先日、松尾スズキ作演出の『業音』を観た。肉体の喪失と言う言葉を聞いて久しいが、実際に生の舞台でそれを目のあたりにすると、演劇とは何か、などと書生ぽいことも考えてみたくなる。 体制派と反体制というわかりやすい政治的な対立構図がなくなって、自分の前に何が立ちはだかっているのか見えなくなってにっている。対立物を見失っているのではなく、対立する動機を見失っているように思う。 映画「羊たちの沈黙」では、クラリスが羊の鳴き声を聞きながらその悲鳴をコントロールできなかった犯人を追い詰める。クラリスの動機は社会的秩序だろう。根本的な善悪と言う概念は、まだ宗教用語としては彼女には理解されていない。ところが、パート2ではレクター博士自体の事件に関わることから、善悪のモチーフは秩序から人間の存在理由に展開され、その概念は哲学の様相を呈してくる。 ハンニバル・レクターは、神に匹敵する知識をもつ反面人間の原初的な存在条件である食に異常な執着を示す。それがカ二バリズムと言う世界である以上、そこにリビドーも含まれることは当然である。彼の審美眼を形成する観念はここに立脚している。 そこに引き込まれたクラリスは、博士を捕まえる理由を見失ってしまう。 意識と対立するのは肉体だが、それを『食う』という行為によってエントロピーの領域に持ち込み、性的衝動と結びつけ意識を美へと転位させている。 ところで、このテーマは『羊たちの沈黙』より7年前ラース・フォン・トリアーが『エレメント・オブ・クライム』ですでに描いている。 ところで、『業音』には肉体がない。『肉体』と言う言葉は『自然』と言い換えても良いし、作家にとっては『現実』といってもいいだろう。 この芝居では芸名と役名が同じである。松尾スズキは松尾スズキ、荻野目慶子は荻野目慶子という役を演じている。しかし、実社会の松尾スズキと舞台上の松尾スズキは連続していない。それは、彼と荻野目慶子の関係性が舞台と言う虚構のなかに持ちこまれていないことをみればわかる。だとすれば板の上で動いているのは何か。 現実原則に則さない構造において、名前が持つ物語性を嫌うのは理解できる。だが、舞台の上で語られている言葉はほとんどが日常用語で、反日常、非日常用語はそれに対立する位置を占めていない。この矛盾は、作者が自分の理性に現実を対立させていないことからくる。要するに、松尾スズキの頭脳が舞台の上で展開されているだけなのだ。何でもありと言うことになる。舞台空間にあるのは肉体のはずだが、それも彼の意識に立ちはだかることはない。ここで演じている人は、日常用語の台詞に現実空間の感情をあてはめる。 例えば、冒頭からコント風の笑いをとって現実の時間と空間を構成する。ところが、非日常的な時間、空間構成が、それに対立するだけの構築力を備えていないので現実を異化しきれていない。 肉体的なことでいうと、荻野目慶子が裸になってその存在を主張しても照明が「道徳」滴なレトリックをしてしまう。この作者は対立するものを排除したがっているようにみえる。これは、独善につながる恐れがある。 井上ひさし氏は『父と暮らせば』を書かれたとき、モデルにした図書館の従業員の名簿を調べて、その中で退職する人を想定し、そこに戯曲の主人公をいれたそうである。映画『ベニスに死す』で、タジュウが滞在しているホテルのクロークには当時の事務用品が揃えられていたといわれる。現実を厳しく捉えることは、創造力の深さに大きくかかわる。 例えば盲目の旅行者が、この舞台の片隅に上がり、黙ったまま立ちつくしたとしら松尾氏にコントロールされ、デジタル化されたこの芝居は旅行者を猥雑な言葉によって取りこむことなく、無視することなく、この芝居と同質の存在として緊張をたもてるだろうか。松尾氏の脳を異化するものはこの舞台からは見あたらない。 この、対立物の衰退化はモチーフの不透明さからきている。 情報化社会の経済原理に、肉体(売春)で立ち向かうことを恥じる女。権力に対して、自立できずコピー化してしまう老女。「母の死体は情報である。」、という取るにたらないたわ言に狼狽する息子。何という貧弱な発想だろう。 『今は考えるより、ウンコがしたい。』と荻野目慶子が叫ぶとき、本質より存在が先行するのかと思っていると、‘母’がデジタルとして便器と化して待ち構えている。作者にはエントロピーという概念はないらしい。まさか、これが管理の比喩という幼稚な思惑ではあるまい。 デジタルの益を食んでいる者が、情報社会を批判する時動機付を不鮮明にすると、自己否定につながってしまう。それは、妊娠した女と彼女に愛を抱いている男が、お互いを確認するとき見る、見られるという形は行為から記録へと後退しているのをみれば瞭然である。 作家、松尾スズキは女性とふたりになった時どうするか?彼はきっと観客席に座って女性を眺めることだろう。 キネマの怪人
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