tell a graphic lie
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(2003.10.17)-1
 あるいは、こう考えることをすべきなのかもしれない。
「この世界に長くいると、なぜぼくらには、生きることを続けようと思ったり、それを止そうと思ったりすることが起こるのだろうか」
 それはあくまで、あるいは、の話であって、ぼく自身がそういう角度から入るようになったというわけではないのだが、あるいは、そう思うべきなのかもしれない。
「明日はいい日だろうか」と思って眠りにつくことを止めてしまったことを、ふと思い出した。
「明日がいい日だったからといって、なんだというのか」
 わからない。わからないけれども、たぶん、何か言うべきなのだろう。ぼくはひとつ、言ってみる。
「明日がいい日だったからといって、どうというわけでもない。けれども、明日はいい日だろうか、と思って眠りにつくことは、たぶんぼくらには大切なことだ。それが、生きつづけようと思うということだ」
 言ってみて、微苦笑する。
「ぼくは言ったそばから、それを信じることをやめている」
 おおぼらふき。本格的に笑い出す。
 また、母なる声もある。真摯の声である。
「止めよう、なんて思わないで」
 ぼくは立ちどまって、振り返る。なつかしい声を聞いたような気がしたのである。
「生きつづけようと思っている」
 たしかに軽薄な響きである。「ただ死ねずに居るのだ」我知らず答えている。
「明日はいい日だろうか」
 すこし、ましなような気がする。
 やはり、こう考えるべきなのかもしれない。
「なぜぼくらには、生きることを続けようと思ったり、それを止そうと思ったりすることがあるのだろう」
 ぼんやりとした灯りの気配。生きものの匂い。
 そして、ぼくは微苦笑する。やはり、それは違うのだから。
「なぜ、おまえは死なないのか」
 思っている。
(2003.10.18)-1
「ぼくはその二階の、奥からふたつめの部屋に住んでいる。ひとつの階あたり、部屋は四つ並んでいるから、手前から数えるとみっつめになる。二階へ上がる階段は、おもてにコンクリートを被せてあるから、のぼるとトストスという感じの音を立てる。ちょっとくたびれた感じのする、どこにでもある普通のアパートだと思う。
 それから、アパートの廊下側のとなりは、これもありふれた感じのつくりの一戸建てで、一階はそのキッチンに面していて、二階は子供の部屋なのだろう、お月さまか何かだったと思うけれども、窓には大抵おおがらのカーテンが曇りガラスの向こうに見える。窓は天気のいい日曜などには、たまに開いていることがあって、学習机と壁に貼られた男のアイドルのポスターが見えるから、おそらくその部屋の持ちぬしは女の子なんだろう。でも、ぼくはまだその子の姿を見かけたことはない。
 そちらがアパートの北よりの面で、窓があるのは、部屋に入って、反対側の南になる。部屋の窓からは、午後の陽射しよりも、朝の光がよく入りこむような気がするから、たぶん南からすこし東に傾いていて、南南東むきといえば、ちょっと感じが出るかもしれない。ぼくのアパートについては、だいたいそんなところだ。聞いている?」
「聞いてるよ。先を続けて」
「わかった」
「今度は、部屋のなかのことを話して」
「いいよ」

(2003.10.18)-2
最近、後期太宰のものが、以前よりもすこしわかるようになってきたように思う。サブタイトルがうなずけるようになってきたから。
(渡り鳥) - おもてには快楽(けらく)をよそい、心には悩みわずらう。 ----ダンテ・アリギエリ
 晩秋の夜、音楽会もすみ、日比谷公会堂から、おびただしい数の烏(からす)が、さまざまの形をして、押し合い、もみ合いながらぞろぞろ出て来て、やがておのおのの家路に向かって、むらむらぱっと飛び立つ。
「山名先生じゃ、ありませんか?」
 呼びかけた一羽の烏は、無帽蓬髪の、ジャンパー姿で、痩せて背の高い青年である。
「そうですが、・・・・・・」
 呼びかけられた烏は中年の、太った紳士である。青年にかまわず、有楽町のほうに向かってどんどん歩きながら、
「あなたは?」
「僕ですか?」
 青年は蓬髪を掻き上げて笑い、
「まあ、一介のデリッタンティとでも、・・・・・・」
「何かご用ですか?」
「ファンなんです。先生の音楽評論のファンなんです。このごろ、あまりお書きにならぬようですね。」
「書いていますよ。」
 しまった!と青年は、暗闇の中で口をゆがめる。この青年は、東京の或る大学に籍を有しているのだが、制帽も制服も持っていない。そうして、ジャンパーと、それから間着(あいぎ)の背広服を一揃い持っている。肉親からの仕送りがまるで無い様子で、或る時は靴磨きをした事もあり、また或る時は宝くじ売りをした事もあって、この頃は、表看板は或る出版社の編輯の手伝いという事にして、またそれも全くの出鱈目では無いが、裏でちょいちょい闇商売などに参画しているらしいので、ふところは、割にあたたかの模様である。
「音楽は、モオツァルトだけですね。」
 お世辞の失敗を取りかえそうとして、山名先生のモオツァルト礼賛の或る小論文を思い出し、おそるおそるひとりごとみたいに呟いて先生におもねる。
「そうとばかりも言えないが、・・・・・・」
 しめた!少しご機嫌が直って来たようだ。賭けてもいい、この先生の、外套の襟の蔭の頬が、ゆるんだに違いない。
 青年は図に乗り、
「近代音楽の堕落は、僕は、ベートーヴェンあたりからはじまっていると思うのです。音楽が人間の生活に向き合って対決を迫るとは、邪道だと思うんです。音楽の本質は、あくまでも生活の伴奏であるべきだと思うんです。僕は今夜、久し振りにモオツァルトを聞き、音楽とは、こんなものだとつくづく、・・・・・・」
「僕は、ここから乗るがね。」
 有楽町駅である。
「ああ、そうですか、失礼しました。今夜は、先生とお話が出来て、うれしかったです。」
 ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、青年は、軽くお辞儀をして、先生と別れ、くるりと廻れ右をして銀座のほうに向う。
 ベートーヴェンを聞けば、ベートーヴェンさ。モオツァルトを聞けば、モオツァルトさ。どっちだっていいじゃないか。あの先生、口髭をはやしていやがるけど、あの口髭の趣味は難解だ。うん、どだいあの野郎には、趣味が無いのかも知れん。うん、そうだ、評論家というものには、趣味が無い、したがって嫌悪も無い。僕も、そうかも知れん。なさけなし。しかし、口髭・・・・・・。口髭を生やすと歯が丈夫になるそうだが、誰かに食らいつくため、まさか。宮さまがあったな。洋服に下駄ばきで、そうしてお髭が見事だった。お可哀そうに。実に、おん心裡を解するに苦しんだな。髭がその人の生活に対決を迫っている感じ、とでも言おうか。寝顔が、すごいだろう。僕も、生やして見ようかしら。すると何かまた、わかる事があるかも知れない。マルクスの口髭は、ありゃ何だ。いったいあれは、どういう構造になっているのかな。トウモロコシを鼻の下にさしはさんでいる感じだ。不可解。デカルトの口髭は、牛のよだれのようで、あれがすなわち懐疑思想・・・・・・。おや?あれは、誰だったかな?田辺さんだ、間違い無し。四十歳、女もしかし、四十になると、・・・・・・いつもお小遣い銭を持っているから、たのもしい。どだい彼女は、小造りで若く見えるから、たすかる。
「田辺さん」
 うしろから肩を叩く。げえっ!緑のベレ帽。似合わない。よせばいいのに。イデオロギストは、趣味を峻拒(しゅんきょ)すか。でも、としを考えなさい。としを。
「どなたでしたかしら?」
 近眼かい?溜息が出るよ。
「クレヨン社の、・・・・・・」
 名前まで言わせる気かい。蓄膿症じゃないかな?
