こちらキングスバリー魔術機械学校 [4]
その言葉に衝撃を受けなかった者は、この場に一人として存在しなかった。
グレアムの後ろに付いていた男たちは、口を半開きにさせたまま呆然と立ちすくんでいる。
エルモアも自身の怒りを忘れて焦点の合わない瞳をどこかに向けていた。
カーターとシュタインもぽかんとしていたが、みるみる赤くなって小刻みに震え始めた無二の親友の姿を視界に見つけると、はっと我に返った。
少年は俯いていた。だがその顔は真っ赤であったし、肩は小さく震えていた。きつく握り締められた両の拳が、グレアムの言葉がどれほどの失言であったのかを伝えてくる。
この言葉に衝撃を受けなかった者は、この場に誰一人としていなかった。
発言した当のグレアムでさえ、自分が言ったことが連盟会長としても、一己の人間としても、この場で、しかもまだ十四歳の少年に向かって放つべき言葉でなかったことをすぐ悟った。
しかし彼の胸には、言う前に気付かなかったことを悔やむ気持ちはおこらなかった。これからどうやってごまかすかを考えるのに必死だったからだ。彼の辞典には「謝罪」という二文字はなかった。
「――お……」
絞り出すような音が、少年の口から漏れた。一斉に俯いた彼に周囲の意識が集まる。
「お前に、そんなこと、言われる筋合いは、ない」
少年の拳にいよいよ力が込められた。それ以上きつく握れば、ともすれば血が滲むだろう。
「お前に、そんなこと言われる筋合いはない!!」
勢いよく持ち上げられた顔は、予想と違い青くなっていた。
グレアムの後ろにいて、少年の顔を直視したエルモアは、自分の血の気が一気に引いていくのを感じた。背筋を冷たいものが走り抜ける。
この世で、こんなにも簡単に、こんなにも深く人を傷付けられるものは、よく研がれた剣でも毒でも爆弾でもなく、多分「言葉」だ。本当に簡単に人を傷付けることが出来る。剣で受けた傷は年月ともに薄れても、言葉で受けた傷はいつまでも残る。エルモアは口を開いた。
「か……会長――」
普通に言おうとしたはずなのに、声は喉でつっかえた。
「謝れ」、と言いたかった。言えなかった。どうしても本能のままに声に出すことが出来なかった。何かが邪魔をした。それは醜いしがらみでしかないのを彼女自身よく自覚していたが、どうしてもその先を言葉にすることが出来なかった。激しい自己嫌悪にエルモアは胸が焼け付くような錯覚を覚える。
こんな時エアトンならどうするだろう。ふと思った。
「この……人でなし!!」
カーターだった。シュタインを押さえるようにしていた彼は、今は誰よりもグレアムの近くに立っていた。怒りで頬は高潮している。自分よりも一回りも二回りも大きなグレアムをすごい剣幕で見上げていた。
「よく……よく平気でそんなことを……。謝れ! アーミテージに謝れよ!!」
荒い呼吸を繰り返しながら、カーターはなおもグレアムを睨みつけていた。彼の後ろでアーミテージはぽかんと呆けたような表情を浮かべている。その顔には先程より幾分血の気が戻っていた。
「連盟会長っていうのは、生徒にあんなこと言う権限まで持ってるのかよ」
カーターより落ち着いた調子で、シュタインの低い声が響いた。片手で、ともすれば飛び掛りそうな姿勢のカーターを制す。
アーミテージは自分の前に立つ二人の少年の背中に、唖然とした眼差しを向けた。
一瞬前まで血管がぶち切れそうなほどの怒りがあったはずなのに、どういうわけか今その怒りは見つけられない。もう一度よく冷静になって考えてみると、怒るほどのことじゃなかった気さえしてくる。取り合えず今は目の前の友人二人を止めてやらねばなるまい。
「カーター…、シュタイン。オレは――」
「アーミテージは……確かにちょっと、いやかなり貧乏かもしれないけど。でも、奨学生で入学したんだぞ!」
「あっ……あの、カーター?」
「そうだぜ? こいつは今でこそただの自意識過剰の的外れ男でもな。取り合えず何げに頭は良いんだ!」
「シュタイン……ちょっと――」
なぜか素直に助けてくれているという印象を持てない。アーミテージは雲行きが怪しくなってきた二人の背中に呼びかける。しかしカーターもシュタインも前にばかり注意が行っていて、背後のアーミテージの制止の声には気付かなかった。
妙な具合に雰囲気が緩み始め、グレアムはやっと何か言わねばならないことを悟った。このままではいけない。内心の動揺を必死に押し隠して口を開きかけた。
