連載コラム
第38回 ターミナル駅の終焉──魔窟の解体
異種混淆の街・渋谷でのアート展
地下鉄も高層ビルもない昭和の横浜に生まれ育った私にとって,渋谷駅は大都会東京の玄関口であった。渋谷に行くたび,東急東横線のホームを覆うカマボコ型の屋根にワクワクしたけれども,その直上には強引に首都高が被さり,曲芸のごとく空中から百貨店の横腹に突っ込んでいく銀座線の高架橋や到着時に起こる車内停電,複雑な乗換動線や凹んで歪んだ低い天井こそが,往年の渋谷駅のイメージであった。
これまで日本を訪れた欧米の賓客から,そうした得体のしれない渋谷駅に東京らしさを感じるというコメントを,しばしば耳にした。彼らは,渋谷駅という首都の中心が,ロンドンやパリのターミナル駅や広場のように,成熟した都市のシンボルではなくて,種々の要求に応じて,無計画に壊し,付け足し,増殖していくうちに元の輪郭すら見えなくなった魔窟のようであることに,新鮮な驚きを感じるのである。
東京メトロに乗り入れることで,東急東横線のターミナル駅としての機能を失い,通過駅のひとつとなった渋谷。跡地の再開発により,複雑化する交通結節点としての諸問題も適度に解決され,業務・商業圏域のさらなる拡大が期待されている一方で,都市開発や経済の視点からは見えてこない場の力にこそ,渋谷の魅力があり続けるような気がする。
流行と混沌──普遍と特異
80年代に隆盛を極めた渋谷の魅力は,なんといっても,PARCOが発信するお洒落な生活やイベントの斬新さであった。それらは,やむなく駅からかなり離れた場所につくられたのだと思うけれど,結果として,公園通りやスペイン坂といった刺激的な場を生み出し,街にさらなる奥行をもたらした。
シネマライズで『モナリザ』や『ブルー・ベルベット』を見て,カフェ・ボンゴや宇田川町交番には,現代建築の潮流を見た。古びたビルの一室にあるミニシアターや,複雑に絡まりあった路地の奥に生まれては消えた無数の場所を含めて,まったく個人的な自分だけの都市空間のネットワークが形づくられていったと思う。
ライフスタイルをセットにして新たな需要を創出しようとした企業の提供する流行と,路地の隙間にうごめき続ける混沌。渋谷は,開発と廃墟,革新と郷愁,未来と過去,外向と内向,公と私,普遍と特異といった二分された世界が重なり合う異種混淆の場でもあった。
異種混淆をつなぐもの──路地とケータイ
3月9日から24日まで開催された「shibuya1000_005『変わりゆく渋谷』」は,渋谷を再認識し,さまざまなまちづくりの機会を生み出そうとするクリエイティブ・イベント。5回目の今年は,スマートフォンの「渋谷アプリ」と「Time Out東京」がサポートすることで,点在するイベントを街歩きしながら検索することができるようになったという。なるほど,ウェブサイトhttp://www.shibuya1000.jp/を検索すると,このイベントに関連する膨大な情報が作成されていて,相互にリンクしていた。
駅地下コンコースに数百メートルに渡って掲示された『変わりゆく渋谷』写真展は,そこに暮らす人びとや,建築や服飾を専攻する学生たちそれぞれの視点で構成され,顔や風景の変遷を楽しむことができた。渋谷ヒカリエ・アーバンコアに置かれた発泡スチロール製の仮設図書室は,読み終わった本の交換という原始的なモノのやりとりによって,背後の商業広告との好対照を見せていた。意外にもひっそりとしたそれらの展示に意識を向けることは,多くの歩行者にとっていささか困難な様子ではあったが,インターネット上のアプリを通じて意識した者にだけ見えているという,個人的な出来事の集積を淡々と進行させているようにも思えた。
人それぞれに路地を巡ることで私的な都市のイメージを形づくるように,いまや,アプリの中に無限に張り巡らされていく街の情報を自分なりにアレンジし,そこで出会う小さな出来事の集積によって都市のイメージを形づくっているのかもしれない。バラバラの個人が,アプリによってつながり,時に大きな出来事となって立ち現れる。このまちづくりのイベントが,点在する場をつなげ,個々の活動を刺激していくプラットホームとして持続していくことを期待したいと思う。 (二宮)