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(台風の日)-4
 さて、今日ははやく帰るのである。今日の私はやたらに気合が入っている。倍速で仕事を片づけてゆくのである。珍しく冴えわたる脳みそ、煌く機転、鋭い舌鋒、痒いところへも手の届くこまやかな気配り。渡辺課長のねちっこい厭味や、小言、婉曲的な押し付けにも全然屈しないのである。反対に、やりこめてやるのである。いつもとは、違うのである。今日ははやく、台風の着かないうちに、きっと帰る。
 私の勢いに渡辺課長は面食らって、「斎木君も、いつの間にかすっかり一人前の口をきくようになって」など、ぶつぶつ言いながら、プイと後ろを向いてお茶を一口すすった。近くで見ていた有沢さんも笑って、
「その意気です。けれども、あまり調子づかないように。勢いのあまりによい美和ちゃんというのも、まあ、これは私が馴れていないせいかも知れませんが、また変な気がします。あ、それから、ここ。これでは駄目ですよ。やり直してください」
がっくり。課長はすかさず振り返ってニヤニヤしている。けれどもけれども、今日の私はもう、ひと味違うのである。気合が入っているのである。鼻息が、荒いのである。めげずに、すぐにやり直して、持ってゆく。
「うん。いいでしょう。今度はなかなかのものです」
有沢さんがにっこり笑って、私もにっこり。気持ちよく仕事は進んでゆく。
 三時をまわった頃に、篤志からメールが入る。
『どう?頑張ってる?今日は早く帰れそう?もし帰れたら、ご希望どおり有犀へ行きましょう。楽しみにしています』
 なんだか、変な文面である。普段の篤志はこんな風にはメールを書いて寄越さないのである。ですます、など付けない、もっと朴訥粗野なる文面なのである。これはきっと、朝に送った私のメールに合わせたからでしょう。私のメールはどうやら上手に篤志に伝わってくれたようで、ひと安心。三時だし、私もちょっと息抜きしましょうと、返事のメールを書いて、すぐに送った。
『うん、たぶん大丈夫だと思うよ。頑張って帰るので、有犀でワイン一本おごってくださーい』
私の方はいつもどおり、もう敬語では書いてやらない。送信すると、すぐにまた返事が届いた。
『厚かましいヤツだ。ちゃんと帰って来いよ』
私は「ハイ」と小さい声を出して頷いた。それに気づいて周りの人たちの何人かが、ちらと私の方をみる。私は少し肩をすくめてメールにも『ハイ』とだけ書いて送り、また仕事に戻った。




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kiyoto@ze.netyou.jp