「あー、まぁ……今言ったことは――」
最後までは言えなかった。
「こんなに失礼な人間に会ったのは初めてだ!」
「本当。よくこんなんで連盟会長が務まるよ!」
「ハッ、これが連盟会長? ちゃんちゃらおかしくてヘソで茶が沸かせるぜ」
「僕、同じ人間として恥ずかしいよ」
「ふっ……ふた、二人とも!!」
おかしい。アーミテージはひどく狼狽しながら思った。
いつもなら自分が止められる側のはずだ。それが、今、どういうわけか見事に立場が逆転している。
普段好き勝手やっていられるのは、良きストッパー役となってくれる友人がいるからだということに今更ながらに気付いた。だが感謝している暇はない。口を挟む間を見つけられずに、彼は所在無げに手を空中に漂わせる。
「いや、本当に……オレ…もう」
大丈夫だから、と続く言葉は、誰にも届かなかった。そう、もう一人口を挟む機会を狙っていた人物がいたことをすっかり忘れていたのだ。
「一体君たちはどういう教育を受けているんだ!!!」
ヒステリックに幾段高くなったグレアムの声が廊下に反響した。入り乱れていたその他の声は一斉に止む。
鳴り始めた授業開始の鐘の音は、何だかひどく遠くに聞こえた。
「君たちのような礼儀知らず! 私の力を持ってすれば、学校を辞めさせることだって簡単なんだぞ!!」
あまりにもなセリフに、少年たちはきょとんと目を丸くした。あまりにも、そう――
「セオリー通りだな」
シュタインの呟きに、他二人が同意を示す。とうとうグレアムの怒りは頂点に達した。
「このような者どもは風紀を乱す! やっ……辞めさせてやるッ!!」
「会長! お待ち下さいっ、少々お気を――」
エルモアが堪りかねて叫ぶ。彼女が言い終わらないうちに、少年のまだ幼い声が上がった。
「待ってください! それは困るッ!!」
あまり真剣に捉えていない友人二人の横で、アーミテージが慌てて言った。やっと自分の望むとおりの反応が返ってきたことに、少なからずグレアムはほっとしていた。余裕を取り戻した笑みで少年を見下ろす。
「それは、どういうことかね?」
「え? 言葉のままですけど」
「……つまり、君は、この学校にいたいというわけだね?」
「はぁ、そういうことですけど」
聞き返されねばならないほど、自分は分かりにくい物言いをしただろうか。アーミテージは眉を寄せた。エルモアは少年の素直な反応に胸を痛める。彼は……グレアムは、形勢逆転した今の状態を楽しんでいるだけだ。上から何もかも支配できるような立場を誇示したいだけなのだ。それを、この素直すぎる少年は分かっていない。
「じゃあ謝りたまえ」
グレアムは尊大に言い放った。すぐさまアーミテージは居住まいを正して深く頭をたれた。
「あ、それはもう……。本当にぶつかってごめんなさい。今度からちゃんと前を見て走ります」
そもそも廊下は走っちゃいけないんだ、というカーターの突っ込みに耳を貸す者はいなかった。
グレアムのこめかみがまたぴくりと動く。
「君は本当に世間知らずらしい。そのことについてはもう良い。私が謝れと言ったのは、君が、私に、言った、侮辱の言葉についてだ」
弾かれたように、少年はたれていた頭を上げた。まるで未知の生物を見た科学者のように、その瞳は大きく見開かれていた。アーミテージは何か言おうと口を開き、しかし言うべき言葉が見つからないのか、またすぐ閉じた。その様子をグレアムは余裕の面持ちで見守っている。
「謝ることねぇよ。先に侮辱の言葉とやらを言ったのはそっちなんだからな」
「オルコット君、私は今ウィンゲル君と話をしているのだ。部外者の君は黙っていてもらおう」
「なっ……!」
自分が部外者なわけがないだろう。シュタインは言葉を失う。そうしている間にも、アーミテージは何かを必死に堪えるように、握った拳を震わせていた。少年の口がわずかに開く。
「ご…………」
「何か言ったかね?」
絞り出したような掠れた音が漏れる。それを聞いてグレアムは口の端を持ち上げた。少年の顔がさらに赤くなる。
「ごめ――……」
「アーミテージ!!」
カーターの悲痛な叫びは、今度は何の抑制力も持たなかった。
「ごめんな――」
「こんな所で何をしているんだ? 授業はとっくに始まっているんだが」
深みのあるバリトン。
その場を一喝し、注意を惹き付ける強い意志のこもった声。
