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(台風の日)-3
 ひとつき、ふたつき、みつき、こうしてあらためて、篤志と一緒に暮らし始めてからの月日を数え上げてみれば、もう一年近くにもなる。「ああ、そう。もう一年にもなるのですね。確かに、もうすぐ季節をひとまわり、また秋が来ます。一年前の引越しの日の、涼しい秋晴れを思い出します。時の流れは随分と早いものです。あの日から、もう一年が過ぎてしまった。この一年、いろいろなことがあったような気がするけれど」、私は篤志との思い出をひとつひとつ思い出そうとして、はっとする。そうだ。私はまだ、たった一年しか篤志と一緒に居ないのだ。ひとつき、ふたつき、そう数えてゆけば、一年も、そう思ってしまうけれども、それは違います。まだ、一年すら経ってはいないのです。篤志と一緒に過ごしていない時間の方が、それよりもまだ何十倍もの大きさで私の中にはあるのだ。そうしてずっと、私は篤志なしで暮してきたのだ。今の私は、私の今の生活のかたちを、それこそ物心ついてからずっと続けてきたように感じているけれど、実際にはまだ一年にも満たない、極く幼い、儚いものでしかない。それが現実なのだけれども、感覚は決してそんな風にはなってはいない。私の中の時は、この今というものが、過去よりも、また未来よりも、ずっとずっと大きくあって、前にも後ろにも、地平線の向うまで、視界の及ぶずっと先まで伸びて広がっている。私に見ることのできるのは、ただ、この今だけなのだ。そうやって普段の私は、これまでもずっと篤志と暮して来たと思って生きている。そしてこれからも、それは変わることはないのだと、実にあっけなく、無邪気に信じ込んでしまっている。いや、信じるも何もなく、そういうものだと当然のようにして、そうして平気でいる。でもこうして今あらためて、この今の大きさを測りなおしてみると、それは一年にも満たないものなのだと気づいてしまって、私は急に心細くなる。一年にも満たないというのは、あまりにも小さすぎるように、短すぎるように思える。なんだかひどく残酷な事実であるようにすら思えてくる。そうして、今立っている場所や、たとえ細々とでも、私のこれまで為してきたこと、積み上げてきたこと、そうした漠然と私が頼み、拠りどころとしているものが、急に萎んで力を失ってしまうように思えてくる。今ある私の生活は、私が篤志と一緒に居ることは、確かな、未来にもずっと決まったことではないのですか。今ここに生きて、そうして篤志の隣で息をしていること、それは私の深いところで自然なことではないのですか。ねえ、神さま。いらっしゃるのならどうか、応えてくれませんか。私と篤志とのあいだには、あの赤い。
 電車はカーブに差し掛かり、車輪とレールとが擦れるあの悲鳴のような音をたてて大きく揺れ、私はドアと他人の波の狭間にぎゅっと押し潰されそうになりながら、「ああ、やっぱり今日は早く帰らないと」急に寂しくなってしまった。窓ガラスの外、背の高いオフィスビルの鏡面ガラスが朝陽を映し込んで、その反射の煌きが一瞬目に入って、思わず目をつぶる。電車はホームに大急ぎで走り込んできつくブレーキ、ドアを一度に開いて、身重の体から人々を吐き出そうとする。私も前を塞いでいる中年の男の人と学生らしい男の人との隙間をすり抜け、車両から搾り出されるようにしてホームに下りる。下りたらすぐに目の前に流れる人の列に混ざって歩き始める。私は背が小さいので、朝のラッシュ時の人の流れにただ流されるのだけでも、それなりに骨が折れるのである。つまらない感傷を抱いたまま歩いてもいられない。きもち大股の行進をして階段を上り、改札を抜ける。駅の構内を抜ければ、今日もまた、秩序だった何ものにも動じないビルの群れ、鉄筋コンクリートの街並がそこには広がっている。その中を、駅からそのままの行進の速度で歩き続ける。ビルの谷間の日陰を抜けると、まだ夏の強さを残した陽射しに頬を照りつけられて、その熱で私は歩調を少し緩めた。
 東の空をちょっとだけ見上げて、今日も暑くなりそうですね。篤志も今頃は相変わらず「暑い、まったく暑い。夏は鬼門だ。冬が白い雪が、朝の霜柱が恋しい」など、口をゆがめながら自転車をこいでいるでしょうか。それにしても、あんなに毎朝たらたら過ごして、かえって遅刻をしたりはしないのかしら。いつも私の方が早く部屋を出るからよくわからない。今日などは大丈夫だったかしら。先刻出したメールはもう読んでいるかしら。きちんと早く私が帰ったら、ご褒美にワイン一本、ご馳走してくれるかしら。など、また篤志のことを思いながら歩いていると、後ろから肩を叩かれた。ぴくっと反射的に肩をすくめて振り返ってみれば、上司の有沢さんが笑っている。
「おはようございます」
「お、おはようございます」
なぜか少しだけ声がうわずってしまった。有沢さんは、並びのよいきれいな白い歯を見せて笑っている。そして、そのまま私の顔をまじまじと見つめて、ひとこと。
「おや、なんだか疲れた顔をしていますね」
 ほら、言われた。やっぱりわかってしまうのだ。有沢さんは、私の部署の係長で、歳は、聞いてみたことがないので、確かなことは知らないのだけれど、三十歳前後だと思う。背が高くて面長の、縁なし丸眼鏡がよく似合う好紳士である。歩くときの姿勢がとてもよくて、背筋を伸ばしてさくさくと歩くその姿は遠くから見てもひと目でわかる。目下私のご執心である、朝のお天気お兄さんにどこやら感じが似ているところがあると、私はひとりで思っている。今の会社に入ってから、私はこの人のお世話になりどおしなのである。まったく、頭が上がらないのである。
