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(台風の日)-1
「今日こそは、早く帰る」拳を固く握って、私は強く宣言した。
 床に新聞を広げて読んでいた篤志は、寝起きのくしゃくしゃの頭を、いかにも面倒そうに片手で掻きあげながら振り返って、私のいさましい直立の様をとろりとした目つきで眺め、ひと呼吸ほどの間をおいてからぼそりと陰口した。
「朝から張りきるのは大いに結構ですが、歯ブラシを口から出してからにしてほしいね。歯みがきの泡、そこらの床に飛ばしてないだろうな」
 なんというひどい言いぐさ。せっかく盛り上がっている私の身体を腰から真っ二つに折たたんで、そのままトイレにさらりと流して始末されたようなやり切れなさで、私はとてもとても口惜しくやるせなく、「ふん、何よ。あなただって、右の目元におっきな目ヤニがついている。そんな間抜けづらでお利巧なことを言っても、何でもないわ。だいたいあなた、そうして新聞なんて読んでいるくらいなら、早く顔を洗って朝御飯くらい作ってくれてもいいんじゃない」早口に言い立てようとしたけれど、駄目でした。まだ歯ブラシ、咥えたままだった。
 歯磨きしながら、テレビの天気予報を見ていたのである。それで朝っぱらからこんな宣言をすることになったのである。東京に台風が迫っている。画面に映しだされた衛星写真の、太平洋へ突き出した本州のお腹の下のあたり、白い雲の塊がぐるぐる渦を巻いている。並みの大きさの、非常に強い勢力の台風だそうだ。十三号という名前がついている。いまは、八丈島が風速何メートルだかの暴風圏内に入るところにある。東京にも、夜には到着するそうである。気象庁は厳重な注意を呼びかけているのである。私は一度も呼びかけられたことはないし、呼びかけているところも見たことはないけれど、とにかく厳重注意なのである。今日はいちにち、空のことを気遣っていなければならないのである。なんといっても、天気予報のお兄さんがそう言っている。これは無視するわけにはいくまい。私は最近、このお天気お兄さんに、ひそかにご執心なのである。面長で、目鼻立ちがキリッと整っていて、かっこいいのである。物腰も穏やかで丁寧で、とにかくさわやか好青年なのである。大抵明るい色したスーツを着てテレビに登場するのだが、これがまたよく似合う。そして何より、天気予報を告げるその声がいいのである。色気がある声というのとは違うのだけれども、適度な太さで、実にやさしい、いい声なのだ。もしあの声で耳元で何かささやかれたなら、私はきっとふにゃふにゃになってしまうだろう。想像してでれでれしていることさえ、時どきある。私は毎朝、このお天気お兄さんを見て、一日の気合を入れるのである。その手前に胡坐して坐っている、ぼさぼさ頭のへんてこりんな生物を見てなどでは決して、ない。ああ、その寝ぐせ頭、腹が立つ。ポカと殴ってやりたい。ぺたとだらしなく座り込んでいる、その背中を上からドンと踏みつけてやりたい。「ねえ、お天気お兄さん。あなたのそのさわやかさ、このだぼはぜにも少し分けてやって下さいませんこと?」
 再び新聞に眼をおとしている篤志の後頭部を眺めて、口には出さずに心でひそかに悪態づいたら、聞えたのか、突然篤志はぬっと振り返って、冷たくぶっきらぼうに言った。
「天気予報終ったぞ。あと十五分だ。ほら、そんな歯ブラシ咥えたままで、ボケッとつっ立ってると遅れるぞ」
 確かに、これはいけない。間にあわない。お天気お兄さんにのほほんと見入っている私のほうが、どうやらぼんやりだぼはぜちゃんのようです。慌てて、止まっていた歯ブラシを握る手を動かしながら、洗面台へ戻る。口をゆすぎながら目の前の鏡を見て、「ええん、また、遅刻だよう」ぶりっ子してみようとも思うけれど、それを見る男があの頭ぼさぼさ男だけだと思えば必然的にやる気も失せる。無駄なサービスなど一切無し。今は工場のロボットになりましょう。可愛げも何もなく、ただてきぱきと動きましょう。遅刻を、しそうなのだ。可愛げも何も、あったものでは、ない。ああ、歳をとった。
