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(台風の日)-10
 とても長いあいだ、そうして私は泣いていた筈だった。と、篤志の深い溜息が私の内側に響いた気がして、思わず私は涙で崩れた自分の顔を上げて、篤志の正面へと向けた。篤志の両眼が暗がりの中で、何かの光を反射して白くひかっていた。慌てて目を背けようとすると、微かに口を歪めた篤志は、片手で私の肩を包みながら、「わかった。わかった。もう、いいから」と囁いた。怒っていない。その空気が私を私をじんと震えさせた。身体の真ん中からもう一度嗚咽が波紋のように拡がり、また戻って、鈍い痺れを残して消えた。
 安心したら、身体中の力が抜けて、篤志の胸に頭を預けて目を落すと、その右手に握られた二本の傘に気がついた。はっとして、また顔を上げて、篤志の眼を見る。涙の波も、泣き疲れも、ひとときに吹き飛んだ。篤志の顔が微かにやわらかい笑みを湛えているような気がした。つられて私も微笑みかけたけれど、うまくいかない。私はできそこないの、へんてこな、きたない、くちゃくちゃのひきつった表情で篤志の顔に見入った。それが自分にもよくわかったので、なんとも恥ずかしく、口惜しくて、また胸に顔を埋める。私はまた勝手に、ひとりでやってしまったのだ。篤志も、私がその手に持ったものに気づいたことを知って、ようやく静かに事情を話しはじめた。
「お前のその、「今から帰る」のメールが来て、それから少し経って、窓の外を眺めてみたら、雨がぽつぽつやり出していたんだ。それで、お前が今日の朝、ふんふん息巻いて、わざわざ傘を持たずに出たことを思い出して、ちょうど煙草が切れたところだったし、買うついでに駅まで迎えに出てやろうかなあ、って思ったんだ。それでな」篤志は息をついで、右手に持った二本の傘を軽く持ち上げて見せた。
私は、「もうわかっているから」そう言おうとするのだけれど、頷くばかりで、一向に声が出て来ない。ぐずぐずしていると、篤志は言い訳するように、また続けて
「そうしたら、知っているだろう、いつも煙草を買っている自販機は、通りに出たところにあるから、そちらまわりで駅へ向ったんだ。きっと、そこですれ違ったんだろうなあ」
 またしばらくの間、私は篤志の胸の中でめそめそやっていた。そうするより他に、私には何もできなかったし、またそうしていたかった。「ごめんなさい」やはり、最後には私は謝っているのだった。今日、何度めだろう。生れて、何度めのそれだろう。
「ん、いいよ」
子供をあやすようにして、篤志は私の背中を数回軽くたたいた。私は俯いたまま、その右手に握られた二本の傘を、そっと離して傘立ての中にトンと落とした。一緒に、篤志のお腹がぐうと鳴った。
「晩飯、食いに行こうか。ちょっと遅くなっちゃったけれど、有犀、まだやっているだろう」
篤志は、半分てれたような半分怒ったような、しかめっ面になって言った。私はうつむいて、そのお腹にそっと手をあて撫でてみてから、もう片手で自分のお腹もさすって、
「そうね。私もずっとお腹ならしていた。でも、私、どんな顔している?」
「ああ、そうか。ちょっとよく見せて」
 篤志は部屋の明かりを点けてから少し身を屈め、両手で私の顔を固定して、まじまじと見つめると、にやりと悪戯っぽい笑みを浮べ、うーん、と唸った。
「酷い顔、しているでしょう」
「化粧落したろ。眼も、両方とも赤く腫れているし、こりゃあ一発で泣いたあとだってわかるな。うん、こりゃあ、ひでえ顔だ。うん、実に、ひでえ顔だ」
「そんな、何も、しみじみ繰り返して言わなくてもいいじゃない」ひどい顔にしたのは、誰のせいよ、と言いかけて、みんな私のせいだと気がついた。ひとりで息巻いて部屋を出て、ひとりでは何にもできないで帰って、ひとりで感情を昂ぶらせて泣いたのは、私だ。隅から隅まで、みんな私のせいでした。私が私だったためでした。そう思ったら、また泣けてきて、くしゃと泣き顔になる。篤志は慌てて、