「あ、失礼。柳川さん。」
 それは仮名で、本名は別にあるんだけれど、教えてやらないよ。
「そうです。こないだは、ありがとう」
「いいえ、こちらこそ。」
「どちらへ?」
「あなたは?」
 用心していやがる。
「音楽会。」
「ああ、そう。」
 安心したらしい。これだから、時々、音楽会なるものに行く必要があるんだ。
「わたくし、うちへ帰りますの、地下鉄で。新聞社にちょっと用事があったもので、・・・・・・」
 何の用事だろう。嘘だ。男と逢って来たんじゃないか?新聞社に用事とは、大きく出たね。どうも女の社会主義者は、虚栄心が強くて困る。
「講演ですか?」
 見ろ、顔も赤らめない。
「いいえ、組合の、・・・・・・」
 組合?紋切型辞典に曰く、それは右往左往して疲れて、泣く事である。多忙のシノニム。
 僕も、ちょっぴり泣いた事がある。
「毎日、たいへんですね。」
「ええ、疲れますわ。」
 こう来なくちゃ嘘だ。
「でも、いまは民主革命の絶好のチャンスですからね。」
「ええ、そう。チャンスです。」
「いまをはずしたら、もう、永遠に、・・・・・・」
「いいえ、でも、わたくしたちは絶望しませんわ。」
 またもお世辞の失敗か。むずかしいものだ。
「お茶でも飲みましょう。」
 たかってやれ。
「ええ、でも、わたくし、今夜は失礼しますわ。」
 ちゃっかりしていやがる。でも、こんな女房を持ったら、亭主は楽だろう。やりくりが上手にちがい無い。まだ、みずみずしさも、残っている。
 四十女を見れば、四十女。三十女を見れば、三十女。十六七をみれば、十六七。ベートーヴェン。モオツァルト。山名先生。マルクス。デカルト。宮さま。田辺女史。しかし、もう、僕の周囲には誰もいない。風だけ。
 何か食おうかなあ。胃の具合いが、どうも、・・・・・・音楽会は胃に悪いのかも知れない。げっぷを怺(こら)えたのが、いけなかった。
「おい、柳川君!」
 ああ、いい名じゃない。川柳のさかさまだ。柳川鍋。いけない、あすからペンネームを変えよう。ところで、こいつは誰だっけ。物凄いぶおとこだなあ。思い出した。うちの社へ、原稿を持ち込んで来た文学青年だ。つまらん奴と逢ったなあ。酔っていやがる。僕にたかる気かも知れない。よそよそしくしてやろう。
「ええっと、どなたでしたっけ。失礼ですが。」
 ことに依ると、たかられるかも知れない。
「いつか、クレヨン社に原稿を持ち込んで、あなたに荷風の猿真似だと言われて引下った男ですよ。お忘れですか?」
 脅迫するんじゃねえだろうな。僕は、猿真似とは言わなかった筈だが。エピゴーネン、いや、イミテーションと言ったかしら。とにかく僕は、あの原稿は一枚も読んでいなかった。題が、いけなかったんだよ。ええっと、何だったっけな、「或る踊子の問わず語り」こっちが狼狽して赤面したね。馬鹿な奴もあったもんだ。
「思い出しました。」
 いんぎん鄭重に取り扱うに限る。何せ、相手は馬鹿なんだからな。殴られちゃ、つまらない。でも、弱そうだ。こいつには、勝てると思うが、しかし、人は見かけに依らぬ事もあるから、用心に如くはない。
「題をかえましたよ。」
 ぎょっとするわい。よくそこに気が附いたね。まんざら馬鹿でもないらしい。
「そうですか。そのほうが、いいかも知れませんですね。」
 興味無し。興味無し。
「男女合戦、と直しました。」
「男女合戦、・・・・・・」
 二の句がつげない。馬鹿野郎。ものには限度があるぜ。シラミみたいな奴だ。傍へ寄るな、けがれる。これだから、文学青年は、いやさ。
「売れましてね。」
「え?」
「売れたんですよ、あの原稿が。」
 奇蹟以上だ。新人の出現か。気味が悪くなって来た。こんな、ヒョットコの鼻つまりみたいな顔をしていても、案外、天才なのかも知れない。慄然。おどかしやがる。これだから、僕は、文学青年ってものは苦手なんだ。とにかくお世辞を言おう。
「題が面白いですものねえ。」
「ええ、時代の好みに合ったというわけなんです。」
 ぶん殴るぜ、こんちきしょう。いい加減にし給え。神をおそれよ。絶交だ。
「きょうね、原稿料をもらってね、それがね、びっくりするほど、たくさんなんです。さっきから、あちこち飲み歩いても、まだ半分以上も残っているんです。」
 ケチな飲み方をするからだよ。いやな奴だねえ。金があるからって、威張っていやがる。残金三千円とにらんだが、違うか?待てよ、こいつ、トイレットで、こっそり残金を調べやがったな。そうでなければ、半分以上残っているなんて、確言できる筈はない。やった、やったんだ。よくあるやつさ。トイレットの中でか、または横丁の電柱のかげで酔っていながら、残金を一枚二枚と数えて、溜息ついて、思い煩うな空飛ぶ鳥を見よ、なんて力無く呟いてさ、いじらしいものだよ。実は、僕にも覚えがあらあ。
「今夜これから、残金全部使ってしまうつもりなんですがね、つき合ってくれませんか。どこか、あなたのなじみの飲み屋でもこの辺にあったら、案内して下さい。」
 失敬、見直した。しかし、金は本当に持っているんだろうな。割勘などは、愉快でない。念のため、試問しよう。
「あるにはあるんですけれど、そこは、ちょっと高いんですよ。案内して、あなたに後で、うらまれちゃあ、・・・・・・」
「かまいません。三千円あったら、大丈夫でしょう。これは、あなたにお渡し致しますから、今夜、二人で使ってしまいましょう。」
「いや、それはいけません。よそのひとのお金をあずかると、どうも、責任を感じて僕はうまく酔えません。」
 面のぶさいくなのに似あわず、なかなか話せる男じゃないか。やはり小説を書くほどの男には、どこか、あっさりしたところがある。イナセだよ。モオツァルトを聞けば、モオツァルト。文学青年と逢えば、文学青年。自然にそうなって来るんだから不思議だ。
「それじゃあ、今夜は、大いに文学でも談じてみますか。僕は、あなたの作品には前から好意を感じていたのですがね、どうも、編輯長がねえ、保守的でねえ。」
 竹田屋に連れて行こう。あそこに、僕の勘定がまだ千円くらいあった筈だから、ついでに払ってもらいましょう。
「ここですか?」
「ええ、きたないところですがね、僕はこんなところで飲むのが好きなんです。あなたは、どうです。」
「わるくないですね。」
「はあ、趣味が合いました。飲みましょう。乾杯。趣味というものは、むずかしいものでしてね。千の嫌悪から一つの趣味が生れるんです。趣味の無いやつには、だから嫌悪も無いんです。飲みましょう。乾杯。大いに今夜は談じ合おうじゃありませんか。あなたは案外、無口なお方のようですね。沈黙はいけません。あれは僕らの最大の敵ですね。こんなおしゃべりをする事は、これは非常な自己犠牲で、ほとんど人間の、最高の奉仕の一つでしょう。しかも少しも報酬をあてにしていない奉仕でしょう。しかし、また、敵を愛すべし。僕は、活気づける者を愛さずにはおられない。僕らの敵手は、いつも僕らを活気づけてくれますからね。飲みましょう。馬鹿者はね、ふざける事は真面目でないと信じているんです。また、洒落は返答でないと思っているらしい。そうして、いやに率直なんて態度を要求する。しかし、率直なんてものはね、他人にさながら神経のないもののように振舞う事です。他人の神経をみとめない。だからですね、余りに感受性の強い人間は、他人の苦痛がわかるので、容易に率直になれない。率直なんてものは、これは、暴力ですよ。だから僕は、老大家たちが好きになれないんだ。ただ、あいつらの腕力が、こわいだけだ。