連載コラム
第14回 ロンドンのフラット
かれこれ10年近く前、しばらく夫婦で気ままなロンドン暮らしをしていたことがあります。パンクロックや厚底ブーツで有名なカムデン・タウン(写真1)のフラットを借りたのですが、持ち主のオーストリア人女性が数年帰国する間だけ貸すということで、家具や荷物の一部までもがそのまま置いてありました。ロンドンの古いタウンハウスはレンガ造で、狭い部屋の集合になりがちなのですが、そこは鉄筋コンクリート造で広いワンルームなのが魅力でした。下階の屋根を部屋よりも大きなルーフバルコニーとして使えたため、不動産屋さんに会うと必ず「素敵なテラスを楽しんでる?」と挨拶されたものです。
そんな快適な生活にも突然、隣の部屋から恐ろしい怒号が飛び込んできました。30分に一回くらいか、時にはもう少し短い間隔です。怒鳴り声だったり、悲鳴だったり、壁をがんがん叩いていたり。ある日、廊下が騒がしいのでドアスコープから覗いてみると、隣人の若い白人男が武装警官隊に後ろ手に縛られながら壁に押しつけられ、「おれがやりました」とかいわされてます。彼はそのまま連れて行かれましたが、いったい隣はどういうことになっているのか。IRA(北アイルランド解放の過激派組織)がアジトにしていて拷問していたに違いない、と二宮は確信してひとこと。「賃貸でよかった。」
近所にはニコラス・グリムショー設計のセインズベリーマーケット(写真2)があり、日常の買い物はそこですませます。巨大な売り場は、柱が無い吊り構造になっています。この斬新で自由なスペースを無駄なく使うために、陳列棚がめいっぱい途切れることなく延々と続いていて、まさに通りのような風景です。ただし、買い物メモを見ながら順番にカートに入れていくのですが、忘れ物があったりすれば、延々と来た道を戻らなければなりません。ロンドンは、7つの海を支配した時代を経て人種のるつぼと化した街ですから世界中の様々な食材や調味料が安価に手に入ります。食文化のないイギリスといわれますが、逆にインド、エスニック、中華、ベジタリアン、スパニッシュなど他国の食文化をそのまま持ち込んでいるのだから自前のものなどいらないのかもしれません。
友人は、学生や働き始めたばかりの人達が多く、よくホームパーティーに呼ばれたり呼んだりしたものです。古いタウンハウスをシェアしている人たちが多かったのですが部屋の広さに比べて太いくり型のついた高天井がとても気持ちよく、古い骨組でちょっと装飾的な家にモダンな家具を置いたりするバランス感覚は、真っ当なストックがあってこその文化という気がします。ちなみにイギリス映画「フォー・ウェディング」でもそうでしたが、男女でシェアすることはごく普通で、そこから恋愛に発展するってことはまずありません。カップルのお宅でのパーティーの場合、彼のほうが料理担当ということも多く、料理が大好きとはいえない私はその手に乗じて、夫に肉を焼かせたりして場を凌いだものです。
家の目の前にカムデン・パレス、ベルリン・カフェといった人気のナイトクラブがあったので、真夜中に通りから大変上品ではない罵りあいが聞こえることもたびたびです。カップルが喧嘩しているだけなのですが、初めはどんな事件かとびっくりしたものです。でも、決して使ってはいけない生きた英語の勉強になりました。はっきり内面を曝け出して主張する文化です。
「彼、もう帰ってこないだろうなあ」と静かな日々を取り戻して安心していましたところ、またまた、恐怖の雄叫びが!一体全体どうなっているのだ?ふとテレビの画面に目をやり、「もしや?」と思いながら、しばらくすると、今度は激しい怒鳴り声と壁打ち鳴らしかよと画面を見るとドイツが同点ゴール!その後激しさが頂点に達することになるPK戦を経て試合終了。狂気のシナリオはサッカーユーロ1996、ドイツ対イングランド戦に見事にシンクロしているのでした。その後、乗り合わせたエレベーターでうつろな表情の彼を見て、「4年後があるじゃないか」と心の中でつぶやいたのでした。(菱谷)