よく聞き覚えのあるその声に、エルモアは自分の凍り付いていた心が解けていくのを感じた。これで何もかもが上手くまとまる、そう思わすには充分な声だった。
「……エアトンか」
忌々しげにグレアムが呟いた。視線はすぐ横の階段に向けられている。階段の中ごろに、朝のかっちりとしたスーツ姿はどこへやら、上着を脱いでシャツをズボンから出した長身のエアトンが立っていた。
「お久しぶりですね、会長。……ところで、その馬鹿ども三人はこれから私の授業があるのです。無粋とは思いますが『談笑』はその辺でお開きにしていただけますかね」
口元に薄っすらと笑みを浮かべながらも、文末を疑問系で終わらせていても、エアトンの言葉は有無を言わさぬものだった。彼はちらりとエルモアに視線を投げかけ、次いで「馬鹿ども三人」にも視線を落とす。これ以上ないくらい不機嫌そうなオーラを醸し出していた。
視線の意味を解したエルモアがグレアムの巨体の脇をすり抜け、さあ、と促し三人をエアトンの方へ導く。グレアムはそちらには目もくれずに、ひたすら自分より上に位置しているエアトンを睨んでいる。無表情に見返すエアトンの瞳は冷たかった。
「では」
言葉少なに別れを告げると、エアトンは戸惑う三人の少年を後ろに従え階段を上り始めた。任務に忠実なエルモアは、自分も後を追いたいと思いつつ階段の下で彼らの見送りに徹した。
「アーミテージ・ウィンゲル……!」
どこの教室でも授業が始まっている。静かな廊下にグレアムの大声だけが響いた。
「何ですか?」
かすかに語尾を震わせながら、少年は毅然と振り返った。他の三人も足を止める。
「君は奨学生で入学したらしいが……、今は落ちぶれているそうだな」
「……そ…れは………」
アーミテージにとっても痛いところを突かれたに違いない。明らかに動揺を示す彼に、グレアムは追い討ちをかけるように言った。
「このままの成績が続くようなら、君への奨学金についても、考え直さねばなるまい」
一言一言、ゆっくりと、まるで親が子に諭すような物言いだった。
「あ、それは――……!」
「彼への奨学金は妥当ですよ」
焦って身を乗り出したアーミテージを引き戻すように、エアトンは彼の肩に手を置きながら静かに口を開いた。グレアムはうっとうしそうに眉をしかめる。
「何だと?」
「彼への奨学金は妥当だと言ったのです」
「しかし成績は――」
「確かに学科はまずいものがありますがね。実技においては、基礎科の同学年の中で彼の右に出るものはいませんよ」
滑らかに、元から原稿が用意されていたかのようにさらりとエアトンは続ける。
「この才能をここで手放すのは、『魔術機会連盟会長』の判断として、どうかと思いますが」
自らの肩書きに、グレアムの巨体が揺れる。主導権がエアトンに握られた瞬間だった。畳み掛けるように彼は続ける。
「なんなら証拠でも見ます?」
「証拠……?」
連盟会長は顔を上げた。エアトンは手を少年の肩からどかし、自分の腰に当てた。
「そうです、納得できないご様子なので……。そうですね、二週間後に彼が製作したものを披露するっていうのはどうです?」
アーミテージがぎょっとして背後を振り返った。しかし背が低い彼が振り返った先に見ることが出来たのは、エアトンの腰だけだった。
「………良いだろう。その代わり、ろくでもないものだったら………分かっているんだろうな?」
「何をです?」
睨み上げてくるグレアムに、エアトンは酷薄な笑みを返した。
「二週間後に見せてもらうものが、ろくでもないものだったら……」
グレアムはそこで視線をエアトンからアーミテージに移した。
「奨学金は取り消しだ」
反論する間もなく連盟会長はエルモアに誘導されて視界から消える。
エアトンは再び無言で階段を上って行き、つられて三人の少年たちも無意識に足を動かした。
大変なことになったと気付いたのは、エアトンの魔法理論の授業が終わってからだった。
「「「何であんなこと言ったんだよ(ですか)!?」」」
少年三人は授業終了とともに、教卓に頬杖をついてぼんやりしていたエアトンに詰め寄った。壇上の彼は濃紺の髪を気だるげにかき上げて、迷惑そうに目を細める。
「質問はむしろこっちがしたいな」
ドスの利いた声に三人は開きかけた口をすぐさま閉じた。
「何であんなことになってたんだ」