 どこへ行っても、何をしても、やっぱりいつもどこかひとつポトリと抜けているようなところが私にはあって、何かをひとつ、きちんと誰の手も借りずやり遂げようとやっていると、必ず他のもうひとつに、今まで無かったようなうっかり、ひどい忘れものをして失敗、そちらで人手を煩わせてしまう。それに懲りて気を引き締め、今度はそちらにも力を注げば、また別の何でもないところから、ポトリと失敗がこぼれ落ちてくる。そうして、ぐるぐるぐるぐる、いつまでも右往左往し続けて、一人でできなければならないことみんなを、いつまで経ってもきちんとできるようにならない。学生の頃も、どんな小さな試験でも満点を取った例しがない。入学試験でも、日々の小さなテストでも、おんなじ。どれだけ勉強をして、入念な準備をしていても変らない。十分の九、八、百分の九十八、九十五、満ちることがない。どんな小さな充分も私には作り出すことができない。どんな容易い完璧も私にはない。いつも情けないやら、哀しいやら、歯がゆいやら、助けてくれた人に申し訳ないやら、ありがたいやらで、それらの人に助けられ、笑って赦してもらった記憶のひとつがふと頭をよぎる夜などは、私はひとり寝床の中で身体を熱くしながら天井を睨んでいたりもする。けれどもどこかで、もう生れてきてから二十何年も経ってしまっていて、それはもうどうしようもないことだと、諦めてしまってもいる。私は今も、どうしてもそういう情けない人間で、今勤めているこの会社に入って以来、有沢さんには小さなこと、大きなこと、いろいろとご迷惑をかけては助けて頂いて、その度に笑って赦してもらっているのである。
 この上、私の個人的な精神状態にまで心配をかけてしまうのはいかにも申し訳がない。私は「そんなことないですよ。このとおり、」元気一ぱいだ、と笑顔になろうとしたけれど、見上げた有沢さんの笑顔がとてもまぶしくて、それに較べて私から出て来たそれは自分でもわかるほどの力のないものだったので、続く言葉も自然と萎んで、掠れた溜息になって消えてしまった。無理な笑顔のひとつも作れずにへしょげた私を、有沢さんはやっぱりすずしく笑ってゆるして、
「このところ、随分と遅くまで社に残っているようですね。頑張るのはよいことですけれども、無理にまでなってしまうのは感心しませんね。特に、美和ちゃんの浮かない顔はあんまり格好がよくありませんから、適度に肩の力を抜いたほうがいいと思います」
私を引っぱるような大股で歩きながら、そう言ってくれた。有沢さんは、私をちゃん附けで呼ぶのである。自分では、さすがにもう「ちゃん」の歳ではないと思っていたので、はじめて会ってすぐそう呼ばれたときには、馬鹿にされたような、それでもどこか嬉しいような、くすぐったい変な気がしたけれど、今はもう馴れてしまった。確かに私は有沢さんにちゃん附けで呼ばれるのが相応しい状態なのである。手間のかかるお子さまなのである。
 有沢さんに遅れないよう駅での行進よりもまだ速いくらいに私は脚を運びながら、
「でも、まだいろいろと慣れないものですから。一日の分を遅れずに、きちんと終えるまでやろうとすると、どうしてもあの時間になってしまうんです」
また当り前のことを思わず訴えてしまう。
「それは確かにそうでしょうね。けれども、そこはなんと言いますか、やりようと言いますか、気の持ちようと言いますか。そういう中にあっても、上手に息抜き、リフレッシュをするようにしてゆかないことには、今の美和ちゃんのような顔になってしまいます」
やはり涼しく笑ったままで、有沢さんはそんなことも言ってくる。
「私の顔、そんなにひどいですか」
「ええ、ひどいです」
「そうですか」
 私はがっくりとうなだれて、石のパネルの敷き詰められた路面を見つめながら、思わず右手で頬を撫でてしまった。歩調も落ちて、しゃきしゃきと歩き続ける有沢さんから遅れて、離れてしまう。それに気づいた有沢さんは、歩調を落してあわせて歩くようにしながら、
「そんなに落ち込まないで下さい。冗談ですよ。けれども、美和ちゃんが疲れているのは、やっぱりわかりますよ。確かに今言ったことは冗談ですけれども、このままどうにもしないでいたら、きっと本当にひどい顔になってしまいますよ」
「そうですか。そうですね」やはり私はうなだれたまま、頬を撫でなで力ない相槌を打つばかりである。
「ホラ、元気を出して、しゃきっと歩かないと、遅刻してしまいますよ」
有沢さんは、背中をポンとひとつ叩いて軽やかに叱咤してくれた。ようやく私は有沢さんの顔を見あげて笑顔を返し、自分から歩調を速めた。どうやら、結局また朝から有沢さんのお世話になってしまったようである。
 駅から会社までの途上、近道なので、私たちはいつも小さな公園を通り抜ける。公園の会社側の入り口のすぐ脇には、ポプラの木が一本立っている。その前を足早に通り過ぎると、近くで鳴いていた蜩の声がひとつ、はたと止んだ。歩き続けながらもちょっと私は振り返って、そのポプラの木を見た。有沢さんも気づいたようで、同じように振り返って、
「蝉が、とまっていたんですね」
「ええ」
 私はもう一度振り返ってそのポプラの木を見た。木の背は五メートルほどもあるようである。「その木はなんだか有沢さんに似ている」と思って、それから、「じゃあ、そこへとまっているあの蜩は、私ですね」呟いて前を見れば、有沢さんからまた少し遅れてしまって、小走りしてその隣へ追いつきながら、しっかりしたいと、しみじみ思った。始業時間には、なんとか間に合った。課長の厭味はどうやら聞かずにすみました。




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