index 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
prev / next



(台風の日)-6
「美和ちゃん、今日はもうあがりなさい。今夜の東京はこれから台風が通るそうですよ」
 顔を上げてみると、鞄を持った有沢さんが笑っている。その向こう、窓の外はもうすっかり日は暮れしまって、黒い夜の中にビルの窓明かりの列が並んでいるだけ。先刻のあの雲の群の広がりを確かめることはもうできない。
「ええ、そうですね。でも、もうちょっと」
 私は弱く笑って曖昧な返事をした。まだ、とても帰れそうにない。
 有沢さんは軽く頷きながら、
「実は、私の担当している部分のひとつが必要なくなったので、私の方は予定よりも早く片づきそうなんです。ですから、明日以降、美和ちゃん担当の一部を私が受け持つことができそうなんです。美和ちゃんの担当しているところについてはあまり詳しくはないですが、期日までまだ幾らか有りますし、どうにかなるでしょう。美和ちゃんはまだこの仕事を始めて間もないのに、私達にもどうにも余裕がなくて、一人前として扱ってしまい、随分と負担をかけてしまっていましたけれども、これでようやく少し解放してあげることができそうです」
 私はあまり嬉しくなかった。また有沢さんのお世話になってしまうようです。なんだか愛想が尽きた。もう有沢さんに向けて形だけでも笑って見せる気持ちにすらなれない。この光景はあと何度、いつまで繰り返されるのでしょう。終りはいつか、来るのでしょうか。それともずっとこうして有沢さんに、いや有沢さんだけではない、誰かに、いろいろなやさしい人たちに、本来私がしなければならないことを助けてもらって暮してゆくのでしょうか。いつまでもこうして助けられる側に居続けるのでしょうか。いつまでもこうして不公平の揺籃の中に揺られて、笑ってい続けるのでしょうか。それが私なのですか。本当に愛想が尽きた。
「本当ですか。それは助かります。本当にすいません、お世話になってばかりで」
 私はただ深く頭を下げる。他にどうしようもない。できるのはいつもこれだけだ。馬鹿馬鹿しくて何の役にもたたない、この身体を折りたたむ動作だけだ。そこにはもう何の意味もない。有沢さんももう見飽きてしまったのに違いない。それでも私はこれを繰り返す他はない。
「ですからまあ、その辺りの細かいことは明日詰めることにして、今日はもう美和ちゃんも、もうあがりましょう」
 結局何も言葉が見つからなくて、私はまだ篤志に電話を入れていなかった。外はまだ雨の降り出した気配はない。いま帰ればまだ間に合う。随分と遅くなってしまったけれども、まだ、朝の宣言、午後のメールにも書いた約束をはたせるのだ。だのに、私はすぐに頷いて有沢さんの言葉に素直に従うことはできなかった。私はへらへらとだらしなく口をゆがめて、有沢さんの目を見ずに「でも、もう少しだけ」また同じことを応える。その卑屈ないやらしい顔つきから私の意固地がわかってしまったのだろう、有沢さんは急に難しい顔になって少し黙ってから、腕組みして、
「しかし、美和ちゃんはもうちょっと上手に手を抜くことをしなければいけませんね。朝話したことを忘れましたか。今のあなたは本当に、ひどい顔をしていますよ」
 私は情けないくらいに不恰好に狼狽して、開いた口から、「あ、」間抜けな声さえ漏れてしまった。どうしようもなくて、私は表情を消し、うつむいて黙る。自分の頭が電灯の光を遮って黒い大きな影を作り、私の視線はその真中を漂う。握ったままのボールペンがとても重い。思わず、ぎゅうと強く握る。
「これも朝に確か似たようなことを言ったと思いますが、頑張るのは結構ですけれども、仕事は一日で終るものではありませんから、少しは先のこと、自分の身体や心のことも考えてやっていかないといけません。今日頑張っても代わりに明日、身体を壊して休んでいるようでは、今日の頑張りは無駄どころか、しないほうがよかったことになってしまいます。今のように、気を張り詰めて仕事をしている美和ちゃんを見ると、どこかそういう類の危さをぼくは感じます」
「でも。そうしないと、予定と合わないから」
私は有沢さんが言い終わらないうちに、俯いたまま少し掠れた声をかぶせる。本当は、もう何も喋りたくない。これ以上何も私に言わせないで欲しい。言えば必ず、私の一ばん弱いところが漏れて出る。
 有沢さんは、私に聴こえるくらい、大きく溜息をひとつついて、
「ですから、幸いに私の方の手が空いたので、仕事の分配を変えることができるようなったと言っているのです。当初の計画では、それは本当に申し訳なかったと思っていますがどうしても加わったばかりの美和ちゃんを一人前に近い形で数えなければならなかったので、美和ちゃんにはちょっと荷が勝ちすぎる配分にならざるを得なかったのです。ですが、ここへ来てどうやら見通しも多少晴れてきたようですし、またそれぞれの進度に合わせて残りの配分を見直す時期に来ているのです。これは何も美和ちゃんに限った話ではないのですよ」
「でも。私ひとりが遅れていて。それだから」