言外に「今度は何をやらかしたのか」と問うてくる、髪と揃いのブルーの瞳。その瞳の力が、少年たちの反論を封じる。
黙って俯いてしまった彼らを一べつして、エアトンは心の底から溜め息を漏らした。
「………大方、何か気に障るようなことでも言われたんだろ」
小さな肩が一斉に揺れる。図星らしい。
エアトンは視線を外して窓の外を見やった。
「それで腹を立てて…『連盟会長殿』に果敢にも言い返した。違うか?」
返答のないことを肯定と受け取って、極めつけの一言を投げる。
「短慮にも程がある」
エアトンの言葉は、怒鳴られたり叩かれたりするよりよっぽど堪えた。
「でも……ッ!」
シュタインが勇気を振り絞る。
「でもも何もない」
彼の勇気は一秒もしないうちに吹き飛ばされた。
「どんなに理不尽なことを言われようと、君たちはあの場で食ってかかるべきではなかった。あの……、愚鈍な狸に目を付けられたくなければな」
「せ、先生……?」
カーターが思わず声を上げる。
「たぬ…き…って」
「あいつは蛇のようにねちっこいぞ。一回はっきりとした区切りを付けないといつまでも君たちに付きまとうだろうよ。それはさすがに嫌だろう?」
まあ年齢的にも健康的にも、君たちが大人になる頃にはくたばってるさ。と、物騒なことをさらりと言ってから、エアトンは一度言葉を切った。
「アーミテージ・ウィンゲル」
エアトンが呼ぶ。ずっと俯いていた少年はゆっくり顔を上げた。眼差しは強かった。
「やれるか?」
やれないなんて言えなかったし、言うつもりは毛頭なかった。
「やってやるさ。受けて立つ」
エアトンが珍しく笑った。
その日から二週間、アーミテージ達は殺人的な忙しさに追われることとなった。
ただ、不幸中の幸いか、ろくに睡眠時間も確保できない彼ら三人を見守る教師たちの視線は温かかった。あのフィックスでさえ、授業中に内職作業をしているアーミテージを見て見ぬ振りをしたのだ。
つまりそれだけ、みんな、グリフィス・グレアム・クロイツァーという男が嫌いだったということだ。
正面きって反発できないゆえに、代わりに小さな勇者たちに思いを託すということだろう。
中には彼を支持している輩ももちろんいたが、周りを「反グレアム派」に囲まれているこの状況下で表立って活動できるほどの度胸の持ち主はいなかった。
次の日にはこの対決は公の知るところとなっていた。グレアムが、連盟会長たる自分を侮辱した少年たちに、彼は公の場で恥をかかせようとしているに違いなかった。
正式な日取りはきっかり二週間後の満月の夜と発表された。
科学的な解明はまだ行われていないが、月光が強い方が魔力は力を増すことが実験によって明らかにされている。アーミテージにとってこの日取りは願ったり叶ったりであった。
彼の補助役にカーターとシュタイン、エアトンが監督役として三人についた。しかしエアトンが直接手を貸すことは禁じられ、ゆえに彼を監視するためにグレアム側の人間が一人と、遠見の機械が設置されるという厳重振りに、濃紺の髪の教師は閉口した。
寮の門限と就寝時間を一時的に破ることが容認され、少年三人は寝る間も惜しんで与えられた学校の一室にこもった。手を出せないという条件を盾に、監督役のエアトンは同じ部屋にいながら忙しく作業を進める三人の横で静かに寝息を立てる日々が続いた。
機材の調達は他の教師たちが買って出た。中でもあの場に居合わせたエルモアが一番手助けしてくれた。それは止められなかったという負い目があるからなのだが、少年たちはさして気にしていない様子であった。
機械の中枢に座する「魔鉱石」に魔術をこめるには膨大な集中力が必要で、それにはアーミテージが一人で当たった。下手に他の二人が手出しして彼の集中力が途切れることは好ましくなかったし、何よりアーミテージの集中力には同学年で敵うものはいなかった。本当に、集中力にかけてはアーミテージは一種の天才である。
「だけどお前は……センスというものが、皆無に近い」
魔術機械都市で生活する全ての者が注目する今日という日の朝。まだ都市は静寂に包まれている。こもっていた作業室の換気のために窓を開けながら、シュタインは背後の「完成品」をちらりと見やってしみじみと溜め息をついた。
再び視線を窓の外へ戻すと、眼下に点在する街灯の明かりが、すっと霧散していく瞬間を目撃することができた。初めて見る魔術による明かりの消える瞬間に、今日の成功を思う。