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(台風の日)-8
 電車はタタン、タタン、単調な足どりで、もの言わずに走る。何だか、いつもよりものろくさと走っている気がします。眼を閉じてみても、今日のくさぐさの出来事が、水面に浮かび上がる泡のように、ぽつりぽつり思い出されて割れて、苛立ちがじんわり滲んでくる。意地悪くわざとゆっくり走っているのではないかしら。そんな考えも浮んできて、とろんとろん流れる窓の外の街の鈍い明かりを見つめてその数をかぞえる。近い明かりは沿線に並んで建つビルの窓から漏れている。私はそのひとつひとつをじいっと目を凝らして見つめる。のぞく窓のぞく窓、みな人影がない。応接室のソファも、窓際の机も、がらんとしていて、何かしら淋しい。窓の中に、ひとがいてくれないものかしら、せめて、何か動くものがその中にあってはくれないかしら。こころで小さく祈りながら、ひとつ、またひとつと夜の中にぽうっとあいた光の枠の中身を目を載せてゆく。やっぱり、どれも人影がない。じっと止まった四角い光の穴ばかり、いくつも、いくつも、並んでいる。見るうちに、苛つきが薄れて、頭がぼんやりして、何だかひとりぽっちのような気持ちが置き換わってくる。じんわり、涙に近づいてゆく。
 ようやく駅もあと二つというところで、とうとう雨がぱらつき出した。車窓に雨粒の細い斜め線が、すっすっとわずかずつ描かれてゆく。台風の夜は始まったのだ。もう十五分、待ってくれたらよかったのに。そうしたら無事に部屋まで帰りつけて、朝の宣言が果たされたのに。雨粒の線の引かれた窓ガラスに薄く載った、自分の顔を見つめて口惜しくなる。さびしい顔をしていると、自分にもわかる。
 改札を抜けた駅の出口で立ちどまって、空を見上げてみる。みな迷うことなく、手持ちの傘を広げ、黙々と通りへと歩き出して行く。何人かの人は同じように空を見上げている。雨は白い街灯に照らされて闇の中から湧き出すように降りそそいでくる。よかった。まだそれほど強くはなっていないみたい。この程度なら売店で安いビニル傘も買わずに済みそうです。せっかくここまで帰ってきたのだ。それに、もう一刻でも早く部屋にたどり着きたい。躊躇わずに雨の中へと歩き出す。風ももう幾らか吹き出している。
 二三分歩いたころ、部屋までもうあと半分程のところで雨はにわかに強くなりはじめた。玉が大粒になって、工事現場の資材に被せたビニルシートも、道端に停めた車のボンネットも、まだら模様の路面を叩いてぼたぼたと大きな音を立てている。もう少しだからと、私は口を固く結んで、前かがみになって急いだ。けれども走り出すのは、何だか変に口惜しい気がして、止した。
 大通りに差し掛かると、交差点の信号がなかなか青に変らない。私は信号機をじっと睨んで、固く唇を結んでいた。濡れて垂れた前髪の先から一すじの水滴がこぼれて頬を伝ってくる。むず痒くて手の甲で思いきりそれを拭った。意地悪されている。寂しくてたまらなくなって、やにわにまた腹が立ってきた。足もとにあった小石をひとつ、つま先で蹴ってみる。小石は前を横切る車の下に巻き込まれて見えなくなった。ようやく青に変った横断歩道を渡りながら、私は濡れた髪を掻き上げてくしゃくしゃとやって、それからぎゅっとうしろでまとめてしまう。唇に触れながら、「私が朝、篤志に意地悪したから、その罰なのかしら」気づいて、堪えきれないくらいに口惜しくなった。篤志の頬をひっぱたいてやりたいと思った。思いきりひっぱたいてしまってから、キスしてやることにしよう。朝の分も取り返すような、キスをしてやろう。びっくりして怒り出しても、そんなの知ったことではない。そうだ、そうしよう。私はものすごく大股に、それでも駆け出しはせずに、歩いた。