 クラッカーとチーズを野菜ジュースで流し込んで、これで朝食。時間がない、仕方がないのだ。また蒸し返すようだけれど、篤志君、そうして新聞を読んでいるくらいなら、君が何か作ってくれませんか。朝御飯は、きちんと食べた方がいいって、昨日の朝にお天気お兄さんもポツリと言っていた。きっとお兄さんも、きちんと毎朝食べているわけではないのだろう。私にはわかる。あの言葉には寂しい実感がこもっていた。お天気お兄さん、私も同じだよ。誰かのせいで、同じだよ。ねえ、おいしい朝御飯食べたいよ、篤志君。いや、そうでした。何も言わないのでした。時間がない。次、お化粧。ああ、肌が荒れてきている。ほら、こんなにのりが悪い。最近あんまり健康的な生活を送っていないのだから、仕方が無いのだけれど。ねえ、篤志君、私の肌は、何とかなりませんか。新聞の中の、不祥事の謝罪会見で汗をかいて、土色になった顔を歪めているおじさん顔を撮った大きな写真なんて眺めていないで、傍にいる、すぐ隣にいる私の顔を見てくれませんか。私の肌が荒れてきているの、あなたは気づいてますか。「歯ブラシ咥えてる」なんて、せっかくの気分に水をさすようなことばかりあなたは気がつくのですね。私がきれいじゃなくなったって、あなたはきっと少しも気にしないのでしょう。でも、これももういいの。お化粧も終りました。その次。髪を整える。私の髪はくせっ毛で変によじれているので、毎朝手を焼くのである。ときどき見かける雑誌の記事や、その手のコマーシャルのようには、なかなかいかない。鏡の前でイライラする。篤志の髪は、細く滑らかなストレートの髪で、毎朝あんなにひどいのに、少しいじるとすぐに整ってしまう。それに比べて、私の髪は、こんな。ああ、またまた蒸し返すようですけれど、篤志君、急いでいるのは私なのに、何か不公平じゃあありませんか。これは一体、どういうことなのでしょうか。ぶつぶつやっているうちに、やっぱり何とか髪も整って、今度はスーツを着る。今日はオーソドックスな明るめのグレー、スカートのスーツを着てゆこう。外見だけでも知的な私を作るのだ。ああ、でも、本当はそんな私をわざわざ作りたくはないのだ。スーツは、いやだ。スーツと遅刻寸前の朝は、今の私の生活の象徴だ。スーツを着ない日がもっとあればいい。朝、ばたばたしないで済む日が、もっとあればいい。こんな篤志の悪口、言わずに思わすに済むおだやかな朝が、もっと。
「準備もだいたい完了」呟いて時計を見れば、もう遅刻寸前である。篤志はのほほんと冷蔵庫から牛乳を取り出し、相変わらず頭をぼりぼり掻きながらぐびりぐびり飲んで、口のまわりを白くしている。ふと眼を上げた拍子にその間抜けづらを見てしまったら、急ぐ気がざっくり削げて、ちょっと困ってしまう。いまは急がなければならないのだ。篤志のおもしろい顔に気を緩めている場合ではない。ガスを抜いている場合でない。このあいだ遅刻したときに言われた、渡辺課長のセクハラな厭味を思い出して急ぐ気持ちを奮い立たせる。「斎木クン、昨日も夜遅くまでお楽しみかい?」「お言葉ですが、課長。昨日何時まで社に残っていたか、ご存知ですか。ご存じないですよね。あなたはいつも通りに、定時にお帰りになられましたものね。私は昨日も夜遅くまで、お楽しんでいたわけではなくて、ずっとここに、会社にいたんですよ。知っていますか。日付が変わったんですよ」いつか一度は、言い返してやりたいと思うのだけれど、けれどもまず何よりも、そんな厭味は聞きたくない。