企画進行中 プロジェクトY | |
テーマに関する補足 | |
今回の企画のヒントとなったのは、映画「ラスト タンゴ イン パリ」ということです。そこに出てくる橋のシーンが印象的で、橋をモチーフに何か書けないか、ということでした。 僕がこれを観たのは30年以上前で、一言でいうと“西欧の没落”というのがその時の感想でした。 人間が作り出した文明に、自ら管理され人間性を埋没させてしまう。ここに登場する主人公は、自分も虚構化された人間のひとりに過ぎないということを自覚するが、閉じられた世界を突破する想像力を生み出す肉は、すでに衰えてしまっている。絶望的になった男は、情熱的な愛の踊りと言われるタンゴを舞うが、そのシルエットは黄昏の死のダンスに映る。 自然という概念は、昔から深いテーマを含み、神という観念を共有する場合もあり、人間の存在意識に大きく関わっている。 自然に対して、一番身近に意識することは環境の問題だろう。漱石も「明治になってから、周囲は騒々しくなり、空気も汚れてきた。」と言っているし、独歩も武蔵野の後退を嘆息している。 しかし、自然破壊による生活環境の変化は人間の尊厳にも大きな影響を及ぼす。 「10ミニッツ オールダー」というオムニバス映画に“失われた1万年”というウェルナー・ヘルツォークの作品が収録されている。 1984年、ブラジル奥地の密林に鉱脈が発見される。そこにウルイウ・ワウワウ族という原始生活をしている部族がいることが確認され、調査隊が派遣される。部族の人たちは、白人を見て極度に興奮し、槍や弓で攻撃する。これに対し、調査隊は、金属の利器を提供し和解を申し出る。族長は警戒の色を顔に浮かべつつ了解する。 和解成立の儀式として、白人は文明人の挨拶をする。握手である。ヘルツォークは“この舜間に数千年の無駄な進歩をした”という。原住民に免疫のないウィルスが感染したのである。カゼと水疱瘡で部族の半分が死亡する。 20年後、再び彼らに会うために密林に入る。部落に着いてみると、ジャングルは開発され、住居が立ち、道路も整備されている。 族長とその弟が姿を現す。Tシャツを着、クツをはき、帽子を被っている。かつて白人に槍を投げた男の面影は、彼の様子には見られない。小さな老人である。話題は売春の話になってゆく。それを話す表情は、その辺のオヤジのそれと変わるところはない。 彼等が失ったものが、実際何だったのかは、わからない。文明人と言われる我々には、最初から持ちあわせていなかったものだろう。だが、数十年間ジャングルの中で生活して、そこから帰還した現在の小野田氏の顔の表情を元部族の人たちと見比べると、彼等から何かが失われたと考えざるを得ない。 かつて戦士と呼ばれその雄猛な肉体は、経済という閉じられた回路の中の性に順応させられている。 言葉はもとより、ヴァーチャルな世界である。それが一般的になるのは、文字が発明され、紙が出現してからだが、印刷機の開発はそれを一層化させ、さらに新聞が大衆に浸透させてきた。そして映像が文字のヴァーチャル性を一挙に凌駕してしまった。 映像を、片手の中で制作できる時代である。それが、コンピューターという考える機械と結合する。現実という言葉は、そのアイデンティティを見失いつつあるし、言葉そのものが、その本来表すところのものと乖離してきている。 想像力を産み出し、五感を感じとる肉体という自然は、売春宿の中で売り買いされる性のように、その誇りを卑小に消しさられはしないか。 今回、誇りある肉体に尊厳を取り返すために、旅を素材としてみたい。そして、閉じられた回路を開放する想像力を街の中から、肉体の内側へ取り込む試みをしてみたい。 キネマの怪人
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