(2003.10.19)-2
「青草原」という言葉は、「HUMAN LOST」のキイワアドのひとつである。このころ太宰は、「人間失格」を書きはじめるための助走のような期間に入っていて、各短篇のところどころに、「人間失格」のベースになるようなものが見うけられるのだけれど、この「フォスフォレッセンス」では、「青草原」という言葉がそれにあたるかと思われる。
(2003.10.19)-3
また、相手の女の人は、「秋風記」のKなどとあわせて、太宰の裡に住む理想の女性像であり、「人間失格」に登場する女性たちに通じるモデルのひとつではないかと思われるが、これは別に確かめたわけではないので、はっきりしたことは言えない。ただ漠然と、きっと、そうだろう、と思うというだけの話である。それでぼくには十分である。そんなことをこのごろ思うようになったのは、今ぼくがやっぱりそういう女の人を書いているからで、自分でも書いてみると、太宰の小説の中に出てくる女の人の記述のいちいちについて、これはつくりごと、これはほんとのこと(それはフィクション、ノンフィクションということではなく、どちらかといえば、実際の女性を描こうと意図して書かれたものなのか、理想化された女性を描こうとしたものなのか、という意味での、ほんとうそ)、というのがわかるような気がしてくるのである。それは、「母なる〜」というやつかも知れぬ、とも思っている。「秋風記」は来週あたり写すかもしれない。
(2003.10.20)-4
先々週あたり、近所のスーパーで、一本(500ml)300yenの高級ミネラルウォーターを買ってきて、それでウィスキーを割ってみたのだけれど、いいね。すごく、まろやかになる。
(2003.10.20)-5
そのミネラルウォーターで三四回、ウィスキーを飲んで、まだボトルの半分も減っていないんだけど、流石にもう水が腐っちゃった。ミネラルウォーターはウィスキーを割るためだけにあるので、あんまり減らないんだけれど、たいてい三分の一くらい減ったところで、いつも水が腐ってしまう。「腐る」というのが、実際にどういうことなのか、全然知らないんだけど、とにかく、腐った水でウィスキーを割ると、ひどく不味くなる。なんというか、エグみが出るというのか、ばさばさになる。それはもうあからさまで、匂いまで変るのだから、たしかな変化なのだと思う。なんだろうね、きっと、酸素に触れるのが、よくないんだろうね。雑菌が、繁殖するのかね。ペットボトルの緑茶とかも、一日経つと、ひどい色になるものね。知らないことろで、知らないものたちが、いろんなことやっているものだね。
(2003.10.20)-6
今日こうして書けないのは、きっと、ぼくが今日えらそうなことをべらべら喋ったからだ。入社して半年、配属されて二ヶ月半の新人さんは、しょうじき、まだ使いものにならなくて、身に覚えがあるような、ひどいコードを書いてくるので、五人がかりで五時間もかけて、よってたかってコードを見てあげて、どう書いたらいいだろうと、一緒になって考える。プログラムのソースコードを書くことは、文を書くことと同じで、やっぱり三歩飛ばしは無しの世界だから、仕方がない、ある程度は手間ひまをかけて、熟練してもらうしかない。まだ、わかるには早過ぎるときには、どうしたって、わからないのだから、理屈抜きで、こうしろ、と言わなければならない。理屈を知らなければ、先へ進めないときには、その理屈を言って、わかってもらわなければならない。それで、何かにつけてぼくは、それは間違っている、とか、それは、どうでもいいことだ、とか、そうでなくて、こうすべきだ、とか、これじゃあ、話にならない、とか、言わなければならない。新人を預かっているのだから、それはきっとしなければならないことなのだろうけれど、そう思ってしているのだけれど、喋っていて、冷汗が、出るのである。自分が喋っている理屈が間違っているかもしれない、というのもあるけれど、それよりも、「何様のつもりだ」という声が、喋っているあいだじゅう、背中の方からずっと聞えてきて、たまらない。喋りおわって、じっとり汗している。正しいことを、正しいこととして喋るのは、いやだ。社会人というものは、きっと、どうしても、こういうものなのだというのも知っている。でも、ぼくは、とても、とても、いやなのだ。たまらない。しかも、言われた新人は、それで感心したり、感謝したりしているようなのだから、実に、やりきれない。
(2003.10.20)-7
ぜんぜん仕事をしていない新居昭乃氏に較べて、積極的にリリースを行っている小谷氏の勤勉は、率直に評価できるものであるが、大人になって身の丈を知り、夢を無くしたといった感じの、氏の近作「night」を聴いていて、やはりじんわり涙ぐむものがあるのである。氏には、三年前の「宇宙のママ」のときのような、「愛するわ ひそやかに」といった詩や、「眠れ眠れ眠れ 私があなたを分るから」といった詩の、格調高く高潔な精神は、おそらくもはや二度と望むべくもないのであるが、しかし、それでいいのだと思う。理想はどのようなかたちで現実になるべきか、それを想いたまえ。それは、決して、現実にはその程度が許容されるレベルだ、というネガチブなものではないのだと信じよう。毎日、朝食と夕食を共にし、横顔を眺めるだけで、その精神状態を理解し、その寝息を子守唄とし、ときに肌を合わせる。それはたしかに、格調高く高潔な精神とやらよりも、絶対的によいものだと、言い切ろう。日常こそ、最良のものなのだ。そうに、違いないのだ。そう、言い切ろうではないか。
(2003.10.20)-8
けれども、ぼくは「眠りのうた」をきいて眠る。ぼくには、それがないのだから。仕方が、ないんだ。
(2003.10.21)-1
うーん、むずかしいな。自分の部屋のことを好きな人に話すということは、どういうことかな。どういうことかな。
(2003.10.21)-2
we'll look out for you
thirty two
it's not so young here
the things you would say
the things you would do
it never really show