(狼が羊を食うのはいけない。あれは不道徳だ。じつに不愉快だ。おれがその羊を食うべきものなのだから。)なんて乱暴な事を平然と言い出しそうな感じの人たちばかりだ。どだい、勘がいいなんて、あてになるものじゃない。智慧を伴わない直覚は、アクシデントに過ぎない。まぐれ当りさ。飲みましょう、乾杯。談じ合いましょう。我らの真の敵は無言だ。どうも、言えば言うほどに不安になって来る。誰かが袖をひいている。そっと、うしろを降りかえってみたい気持。だめなんだなあ、やっぱり、僕は。最も偉大な人物はね、自分の判断を思い切り信頼し得た人々です、最も馬鹿な奴も、また同じですがね。でも、もう、よしましょうか、悪口は。どうも、われながら、あまり上品でない。もともと、この悪口というものには、大向う相手のケチな根性がふくまれているものですからね。飲みましょう、文学を談じ合いましょう。文学論は、面白いものですね。ああ、新人と逢えば新人、老大家と逢えば老大家、自然に気持がそうなって行くんですから面白いですよ。ところで一つ考えてみましょう。あなたがこれから新作家として登場して、三百万の読者の気にいるためには、いったい、どうしたらよいか。これは、むずかしい事です。しかし、絶望してはいけません。これはね、いいですか?特に選ばれた百人以外の読者には気にいられないようにするよりは、ずっと楽な事業です。ところで、何百万人の気にいる作家は、常にまた自分自身でも気にいっているのだが、少数者にしか気にいられない作家は、たいてい、自分自身でも気にいらないのです。これは、みじめだ。さいわい、あなたの作品は、あなたご自身に気にいっているようですから、やはり、三百万の読者にも気にいって、大流行作家になれる見込みがあると思う。絶望しては、いけません。いまはやりの言葉で言えば、あなたには、可能性がある。飲みましょう、乾杯。作家殿、貴殿は一人の読者に千度読まれるのと、十万の読者に一度読まれるのと、いったい、いずれをお望みかな?とおたずねすると、かの文筆の士なるものは、十万の読者に千度読まれとうござる、と答えてきょろりとしていらっしゃる。おやりなさい、大いにおやりなさい。あなたには見込みがあります。荷風の猿真似だって何だってかまやしませんよ。もともと、オリジナリテというものは、胃袋の問題でしてね、他人の養分を食べて、それを消化できるかできないか、原形のままウンコになって出て来たんじゃ、ちょととまずい。消化しさえすれば、それでもう大丈夫なんだ。昔から、オリジナルな文人なんて、在ったためしは無いんですからね。真にこの名に値する奴等は世に知られていないばかりでなく、知ろうとしても知り得ない。だから、あなたなんか、安心して可なりですよ。しかし、時たま、我輩こそオリジナルな文人だぞ!という顔をして徘徊している人間もありますけどね、あれはただ、馬鹿というだけで、おそるるところは無い。ああ、溜息が出るわい。あなたの前途は、実に洋々たるものですね。道は広い。そうだ、こんどの小説は、広き門、という題にしたらどうです。門という字には、やはり時代の感覚があるそうですから。失礼します、僕は、吐きますよ。大丈夫、ええ、もう大丈夫。ここの酒は、あまりよく無いな。ああ、さっぱりした。さっきから、吐きたくて仕様が無かったんです。人を賞讃しながら酒を飲むと、悪酔いしますね。ところで、そのヴァレリイですがね、あ、とうとう言っちゃった、汝の沈黙に我おのずから敗れたり。僕が今夜ここで言った言葉のほとんど全部が、ヴァレリイの文学論なんです、オリジナリテもクソもあったものでない。胃の具合いが悪かったのでね、消化しきれなくなって、とうとう固形物を吐いちゃった。おのぞみなら、まだまだ言えるんですけれどね、それよりは、このヴァレリイの本をあなたにあげたほうが、僕もめんどうでなくていい。さっき古本屋から買って、電車の中で読んだばかりの新智識ですから、まだ記憶に残っているのですけど、あすになったら、僕は忘れてしまうでしょう。ヴァレリイを読めば、ヴァレリイ。モンテーニュを読めば、モンテーニュ。パスカルを読めば、パスカル。自殺の許可は、完全に幸福な人のみに与えられるってさ。これもヴァレリイ。わるくないでしょう。僕らには、自殺さえ出来ない。この本は、あげます。おうい、おかみさん。ここの勘定をしてくれ。全部の勘定だぜ。全部の。それでは、さきに失敬。羽毛のようでなく、鳥のように軽くなければいけない、とその本に書いてあるぜ。どうすりゃ、いいんだい。」
 無帽蓬髪、ジャンパー姿の痩せた青年は、水鳥の如くぱっと飛び立つ。
太宰

(2003.10.19)-1
できれば、十数頁の長めの詩を読むような感じで、丁寧に読んであげてほしい。きっとそれがいい。でないと、こんなに短いものなのに、二年もたってから、きちんと読んでいなかったと気づくはめになる。

〜私はそれまで、そのお宅の前を歩いてみた事はしばしばあったが、まだそのお宅へはいってみたこと無かったのだ。ほかのところで逢ってばかりいたのである。

昨日の「
渡り鳥」に引きつづいて、後期太宰の短篇をひとつ。「」もあわせて、よろしければ。

(フォスフォレッセンス)
「まあ、綺麗。お前、そのまま王子様のところへでもお嫁に行けるよ。」
「あら、お母さん、それは夢よ。」
 この二人の会話に於いて、一体どちらが夢想家で、どちらが現実家なのであろうか。
 母は、言葉の上ではまるで夢想家のようなあんばいだし、娘はその夢想を破るような所謂現実家みたいなことを言っている。
 しかし、母は実際のところは、その夢の可能性をみじんも信じていないからこそ、そのような夢想をやすやすと言えるのであって、かえってそれをあわてて否定する娘のほうが、もしや、という期待を持って、そうしてあわてて否定しているもののように思われる。
 世の現実家、夢想家の区別も、このように錯雑しているものの如くに、此頃、私には思われてならぬ。
 私は、この世の中に生きている。しかし、それは、私のほんの一部分でしか無いのだ。同様に、君も、またあのひとも、その大部分を、他のひとには全然わからぬところで生きているに違いないのだ。
 私だけの場合を、例にとって言うならば、私は、この社会と、全く切りはなされた別の世界で生きている数時間を持っている。それは、私の眠っている間の数時間である。私はこの地球の、どこにも絶対に無い美しい風景を、たしかにこの眼で見て、しかもなお忘れずに記憶している。
 私はこの肉体を以て、その風景の中に遊んだ。記憶は、それは、現実であろうと、また眠りのうちの夢であろうと、その鮮やかさに変りが無いならば、私にとっては、同じような現実ではなかろうか。
 私は、睡眠のあいだの夢に於いて、或る友人の、最も美しい言葉を聞いた。また、それに応ずる私の言葉も、最も自然の流露の感じのものであった。
 また私は、眠りの中の夢に於いて、こがれる女人から、実は、というそのひとの本心を聞いた。そうして私は、眠りから覚めても、やはり、それを私の現実として信じているのである。
 夢想家。
 そのような、私のような人間は、夢想家と呼ばれ、あまいだらしない種族のものとして多くの人の嘲笑と軽蔑の的にされるようであるが、その笑っているひとに、しかし、笑っているそのお前も、私にとっては夢と同じさ、と言ったら、そのひとは、どんな顔をするでろうか。
 私は、一日八時間ずつ眠って夢の中で成長し、老いて来たのだ。つまり私は、所謂この世の現実で無い、別の世界の現実の中でも育って来た男なのである。
