連載コラム
第9回 デジタルな生活
先日愛車の走行距離が7万キロを超えました。100キロくらい前になるとその瞬間のカウンターを見逃さないようにしなければと考え始めます。10キロを切ったりするとかなり気が気でないのではっきりいって危ないです。そして首都高横羽線羽田付近を走行中、ついにきたその瞬間は実にあっけなく通りすぎて行きました。数字を鑑賞できるのはわずか数秒でしょう。次はたぶん77777ですが、もっと強引に71717とか70707も記念にどうでしょうか。なんの記念かわからんが。。。しかし、8万キロ=地球2周です。月までだと38万キロ。100000は当分先の話ですが、099999から一気に6つの数字が回転する瞬間に無関心でいられる人は稀でしょう。絶対に誰かに言う!
かつてコンピュータ2000年問題というのがありました。現実の生活にはほとんど変化も影響もなかったのですが、多くのひとが同じ感情を共有したことが様々な憶測、パニックの不安を生んだのかもしれません。我が家でもお風呂に水をためてその瞬間を迎えました。著作権や人権が確立されていないため、国家的に違法ソフトを使用しているという某国では、コンピュータのサポート体制が無く、2000年初めての便に航空会社のトップが搭乗することが義務付けられたとどこかで聞きました。
デジタルの時代というのは、アナログの時代に比べるとすべてが数字に置きかえられて人間的な感覚やあたたかみが失われるとか、人間が機械に支配されるのではないかという心配がよく語られます。ゲーム脳になって切れる子供になるからコンピュータはよくないとか。しかしながら一方で、いままであいまいだった感覚や現象が浮彫りになって腑に落ちるという側面もあります。あいまいな感覚を一旦切り捨てて数字に置きかえる。そうすることで逆に見えなかった感覚が浮彫りになる。すばしっこさや力持ちは数字に記録される。アスリートの高い身体能力が評価されるには数字が必須です。51イチローや55ゴジラのドキュメンタリーがおもしろいのは、やみくもに根性や天才、幸運、神というキャッチフレーズで押しきっていた時代の英雄像に比べて厳格な数字や理論に常にリンクしながら進化しようとする知的な精神性を体現しているからだと思います。
というわけで、厳格な数値によって記録することが感情を掻き立てるという時代に生きていることを感じます。なんとなくという感情をすべて1か0という数字に置きかえてみる行為がデジタル化することならば、建築の設計も様々な条件や構想を数値に置き換えて並べ替えるという行為だと考えられます。テレビドラマに出てくる建築家がスケッチをしゅるしゅるっと描いて、自分の才能に酔っているのは古典的な芸術家気取り。現代では、「これしかありえないな。」とだれもが納得できるほど理詰めでなければ意味がない。コンピュータによって複雑な条件を精緻に記述する技術が、機械的に効率化して収益を増やすためではなく、あくまで真空管アンプのあたたかな音色やフィルムカメラの奥深さといったものに感じるアナログな感性を共有し、より高めてゆくための技術であってほしいと考えます。もちろん、建築は、直裁に郷愁的、詩的な工芸品を目指すのではなくて、感性を刺激するテクノロジーでありたいと考えます。