息子のイギリス旅行記 1
1997年夏休み  大澤 悟

今回は息子の文章に絵をつけました。初めて二人で行った海外への旅です。 絵は私ですが文章は息子(悟 当時 小学校5年生)が書きました。ノート1冊で書ききれずに紙を貼り足して書上げたものです。現在(1999年10月)はアメリカ西部の旅行記を書いていますが、1日目が24ページ、二日目の途中でノートは半分を超えてしまいました。このペースですと2〜3冊になりそうです。ではどうぞ。
何が待っているのか、どんな素晴らしいことが待っているのか、という気持ちよりも、行きたくないなあ、という気持ちの方が大きかったイギリス旅行。あんなに素晴らしいことが待っていると知らずに。 行きの鶴見と帰りの鶴見では全く違いました。行きはああいやだな。帰りはああ楽しかった。また行きたいな。10日の間にどうしてこんなに変わったのでしょうか。 日に日に変わって行く気持ちにも気をつけて読んでみてください。  
エディンバラ城
(油彩8号)
エディンバラ城砲門
(油彩50号)
翌日の新聞 祖先のお墓
1997年7月24日、安養寺前からバスに乗って鶴見までいきました。鶴見から京浜東北線で東京までいき、地下総武ホームで家に電話をしました。そうしたら、帰りたくなりました。やがて、成田エクスプレスが来てそれに乗りました。錦糸町までは地下です。地上にでて、新小岩、市川、船橋、稲毛、千葉と過ぎて行きました。成田の辺りまでくると成田山が見えてきました。そこをすぎたらもう成田空港に着きました。今回乗る飛行機は英国航空6便です。空港に入ってエイチアイエスのカウンターに行って飛行機のチケットを取りに行きました。取ったら、英国航空のカウンターに行きましたが、並んでいるときに、コンピューターの故障があってそこのカウンターだけ行列が出来ていました。やっと治って進みました。今度は、座席を決めて、30Kと30Jになりました。チェックインしてひまになりました。なので、トイレに行きました。トイレから出て、外を眺め、また家に電話をしました。そしたら、家に帰りたくなりました。
 電話を終えて、並びましたが、またコンピューターの故障があって乗れる時間が遅れました。機内で着席して、まもなく出発します、と放送が流れているのになかなか出発しません。しばらくして、法律に必要な乗務員がそろい次第出発します。今、乗務員がこの航空機にむかっている。という放送が流れました。こんなのがいつもだったら客が激減するでしょうな。2時間半遅れの1時半に出発しました。離陸して、少したったら揺れ出し、家に帰りたくなりました。やっと水平飛行になりました。昼ご飯は15時ごろでしたが、揺れているし、おまけに気持ち悪いのであまり食べられませんでした。食べ終わったら、ぐっすり眠り、起きたら日本時間17時でした。窓から外を見ても何も見えないので暇です。夜ご飯は何とか食べられました。でも機内食はまずいです。ロンドンにつくのは日本時間の24時ですのでまだかなりあります。機内でエビータなどがやっていましたが、興味ありません。 映画がきられ、シートベルトサインがつきました。いよいよ着陸です。滑走路にゆっくり降りて行きました。
ロンドン・ヒースロー空港についたのは現地時間17時です。予定の2時間遅れです。飛行機を降りて、空港に入ったら、日本人より外人が多いです。 また、帰りたくなりました。するとお父さんが、「ここから一人で帰ってもいいよ。」と言いました。
 入国審査を終えて、夜行列車の切符を取りに行くためにバスに乗って今いるターミナル4からターミナル1に移動しました。4から1に移動するのに10分ぐらいかかりました。ターミナル4のブリティッシュレールのカウンターで夜行列車の切符を取りました。取ったら、アンダーグラウンド(地下鉄)でハマースミスまで行きました。 ヒースローからハマースミスまで10個ぐらいあります。
発車する時、ベルや放送がなく、車掌が「ドアの近くに立たないでください」と言います。イギリスの地下鉄は上が丸くなっているので、ドアの近くに立つと、首を挟んでしまいます。他につり革の握る部分が丸くなっています。ハマースミスについたらバスに乗ってレッドライオンまで行き、ここからアルダスレードさんの家まで歩きました。アルダスレードさんとは、お父さんが、キャニングスクールへ行っていた時に泊まった民宿です。
家に入ったらテーブルに夕食がありました。メニューは、チキン、サラダ、ライスで、日本では絶対にチキンを食べないお父さんがチキンを食べておいしいと言っていました。こけしや招き猫が置いてありました。夕食を食べおっわたらいろいろして、10時頃になったら家を出て、ユーストンにむかいました。
 ハマースミスからヴィクトリアまで行き、乗り換えをして、11時頃ユーストンにつきました。それから、ブリティッシュレールのユーストンのホームに行きました。そしたら、もう夜行列車が止まっていました。列車の中で洗濯、着替えなどをして、あっという間に発車時間の11時55分になり出発し、寝ました。
   