 私はこの世の中の、どこにもない親友がいる。しかもその親友は生きている。また私には、この世のどこにもいない妻がいる。しかもその妻は、言葉も肉体も持って、生きている。
 私は、眼が覚めて、顔を洗いながら、その妻の匂いを身近に感ずる事が出来る。そうして、夜寝る時には、またその妻に逢える楽しい期待を持っているのである。
「しばらく逢わなかったけど、どうしたの?」
「桜桃を取りに行っていたの。」
「冬でも桜桃があるの?」
「スウィス。」
「そう。」
 食慾も、またあの性慾とやらも、何も無い涼しい恋の会話が続いて、夢で、以前に何度も見た事のある、しかし、地球の上には絶対に無い湖のほとりの青草原に私たち夫婦は寝ころぶ。
「くやしいでしょうね。」
「馬鹿だ。みんな馬鹿ばかりだ。」
 私は涙を流す。
 そのとき、眼が覚める。私は涙を流している。眠りの中の夢と、現実がつながっている。気持がそのまま、つながっている。だから、私にとってこの世の中の現実は、眠りの中の夢の連続でもあり、また、眠りの中の夢は、そのまま私にとって現実でもあると考えている。
 この世の中に於ける私の現実の生活ばかりを見て、私の全部を了解することは、他の人たちには不可能であろう。と同時に、私もまた、ほかの人たちに就いて、何の理解するところも無いのである。
 夢は、れいのフロイド先生のお説にしたがえば、この現実世界からすべて暗示を受けているものなのだそうであるが、しかしそれは、母と娘は同じものだという暴論のようにも私には思われる。そこには、つながりがありながら、また本質的な差異のある、別箇の世界が展開せられている筈である。
 私の夢の世界は現実とつながり、現実は夢とつながっているとはいうものの、その空気が、やはり全く違っている。夢の国で流した涙がこの現実につながり、やはり私は口惜しくて泣いているが、しかし、考えてみると、あの国で流した涙のほうが、私にはずっと本当の涙のような気がするのである。
 たとえば、或る夜、こんなことがあった。
 いつも夢の中で現れる妻が、
「あなたは、正義というものをご存じ?」
 と、からかうような口調では無く、私を信頼し切っているような口調で尋ねた。
 私は、答えなかった。
「あなたは、男らしさというものをご存じ?」
 私は、答えなかった。
「あなたは、清潔ということをご存じ?」
 私は、答えなかった。
「あなたは、愛ということをご存じ?」
 私は、答えなかった。
 やはり、あの湖のほとりの草原に寝ころんでいたのであるが、私は寝ころびながら涙を流した。
 すると、鳥が一羽飛んで来た。その鳥は、蝙蝠に似ていたが、片方の翼の長さだけでも三米ちかく、そうして、その翼をすこしも動かさず、グライダのように音も無く私たちの上、二米くらい上を、すれすれに飛んで行って、そのとき、鴉の鳴くような声でこう言った。
「ここでは泣いてもよろしいが、あの世界では、そんなことで泣くなよ。」
 私は、それ以来、人間はこの現実の世界と、それから、もうひとつの睡眠の中の夢の世界と、二つの世界に於いて生活しているものであって、この二つの生活の体験の錯雑し、混迷しているところに、謂わば全人生とでもいったものがあるのではあるまいか、と考えるようになった。
「さようなら。」
 と現実の世界で別れる。
 夢でまた逢う。
「さっきは、叔父が来ていて、済みませんでした。」
「もう、叔父さん、帰ったの?」
「あたしを、芝居に連れて行くって、きかないのよ。羽左衛門(うざえもん)と梅幸(ばいこう)の襲名披露で、こんどの羽左衛門は、前の羽左衛門よりも、もっと男振りがよくって、すっきりして、可愛くって、そうして、声がよくって、芸もまるで前の羽左衛門とは較べものにならないくらいうまいんですって。」
「そうだってね。僕は白状するけれども、前の羽左衛門が大好きでね、あのひとが死んで、もう、歌舞伎を見る気もしなくなった程なのだ。けれども、あれよりも、もっと美しい羽左衛門が出たとなりゃ、僕だって、見に行きたいが、あなたはどうして行かなかったの?」
「ジイプが来たの。」
「ジイプが?」
「あたし、花束を戴いたの。」
「百合でしょう。」
「いいえ。」
 そうして私のわからない、フォスフォなんとかという長ったらしいむずかしい花の名を言った。私は、自分の語学の貧しさを恥かしく思った。
「アメリカにも、招魂祭があるのかしら。」
 とそのひとが言った。
「招魂祭の花なの?」
 そのひとは、それに答えず、
「墓場の無い人って、哀しいわね。あたし、痩せたわ。」
「どんな言葉がいいのかしら。お好きな言葉をなんでも言ってあげるよ。」
「別れる、と言って。」
「別れて、また逢うの?」
「あの世で。」
 とそのひとは言ったが私は、ああこれは現実なのだ、現実の世界で別れても、また、このひととはあの睡眠の夢の世界で逢うことが出来るのだから、なんでも無い、と頗るゆったりした気分でいた。
 そうして朝、眼が覚めて、わかれたのが現実の世界の出来事で、逢ったのが夢の世界の出来事、そうしてまた別れたのがやはり夢の世界の出来事、もうどっちでも同じことのような気持ちで、床の中でぼんやりしていたら、かねて、きょうが約束の締切日ということになっていた或る雑誌の原稿を取りに、若い編輯者がやって来た。
 私にはまだ一枚も書けていない。許して下さい、来月号か、その次あたりに書かせて下さい、と願ったけれども、それは聞き容れられなかった。ぜひ今日中に五枚でも十枚でも書いてくれなければ困る、と言う。私も、いやそれは困る、と言う。
「いかがでしょう。これから、一緒にお酒を飲んで、あなたのおっしゃることを私が書きます。」
 酒の誘惑には私は極度にもろかった。
 二人で出て、かねて私の馴染のおでんやに行き、亭主に二階の静かな部屋を貸してもらうように頼んだが、あいにくその日は六月の一日で、その日から料理屋が全部、自粛休業とかをする事になっているのだそうで、どうもお座敷を貸すのはまずい、という亭主の返事で、それならば、君のところに前から手持のお酒で売れ残ったものがないか、それをゆずって貰いたい、と私は言い、亭主から日本酒を一升売ってもらって、私たち二人は何のあてどもなく、一升瓶をさげて初夏の郊外を歩き廻った。
 ふと、思いついて、あのひとのお宅のほうへ歩いて行った。私はそれまで、そのお宅の前を歩いてみた事はしばしばあったが、まだそのお宅へはいってみたこと無かったのだ。ほかのところで逢ってばかりいたのである。
 そのお宅は、かなり広く、家族も少ないし、あいているお部屋の一つ位はあるにきまっている。
「僕の家では、あんな具合に子供が大勢で、うるさくて、とても何も出来やしないし、それに来客があったら困るし、ちょっと知合いの家がありますから、そこへ行って仕事をやってみましょう。」
 こんな用事でも口実にしなければ、もう、あのひとと逢うことが出来ないかも知れぬ。
 私は勇気を出して、そのお宅の呼鈴を押した。女中が出て来た。あのひとは、いらっしゃらないという。
「お芝居ですか?」
「ええ。」
 私は嘘をついた。いや、やっぱり、嘘ではない。私にとって、現実の事を言ったのだ。
「それならすぐにお帰りになります。先刻、こちらの叔父さんに逢いまして、芝居に引っ張り出したけど、途中で逃げてしまったとおっしゃって、笑っておられましたから。」
 女中は、私をちかしい者のように思ったらしく、笑って、どうぞと言った。
