連載コラム
第7回 日本における「建築的なもの」
建築は純粋な芸術でもなければ純粋に技術でもないといわれます。どちらも必須ではあるのだけれど、双方の関係を示すならば、「技術によって生活ひいては社会の構造を刺激する芸術」といえばよいのかもしれません。ややこしい話はさておき、建築的なアイデアは、日々の生活のなかでいろいろ発見することができます。名建築をみることももちろん参考になりますが、それ以上に、一見無関係と思われる学門のなかに建築的な思考を刺激するものが限りなくあることも事実です。建築が雑学の雄といわれる所以でもありましょう。かっこいいところでは、映画や小説、音楽や舞踏、新しい物理学や位相幾何、生体化学、それからもちろん現代思想やアートがいま何を議論しているかにアンテナを張ることは建築の必修科目ですが、もっとありのままの日常に目を向けてみることも重要です。
テレビ東京のテレビチャンピオンで大食い選手権は欠かせない番組のひとつでした。(残念ながら現在自粛中。)数ある名勝負のなかに建築的な思考が見え隠れしていたことがその理由です。大食いファンならば女性王者赤坂尊子と野獣藤田ののり巻決戦をご存知でしょう。これは長さ10メートルののり巻を端からたべていくだけという至極単純なものですが、ある長さごとに具が変化するのです!見た目ではなんだかわかりません。具のまわりにご飯がありそれをのりで巻いているという構成はかわらないのに、具だけが変化する。まったくこの単調なのり巻食いを進めていくのですが、かんぴょうがかっぱになり鉄火になり、中央になぜかわさびだけの部分が1メートル(笑)。互角の実力をもつ対戦者の微妙な好き嫌いによって、両者の進度が劇的に変化するわけです。単純な操作に複雑な効果が期待されている。わさびに顔を歪めるのはあそび心としても、対決のドラマを強化するための構造的なアイデアがよいと思います。おそるべし、テレビ東京。
「塩つぶ」という歯磨き粉があります。かつては研磨剤と香料が混ぜられた完全な練り物であったのに対して、「塩つぶ」は従来の練り物に溶け込まないようにつぶつぶの塩が混入している。子供の頃、祖父が食塩だけでブラッシングしていたのを覚えています。歯茎を引き締め、殺菌の役割があるといわれていましたが、ハッカのペーストがないと物足りないなと私は敬遠していました。そこで「塩つぶ」はこの両者の機能を共存させたわけです。塩を溶かして混ぜれば塩味の歯磨き粉になってしまうからつぶのままいれる、というアイデアは、まるでコロンブスのたまごのようではありませんか。これを流行のことばでいえばハイブリッド、一貫した異種混交性といえるでしょう。
みうらじゅんの「いやげもの」は批判精神にあふれています。また、以前あるアートギャラリーでやっていた「Worst souvenirs」展(最悪の土産物展)も同様のコンセプトとして興味深いものでした。エッフェル塔の置物の尖塔が火口になっているライター。名所のイメージを贅沢に刻印したために太過ぎて持ちにくいボールペン。砂時計、ライター、ボールペンは土産物のレガリア(三種の神器)です。塔や城、橋や教会といった土地のイコンに取り付けて「懐かしい思い出と生活機能の融合!」というわけです。自邸の雨戸にソーラーパネルをつけてデザインの統合をしたつもりの大先生、晴れた日に閉め切って住むことを余儀なくされた話や小学生の頃、フラッシャー付の巨大な方向指示器をつけた自慢の自転車の輩だけ重くて坂を登れなかったことを思い出しました。
純粋な技術というのは遺伝子や細胞工学のように、まったく新しい構造を発見し、つくりあげることです。一方で、(不純な?)建築のアイデアとは、上述のように「ハイブリッド」か「いやげもの」といった生活に直結した要素の「混ぜ方」という視点でみることができます。両者の境界はどこにあるのかを意識して人間の生活を眺めること、無意識にあたりまえと思っているものをいかに現実の生活に合せて組み立て直すのかが、建築家のもつべき視点だと結論付けます。