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(台風の日)-5
 ふと顔をあげてみれば、もう日暮れ近く。外は今日もきっと暑かったのでしょう。窓の外、ビルの脇にのぞく空はまだ夏の夕焼け、赤く鮮やかに染まり、一群のビルのシルエットが、その下から黒く食い込んでいる。街と空との稜線のすぐ上のあたりには、黒いろ灰いろの重々しい雲の一団が、正面のビルの屋上に立ったアンテナにぐるぐると巻き付くように居座っており、その下腹は強い夕陽を受けて、内臓を透かし出されているような赤紫に染まっている。あれが嵐の、台風の雲なのでしょうか。もうあんなところまでやって来ている。私はその思い雲の群がアンテナを中心に回転しながら膨張して成長し、窓の外の空を埋め尽くしてゆく様を思いうかべた。熱くて強い風。稲妻に照らし出される黒い街。雷鳴と豪雨の叩きつける音。大粒の重たい雨粒が地面に跳ね返って生む無数の波紋。ありありと目に浮ぶ気がした。台風がやって来る。叩きつける風と雨の音の渦まく、嵐の夜がやって来るのだ。こんな夜は篤志とふたり、顔を見合わせて息を殺し、手を重ねて深く眠りたい。嵐の去った次の朝の、あの真新しい陽の光にふたり、そのままの形で目覚めたい。
 ふらふらそう思うのだけれども、今日の仕事は未だに片づかない。目途すら、ついていないのである。今日の私の、常にない頑張りを以てしても、結局はこの有様なのだ。私は今更ながらに自身の力の至らなさを思い知って、つくづくみじめな心もち、思わずしばらく動きを止め、呼吸を一回飛ばしてじっと宙を睨む。そうしても、仕事は減ってゆかない。ひと呼吸分の時間がまっ直ぐ、無感情に進んでゆく。台風の黒い雲たちは、もう私の頭上にまで広がり始めているような気がする。また私は窓の外へ目を向けた。アンテナを取り巻いている雲は、ほんの少しの間にひとまわりも大きくなったように見える。夕陽を受けて染まっている部分が、私を嘲う赤く醜い口のようにも見える。私は苦々しい気持ちで、その空を見つめる。やはり、仕事は減らない。
 どうしようもない。これが今の私だ。もしもの付かない、現実の私だ。いくら台風が来るといってはみても、今日の仕事はやはりどうでも今日中に、きちんとやり終えてしまわねばならない。こんな私でも、私がやらなければ、何も少しも進みはしないのだ。眠っている内に働く小人や妖精など在りはしない。いや、たとえそんなものが在ったとしても任せるわけにはいかない。これは私の仕事だ。私に与えられた仕事だ。渡すわけにはいかないのだ。これは、私がここで息をしていることの、その価値なり意味なりの何割かだ。今の私は誰かの役に立つことなどとてもできない、中古の機械みたいなものだ。動かすにも手間のかかる割には、働きが芳しくない。お情けでも、お払い箱にならずにいるのは奇蹟みたいなものなのだ。今の私に何が言えるだろう。私にできるのは、ただ終るまでは止めないことだ。帰らないことだ。黙って動きつづけることだ。小さな我儘を叶える順番は今の私にはまわっては来ない。はるか遠くの空を見て、溜息をついていてはいけないのだ。やさしい人の傍にいてはならないのだ。嵐の夜に千夜一夜のひとつをねだって、傍らでぬくり丸まって聞きながら眠りこんでしまう。そんな贅沢は与えられるわけもないのだ。私にはその力が無い。資格が無い。全ておあずけ。仕方がないのだ。それでも今日はいつにも増して頑張ったのだから、幾らか早く帰ることくらいはできるでしょう。それだけでも、普段の私には起り得ない光栄なのでした。それだけでも、喜ばなければ。
 そうだ。篤志にお詫びの電話をしないといけない。何と言えばいいかしら。また深い呼吸をひとつ。本当に古びた機械のように、身体が固くぎこちなくなっている。ああ、何と言えばいいのかしら。私は、素直に謝れるかしら。平日、久しぶりのふたり一緒の夕食を楽しみにしている篤志の姿がふとよぎって、言葉が浮ばず、どうにも電話することができない。もう少ししてからかけましょう。苦い砂を噛んで私はまた仕事に取り掛かった。もう暫くすれば、陽は完全に暮れてしまう。




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