 私たちは、そのひとの居間にとおされた。正面の壁に、若い男の写真が飾られていた。墓場の無い人って、哀しいわね。私はとっさに了解した。
「ご主人ですね?」
「ええ、まだ南方からお帰りになりませんの。もう七年、ご消息が無いんですって。」
 そのひとに、そんなご主人があるとは、実は、私もそのときはじめて知ったのである。
「綺麗な花だなあ。」
 と若い編輯者はその写真の下の机に飾られてある一束の花を見て、そう言った。
「なんて花でしょう。」
 と彼にたずねられて、私はすらすらと答えた。
「Phosphorescence」
太宰

(2003.10.19)-2
「青草原」という言葉は、「
HUMAN LOST」のキイワアドのひとつである。このころ太宰は、「人間失格」を書きはじめるための助走のような期間に入っていて、各短篇のところどころに、「人間失格」のベースになるようなものが見うけられるのだけれど、この「フォスフォレッセンス」では、「青草原」という言葉がそれにあたるかと思われる。
(2003.10.19)-3
また、相手の女の人は、「秋風記」のKなどとあわせて、太宰の裡に住む理想の女性像であり、「人間失格」に登場する女性たちに通じるモデルのひとつではないかと思われるが、これは別に確かめたわけではないので、はっきりしたことは言えない。ただ漠然と、きっと、そうだろう、と思うというだけの話である。それでぼくには十分である。そんなことをこのごろ思うようになったのは、今ぼくがやっぱりそういう女の人を書いているからで、自分でも書いてみると、太宰の小説の中に出てくる女の人の記述のいちいちについて、これはつくりごと、これはほんとのこと(それはフィクション、ノンフィクションということではなく、どちらかといえば、実際の女性を描こうと意図して書かれたものなのか、理想化された女性を描こうとしたものなのか、という意味での、ほんとうそ)、というのがわかるような気がしてくるのである。それは、「母なる〜」というやつかも知れぬ、とも思っている。「秋風記」は来週あたり写すかもしれない。
(2003.10.20)-4
先々週あたり、近所のスーパーで、一本(500ml)300yenの高級ミネラルウォーターを買ってきて、それでウィスキーを割ってみたのだけれど、いいね。すごく、まろやかになる。
(2003.10.20)-5
そのミネラルウォーターで三四回、ウィスキーを飲んで、まだボトルの半分も減っていないんだけど、流石にもう水が腐っちゃった。ミネラルウォーターはウィスキーを割るためだけにあるので、あんまり減らないんだけれど、たいてい三分の一くらい減ったところで、いつも水が腐ってしまう。「腐る」というのが、実際にどういうことなのか、全然知らないんだけど、とにかく、腐った水でウィスキーを割ると、ひどく不味くなる。なんというか、エグみが出るというのか、ばさばさになる。それはもうあからさまで、匂いまで変るのだから、たしかな変化なのだと思う。なんだろうね、きっと、酸素に触れるのが、よくないんだろうね。雑菌が、繁殖するのかね。ペットボトルの緑茶とかも、一日経つと、ひどい色になるものね。知らないことろで、知らないものたちが、いろんなことやっているものだね。
(2003.10.20)-6
今日こうして書けないのは、きっと、ぼくが今日えらそうなことをべらべら喋ったからだ。入社して半年、配属されて二ヶ月半の新人さんは、しょうじき、まだ使いものにならなくて、身に覚えがあるような、ひどいコードを書いてくるので、五人がかりで五時間もかけて、よってたかってコードを見てあげて、どう書いたらいいだろうと、一緒になって考える。プログラムのソースコードを書くことは、文を書くことと同じで、やっぱり三歩飛ばしは無しの世界だから、仕方がない、ある程度は手間ひまをかけて、熟練してもらうしかない。まだ、わかるには早過ぎるときには、どうしたって、わからないのだから、理屈抜きで、こうしろ、と言わなければならない。理屈を知らなければ、先へ進めないときには、その理屈を言って、わかってもらわなければならない。それで、何かにつけてぼくは、それは間違っている、とか、それは、どうでもいいことだ、とか、そうでなくて、こうすべきだ、とか、これじゃあ、話にならない、とか、言わなければならない。新人を預かっているのだから、それはきっとしなければならないことなのだろうけれど、そう思ってしているのだけれど、喋っていて、冷汗が、出るのである。自分が喋っている理屈が間違っているかもしれない、というのもあるけれど、それよりも、「何様のつもりだ」という声が、喋っているあいだじゅう、背中の方からずっと聞えてきて、たまらない。喋りおわって、じっとり汗している。正しいことを、正しいこととして喋るのは、いやだ。社会人というものは、きっと、どうしても、こういうものなのだというのも知っている。でも、ぼくは、とても、とても、いやなのだ。たまらない。しかも、言われた新人は、それで感心したり、感謝したりしているようなのだから、実に、やりきれない。
(2003.10.20)-7
ぜんぜん仕事をしていない新居昭乃氏に較べて、積極的にリリースを行っている小谷氏の勤勉は、率直に評価できるものであるが、大人になって身の丈を知り、夢を無くしたといった感じの、氏の近作「night」を聴いていて、やはりじんわり涙ぐむものがあるのである。氏には、三年前の「宇宙のママ」のときのような、「愛するわ ひそやかに」といった詩や、「眠れ眠れ眠れ 私があなたを分るから」といった詩の、格調高く高潔な精神は、おそらくもはや二度と望むべくもないのであるが、しかし、それでいいのだと思う。理想はどのようなかたちで現実になるべきか、それを想いたまえ。それは、決して、現実にはその程度が許容されるレベルだ、というネガチブなものではないのだと信じよう。毎日、朝食と夕食を共にし、横顔を眺めるだけで、その精神状態を理解し、その寝息を子守唄とし、ときに肌を合わせる。それはたしかに、格調高く高潔な精神とやらよりも、絶対的によいものだと、言い切ろう。日常こそ、最良のものなのだ。そうに、違いないのだ。そう、言い切ろうではないか。
(2003.10.20)-8
けれども、ぼくは「眠りのうた」をきいて眠る。ぼくには、それがないのだから。仕方が、ないんだ。
(2003.10.21)-1
うーん、むずかしいな。自分の部屋のことを好きな人に話すということは、どういうことかな。どういうことかな。
(2003.10.21)-2
we'll look out for you
thirty two
it's not so young here
the things you would say
the things you would do
it never really show

you go slowly
you go sideways
and no one really waits
speak slowly
and quietly
in everything you say
i'm not the one who waits
for the next step you will take

are you hoping to grow
or just grow cold
and let troubles go
the life you built up
at twenty two
is it what you still want to do?