「美和ちゃん。ひとりの仕事ではないのですよ。はじめにただ等分に割りあてただけの仕事を、そのままあなたひとりで抱え続けようとするのは、おかしなことです。そんなことをする必要はないのです。当初の割りあてが適当であったとは、今は誰も考えていませんし、それに全員がみんな同じだけの量をこなさなければならないわけではありません。私たち全員でひとつの仕事をやり遂げれば、それでいいのです。それはそれぞれができることを出し合ってやってゆくことなのです」
「でも、私ひとり、」
「それははじめてなのですから、仕方がないでしょう。それに遅れているのは、なにも美和ちゃんだけではありません。それとも何ですか、美和ちゃんははじめから私たちと同じだけできないと気が済まないのですか。あまりこの仕事を軽く見ないで下さい。いいですか。私たちにしてもはじめからこうだったわけではないのですよ。はじめは美和ちゃんと同じ程度だったのです。それを何年か続けて今の私たちがあるのです。はじめから私たちと同じようにやられたのでは、私たちの立場がありません」
「そんな。何も、そんなことは」そんな風に見えてしまうのか。「違う。それは違います」言おうとするのだけれど、では、私はどうすればいいのでしょう。これもまた、私の我が儘、迷惑な意固地でしかないのですか。持ち合わせの言葉が何もなくて、私はただ頭を振って、何かを必死に否定しようとするけれども、それを言葉にすることが全くできない。
「それはまあ、冗談なのですが。しかし確かに、そういうつもりはないのでしょう。ならばそんなに肩に力を入れて応えなくてもいいでしょう。実際、今の美和ちゃんは十分よくやっていると思いますよ。それは私の他の人間もみな、そう思っていますし、実際口にもしています。慰めばかりで、言っているのではありません。美和ちゃんは、もう少し自身を客観化する努力や、周りをもう少し見わたしてやっていく努力をしなければいけませんね。課長も、今日の午後の会合の際に、ぼそっとおっしゃっていましたよ。「斎木君は、実際よくやっとるなあ」」
 有沢さんは課長の口調を真似て言った。それがあまりにもぎこちなくて下手くそだったので、思わず私が顔を上げると有沢さんは頬を赤くして、
「や、ちょっと似ていなかったようですね」
右手を後ろ頭へやった。私もつい、硬くなった頬を一瞬緩めて、「ええ、似てませんでしたね」と同意すると、
「まあ、私のものまねは下手くそでも、課長のおっしゃっていたというのは、本当ですよ」
有沢さんは苦笑いした。有沢さんだけにそんな赤い顔をさせていられなくて、
「私の方が多分、ずっと上手ですよ。「斎木クン、昨日も夜遅くまで、お楽しみかい?」」
私もいつかの渡辺課長の厭味を真似ると、有沢さんは噴き出して、「なんですか、そのセリフは」
「こないだ遅刻したときに、課長に言われたんです」応えると、
「それは本当ですか。セクハラ発言ですね。問題です」
また急に真面目な顔になってそう言うので、私は慌てて、
「いや、遅刻をした私も悪いですから」とりなすと、
「そうですか。美和ちゃんがそう言うのでしたら、とやかくは言いませんが」
言いながらも、少し不服そうな顔をしている。有沢さんのその顔を見たら、
「いろいろと、お気遣い下さってありがとうございます」
自然にそう言うことができるようになっていた。どうやら、また私は有沢さんに上手に導かれてしまったようです。ほんとうにいろいろとお気遣い下さって。意地を張っても、どんなにしても、私は有沢さんの手の平の上で踊る一匹の小さなお猿でしかないみたい。素直に笑って、私は有沢さんのおっしゃることに従うことにした。今日はもう諦めて、帰らせて頂くことにしましょう。
「と、まあ、冗談はこれくらいにしまして。美和ちゃん、本当に今日は」「はい、帰ることにします」
「そうですか」有沢さんは満足そうに頷いて、「それでは、私は一足お先に出させていただきます。現像に出した写真ができ上がっているので、これからちょっと写真店に寄って受け取ってゆかなければならないのです」
「写真ですか」
「ええ。ゴールデンウィークの旅行の写真を、これまで現像に出していなくて。こないだ家内に叱られました。と言っても、家内の方でも今まで忘れていたのですが」
 有沢さんが頭を掻く仕草を私はそのとき初めて目にした。そうですか、有沢さんには奥さんがいらっしゃったのですね。これまで、そんなことは思ってみたりもしなかった。けれども、有沢さんの口にする「家内」という言葉は、なんだか大変によい響きを持っているように思えて、私はすぐに、
「奥さんに、よろしくおっしゃってください。斎木がいつもお世話になっておりますって」
と言うことができた。
「ええ、言っておきます。いつも話している手間のかかる新人さんがよろしく言っていたと」
へえ、そうなの。私、人気者なのね。余計なことは思わず、ここは素直にそう喜んでおくことにしましょう。「はい、お願いします」おどけてわざと丁寧に両手を揃えて深いお辞儀をしてみせる。
「では、お先に失礼します」
「はい。お疲れままでした」
 頭を上げると、有沢さんは片手を上げて出て行くところだった。
「お疲れさまでした。ほんとうに」私はもう一度頭を下げた。




index 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
prev / next


kiyoto@ze.netyou.jp