連載コラム
第12回 家づくりは創作というよりも翻訳にちかい気がします
パートナーの菱谷は映画や小説が好きでどちらかというと私は指南される側にまわっています。たとえば、レイモンド・カーヴァーは、文芸のシロウトとはいえ共感するところあまたです。本格的な読書家ならば英語で読まなきゃその真髄を深く理解できないみたいなところがありますが、すっと引きずり込んでもらえるような語学力がない私にとって、逆に村上春樹の翻訳というフィルターがその魅力を増幅させてくれるような気がします。そのむかし、W杯のひと試合ごと愛情込めた語りで伝えてくれた金子勝彦の三菱ダイヤモンドサッカーみたいなものでしょうか(笑)。
優れた翻訳というのは、じつは二重に楽しめるのだと勝手に思っています。つまり、名訳ならば原文の本質的なニュアンスが忠実に訳されているだろうということと同時に、精緻な作業のなかで翻訳者が原作のなかから掘り当てた鉱脈のようなものが自然と浮き彫りにされていると思うからです。それは、書き換えを多用した意訳よりできるだけ逐語訳に近くあるべきとしながらも、その忠実さのなかにどうしても入ってくる原作者に同化した翻訳者自身のエキスといってよいのかもしれません。村上春樹と柴田元幸の共著「翻訳夜話」では、それぞれの持ち場であるカーヴァーとオースターの短編を交換して翻訳したものを並べていますが、どちらも原作に忠実でありながら、なるほど趣の異なる作品になっているのです。
小説をかくという文芸の王道に対して、翻訳をするというのはちょっと脇にあるわけです。ただ、これはいくぶんこじつけのようだけれども、住宅の設計などやっていると翻訳-trans-という異文化の間を架渡す行為に、よりシンパシーを感じるところがあります。つまり住宅というのは、たいがい特定の個人のものですから、ひとの生活をよく観察して共感してという作業がとても重要ですね。どれだけきちんと要望を実現できるかという技術の部分は、翻訳における語学力の問題に似て学習によって成果が明らかになるものでしょう。事実を捻じ曲げない誠意という意味で逐語訳のようでなければいけないともいえます。でも、一所懸命想定した生活像、間取りや使い勝手などを建築という専門のコトバに置き換える時点では、必ず決定を任されてしまう部分がありますから、忠実であることを前提にしながらもコトバの選択や編み方に設計者自身の出現が必至なのかもしれません。言い換えれば、これまでのいろいろな体験が複雑に絡まり合った感覚的な部分をできるだけ押さえ込んで理詰めで積み上げていっても、ぎりぎりたち現れてくる自己っていうのがあるんじゃないかと思うわけです。
結果としては、そうしたバイアスがかけられた状態が建て主自身に共振して、すまいとしてしっくりくるのだと思います。ただ、そんなことを意識しながらつくれるひとはいないでしょうし、個々の建物で意図的に自己のセンスを語ろうとすればなにかそぐわないものになることが自明かと思います。そういうわけで、実際の建物をつくるときには、-語るほどの見識がないからといわれると身も蓋もないですが(汗)-どれだけ与条件に忠実に、物理的な合理を実現することに徹するか、どれだけ恣意的な試行をしないで決められるのか。そういうことに目標を置いてみるようにしています。これは、べつに翻訳者に影響されて考えるようになったというわけではなくて、まったく異なるジャンルの職能に同質の構造を発見してとても勇気付けられるということです。
下駄箱の上の置物に「こういうのおいてほしくないんですよね」と依頼した建築家がいったという笑い話がありました。そういうプロ意識わかる気もするんですが、どうも私は、ローラ・アシュレイの壁紙でも、ミースやコルビュジェの椅子でも、民芸調の食卓でも、スタルクのポップなソファでも、楽しく気分よく自由に住める建築であってほしいなと思います。エゴをセンスと称して材料とか形といった特定のスタイル、はたまた住まい方まで決めてかかるのではなくて、各々の状況を見極めてその都度ぜんぜん違うっていうのが、住まい手にとっても建築にとっても幸せな状態だと思うのです。昭和の名住宅といわれるものを拝見すると、そういう成り立ちをやっぱり感じるわけで、他人の住まいとはいえブルブル共振してしまいますよね。