you go slowly
you go sideways
and no one really waits
speak slowly
and quietly
in everything you say
i'm not the one who waits
for the next step you will take

surely time will come to and end soon
but it's still on your side
and everything must come to and end here
but you can still leave gracefully
Club 8 "the next step you'll take"

(2003.10.25)-1
高橋源一郎は太宰が好きだそうである。仲間だ。読もう。きっかけなど、なんでもいいのである。そのあとは、ぼくに高橋源一郎を読む準備ができていれば、わかるだろうし、わからなければ、読むのを止めてしまうまでだ。理屈よりも、好ききらい。毎日、自分の書きかけの小説をはじめから読みなおし、それから、その日の分を継ぐ、そうしてできあがった作品がまともでないことはあり得なくて、ぼくがそれを読めないとしたら、それは、ぼくに準備ができていないか、ぼくがそれを嫌いだからである。自分の読むものの選択に理屈をつけるのは、たぶん恥ずべき行為のひとつだ。ときどきやっているような気もするけれども、でも、それはきっと、どのように好きかを説明しているだけ(のはず)だ。好きならば、読めばいいし、写せばいいし、真似してみようとすればいいし、同じように書いてみればいい。だいじょうぶ、ぼくがやったのでは、猿真似いじょうには決してなりはしないのだから、安心である。
(2003.10.25)-2
たまに、確認しておこうと思う。気まぐれというやつだ。とにかく、ぼくはひとりだ。
(2003.10.25)-3
簡単なところなのに、なんで書きたくないのかしら。不思議だな。感覚の記憶がぼくには欠けているからかな。たとえば、高校生のころ、自分がテレビという存在について、どういった感覚で以て接していたか、ということに対して、その記憶が曖昧で、自信がないということかな。間違いなく、いまのテレビに対する感覚とは違ったものなのだけれど、じゃあ、それがどういうものかというと、これはうまく説明できないどころか、うまく思い出せていないような気がする。だから、書きたくない。書いたとしても、それは書こうとしているものとは、別もののような気がするし、それを確認する手段がぼくにはない。
(2003.10.25)-4
もう少し、ありふれた例を挙げてみよう。恋の冷めたあとで、あのころの私は、どうしてあんな男といることを喜んでいたのかしら、と思うとき、この自身の感覚を疑うということは、その感覚自体を思い出せないために来るものなのか、それとも、感覚自体は当時と同じものを見ていながら、その感覚の原因が、その男であったことが理解できないために来るものなのか、一体どちらなのか。
(2003.10.25)-5
興奮状態が醒めたときに、残っているものは、感覚の記憶なのか、その感覚がそのときに存在していたという記憶なのか、どちらなのか、といえばいいのだろうか。前者であるならば、その感覚の記憶を思い出す、ということは一体どういうことなのか。思い出すことによって、もう一度、そのときの感覚を感覚する、ということなのだろうか。それとも、その感覚を、自身感じたことがあるものとして、認識することができる、といったものでしかないのだろうか。よくわからない。「あー、それわかる」と、ひとの話に相槌をうつときの、あの状態とは、つまるところ、どういったものなのだろうか。
(2003.10.25)-6
今のぼくでない、だれか別の人間の感覚を書こうとするときに、前者のような状態を必要とするのは、手段として間違っているだろうか。「楽しかった子供のころのことを思い出して書きました」この場合の思い出すというのは、いったいどういうことなのだろう。過去形で綴るのならば、それでもいいかもしれぬが、そうでないときにはどうするものなのだろう。
(2003.10.25)-7
よく、わからねえ。
(2003.10.25)-8
 部屋のドアは痩せて色あせた茶色をしていて、開閉するたびに、くたびれた扉の金具が擦れてたてるあの音、キイという音がする。扉には新聞受けがついていて、大抵は安っぽいアパートに似合いの、デリバリーヘルスか宅配ピザのケバケバしい配色のチラシが二三枚は挟まっているか、底に溜まっているかする。ドアは、厚さは普通の扉と同じくらいなのだけれど、ひどく軽くて、勢いよく開け閉めすると団扇のように風が起こる。壁も決して厚くは無いから、部屋の中に音がよく通る。外の物音はとてもよく聞えるから、部屋からの音もやっぱり聞えているのだと思う。部屋にいると、たまに、そういうことを思い出して、そっと物を置くようにしたりすることがある。
 ドアの脇にはひとつ、曇りガラスの入った、小さめの風とり窓がついていて、これはまだ一度も開けたことがない。いや、引っ越して来た日に、一度だけ、この部屋の持っている機能をすべて試すように、全部の扉や窓、スイッチなんかをいじりまわしたから、そのときに開けて、閉めたような気がする。換気扇もついているけど、これもやっぱり、使ったことがない。
 部屋の間取りは1Kという、人が入っているただの箱のほかにはなりようのない形態で、ドアを開けるとすぐ脇に、K、キッチンがあり、トイレと浴室兼用のユニットバスという名前のついた箱がひとつある。部屋のなかに、扉がついて区切られているのは、そのユニットバスと、あとは、クロゼットがひとつ、キッチンの下にある物入れくらいのもので、ほかはみなひとつに繋がっている。穴ぐらにすむ鼠でも、もう少し空間の種類を多く持っているような気がする。築十年以上だから、部屋のいろいろなところがすこしずつ綻んできているのが、しぜんと目につくようになって来ているのだろう、どこがどうとは言えないのだけれど、部屋全体として、どこかすすほけた、という印象を受ける。だから、人がはじめて部屋を見るとき、何よりも先に、きっとがっかりする。ああ、こんなものか、と思う。そしてきっとすぐに、こんなものだ、と納得する。そういう部屋だと、自分では思う。その意味でいえば、この部屋は、ある種の奇妙な安心感のようなものを感じさせると言えなくもない。
 窓からは、隣接する二件のアパートの窓と壁とが見える。ぼくの部屋の前のところで、ちょうど二件の切れ目になっている。ふたつのアパートも、ぼくのアパートとだいたい同じようなものだけれど、ぼくの部屋から見て左側のそれのほうは、比較的新しい。アパートの住人も、こちらと似たようなものだろうと思う。窓の外にただ目を向けただけでは、それしか目に入らない。横になると、アパートとアパートの隙間から、空が少し見える。
(2003.10.25)-9
今日の成果、これだけ。何が疲れるかって、書きたくないのを無理矢理書かせるのが疲れるね。でも、それは今日の気分が、というのではなくて、このあたりを書くこと自体がいやなんだってわかってるから、無理に書くよりほかはないんだ。自分を制御できるようにするには、まず、自分のとり得る状態というのを絞り込むことだ。
(2003.10.25)-10
といっても、これからしばらく、ずっと書くのがいやなところが続くわけで、これから主人公は、自分の恋人らしき人に、現在の自分の基礎となるコンセプトを、それから、そのなかにおける、彼女の位置づけについてを、受話器ごしに話するわけだけれど、それはどのようにして話されるべきかといえば、これは、感情を抑制して、もしくは、抑制しようという努力を伴いながら為されるべきで、それを最低限のレベルであるところの、自分で許せるようなクオリティで書きつけることというのは、実に苦痛の作業であるに違いないのだ。
(2003.10.26)-1
さいきん、一文字も書けないまま二時間くらいうだうだ、うだうだ、うだうだうだ、していることが多くなってきたような気がする。なんか、足りない気がするんだなあ。ひとつか、ふたつ、落してるものがある気がするんだなあ。うーん、ほんかくてきに、わからなくなってまいりました。困ったなあ。
(2003.10.26)-2
たとえば、間口を広くする方へしむけるべきか、狭めるよう心がけるべきかという問題ひとつについても、はっきりとしたことを言うことができない。狭める方が今はたぶんよいはずなのだけれども、だからといって、フォークナーと太宰と川端康成とゴッホばかり読んでいると、自分の書いているものが死ぬほど下らなく思えてきて、書き進められるような気になるどころか、破棄したくなってくるばかりだし、だいたい、いま書いているのは、もう、ぜんぜん「いい文」ではないわけだし、、、 いい文。いい文って、いったいなんだ?