「待てまて、すまん。言い過ぎた。これ以上、ひどい顔になられたら困る。いや、違った。どこもひどい顔になんて、なっちゃあいない。可愛い顔だ。君の素顔は、綺麗だ。いちばんだ。それは、ほんとうだ。ほんとうに、そう思っている。ほら、頼む。だから、泣き止んで」
おでこに強くキスをした。びっくりした私の呼吸はちょっと止まってしまったけれど、篤志の唇から伝わってくる温度を感じて、眼を閉じた。額から心臓へとじんわり温かいものが拡がってゆくと共に、身体のいろいろ細かなところから力が抜けてゆくのがわかる。心の中のいろいろな色かたちした感情や観念がみな、角がとれて何でもない色、一色に染まってゆく。とても心地よい。明日の不安も、戦わなければ失ってしまうものも、何も知らずに眠りについていた幼い時分を思い出したような、安らぎという言葉すら要らなかった頃を取り返したような気分になる。少しして篤志が唇を離そうとするところを、「もう少し」お願いして、しばらくそのままで居てもらった。
 今度は私のお腹がぐるぐる鳴って、それを合図に篤志は私の額から顔を離し、
「とりあえず、顔を少し整えて、着替えておいで。涙顔は、すぐには直らないけれど、まあ気にするな。俺が一緒だ。男が一緒なら、それは女の恥じゃあない。泣かせた男の恥だからな。だから、君が気にすることはないんだ」
そう言って笑った。
 私はこくんと頷いて、いそいそ鏡の前に立ってみれば、わあ、ひどい。眼球は真っ赤に充血しているし、目の周囲の肌も涙で荒れている。おでこにも、篤志がキスした痕がくっきり、ついている。目薬を取り出して注してみて、「ねえ、ほんとに、行くの」思わず聞いてしまう。
「行くの。大丈夫、夜道だし、雨も降っているから、誰も気づかないよ。それに、今日はそのつもりでいたから、冷蔵庫は空だぞ。それとも、今から買い物へ出て、作って食べるか」
「お腹、減った」「だろう。じゃあ、決まりだ。赤い眼も、ワイン飲んでしまえば、もうわからないよ。一ばん上等なやつを頼もう」
 仕方なく、どうにかこうにか支度をして、ふたり外へ出る。雨は少し小降りになっていて、はじめはそれぞれ傘を差して歩いたけれど、行き交う人とすれ違うたびに私が手を強く引くものだから、篤志は私の傘をたたませて、自分の傘の下へ入れてくれた。私は篤志にぴったりくっついて、うつむいて歩いた。
 台風の夜の、有犀のお客は私たちふたりだけだった。「まだ、大丈夫ですか」と先に入った篤志がたずねると、「大丈夫ですよ。いらっしゃいませ」といつものウェイトレスのきれいなお姉さんがやって来て、二本の傘をあずかり、窓際の一ばんいいテーブルへ案内してくれた。篤志がディナーのコースとフランスのワインを一本オーダーした。私はうつむいていた。
 食前にワインが来て、私たちは小さく、乾杯をした。それでも二人だけの店内に、グラスを合わせるカチッという乾いた音が響いた。ワインは、少し辛くちの口当たりの良いもので、私はとても気にいってしまった。おかげで食事が運ばれて来る頃には、篤志の言ったとおり、涙顔も平気になってしまって、私はおいしくディナーを味わった。食事中、いろいろな話をしたけれど、ひとつも憶えていない。
 食事を済ませて有犀を出ると、台風らしく横なぐりの雨になっていた。風にあおられた雨粒がうねるような強弱をもって道に叩きつけられている。ずぶ濡れになって部屋に戻り、すぐに風呂に入った。二人とも風呂から上がると、部屋を暗くしてベッドに入り、強い風が壁を擦って立てる音や、窓を叩く雨音を聴きながら、長いこと眠らず、嬉しい夜をおくった。
 翌朝、足早の台風はもう去ってしまって、雲ひとつない朝の空があとに残って輝いていた。私はいつもの電車に乗り遅れて、遅刻をした。



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