回へ続く☆




                        






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