(2003.10.26)-3
まじかよ。そこで、止まるのかよ。やって、られねえ。これあ、雑誌「高橋源一郎」を買ってみたのが、いけねえんだ。選択を、あやまった。ミスチョイス。また、はじめからじゃ、ないですか。振り出しに戻る。ゴー、トゥー、スタート。にほん英語。やって、られねえ。「おまえ、間違ってはいませんか。冗談じゃないかしら。おまえのその鼻の先が紫いろに腫れあがるとおかしく見えますよ。なおすのに百日もかかる。なんだか間違っていると思います。」(by「ロマネスク-喧嘩次郎兵衛」)げんざいでは、いい文を書くことには、意味が、ありません、か。そんなもん、書いてみても、所詮は、焼き直しか、猿真似の、どちらかにしか、なりませぬ。あなたの、苦心のおべんきょう、無念なりとも、無念なり。さすがに、古すぎました。半世紀も昔のテキスト、読める日本語、使ってあるからといって、鵜呑みにしては、いけません。すこし、浦島太郎に似ています。今どき、その日ぐらしの貧乏文士なんて、珍しげな生きものは、流行らないどころか、存在できません。絶滅種から、生き残りの智慧を学びとろうとしているようなもの。はじめのところが、間違っていますよ。自殺願望なんて、ナルシッサスな四字熟語、大威張りで振り廻して、孤独のふりは、およしなさい。げびて、見えますよ。一杯機嫌でソープへ行って、ローションプレイで憂さ晴らし。こちらの方が、なんぼか、ましです。でも、でも、ママ、地上百米、鉄筋コンクリートの巨大な蟻塚の、小さな房のひとつに篭って、今日も眠らず、戦っているひとも、たしかに、あるのです。近くに、いるのです。そのひとを無視して、元気に一発、なんてことは、とても、ぼくにはできません。なんですか、それは。詩人の憂鬱、ですか。それが、愚かだと、言うのです。大時代だと、言うのです。誰も、そんなことは期待していません。いい迷惑です。誰かが、どこかで、どんな苦労を、していようが、どんなに苦悩していようが、壁いちまい、隔ててしまえば、関わりないこと。馬鹿づら晒して、笑っておれば、いいのです。そのひとの苦しみすらも、茶化してしまえば、いいのです。嘲ってやれば、いいのです。はら踊り。フラダンス。なんでも、ありです。あなたの孤独には、意味が無い。程度が低い。底が浅い。陳腐だ。掃き溜め、金曜の終電まぎわの駅の片すみにぶちまけられたゲロと同じだ。練炭炊いて、抱き合って死んでゆく、あの間抜けどもと寸毫の違いもない。いいかげん、キレそうだぜ。低能が喋くっている様ほど、癇に障るものはねぇ。居ね。
(2003.10.27)
何を書いたらよいものか、押せども引けども、さっぱりわからなくなり、一字も書けずに、三時間、机に向かって、なんにもしてない。ただでさへ僅かなる、忍耐などは、二時間前にとっくに底をついておるはず。それでも坐っておるのは、何の故か。たとい一字も書けずとも、書こうと努めるのが、私の努め、など、殊勝の心がけのためであろうか。はたまた、意外の忍従、本日の僅かな一文にも手を抜かず、三時間も熟慮黙考のうえ、選び抜いた秀麗なる文章を綴らんとしておるのか。いいや、おそらくは、もはや立ち上がるのも、億劫なのであろう。四方にとっ散らかっている文庫本を、目につくままに手にとって、二三頁読んでは、放りだし、また別の一冊の、真ん中あたりを開いてぶつぶつ、「これは違う。いや、違った。これは、違わない。違うのは、こちら、ぼくの方」など、わけのわからぬひとり言、また放りだし、がばと机に突っ伏して三、四、五秒沈黙、早や倦んだか、再びがばと起き上がり、四方をきょろきょろ、今度はティッシュいちまい、さっと抜いて、目の前に延べ、端を揃えて、丁寧にたたみ直し、おもむろに鼻にあてがい、チンとひとかみ、そうして、ティッシュについた洟を仔細に眺め、また、丁寧にたたみ、親指と、人差し指にて、ちょんとつまんで、屑入にポトリ、さて、またなんにもすることがない、(溜息)、など、さんざ焦らして、それから書きはじめたのが、あんなもの。恥かしいやら、情けないやら、憤激やらで、思わず、泣き笑い。やはり、いい文がいいに、決まっておる。半世紀前の、遺物だろうが、馬の糞だろうが、なんだろうが、握りしめて、やってゆくがよい。いずれ、拾う神も、あらう。一粒の砂金も、中には混じっておろう。オリジナリテは、いまだ必要に非ず。ひたすらに、よき文を、よき文を、目指したまへ。など、敗者のエールとも、善人の負け惜しみとも、悪人の気まぐれともつかぬ、すこぶる軽き、はなはだ無為なる言葉をひとりごちて、頷き、こころ新たにするおもいなれど、本日も、やはり、一向に書ける気配が無い。そうこうしている間に、今夜もしんしんと更けければ、明日も来たらう、風も吹かう、笑顔も続かじ、涙もまた、思い残しは数あれど、畢竟、サヨナラだけが人生だ、など、軽く調子づけして口ずさみ、本日は、これにて、眠らんとす。あなたにとって、来る日がよき一日であらんことを。
(2003.10.28)-1
今日は、雨ふりなので、あたらしい小説を開いた。ぼくの、小さな本棚の奥に、しばらく、埋もれていた、スタンダアル「赤と黒」。とても、おもしろい。何より、文が、健康的である。それは、もう、ずいぶんとあからさまである。書くことを、楽しんでいる、というのが、飜訳からでも、よくわかる。記述の作法などや、描写の密度などは、初回の今ですら、多少雑なのでは、と思われるような箇所が、散見されるけれども、それは、どちらかといえば、今のぼくの、余裕のない、狭小な文章作法の弊害であろうかと、思われるので、気にすることはない。まだ、百頁も読んでいないのだけれど、これは、よいものである。傑作とか、名作とか、大作とか、そういう枕詞も、いらなそうである。素直に読んで、楽しめば、それでよろしい、そう思われる。
(2003.10.28)-2
それから、いくつか、本が届いた。ひさびさに、リストアップしてみよう。
  • 中上健次「奇蹟」朝日文庫
  • 野坂昭如「火垂るの墓」新潮文庫
  • 野坂昭如「戦争童話集」中公文庫
  • ガルシア・マルケス「幸福な無名時代」ちくま文庫
  • ボルヘス「伝奇集」岩波文庫
  • コルタサル短篇集「悪魔の涎・追い求める男・他八篇」岩波文庫
    すべて短篇集。中上健次、野坂昭如は、手付け。童話は、小川未明以来。童話というのは、いい日本語の文でできた物語のことをいうから、真剣に読もうと思う。ガルシア・マルケス、ボルヘス、コルタサルは、スペイン語圏の作家で、ガルシア・マルケスは、ノーベル賞らしく、そのあたりの理由にてチョイス(あと文庫があった)。ボルヘス、コルタサルは、マルケスとならび称される人らしい。三人とも、その他の予備知識はゼロ。いま、ぱらぱらとめくって走り読みしてみた感じでは、ガルシア・マルケスは、小説に専念するまでは、新聞記者だったようで、そのような感じの文章である。コルタサルは、ふつうに面白そうだ。ボルヘスは、なんだかすごく変だ。それぞれ二三頁読んだ、今の時点では、ボルヘスに、一ばん興味があるかな。でも、少なくとも「赤と黒」が読み終わってからの話だ。フォークナーの「響きと怒り」も読まなくてはならないし。「新ハムレット」なんて、また取り出してきて、「おもしろいなあ」なんていって、読んでいる場合でないね、こりゃ。
