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(台風の日)-7
 ほんとに帰ってもいいのかしら。そういうものなのかしら。きっといいのでしょうね。多分私はそうするしかないのでしょうね。やっぱり喜んだ方がいいのかしら。多分それもそうなのでしょうね。私は握っていたボールペンを今日いちにち取り散かした机の真ん中に一の字にそっと置いた。いつもは帰る間際に机の上を整頓してから帰るのだけれど、今日はやりかけの、このままにして帰ることにしましょう。はあ、と小さい溜息をついて、もぞもぞ帰り支度をはじめる。また、なんだかよくわからないまま、知らないうちに今日が終ってしまったようです。今日の私も昨日までの私とやっぱり同じものでした。周囲の人々もみな昨日と変らずに、とても私に優しかったのでした。篤志も、有沢さんも、きょう私に関わった人たちはみんな、みんな。駄目な私も、それだけは痛いほど、知っています。みなさん、どうもありがとうございました。できたら毎日、そう言っていたいのですが、私にはそれすらうまくはできません。みな、どうしてそんなに私に優しいのでしょう。それが私には、よくわかりません。私は、私の裡にどうしてもその根拠を見つけだすことができないのです。みなさんの好意に、一体私は何を返しているというのでしょうか。みなさんは私のことを何か誤解しているのではないでしょうか。それをいいことに、私は今日もこうしてぬくぬくと大したことは何もせず、できずになんだかぼけっと過ごしているのです。それだけなのです。本当です。騙している、そんな風にも思います。そうしていつか、何かの拍子にその誤解が解けて、みなを騙していたことがきれいにあばかれて、私は一どきにみんななくしてしまう時が来るのではないか。そんな未来が頭をよぎる瞬間が私にはあって、その度にたまらない気持になります。奈落。私のすぐ足もとにも拡がっているそれが、ちらと視界をかすめるのです。なぜ私は足を踏み外さないのか。それが私の力によるものだとはどうしても思えないのです。みなに助けられてばかりの、うすのろの私にそんなこと、できるはずがありません。依りかかっているからに、違いないのです。私が平気なのは、私が上手に騙しているから。今日も、みなきれいに騙された。みな、どう仕様もないお人よし。私には勿体ない程のお人よし。涙が出そう。そうだ、私は、うまくやったのだ。帰れば、いいのだ。ああ、帰ろう。帰ってしまおう。
 身仕度をして社を出るときには、時計はもう八時を指そうとしていた。ビルを出て、すぐに空の様子を見上げてみれば、黒雲はもう私の真上の空も覆っているけれども、まだ雨は降り始めてはいない。「私の朝の宣言はこうして実現されたのでした」重たい空に向って小さく呟いてから、通りに沿って駅の方へ大股に歩き出した。朝の蜩、ポプラの木の公園を抜けてコーヒーショップの前を通り過ぎ、こんな雨降りの前でも相変わらず行列のできているラーメン屋の前を横切って、ただ駅へと急ぐ。このところはいつも帰りは終電間際、乗り遅れないよう急いでばかりで、夜のこの辺りをゆっくり眺める機会もなかったのだから、今日くらいはゆっくり、通りの小物屋や食器屋のショーウィンドウを目でなでながら歩いてもいいのかも知れないけれど、その気にはやっぱり、どうにもなれない。空もこんななのだし、一刻も早く帰りましょう。それに、そう、そうだ。そうだ、篤志に結局今の今まで何の連絡も入れていないじゃない。大変だ。歩道の真ん中、私は思わず立ちどまった。すぐ後ろを歩いていた人が私の顔をちらと覗き込みながら避けて通り過ぎる。その視線に押されるようにしてまた足を前へ出しながら、私は鞄を探って携帯を取り出す。
『遅くなってゴメン。今から帰るところです。連絡も入れずにゴメンなさい』
 また歩き出しながら大急ぎでふたつ『ゴメン』と書いて送信する。きちんと話をして謝らなかったけれど、よかったかしら。でも、いま篤志の、その声だけを聞いたら何だか自分でも思ってもみないようなことを、つい言い出してしまいそうな気がして、とてもいけない。今の私の心は何だか、とても信用ならない。メールで許して欲しい。送信しながら、もう一度空を見上げる。篤志にもまた甘えてしまいました。低く空を覆い尽くした雨雲はオフィスやショップの明りや街灯、車のフロントライト、夜の街から射し昇る様々な色の光を反射して白く浮かび上がっている。ここに閉じ込められている。ほとんど反射的に、私はそう思った。そうだ。この世界が地球がどれだけ広大で、内にどれだけ多様な自然や街並、あらゆる人種のあらゆる性質の人間を存在させているのだとしても、それらは私には何ら意味を為さない。厚い雨雲で囲われた、狭いこの場所が私の世界の全部だ。この外に私はない。泣くことも笑うことも、辛い経験や嬉しい言葉、私の知る人のあたたかさ、大切な人の握った手の重ねた肌のぬくもり、そういった私の喜怒哀楽生活流転の一切はこの低い空の下にある。私に関する事柄の全てはこの内で生まれ、よいものもそうでないものも、それも判然とはしないものでも何でも全て、この白く不健康に浮び上がった空の下に完結している。私が何もできないということも、大切にしたい人たち、やさしい人たちもみな、ここに在るのだ。私はここに閉じ込められて逃げ出すことはできないけれど、でも、それだから私の大切な人たちも、簡単には私の手の届かないところへは行ってしまえないのかもしれない。私の最後の可能性は生きていられるのかもしれない。
 駅の構内はどことなく湿っていて青白く明るい。改札を抜ける人々の足どりもこの空模様のせいか、どことなしか急いているように見える。私も倣っていくらか急いてみたら定期をうまく差し込めずにまごついてしまった。ホームに下りれば電車はちょうど今しがた出たばかりで人影はまばら、私は階段の脇の壁にもたれて少し呼吸を緩めてみる。とにかく今日も終りました。もう仕方のない事です。明日の起きることは明日わかるでしょう。篤志の顔がなんだかとても見たくなってきた。朝のあの間抜けた顔が無性に懐かしい。いま何をしているのかしら。早く顔を見つめて「ただいま」と言いたい。それだけはきっと、上手にしたい。もう八時をまわってしまったけれど、まだ有犀へ連れて行ってくれるのかしら。怒ってひとりで晩御飯済ませてしまっていないかしら。とても心配です。明るいホームからでは今の夜空の様子はよくわからないけれども、どうやらまだ降り出してはいないみたい。折角だからあと少し、降り始めるのは待って欲しい。私は、今日は傘を持っていないのだから。
 程なくやって来た電車は朝のラッシュほどではないけれどもやはり混雑していた。徐々に速度を落す車両の長い連なりの、その一両一両の車内を何気なく眺める。私はそれをはじめて見るような気がした。本当に沢山の人が乗っている。私は思わずクスと小さく笑ってしまった。みなそれぞれに、待つ人のことを思っているように見えたのだ。私もこの人たちの中に混じって早く、早く帰ろう。開いたドアから下りてくる人はなかった。車内はとても明るい。一人分の吊革の空いているのを見つけたので、私をそこへ挿し入れた。




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