 したたか濡れてようやくたどり着いた部屋には明かりが灯っておらず、ドアには鍵がかかっていた。部屋の入り口の脇の真っ黒な窓を見とめたとき、私は随分とひどい裏切りを受けたような気がして、あやうく本当に泣き出してしまいそうになった。歯を食いしばって、それを堪える。少し大袈裟に過ぎるかしら。無理にクスと一度頬を歪めて、部屋の鍵を取り出そうと鞄を探る。鍵はなかなか見つからなかった。黙ってひとり、ドアの前で長いこと鞄をごそごそやっていた。
 ようやく鍵を見つけだしてドアを開ける。部屋の中はやっぱり真っ暗、篤志は一体どこへ行ったのでしょう。買い物だろうか。雨も降り出したというのに。これから帰るとほんの三十分前にメールを入れたというのに。様々なくらい考えが一度に頭をよぎる。捨てられた。そう思い至って、身体がいちどに硬い石になった。
 けれども、まずはこの濡れた髪とスーツをどうにかしないといけない。深呼吸をやっと一度してから靴を脱いで部屋に上がり、明かりを点けて鞄をテーブルに置き、棚からタオルを取り出して頭に被せた。ときどき頭を掻くようにして髪の拭きながら、ぼそぼそと重くなったスーツを脱いでハンガーにかける。髪を拭いているタオルでそのまま、上着のひどく濡れた両肩のあたりを叩くようにして水気を吸い取る。スカートも脱いでしまった。ストッキングも脱いだ。みんな、脱いだ。ぐしゃぐしゃと髪を掻きまわす手を一時止めれば、随分と強くなった外の雨音がまだ閉めきったままの窓を通して、蒸し暑い部屋に響いている。鞄から携帯を取り出してソファに身を投げうち、篤志の携帯にかけた。回線が繋がるまで液晶の上に浮んでいる篤志の携帯の番号を睨んだ。
 電話が繋がってみれば部屋の隅から着信音が聴こえてくる。一緒に今日の疲れが噴き出してくる。大きく溜息をついて、のそのそとソファから音のする方へ這って行った。テレビを置いた棚の三段目に着信音に合わせて明滅する光源が見える。折りたたまれた篤志の携帯が財布と一緒にあった。やっとそれを掴んで、私は表示されている自分の名前を苦々しく眺めてから、ボタンをぐりぐりやって電源を切った。財布も携帯も持たずに篤志はどこへ行ったのだろう。遠くへは行っていない。どうやら捨てられたのではないようです。じきに帰って来るでしょう。深呼吸と一緒に、「ああ、疲れたなあ」知らずに声に出して、そのまま伏してしばらくじっとしていた。軒先からこぼれる水滴が規則的な周期でベランダのアルミの手すりを叩き、軽くて高い音を立てている。時折思い出したようにまだ私の頭に乗っているタオルをくしゃくしゃやりながら、深く呼吸しながらその音を聴く。眠気が覆い被さるようにやってくる。
 そのときお腹がぐうと鳴ったのである。おかげで一時に眼が覚めてしまった。苦笑してのろくさと起き上がり、お腹を軽くおさえて、しばらく手持ち無沙汰でつっ立っていた。とてもお腹がすいたのだけれど、どうしたものかしら。本当に今夜はこれから有犀へ行くのかしら。篤志が帰らないことにはどうにもならない。コーヒーでも飲んで帰りを待ちましょうか。顔を洗って化粧を落とし、薬罐に水を張って火にかけた。ガスコンロの青白い火はスーッと抜けるような音を立ている。私はぼんやりしながら、薬罐の口から立ち昇る湯気を眺めていた。
 カップにインスタントコーヒーを入れてソファに戻り、真ん中にちょこんと坐って少しずつすする。部屋がやけに明るいような気がしたので、照明を消してソファの脇の小さな電気スタンドを点けた。暗い中コーヒーをすすると、その熱が身体の中を伝わってゆくのがよくわかる。一くち含むたびに深い溜息をついた。考えごとはみな、かたまりにならずにすぐに散ってしまう。カップを両手で握りながら、いつの間にかまたうつらうつらとし始めていた。




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