    (2003.10.29)
    今日は、日中へんに暑かったね。でも、夜には普段どおりの冷たさになっていたから、薄着して風邪をひいていないかい?ぼくはいま、「赤と黒」を読んでいるんだ。だから、今日はこれだけで失礼するよ。じゃあね。
    (2003.10.30)-1
    「赤と黒」上巻の、半分くらいまで読んだところで、今日はひと休み。また、本がたくさん届いたのだ。今日は、ふたつの注文がいっぺんに届いたから、かなり、多いよ。

  • 「萩原朔太郎詩集」
  • 「われに五月を」寺山修司
  • 「世界の果てまで連れてって」寺山修司
  • 「寺山修司少女詩集」
  • 「審判」カフカ
  • 「アメリカ」カフカ
  • 「ドリアン・グレイの肖像」オスカー・ワイルド
  • 「獄中記」オスカー・ワイルド
  • 「サロメ・ウィンダミア卿夫人の扇」オスカー・ワイルド
  • 「ブリキの太鼓 第一部・第二部・第三部」ギュンター・グラス
  • 「抱擁家族」小島信夫
  • 「うるわしき日々」小島信夫
  • 「殉教・微笑」小島信夫
  • 「さようなら、ギャングたち」高橋源一郎
  • 「ゴーストバスターズ」高橋源一郎
  • 「一億三千万人のための小説教室」高橋源一郎
  • 「文学なんかこわくない」高橋源一郎
  • 「実戦 小説の作法」佐藤洋二郎
  • 「プロ作家養成講座」若桜木虔
  • 「作家養成講座」若桜木虔
    (2003.10.30)-2
    今日は、このうち、高橋源一郎の「一億三千万人のための小説教室」を読んだ。やっぱり、こういうときは、すぐ役に立ちそうなものから、読むよな、ということで。(一頁あたりの文字数について)密度の薄い本で、内容は、まあ、「一億三千万人のための」と銘打っているように、小説というよりは、文章一般の良し悪し、いい文章とは、こういうものをいうのだ、ということが書いてある。雑誌「高橋源一郎」を読んだときから、すこし思っていたのだけれど、高橋源一郎という人は、小説というものを、おそろしく広く捉えていて(彼は、文章というものに対して、それはもう、非常に貪婪である)一般にはエッセと呼ばれるであろう文章をも、小説と呼んでいる。小説が、小説というものになるために必要としているところの、文章形式の存在を否定しているのである。まあ、そんなの、なんでもいいじゃん、というのである。でも、それあ、ちょっと、どうだろうと、ぼくなどは思う。なぜなら、ぼくのキャパシティが、そんなに大きくないからである。ぼくはまだ、小説と一般に認められているような作品たちにすら、ほとんど、目を通すことができていないのである。ぼくは、年に三十冊、読むか、読まないかの人間である。量という部分では、ぜんぜん、おはなしにならない。なので、数頁を割いて、高橋源一郎、お勧めの小説家リストが、コメント付きで、載っているのは、ありがたい。太宰が、文字どおり、筆頭である。ほかには、太宰が敬愛していながら、なぜか、今まで手に取らなかった、葛西善蔵や、どなたかさんが、読んでいらした、武田百合子の「富士日記」などが、推薦されておる。読もうかと、思う。他にも、現代の(まだ生きている)小説家が数人、推薦されている。全く知らない人ばかりなので、今はなんとも言えないけれども、読んでみようと思う。
    (2003.10.30)-3
    「萩原朔太郎詩集」は、そのはじめの数頁を読んだ。「再販の序」の一文、「されば私の詩集『月に吠える』----それは感情詩社の記念事業である----は、正に今日の詩壇を予感した最初の黎明であったにちがひない。およそこの詩集以前にかうしたスタイルの口語詩は一つもなく、この詩集以前に今日の如き溌剌たる詩壇の気運は感じられなかった。すべての新しき詩のスタイルは此所から発生されて来た。すべての時代的な叙情詩のリズムは此所から生れて来た。即ちこの詩集によって、正に時代は一つのエポックを作ったのである。げにそれは夜明けんとする時の最初の鶏鳴であった。----そして、実に私はこの詩集に対する最大の自信が此所にある。」たいへんな気炎である。実際の詩は、この序のいうように、今からみれば非常にベタなものがほとんどで、いつぞや写した「
    」のようなものは、やはり、かなりの傑作の部類のようである。詩集らしく、ぼつぼつ読もうかと思う。
    (2003.10.30)-4
    購入リストのそのほかのものについて、簡単に、メモ。
    寺山修司は、どこかで名前を見かけたことを思い出して、萩原朔太郎と一緒に買ってみた、というところである。カフカは、特に言うべきことなし。この二つで、文庫にある作品が全部揃ったのではないかと思われる。オスカー・ワイルドは「サロメ」がよかったので。ギュンター・グラスは、おとつい届いた、ガルシア・マルケスと一緒にチェックしていたもの。この人もノーベル賞。小島信夫は、雑誌「高橋源一郎」で、保坂和志と高橋源一郎の対談で取りあげられていたもの。保坂和志は、小島信夫が大好きらしい。読んでないので、その他は、言うべきところなし。高橋源一郎は、雑誌「高橋源一郎」を買って、彼が太宰ファンであることを知ったので。でも、「一億三千万人のための小説教室」を読んだ限りでは(「ゴーストバスターズ」で、「女生徒」と「駈込み訴え」を模倣しているらしい。抜粋があった)、太宰ほど、上手でないようだ。その他、小説の作法三冊は、書きはじめると、わからなくなるので、なんでもいいから、参考書が欲しくなったから。一年前の、谷崎潤一郎「文章読本」のときと、おんなじである。とにかく、基本的なテクニックが足りないのである。「問一。次の三つの文章は、同じ情景を記述したものですが、最もよいものを選びなさい」というような、業者テストのような、下らない設問を与えられたときに、取りあえずはずさないように、なりたいのである。今は、脱線しようにも、どれが線路なのかわからないので、やりようがない、といった状態なのである。フォークナーの、ごっつい装飾や、川端康成の明確な終わりを持たない小説などを読んでいると、もう、わけがわからなくなってくるのである。太宰は、それらに較べたら、よっぽど単純なのだけれども、その代わりに、比類なくうまい文章なので、やっぱり、参考にならないのである。
    (2003.10.30)-4
    というか、「赤と黒」、おもしろいのだけれど、少し、長すぎるようにも思われる。せめて、上巻だけ程度の分量でいいのではないか。明らかに、これは、このまま、おんなじ調子で最後までやる感じである。昔のフランス文学というのは、みな、こんなものなのだろうか。「レ・ミゼラブル」なども、途中でだれるけれども、もしかして、それが、いいのかしら。


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