私の抗議になんて課長は動じるはずもないから、言ってみてたところで次が無くなるわけでも、気が晴れるわけでも、なんでもない。結局、朝から昼まで私だけがずっとムカムカしていることになるだけ。気が散ってつまらないミスもする。何もいいことなんてない。そうだ、やっぱり遅刻はいやだ。急ごう。急ごう。鞄の中身をざっとチェックして、多分忘れ物はないでしょう。これで準備完了。さあ、出ましょう。時間の方も、少し走ればどうやら電車に間に合いそうだ。部屋を出る前にもう一度鏡を見る。「やっぱり肌荒れたなあ」小さく呟いて頬を撫でてみて、いけない。間違えました。こう言わないと駄目ですね。「今日も私は(多分)きれい」思わず、(多分)の入る今の私はとても弱い。頬をピシャと一度軽く叩いて、それでもさあ、今日も気合入れて生きましょう。
「じゃあ、行ってきまあす」
 篤志の方を見ないで言ったら、少し間の抜けた気合の足らない声になってしまったけれど、気にせず玄関まで小走って、バタバタ靴を履いていると、先ほどのお天気お兄さんの言葉をふっと思い出した。「夜には雨が降り始め、夜半すぎには二十三区も暴風圏内に入るおそれがあります」そうでした。台風が来るのだった。傘を持っていかなければ。反射的に傘立てから、誕生日に篤志がプレゼントしてくれた薄ピンクと紫のストライプの、私にしてはちょっと派手めの柄の傘を抜こうと柄に手をかけると、先ほどの私の宣言もまた思い出された。「早く、帰る」そうだった。今日こそは、早く帰るのだ。台風の雨が、降り始める前に。そう歯ブラシ咥えて宣言したのだった。そうだ。雨の降り始める前に帰るのだ。だから傘はいらない。ひとり小さくきゅっと頷いて、抜きかけた傘をまたもとに戻した。
 すると、何を思ったのか今日はめずらしく戸口にまで見送りに来た篤志が、傘を持たずに行こうとする私を見て、
「おい、傘は、持たなくていいのか。天気予報で言ってたじゃあないか。今日、夜から降るよって。はあ、やれやれ、さてはお前、あんなに熱心に天気予報を見ているけれども、ただあの予想屋に見惚れているばかりで何も聞いていないな」
大袈裟に溜息をついて至極のんきそうに、やれやれ、ゆっくり頭を振った。どうやら私が最近お天気お兄さんにご執心なのを知っているようである。けれども、「聞いていない」というのは、はずれ。黙りなさい、このあんぽんたん。ちゃんと聞いています。それを聞いた上で傘を持ってゆかないのです。私のこの決意を知らないか。先刻の私の宣言をもう忘れたか。寝ぼけていたから、憶えていないか。このへちゃもんげ。今日は早く帰ってくるのだ。帰るのだ。
「ばか、ちゃんと聞いてるわ。いいの。わざと持って行かないの。今日はね、雨がね、降り始める前に、ちゃんと帰ってくるの。だから、いいの」
急いて早口に私が言うと、それでようやく先の宣言を思い出したのだろう、篤志は急に真顔になって、
「そうか、そうだな。よし、持って行くな。傘は要らない。早く帰って来い。俺も待っているから、今日は、晩御飯を食べに行こう」
とやけにきっぱりと言い放ち、どういう風の吹き回しか、ニッと笑ってキスをしようと、寝惚け顔を近づけて来た。
「あは。何よ、突然。気持ちわるいよ」
あまりに唐突だったので、思わず身を引いてしまった私は、どうにかやっとそれだけを言って、あとは「急ぐから」と部屋から駆け出した。背中に篤志の「行ってらっしゃい」という声を聞いたけれど、声の調子まではよくわからなかった。走り出た今日の空は、まだ暑くなるというような、光に満ちあふれている。真白い雲がひとつふたつ遠くの方で浮んでいるのが急ぐ眼にも映える。私は「まだまだ夏ね」という形をした息を吐いて、早速滲む額の汗を感じながら小走りに駆け出した。




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