ガッタン、ゴットン、目がさめました。列車は、エディンバラの少し前のカーステア―ズでとまっていました。辺り一面牧草地です。エンジンがかかって出発し、20分から30分ぐらいでエディンバラにつきました。朝食は、車掌が持ってきてくれて、メニューは、クロワッサン、コンフレーク、クッキー、バター、オレンジジュースで、バターはクッキーにのせます。食べ終えて、外に出ると、すごく寒いです。今日泊まる所「キャッスルゲストハウス」に行き、着替えと荷物を置いて、オールドセメトリーという墓に行きました。ここには、お父さんが勝手に生まれ変わりと思っていた「アランデ―ヴィット」という人の墓があります。名前の下に有名なペインターと彫ってありました。ここにお父さんの骨をまきます。 (註父:No,6No7のお墓のことです。93年に経験してから、自分は彼の生まれ変わりだから私が死んだら骨を桃屋の海苔の瓶詰めに入れて撒くように遺言をして、場所を間違えないように現地に連れて来ました。)
 次にカールトンヒルという丘に行きました。ここは見晴らしが良くて最高です。坂を登って行くと石があり、近くの方から見た景色は素晴らしいです。そこに、日本人の家族も旅行をしていて、写真の取り合いをしました。ここの近くにあるおりの中に犬がいて3年前と同じ犬で同じ鳴き声だそうです。(お父さんから聞いた話) カールトンヒルには,大砲があり、発射口にはごみが詰まっていました。カールトンヒルをおりて今度は、エディンバラ城に行きました。
 お城の頂上から見える景色は最高です。今日(7月25日)は、ミニタリ―バグパイプというバンドができて25周年でゴールドディスク賞を取ったので記念に演奏をしていて、BBCやカメラマンが数多くいました。途中で抜けて城の中へ入りました。中は、博物館になっていて人形があり、それは本物のように思えます。他に宝石や剣、絵がありました。お城を出たら広場があり、お父さんの絵にある大砲もありました。エディンバラ城を出て、明日のバスツアーの事務所に行って、確認をしてからレストランを探しました。ようやく見つけ、メニューはサラダとりんご、アッップルジュースです。りんごはかじりつきます。
 

昼食が終わったらエディンバラ、ウェーバリーステーション付近でタクシーをひろい、となり町のマシルバラのモンクトンホールに向かいました.前に、お父さんが一人出来た時、モンクトンホールとモルトンホールを間違えて、全く違う方向へ行ってしまったそうです.それだけ、ゴルフ場が多いということです。20分ぐらいかかりようやく着きました.ゴルフ場についても、まだピーター(お父さんが通っていた英語教室の先生のお父さん)はまだいません。少し経って、やっとピーターとジョン(ピーターの甥)が来ました。ロッカールームにいって着替えや靴の履き替えをして、ラウンジで飲み物を飲みながら話をしていました。話が終わり3人でプレーしていました。この文の筆者は、お父さんのキャディーをしました。1番に打つのはピーターで次はジョン、最後がお父さんです。ピーターはゴルフがうまいと、お父さんが言っていました。このコースには小川が流れていて、小川のことは、スコットランドでは「ウィ―・バレン」と言い、また、ここは列車の線路のまんまえにあります。なので、飛ばしすぎると線路へ入ってしまいます。 17番ホールと最後の18番ホールは前のホールと比べて結構長いのです。
やっと全部終わり、ラウンジで飲み物を飲みました。キャディーも結構疲れます。ここは、ミニホールがあり子供もプレーしています。

  

ラウンジを出てロッカールームで着替えなどをしてから、アラスティア(ピーターの子供、お父さんが通っていた英語教室の先生)のお姉さん(ジャックリーヌ)の家に行きました。夕食はここでチキンやパン、食後には甘いケーキを摂りました。洋食はもう嫌です。スコットランドの19時は日本の15時のように明るく、22時に夕焼けが見えます。夕食を摂りながらいろいろな話をしました。21時頃になったらここを出てジョンの車でキャッスルゲストハウスまで行きました。着いたのは21時半頃でした。それなのに日本の17時頃の明るさでした。部屋に行って、洗濯や着替えなどをして22時半。まだ夕焼けが見えます。家に電話をして23時に寝ました。

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