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(台風の日)-9
 今度はドアに鍵を挿しこむ音で目を覚ました。篤志が戻って来たのだ。目覚めてみれば、ちょうど怖い夢を見ようとしていたところだったような気がする。
 振り払うようにしてキッと立ち上がり、ドアへ向った。まさか、私が篤志をお出迎えすることになるとは思いもよりませんでした。そんなにがちゃがちゃドアノブをいじらなくてもいい。いま私が開けます。
 ドアノブを掴もうとすると、ドアが開いた。篤志は私を見とめると、とても驚いた顔をした。帰っているとは思っていなかったようだ。きっと、部屋が真っ暗だったからでしょう。
「なんで、お前が部屋にいるんだよ」
どうやら私が部屋に居るのがお気に召さないみたい。
「何よ。帰ってちゃ悪い?」
私の応えも思わず先の尖ったものになる。ふわっと何かが、急速に膨らんでゆく。
「そういうわけじゃあない。でも、一体いつ帰ったんだよ」
言葉の調子は悪いと言っている。もう私はすぐに溢れてしまった。
「ずっと前よ。篤志こそ、どこへ行っていたの。私の方が聞きたいものだわ。こんな雨の中、コンビニに立ち読みにでも行っていたのかしら。財布も携帯も持たずに、ふらふらふらふら。メール見たでしょう。見てないの。見たんでしょう。これから帰るって書いてあったでしょう。それなのにわざわざ出かけて。わたし、知らなかったわ、あなたがそんないやらしいことをするなんて。そりゃあ、私もこんな時間になるまで連絡入れなかったのは悪かったわよ。早く帰るって言ったのにこんな時間になってしまって悪かったわよ。でも、ごめんなさいってメールにも書いたじゃない。見たでしょう。そう、メールだったのが気に入らないの。ちゃんと目の前で謝らないと気が済まないかしら。じゃあ、今からやるわよ、ホラ。「ゴメンナサイ」これで満足かしら。ねえ、私はね、ずぶ濡れになって帰ってきたんだよ。朝、傘を持って出なかったから。憶えているでしょう。そうね。そうよね。途中で買えばよかったわね。でも、駅に着いたときにはまだそんなに強く降っていなかったから、大丈夫だと思ったのよ。でも途中でとても強く降り出して、それでこんなに、ずぶ濡れにぬれてしまったのよ。見てよ、ほら、ハンガーにかけた私のスーツを見てよ。あんなに濡れてしまって、ぐっしょりと重たくなって。私がそんなになって帰ってきたのに、あなたと来たら雨の降り出すずっと前に、台風がまだ海の上に居る頃に仕事が終ってしまって、鼻歌ぴいぴい歌いながら部屋に戻って、「あの野郎、遅せえなあ。あんなに鼻息荒くして「今日は早く帰る。だから傘は持っていかないの」なんて息巻いていたくせに。俺あ約束まもらねえ女は嫌いだな。ああ、腹が減った」テレビを見ながら呟いて、厚焼き煎餅かじって欠伸していたんだ。それから私のメールを見て、もうすぐ帰るってわかっているのに、さんざ待たされたあてつけに、何も持たずに口笛吹いてふらふら外へ出たんだ。私だってもっと早く帰ろうとしたんだよ。ずっとそう思っていた。朝に約束したんだもの。傘も持ってこなかったんだもの。ものすごく帰りたかったわよ。でもね、でもやっぱり終らないんだもん。有沢さんだって、「君は頑張ってる」って言ってくれた。でも、それでも私は駄目なのよ。仕方がないじゃない。うまく、やれないんだもの。仕方ないじゃない。そう、そうよ。そうですわね。私が、もっと早く、うまくいろいろとできれば、いいのよ。篤志も欠伸して待たなくてもよかった。いやらしいあてつけ、することも無かった。私もずぶ濡れになって帰ることも無かった。そうだ。私がみんな悪いんだ。私がうまくできないのが悪いんだ。いつもいつも甘ったれているからいけないんだ。甘ったれて、頼り切って自分では何にもしないで、できないでいるからいけないんだ。そうでしょう。篤志だって、きっとそう思っているんだ」
 とても、泣けてきた。
「篤志が怒るのも、当然よね。私が、悪いんだから。私が全部いけないんだ。居なければ、いいんだ。居ない方が、いいんだ。わたし、も一度謝るわ。ゴメンなさい。私が悪う御座いました。ゴメンなさいゴメンなさいゴメン」
 やってしまった。もう何がなんだかよくわからなくなって、眼にもたくさん、涙がしみ出して溜まって、少しでも動けば溢れてしまいそうで、私は身を硬くした。滲む視界の向うで、篤志は大きく、溜息をついてる。やってしまった。篤志を、怒らせた。もうお終い。捨てられる。途端に、涙がポロと音を立てて零れた。身体中の皮膚がさっと熱くなって、反対に、芯の方は穴があいたように暗く冷たくなった。急いで身体を縮めて、涙を拭いながらうつむく。洟もぐしゅぐしゅいいだしている。みっともない。みっともないよう。思えば思うほど涙は続いて溢れて玉になって頬を伝ってくる。篤志は何も言わない。黙ってただ怒っている。突き放した眼で惨めな私を観ている。身体の芯から冷たさがじわじわ外に拡がり出してくる。
 私は玄関口に突っ立ったまま、めそめそとみっともなく泣き続けた。涙は止まろうとしない。捨てられる。ああ、どうか。悲鳴のようなものが、冷たいところからふっと出てきて、それを堪えようと身体に力を込めると、新しい涙が搾られ、溢れ出る。肩が小刻みに震えて、また、捨てられる。何か、何か言わなければ。噴流のように溢れて押し流すものと虚しく闘いながら、私はそればかりを思うのだけれど、言葉になりそうなものはどこにも見あたらない。「捨てられるんだ」という声がひどく大きく、どうしようもない私の意識の裡に暴れ狂う。心が身を捩って悶えるほど、身体はますます硬直する。中心の冷たさがじわじわと拡がって、私の真ん中で大きな空洞に育ってゆくのがわかる。少しずつ、空っぽになってゆく。そこに、生れてからこれまで、何百回も、そうほんとうに何百回も、くり返しくり返してきた言葉が流れ込んで、みるみる私のぜんたいを満たしてゆくように感じられる。「いなくなりたい。私はいなくなればいい」その言葉は、やはり液体として、眼から私のからだの外へも溢れて出る。いつまでも、いつまでも、飽かずに溢れる。
 身体の外へ出ていった涙の分だけ、私が小さくなってゆくような気がする。もう、随分と縮んでしまった。小さな私たちの部屋が、ひどく広くて大きなもののように感じられる。高くもない天井がずっと高く、遠くに思える。私はこうしていなくなる。すべて涙になって流れてしまう。痕が部屋の床にしみ込んで長くのこる。そうなるまで、このまま、泣いていましょう。泣けば、いいのだ。もう私は篤志に愛想つかされて、捨てられるのだから、捨てられるのだから、私なんか流れ出して、いなくなってしまえばいい。熱のあるときのように、なんだか足もとがふらふらして、立っているのが覚束ない。きっと身体が小さくなって、バランスが失われているのだ。暗い部屋は、まだ開いたままのドアから差しこむ夜の色が薄く照らしているだけで、俯いて泣きじゃくる私の足もとすらはっきりとは見えないので、どのくらい私が小さくなっているのかはわからない。けれども、おそらくほんとうに私はいなくなりつつあるのだ。そう思えば、また新しい涙が生れてくる。さよならの涙。私の大事なひと。私の大事な人との暮らし。みんな、これでさようなら。流れて消える。



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